第1話 大海の匂い
春先のルヴェリアは、冬よりも騒がしい。
凍っていた道が緩み、山道が開き、北方要塞国家群から鉱石が流れ込む。
中央の聖教圏からは穀物と家畜。
東の港には、海を越えた香辛料や布、魔道具の素材が積み上がる。
人が動けば、荷が動く。
荷が動けば、金が動く。
金が動けば、黒牙も動く。
そして、その全部を水路と港で受け止める男たちが死ぬ。
「スイレン」
「はい」
「俺、海になりたい」
「仕事から逃げるために自然現象へ転職しないでください」
港湾管理局の一室で、ナザルは机に突っ伏していた。
黒牙第九席。
大海のナザル。
ルヴェリアの港湾、水路、倉庫街、裏物流を支える男は、今日も書類の山に埋もれていた。
荷の申請書。
通行記録。
倉庫番号。
船籍証明。
水門の開閉記録。
港湾税の未納一覧。
机の上は春の雪崩だった。
その向かいで、スイレンは冷たい顔のまま書類をめくっている。
薄い水色の髪を後ろでまとめ、氷みたいな目をした女だ。
ナザルの補佐であり、氷魔法の使い手。
涼しげな見た目に反して、目の奥は完全に疲れていた。
「はぁ……ずるいです」
「何が」
「ナザル様は、すぐ海になりたいとか言えるので」
「言うだけならタダだからな」
「では、私も言います。スイレン、コールドスリープ入ります」
「入るな。寝るなスイレン。仕事が終わんねぇ」
「なら仕事を増やさないでください」
「増やしてんのは春だ。俺じゃねぇ」
ナザルが机に頬をつけたまま呻いた、その時だった。
スイレンの手が止まる。
「ナザル様」
「んー?」
「この輸送隊、変です」
「変じゃねぇ輸送隊の方が少ねぇだろ。この街は」
「ルヴェリア近郊を一度だけ経由しています。北東から南東へ。行き先はカラント軍港」
その名前で、ナザルの目が少しだけ覚めた。
「……カラント?」
「はい。大陸南東、国境付近の軍港です。黒牙の管轄外。大陸横断運河からも遠い」
「南には運河が通ってねぇからな」
ナザルは上体を起こした。
スイレンが経路図を広げる。
北東。
東のルヴェリア近郊。
そして南東のカラント軍港。
普通なら、ナザルの管轄には入らない。
南へ行けば運河の目は薄くなる。
黒牙の水路支配も効きにくい。
だが、北東から南東へ抜けるなら話は別だ。
「東から南東へ抜けるなら、一度だけ運河を跨ぐ」
「はい。そこで記録に残りました」
「俺の水に足跡つけてったわけだ」
ナザルの口元が少しだけ笑った。
スイレンは次の書類を置く。
「出処不明の荷物。申請は医療品。ですが、護送は南諸島連合式の魔装馬車です」
「軍旗は?」
「ありません」
「識別票は?」
「なし」
「医療品なのに?」
「医療品なのに、です」
ナザルは椅子の背にもたれた。
前方に一台。
後方に二台。
護衛は武装魔装馬車。
中央は輸送用魔装馬車。
しかも三重結界。
医療品というには、あまりにも仰々しい。
「医療品にしちゃ、随分と健康そうな護衛だな」
「頭の病気では?」
「なら診てやるか」
「盗賊式の往診ですね」
スイレンは淡々と言った。
ナザルは経路図を指で叩く。
「ただ、第九席陣営だけじゃ厳しいな」
「はい。カラント軍港に入られれば軍艦も絡みます」
「だから、ちゃんとツテはある」
「ツテ?」
「今話題のあいつだよ」
スイレンの目が、わずかに細くなる。
「……白煙のハルト様ですか」
「仲間内なら、ハルトだ」
「ナザル様は距離の詰め方が雑です」
「前の件で色々あったんだよ」
ナザルは立ち上がった。
「行くぞ、スイレン」
「どちらへ」
「第六席のところ」
「仕事が増えますね」
「楽しい略奪だぞ」
「やはり楽しそうじゃないですか」
「否定はしねぇ」
◇
「ハルト、盗賊しようぜ」
「帰れ」
「早いな!?」
執務室の扉を開けて、第一声でそう言ったナザルに、ハルトは一切の迷いなく返した。
