第19話 不殺のルーカス
銀翼は、白煙に負けた。
ギリオは敗北を認め、銀翼の残党たちはその日のうちにルヴェリアを去ることになった。
採石場の底には、白煙の冷気がまだ薄く残っていた。
銀弾はもう飛ばない。
ロザックに肩を貸されながら、凍りついたギリオが運ばれていく。
その背中を見送ってから、ハルトは血まみれのまま短剣を収めた。
黒牙の構成員たちは、しばらく声も出せなかった。
銀翼を終わらせた白煙。
金剛を砕き、銀弾を凍らせ、残党たちを殺さずに殺した男。
その背中には、確かに黒牙第六席の格があった。
ハルトたちはそのまま、館への帰路についた。
セリカが続く。
ベルノが続く。
シャノンが鼻をひくつかせながら続く。
ルーカスも、胸に大きな傷跡を残したまま、その背中を追った。
そして、その格好いい帰還は、館に戻った瞬間に終わった。
館でハルトたちを待っていたのは、魔法治療師クロード・ヴェインだった。
「……またですか」
静かな声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、戦場の冷気よりもよほど冷たい。
ハルトは足を止めた。
「……クロード」
「またですか、と聞いています」
「勝った」
「勝敗の話はしていません」
クロードはハルトの右目、肩、腹、足、全身の裂傷、そして霜の跡を順に見た。
「何度言えばいいんですか。前回の怪我は、ようやく塞がったところでしたよね」
「治ってるならいいだろ」
「治った身体は、壊していい身体ではありません」
クロードの声が、一段低くなった。
「今すぐ寝台へ行きます。立っているのもおかしいです。なんで普通に立っているんですか」
「いや、俺だけじゃねぇだろ。ルーカスも……」
ハルトは責任を分散させるように、ルーカスを指差した。
クロードはルーカスを見る。
「ルーカスくんは……」
そこで、クロードは眉を寄せた。
「あれ。ルーカスくんは怪我をしていませんね?」
「は、はい。怪我しませんでした」
「おい!」
ハルトが即座に叫んだ。
「シルフに治してもらっただけだろうが! 嘘つくな!」
「え!? ハルト様!?」
ルーカスが本気で驚いた顔をする。
「胸の跡を見てみろよ、クロード! こいつ心臓止まってたんだぞ!」
「今はあなたの話をしているんです!」
クロードの声が、さらに低くなった。
ハルトが黙る。
「あなたは右目から黒い血を流し、全身裂傷、銀弾による複数の損傷、凍傷、魔力枯渇、深淵系統の過負荷まであります。なぜ他人を指差せるんですか」
「く、ベルノも……」
ハルトはさらに視線を逸らす。
「ベルノさんは、あなたに比べれば軽傷です」
ベルノが眼鏡を押し上げた。
「いえ、クロード様。私も軽傷ではありません」
「そうですね。ベルノくんも軽傷ではありません」
クロードはこめかみを押さえた。
「ここにいると、頭がおかしくなりそうです」
ベルノは静かに頷いた。
「お気持ちは分かります」
「あなたも原因側です」
「……はい」
ベルノは、少しだけ肩を落とした。
「私も異常側……か……」
シャノンが、そっと廊下の方へ下がった。
「私は飯を……」
「座りなさい」
「にゃ……」
クロードは全員を見回した。
「全員、治療します。逃げた方から、消毒液を倍にします」
シャノンの顔から、すっと血の気が引いた。
結局、ハルト、ルーカス、ベルノ、シャノンは寝台に並べられた。
セリカだけは横に立ち、淡々と報告する。
「応急処置は済ませてあります」
「応急処置で済む怪我ではありません」
「はい」
セリカは静かに頷いた。
ハルトは寝台に横になったまま、片手をひらひら振る。
「まー、勝ったからいいだろ。な? 一件落着だ」
さっきまで銀翼第一席を倒した恐怖の白煙とは思えない適当さだった。
シャノンは隣の寝台で、世界が終わったような顔をしている。
「神経毒あるから、今日はお粥って……」
ベルノは天井を見つめたまま、小さく呟く。
「私が……異常側……」
ルーカスはハルトを見た。
「酷いですよ。俺も一緒に怒らせようとしましたよね、ハルト様……」
「仲間だろ? ついてこいよ」
「ハルト様の言うついてこいって、道連れのことですか……?」
「いいか、ルーカス」
ハルトは真面目な顔で言った。
「仲間ってのは、辛いことも一緒に乗り越えるんだ。それが仲間ってもんだ」
「なるほど」
ルーカスは少しだけ感心した顔をした。
「ハルト様、かっこいいです」
「すぐにほだされないでください。違いますから」