机の上には書類。
横にはセリカ。
少し離れた場所にはルカ、シャノン、ベルノがいる。
第六席補佐見習い。
まだ正式な牙ではない。
けれど前よりずっと、三人の距離は近くなっていた。
「なんだよ、久々に盗賊らしい仕事だぞ」
「俺たちは普段から盗賊だろ」
「違ぇ違ぇ。書類じゃねぇ方の盗賊だ」
ハルトは眉を寄せる。
「……話せ」
「北東で買われた出処不明の荷が、南東のカラント軍港へ向かってる。申請は医療品。だが、南諸島連合式の武装魔装馬車が三台ついて、中央の輸送用魔装馬車は三重結界だ」
セリカの目が細くなる。
「医療品にしては厳重ですね」
「だろ? しかも軍旗なし、識別票なし。南諸島連合の装備で固めてんのに、誰の荷か分かるものを上げてねぇ」
ベルノが地図を覗き込んだ。
「北東から南東へ移すなら、ルヴェリア近郊を経由する必要がありますね」
「そういうことだ。南には運河が通ってねぇ。普通なら俺の管轄外だが、東から南東へ抜けるなら、一度だけ運河を跨ぐ。その一瞬、俺の水に足跡を残した」
ナザルは笑った。
「匂うだろ?」
シャノンが鼻をひくつかせる。
「魚の匂いはしないにゃ」
「そういう匂いじゃねぇよ」
ルカが首を傾げた。
「つまり、怪しい医療品を盗むんですか?」
「そうだ」
「医療品を盗むのは、悪いことでは?」
全員が一瞬だけ黙った。
ハルトがため息をつく。
「俺たちは盗賊だ」
「そうでした」
「忘れんな」
ハルトは地図を見る。
北東から買われた出処不明の荷。
南諸島連合の装備。
軍旗なし。
識別票なし。
医療品申請。
三重結界。
隠し方が下手なのではない。
隠す気があるからこそ、妙な形で痕跡が残っている。
「中身は医療品じゃなさそうだな」
ハルトは呟いた。
「要人、貴重品、財宝……とにかく隠したい何かだ」
「話が早い」
ナザルが笑う。
その時だった。
「行け」
声がした。
誰も扉が開く音を聞いていない。
気配もなかった。
だが、部屋の奥にゼギルが立っていた。
黒牙団長。
深淵のゼギル。
ハルトは顔をしかめる。
「……いつからいたんですか」
「お前が盗賊の仕事を忘れかけてる頃からだ」
「忘れてねぇですよ」
「なら行け」
ゼギルは地図を見下ろす。
「南諸島連合。軍旗なし。識別なし。医療品申請。三重結界つきの輸送用魔装馬車」
低い声が落ちた。
「ろくなもんじゃねぇ」
ハルトは地図を見る。
「確認は?」
「盗ってから考えろ」
「雑ですね」
「盗賊だからな」
ゼギルの口元がわずかに吊り上がる。
そして、地図の南東を指で叩いた。
「カラント軍港に入る前なら、まだ奪える」
「だが、海に出られれば追えねぇ」
ハルトは目を細めた。
「南諸島連合の海域に逃げられるってことですか」
「ああ。黒牙の足は陸と水路だ。海の外までは伸びてねぇ」
「軍艦に乗せられた後じゃ遅い」
ゼギルは低く言った。
「出港前に盗れ」
「真実の石版に近づく可能性がある」
ハルトの目が変わった。
「……なるほど。それで」
「ああ」
ゼギルは短く告げる。
「行け」
「了解」
ハルトは立ち上がった。
ルカ、シャノン、ベルノが同時に反応する。
セリカはすでに必要な呪符と短剣を揃えていた。
ナザルは笑う。
「いいねぇ。やっぱこうでなくちゃな」
スイレンがその横で、冷たく言った。
「後処理のことを考えると、まったく楽しくありません」
「考えなきゃ楽しいぞ」
「だからナザル様は仕事が増えるんです」
◇
カラント軍港へ向かう街道は、乾いた土と赤い岩の匂いがした。
南東の国境付近。
ルヴェリアの運河網から外れた土地。
遠くには海が見える。
その海の向こうに、南諸島連合の影がある。
黒牙の支配は薄い。
ナザルの水路の目も届きにくい。
だからこそ、怪しい荷を運ぶには都合がいい。
前方に一台。
中央に一台。
後方に二台。
黒い装甲に赤い魔力線を走らせた魔装馬車が、土煙を上げて走っていた。
前方と後方は武装魔装馬車。
車輪の両端には剣先のような装甲が伸び、側面には帝国式弩弓を構えた兵士が並んでいる。
中央だけは輸送用魔装馬車だった。
武装は薄い。
だが、車体を包む結界は一枚ではない。
三重。
薄い膜のような魔力障壁が、輸送車全体を覆っている。
ハルトは馬上で目を細めた。
数ヶ月前なら、馬の上で作戦行動など考えもしなかった。
だが黒牙に入ってから、逃走も追跡も馬なしでは済まない。
セリカに叩き込まれた成果が、ここでようやく形になっていた。
手綱を握る。
鐙を踏む。
馬の呼吸に合わせて、体の重心を落とす。
「中央は俺とセリカで行く」
「承知しました」
セリカが馬を寄せる。
「ルカ、シャノン、ベルノ。後方二台を止めろ。軍港内までは来るな。退路を確保しろ」
「分かりました、ハルト様」
ルカは頷いた。
「止めます。壊しすぎないように」
「壊していい。ただし殺すな」
「はい」
ベルノは眼鏡を押し上げる。
「後方は二台。片方を私が足止めします。ルカは遊撃、シャノンは上から撹乱を」
「任せるにゃ!」
「了解、ベルノ」
ナザルは前方を見て笑う。
「前は俺とスイレンだ」
「正確には、私が止めて、ナザル様が余計なことをします」
「余計なことって言うな」
「では、雑なこと」
「悪化したな」
ハルトは短く息を吐く。
「行くぞ」
次の瞬間、馬が走った。
後方の武装魔装馬車が異変に気づき、兵士たちが帝国式弩弓を構える。
「敵襲!」
「左右だ!」
黒赤の車体から、太い矢が放たれる。
ルカが馬上から跳んだ。
風が足場になる。
紫電が腕を走る。
弩弓の矢が彼の横を抜け、ルカは車体の側面へ着地する。
黒鋼手甲をまとった手が、弩弓の機構を掴んだ。
「すみません。これは危ないので」
ばきり、と武装だけが潰れる。
シャノンは反対側を走っていた。
馬ではない。
魔力の猫耳と二又の尻尾を揺らし、車輪の剣先を避けながら車体の影を駆け抜ける。
「この馬車、トゲトゲにゃ!」
兵士が斬りかかる。
シャノンの体が沈む。
足払い。
肘。
猫のような蹴り。
兵士は武器を持ったまま転がった。
「シャノン、右!」
「分かってるにゃ、ベルノ!」
ベルノは馬を寄せ、鎖を放つ。
車輪近くの装甲へ巻きつけ、もう一本の鎖を地面へ打ち込む。
「止まれ」
武装魔装馬車の一台が大きく揺れた。
前方では、スイレンが指先を振る。
「氷彫刻」
走る武装魔装馬車の前に、氷の杭がいくつも生えた。
ただの氷ではない。
車輪の角度、速度、装甲の幅を読んで、噛ませるように造形された氷。
車体が大きく跳ねる。
「おい、綺麗に壊せよ!」
「綺麗に止めています。壊しているのは相手です」
ナザルが水袋を放る。
中身が空中で弾けた。
水が蛇のように伸び、武装魔装馬車の側面を叩く。
ただの水ではない。
圧がある。
車体が横へ滑る。
「よし、前は引き受けた! ハルト!」
「分かってる!」
セリカが馬で中央の輸送用魔装馬車に並ぶ。
「ハルト様」
「ああ」
セリカが懐から呪符を出す。
ハルトは馬上でそれを受け取った。
息を合わせる。
馬の背が沈む。
次の瞬間、ハルトは跳んだ。
輸送用魔装馬車の側面へ着地する。
足裏に衝撃。
手で装甲を掴む。
結界が反応し、火花が散った。
ハルトは呪符を貼った。
一枚目の結界が赤く焦げる。
二枚目が金属音のようにひび割れる。
三枚目が悲鳴のような音を立てて焼き切れた。
「セリカ!」
「馬は回収します!」
ハルトの馬の手綱を、セリカが掴んだ。
そのままセリカは二頭を操りながら、輸送車の横を駆ける。
ハルトは車内へ飛び込んだ。
◇
中は思ったよりも狭かった。
左右に兵士。
奥に操縦席。
さらに奥に、隔離された空間。