セリカが冷静に切り捨てた。
ハルトは寝台の上からセリカを見る。
「セリカは、人の心がない冷徹人間だ。言ってみろ、ルーカス」
「えー、セリカ様は……」
「ほう?」
セリカの目が細くなった。
「二人とも、今死にたいということでいいんですかね?」
ルーカスは即座に黙った。
ハルトも目を逸らした。
「安静と言っているでしょう!」
クロードの声が飛ぶ。
「ルーカスくんも、体の無事が分かるまでは安静です。その傷跡がただ事ではないことくらい、私にも分かります」
「はい……」
「ハルト様もです」
「……はい」
その後、部屋にはしばらく、治療の音とシャノンの小さなため息だけが残った。
翌日。
ハルトたちがまだ安静を命じられている中で、一つの報告が入った。
レイドが、ハルト自治区の別館から姿を消した。
代表戦の当日、レイドは街を出られる身体ではなかった。
右腕は深く損傷し、胸元には大きな傷がある。
だから、銀翼残党の中でも、レイドだけは一時的に別館で治療を受けていた。
だが、朝にはいなくなっていた。
ルーカスは、その報告を聞いてから、しばらく黙っていた。
不殺を通した責任。
殺さなかった。
だが、それで終わりではない。
レイドはもう、ルヴェリアにはいられない。
銀翼は負けた。
右腕はまともに動かない。
剣も握れないかもしれない。
それでも、生きている。
自分が生かした。
だから、気になった。
「行けよ」
ハルトが目を閉じたまま言った。
ルーカスは驚いて、隣の寝台を見る。
「でも、また怒られます……それに、今行ったらまたハルト様に迷惑が……」
「お前の不殺の責任は、全部取るって言った。忘れたか?」
「……」
「それに、ちょうど今眠くなった」
ハルトは寝返りを打った。
「お前は怪我してねぇみてーだし、動けそうだな」
「ハルト様……」
「おやすみ」
ハルトはそのまま目を閉じた。
セリカは執務室で仕事漬けになっている。
クロードも薬の調合に入っている時間だった。
ルーカスは少しだけ迷い、それから窓を開けた。
「行ってきます」
小さく呟いて、窓から飛び出す。
風が身体を押した。
屋根を越える。
水路を越える。
橋を越える。
ルヴェリアは広い。
東の海側から、西の大陸側までは遠い。
それでも、ルーカスは止まらなかった。
どこに行けばいいのかは分からない。
もういないかもしれない。
そもそも、会ってどうするのかも分からない。
でも、もし。
もし、まだいるなら。
最後に会いたい。
ルーカスの頭に、一つだけ場所が浮かんだ。
ハルトが以前、何気なく口にしていた外壁。
ルヴェリアの西側へ伸びる、巨大な城壁。
そこへ行ってみようと思った。
正午の鐘が鳴る少し前。
外壁の上は、人気が少なかった。
建設に関わる人夫や従業員たちも、昼の休憩に入っているのか、遠くの飯場へ向かっている。
広い石の上に、深く外套を被った男が一人立っていた。
レイドだった。
「考えることは同じだな」
レイドは振り返らずに言った。
「まさか最後に、お前と会えるとはな」
ルーカスは息を整えながら、隣に立つ。
眼下には、ルヴェリアの街が広がっていた。
屋根。
水路。
橋。
倉庫。
煙突。
港へ続く道。
レイドは黙って、その全てを見ていた。
「最後に、この街を目に焼き付けておきたくてな」
レイドの声は静かだった。
「恨んではいない。だが、俺の国を焼き払い、俺の拠点となった場所だ」
ルーカスは、何も言えなかった。
「時間はかかったが、初めて腹いっぱいになった。初めて、心の底から眠れた」
血の匂いはした。
綺麗な場所ではなかった。
それでも、レイドにとって銀翼は、初めて得た安寧だったのかもしれない。
「悪くない時間だった」
レイドは、街を見たまま言う。
「お前に会えたからだ」
「……俺に?」
「ああ」
レイドはようやく、ルーカスを見る。
「剣は……握れそうですか……?」
ルーカスは、ようやくそれだけを聞いた。
レイドは少しだけ右腕を見た。
外套の下で、もう動かない腕。
「無理だな」
淡々とした声だった。
「自分のことだ。それくらい分かる」
「……」
言葉は出なかった。
殺さなかった。
けれど、奪った。
命ではなく、剣を。
レイドは、物心ついた時から殺しを強要されていた。
友を殺し、戦争に使われ、終われば王国騎士に追われる毎日。
そして、ようやく銀翼で居場所を見つけた。
血の匂いはした。
悪人たちの集まりだった。
それでもレイドにとっては、やっと得た、唯一の居場所だったのかもしれない。