兵士が振り返るより早く、ハルトは動いた。
喉を打つ。
顎を跳ねる。
鳩尾に肘。
関節を折らずに潰す。
殺さない。
だが、動けない。
兵士が床に崩れる。
操縦者が叫ぶ。
「貴様、何者だ!」
「盗賊」
ハルトは短く答えて、操縦者の後頭部を掴み、壁に叩きつけた。
操縦者が沈む。
そこで、ハルトは奥を見た。
荷物ではなかった。
兵器でもない。
医療品でもない。
少女がいた。
金髪。
綺麗な翡翠の目。
細い手首。
薄い服。
逃げようとはしていない。
泣いてもいない。
助けを求めてもいない。
少女は、ただハルトを見た。
「あなたは?」
「盗賊だけど」
「そう」
「そうって……怖くねぇのか?」
「持ち主が変わるだけでしょ」
ハルトは一瞬、言葉に詰まった。
「持ち主って……まあ、でもそうなるか」
「それに、魂晶目当てなんでしょ」
「はぁ?」
「私じゃなくて、これが欲しいんでしょ」
少女は自分の胸元に手を当てた。
「みんな、そうだから」
ハルトは眉を寄せた。
「悪い。よく分かんねぇ」
少女の目が、わずかに揺れた。
ハルトは短剣をしまう。
「俺は、お前を盗みに来た」
「……盗む?」
「ああ」
ハルトは言った。
「だから、今は黙って盗まれとけ」
少女はすぐには返事をしなかった。
その沈黙を、車体の振動が破る。
輸送用魔装馬車は止まっていなかった。
「……おい」
ハルトは操縦席を見る。
操縦者は倒れている。
だが、黒赤の魔力線が壁を走り、車体の奥で低い駆動音が鳴っている。
外からセリカの声が飛ぶ。
「ハルト様! 速度が落ちません!」
「操縦者は落としたぞ!」
ベルノの声が遠くから響く。
「自動運転です! おそらく港までの経路が固定されています!」
「え、こいつ勝手に走ってるにゃ!?」
シャノンが叫ぶ。
ルカの声が続く。
「便利ですね」
「感心している場合か!」
ハルトが怒鳴った瞬間、車体の外へ水が走った。
ナザルが馬で並んできた。
「ハルト! 大丈夫か!」
「ああ! だけど止まんねぇ!」
「まじかよ……!」
ナザルが前方を見る。
港が近づいていた。
カラント軍港。
その奥の海に、軍艦が見える。
一隻ではない。
三隻。
黒赤の旗。
重い装甲。
砲台。
「仕方ねぇ、俺が先回りしてどうにかしてくる!」
「ナザル、お前弱そうだけど大丈夫か!」
「お前、言ってくれるな!」
ナザルは顔を引きつらせた。
だが、すぐに笑った。
「大丈夫だ」
潮の匂いを吸い込んだ男の目が、変わる。
「海なら、俺は負けねぇ」
次の瞬間、ナザルの馬が水に包まれた。
水が道になる。
水が橋になる。
ナザルは馬より速く、軍港へ向かって滑っていく。
輸送用魔装馬車は止まらない。
港側も異変に気づいていた。
鐘が鳴る。
兵士が走る。
荷役用の門が開き、軍人たちが展開し始める。
そして、港の端にある小さな倉庫が、ぐんぐん近づいてくる。
「掴まれ!」
ハルトは少女を抱き寄せた。
次の瞬間、魔装馬車は倉庫へ突っ込んだ。
轟音。
木材が砕ける。
石材が崩れる。
積み荷が弾け飛ぶ。
黒赤の装甲がひしゃげ、輸送用魔装馬車は全壊した。
◇
カラント軍港総督、ドミニク・ラゼルは望遠鏡を覗いていた。
栗色の髪はくるくると巻かれ、白手袋の指には無駄に大きな指輪が光っている。
鼻につくほど整った軍服。
鼻につくほど高い声。
そして本人は、それを威厳だと思っている。
「煙?」
ドミニクは眉をひそめた。
「私の港で、誰が煙を上げている」
兵士が駆け込んでくる。
「総督! 輸送隊が襲撃されています!」
「馬鹿な」
ドミニクは望遠鏡を下ろす。
「ここはカラント軍港だぞ。野盗が散歩で入れる場所ではない」
「中央輸送車が倉庫へ突入! 破損しています!」
「荷物は」
「確認中です!」
ドミニクの顔が歪む。
「盗賊は殺せ。だが、荷物には傷一つつけるな」
白手袋の指が、苛立たしげに震えた。
「いいか。くれぐれも荷物は傷つけるな」
兵士たちが一斉に動く。
その時、海面が揺れた。
ドミニクは再び望遠鏡を覗く。
「……なんだ、あれは」
海が盛り上がっていた。
「海面上昇! 巨大水塊、出現!」
「水塊?」
兵士の声が裏返る。
「黒牙のS級賞金首です!」
「大海のナザル!」
ドミニクの顔色が変わった。
「……海で出くわすなと教本に書かれる、あの男か」
◇
瓦礫の中で、ハルトはゆっくり起き上がった。
「……生きてるか」
「……はい」
少女は小さく答えた。
ハルトは少女を見た。
「怖くなかったのか?」
「怖かったら、何なの?」
「あ?」
「泣いても、何も変わらないから」
少女は静かに言った。
ハルトは一瞬だけ黙る。
「……そうかよ」
その時、軍靴の音が瓦礫を囲んだ。
カラント軍港の兵士たちが、壊れた倉庫を包囲している。
「盗賊だ!」
「囲め!」
「殺せ!」
指揮官らしき男が怒鳴る。
「待て! 中央の荷物を傷つけるな!」
ハルトの目が動いた。
「盗賊は殺せ!」
「だが、荷物には傷一つつけるな!」
「……荷物?」
ハルトが呟く。
少女は、静かに言った。
「ほら」
「……あ?」
「みんな、そう呼ぶから」
ハルトの奥歯が、かすかに鳴った。
兵士たちが帝国式弩弓を構える。
軍艦三隻の砲台も、こちらへ向いている。
セリカはいない。
ルカたちは軍港外で退路を確保している。
ナザルの姿もまだない。
完全に囲まれていた。
「……詰んだか?」
ハルトが呟いた、その時だった。
「おいおい!」
海から声がした。
「そっちを見てていいのか!」
兵士たちが振り返る。
港の海面が、ぐらりと盛り上がった。
「ヒーローのお出ましだぜ!!」
海が立ち上がる。
最初は波。
次に壁。
さらに上へ、上へ。
軍艦の甲板から見上げるほど巨大な水塊が、化け物の形を取っていく。
歪な頭。
太い腕。
不定形の胴体。
完全な人型ではない。
海そのものが立ち上がったような怪物。
その頭上に、ナザルが立っていた。
「大海魔法」
ナザルは笑う。
「海坊主」
港が大混乱に陥る。
「なんだあれは!?」
「魔物か!?」
「違う! 大海のナザルだ!」
海坊主が巨大な腕を振り上げる。
「まずは一発、挨拶だ」
ナザルの声が海に響いた。
「大海巨拳!!」
海の拳が、軍艦の一隻を殴った。
轟音。
軍艦が大きく傾く。
甲板の兵士たちが転がり、港に波が叩きつけられる。
兵士たちの視線が海へ持っていかれた。
その混乱の中、銀の糸が瓦礫を走る。
「ハルト様!」
セリカだった。
「遅ぇ!」
「止まらない魔装馬車を追ってきた相手に言う言葉ですか」
「悪い、助かった」
セリカは一瞬だけ少女を見る。
「その子が荷ですか」
「ああ」
ハルトは少女を背に庇う。
「ただし、荷物扱いは気に入らねぇ」
海では、軍艦三隻が動き始めていた。
「マジックシールドシステム展開!」
軍艦の側面に円形の結界が展開される。
海坊主が二発目の拳を叩き込む。
だが、今度は結界が拳を受け止めた。
海の拳が弾け、軍艦は大きく揺れはしたが、一発目ほどは効いていない。
ナザルが口笛を吹く。
「硬ぇな。南の軍艦は趣味が悪い」
直後、軍艦三隻の砲台が海坊主へ向いた。
艦砲射撃。
火と煙が弾ける。
魔力弾が海坊主の胴体を撃ち抜いた。
巨大な水の胸に、大穴が空く。
「穴空いたにゃ!」
遠くでシャノンの声がした。
穴はすぐに水で埋まった。
崩れた水が戻り、海坊主の腕が再形成される。
ナザルは笑う。
「効かねぇとは言わねぇよ」
「けどな」
海坊主が再び軍艦を睨む。
「海は、ちょっとやそっと穴が空いたくらいじゃ死なねぇんだよ」
だが、周囲は敵だらけだった。
軍艦。
軍人。
港湾兵。
砲台。