ルーカスは、胸の奥が重くなるのを感じた。
「甘いとは思わん」
レイドは言った。
ルーカスが顔を上げる。
「超えていけ、ルーカス」
少しだけ、レイドの口元が動いた。
「いや」
正午の鐘が鳴る。
「不殺のルーカス」
ルーカスは息を止めた。
その時だった。
空の端に、大きな鳥影が見えた。
銀翼の大鷲だった。
大きな翼が、ルヴェリアの空を切る。
レイドはそれを見て、小さく息を吐いた。
「時間だ」
「そんな、もう……」
ルーカスは思わず声を漏らした。
まだ、聞きたいことがあった。
まだ、言いたいこともあった。
けれど、レイドはもう振り返らない。
「剣は左手でも握れるさ」
レイドは外壁の縁へ足をかけた。
「売れ残りらしく、足掻いてみるさ」
そして、外壁を飛んだ。
ルーカスは追わなかった。
追えば、届いたかもしれない。
風を使えば、今のレイドに追いつくことくらいできたかもしれない。
けれど、ここから先は、自分が立ち入る領域ではないと思った。
心配も。
哀れみも。
時には、相手に残った最後の誇りを奪う刃になる。
だから、追わなかった。
ルーカスが館へ戻ると、空気が凍っていた。
比喩ではない。
セリカとクロードの視線が、廊下の温度を三度ほど下げていた。
「ルーカスくん」
魔法治療師クロード・ヴェインが、静かに言った。
「どこに行っていたんですか?」
「えっと……」
ルーカスは視線を泳がせる。
その隣で、セリカが微笑んでいた。
微笑んでいるのに、まったく笑っていなかった。
「ハルト様が許可を出したのですか?」
「えっと……」
ルーカスは、寝台の上のハルトを見た。
ハルトは目を閉じていた。
さっきまで明らかに起きていたはずなのに。
「……ハルト様」
ルーカスが助けを求める。
ハルトは薄く片目を開けた。
「知らん」
「え?」
「俺は寝てた」
「え?」
ルーカスの顔から血の気が引いた。
セリカの微笑みが深くなる。
「そうですか。では、ルーカス様が独断で抜け出したということですね」
「い、いえ、その……」
クロードは静かに消毒液の瓶を手に取った。
「逃げた方から、消毒液を倍にすると言いましたよね」
「ハルト様!?」
「聞こえねぇな。俺は寝てる」
「嘘ですよね!? 今、返事しましたよね!?」
ベルノは隣の寝台で天井を見つめたまま、深くため息をついた。
「これが、白煙陣営……」
シャノンは粥をすすりながら、ぽつりと言った。
「ルカ、仲間って大変だな」
ルーカスはようやく理解した。
不殺の道も。
盗賊の道も。
そして、白煙の道も。
思っていたより、ずっと厳しい。
ひとしきり説教が終わり、クロードとセリカが部屋を出ていった後。
寝台の上で、ルーカスはぽつりと口を開いた。
「ハルト様」
「あ?」
「聞きたいことがあるんですけど」
「消毒液の話なら聞かねぇぞ」
「違います」
ルーカスは少しだけ真面目な顔をした。
「あのルールだと、先に俺たちが負け越していたら……どうするつもりだったんですか?」
ずっと引っかかっていたことだった。
「イグニス様とハルト様が勝っても、二勝ですよね」
ハルトは少しだけ目を開けた。
「信じてた」
「……」
「お前らが勝つってな」
ルーカスは、何か言いかけた。
いや、でも。
もし負けていたら。
もし自分たちが勝てなかったら。
もしハルトの信頼に応えられなかったら。
そんな言葉が喉まで上がって、そこで止まる。
ハルトは信じていた。
それだけでいいのだと、ルーカスは思った。
「でも、負けたのはベルノっちだけだけどねぇ」
シャノンが粥をすすりながら言った。
ベルノの眉が跳ねる。
「てめぇ、クソ猫。もっぺん言ってみろ。てめぇも引き分けだろうが」
「あれれぇ? 話し方が山猿に戻ってるにゃ? 怖いにゃ?」
「ルカ! 代わりに殴ってくれ、こいつ!」
ルーカスは目を瞬かせた。
「る、ルカ……呼び……嬉しいです」
「なに照れてんだよ……」
シャノンがにやりと笑う。
「ふーん。ルカに頼っちゃうかー。ダントツ強いもんね〜。次の正補佐はルカかなぁ」
ベルノのこめかみがぴくりと動いた。
「誰が頼った。誰が正補佐を譲ると言った」
「同期なんだから、私たちもルカって呼ぶ」
シャノンが勝手に決めた。
ルーカスはぱっと表情を明るくする。
「はい! クソ猫と山猿さん!」
「てめぇ! 殺す!!」
「猫じゃないにゃ!!」
ハルトが寝台の上で眉をひそめる。
「あだ名ってそういう付け方じゃないからな」
「うるせぇよ、お前ら。セリカが来るぞ」
その一言で、部屋が静まり返った。