逃げ惑う者たち。
このままでは、ハルトたちも巻き込まれる。
ナザルは海坊主の頭上で片膝をつき、海へ手を当てた。
「ワダツミ」
低く呟く。
「一体、貸せ」
海坊主の中を、何かが泳いだ。
水が形を取る。
人魚のような輪郭。
長い髪。
尾のように流れる水。
だが、肉体はない。
透明な水が、女の姿をなぞっているだけ。
海霊。
ヨナタマは海坊主の中を泳ぎ、頭上のナザルのそばへ浮かび上がる。
ナザルは短く言った。
「あいつらを頼んだぞ」
返事は言葉ではなかった。
ちゃぷん、と小さな水音がした。
「よし」
ナザルは立ち上がる。
「大海魔法!!」
海坊主が崩れ始めた。
頭が波になる。
腕が波になる。
胴体が崩れ、港を呑む大波になる。
「大波浪!!」
波が走った。
高さは二、三メートル。
本物の大津波ではない。
だが、軍港を制圧するには十分すぎる。
兵士たちの足が持っていかれる。
弩弓が水を被る。
盾を構えた兵がまとめて流される。
軍港の石畳に水が走り、足場が消える。
人を殺す波ではない。
戦う形を奪う波。
「津波だ!」
「掴まれ!」
「流されるぞ!」
セリカが叫ぶ。
「ナザル様、まさか軍港ごと……!」
ハルトも顔を引きつらせた。
「あいつ、馬鹿か!?」
その横で、少女だけは静かだった。
金髪が潮風に揺れる。
翡翠の目が、迫る波を見ている。
「……大きいですね」
「感想そこかよ」
ハルトが言った瞬間、水面からヨナタマが現れた。
波に乗って、ハルトたちの前へ滑る。
ちゃぷん。
ヨナタマが腕を広げる。
ハルトたちの周囲だけ、水が円を描いて避けた。
それだけではない。
ヨナタマが指先を前へ向ける。
次の瞬間、進行方向の波が割れた。
左右から押し寄せる水が、見えない壁に沿って流れを変える。
円形の安全圏ではない。
逃げ道だ。
ヨナタマが、波の中に一本の道を作っている。
「……案内してんのか」
ハルトは手綱を握り直した。
ヨナタマが振り返る。
返事はない。
ただ、ちゃぷん、と水音だけが鳴った。
「分かった。行くぞ」
ハルトは近くの馬へ駆ける。
セリカが回収していた馬だ。
「乗れ」
ハルトは少女に言った。
少女は動かない。
「……どこへ?」
「いいから乗れ!」
「命令ですか」
「違ぇよ、逃げんだよ!」
少女はそれでも動かない。
命令でしか動けないわけではない。
逃げる理由が、自分の中にまだないのだ。
ハルトは舌打ちした。
「面倒くせぇな」
そして、少女をひょいと抱き上げた。
お姫様抱っこ。
少女の目が、初めて少しだけ丸くなる。
「……え」
「軽すぎんだろ、お前」
「下ろしてください」
「無視」
ハルトは少女を馬の前へ乗せた。
馬が驚いて、びくりと体を震わせる。
「耐えろ。お前も今日から盗賊の馬だ」
馬が鼻を鳴らした。
ハルトはその後ろへ飛び乗る。
「走れ!」
馬が港の石畳を蹴った。
背後では、波が軍港を呑んでいた。
砲声が鳴り、海が吠え、ナザルの笑い声が水煙の向こうで響いている。
ヨナタマの作った水の道だけが、ハルトたちの逃げ道を開いていた。
ハルトは手綱を握りしめる。
盗んだものは、荷物ではなかった。
兵器でも、医療品でもなかった。
自分に価値がないと思い込んだ、一人の少女だった。
あとがき
第6章、開幕です。
今回はかなり長めの章になる予定です。
ここからしばらく、エルナという少女を中心に、ルヴェリア、南諸島連合、魂晶種、そして黒牙の外側にある世界へ話が広がっていきます。
第5章までは、白煙陣営が形になる話でした。
第6章からは、その白煙陣営が外の大きな問題に首を突っ込んでいく話になります。
今回は久々に盗賊らしい略奪から始まりました。
ただし、盗んだものは金でも武器でもなく、一人の少女です。
ここから長編が始まります。
楽しんでもらえたら嬉しいです。