少しの沈黙のあと、ルーカスは小さく息を吐いた。
「……あの、ハルト様」
「あ?」
「白煙って、誰がつけたんですか?」
「団長だな」
「だ、団長……凄いですね」
「俺の二つ名はころころ変わるからな。どれが定着すんのか、俺にも分からん」
金剛砕き。
粛清返し。
白煙。
呼ばれ方など、ハルト自身が決められるものではなかった。
ルーカスは少し迷ってから、口を開く。
「その、二つ名って……自分で名乗ってもいいものですか?」
「あるのか? 候補」
「はい」
シャノンとベルノも、ルーカスを見る。
ルーカスは少し恥ずかしそうに、それでもはっきりと言った。
「不殺のルーカス……とか……」
沈黙。
次の瞬間、シャノンが鼻をぴくりと動かした。
「よ、弱そう〜!」
「シャノンさん……」
ベルノは眼鏡を押し上げる。
「盗賊としては、弊害の方が多そうだな」
「ベルノさんまで……」
ルーカスは少しだけ肩を落とす。
「でも、俺、これが良くて……」
ハルトは笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、ルーカスを真っ直ぐ見た。
「いいね」
ルーカスが顔を上げる。
「気に入った。お前っぽい」
「……俺っぽい、ですか?」
「ああ」
ハルトは少しだけ口元を歪めた。
「弱そうで、難しくて、誰より背負う名だな」
ルーカスは息を止めた。
「大切にしろ」
その一言は、妙に重かった。
不殺のルーカス。
その名は、強そうではなかった。
恐れられる名でもない。
敵を震え上がらせる名でもない。
盗賊として得をする名でもない。
むしろ、弱そうで。
難しくて。
誰よりも重い。
けれど、ルーカスはもう、その響きが嫌ではなかった。
レイドがくれた名だった。
ハルトが笑わずに認めてくれた名だった。
殺ししか知らなかった男が、甘いとは思わないと言った。
悪名を喰らう白煙が、大切にしろと言った。
なら、この名はきっと、弱さではない。
まだ形になっていないだけの、牙だ。
ルーカスは静かに息を吸う。
遠くで、ルヴェリアの鐘が鳴っていた。
大運河を渡る風が、王都の屋根を撫でていく。
東の海から、西の外壁へ。
港を越え、倉庫街を越え、黒牙のシマを越えて。
その風のどこかを、銀翼の大鷲が飛んでいる気がした。
銀翼は終わった。
けれど、翼は空へ行った。
白煙は残った。
そして、その下に新しい牙が生まれた。
殺さずに勝つなど、きっと馬鹿げている。
この街では、優しさは隙になる。
甘さは罪になる。
命は、少し油断しただけで石畳に転がる。
それでも。
ルーカスは、自分で選んだ。
不殺のルーカス。
弱そうで、難しくて、誰より背負う名。
その名を胸の奥で、もう一度だけ呼ぶ。
すっと、落ち着いた。
まるで初めから、そこに置かれるのを待っていたみたいに。
「俺、強い盗賊になるよ」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
けれど、それでよかった。
これはまだ、名乗りではない。
誓いだった。
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第5章「銀翼と不殺の牙」は、これで一区切りです。
今回は、ルーカスが「不殺のルーカス」という名を受け取る回でした。
ルーカスは人を殺さないと決めました。
でも、それは綺麗な理想だけではありません。
レイドを殺さなかったことで、レイドの命は残りました。
一方で、剣を握る右腕は失われました。
命を奪わないこと。
でも、相手の人生を変えてしまうこと。
不殺は優しいだけの道ではなく、殺すより難しく、重い選択でもあります。
レイドはそれを「甘い」とは言わず、最後に「不殺のルーカス」と呼びました。
そしてハルトも、その名を笑わずに認めました。
弱そうで、難しくて、誰より背負う名。
この章で、ルーカスはようやく自分の牙を見つけたのだと思います。
また、銀翼の大鷲は、先に街を出たギリオたちが無事にルヴェリアの外へ抜けた合図です。
レイドは当日中に街を出られる身体ではなかったため、少しの希望を胸に、外壁の上でその大鷲を待っていました。
銀翼という組織は終わりました。
けれど、ギリオたちも、レイドも、まだ生きています。
次章からは、銀翼との戦いを終えた白煙陣営が、また新しい問題と向き合っていくことになります。
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