第8話 猫じゃない
ハルトが、短く名を呼ぶ。
「シャノン」
黄色い瞳が、すっと細くなった。
「うち?」
「行け」
「はいはい」
シャノンは、手に持っていた干し肉を口へ放り込んだ。
セリカがすぐに眉を寄せる。
「食べながら降りないでください」
「最後の晩餐かもしれない」
「縁起でもないことを言わないでください」
シャノンはもぐもぐしながら、大穴へ向かう。
ベルノの敗北の重さが、まだ黒牙側に残っていた。
だが、次の戦いは待ってくれない。
採石場の底では、水色の髪の男が待っていた。
細い指で、円形の刃をくるくると回している。
チャクラム。
その刃が光を弾くたびに、男の薄い笑みも揺れて見えた。
「猫ちゃんかぁ」
男が言った。
幻惑のミゼル。
銀翼第六席補佐だった男。
武闘派というには、どこか肩透かしな雰囲気がある。
だが、残った理由は単純だった。
戦って、殺すのが好きだから。
シャノンは干し肉を飲み込み、低く構えた。
「猫じゃない」
「そうかなぁ?」
ミゼルは笑う。
「耳、出てるけど」
シャノンの頭上に、魔力でできた猫耳がぴくりと揺れていた。
腰の後ろでは、魔力の尻尾が一本、ゆらゆらと動いている。
「これは戦闘用」
「じゃあ、戦闘用の猫ちゃんだ」
「猫じゃないって言ってる」
シャノンの足元が沈む。
次の瞬間、姿が消えた。
速い。
それも、ハルトの空纏衝のような直線の爆発ではない。
低く、細かく、曲がる。
砂利の上を這うように走り、横へ滑り、ミゼルの死角へ潜る。
ミゼルの指先から、チャクラムが飛んだ。
一枚。
いや、二枚。
水蒸気が揺れ、刃が増える。
シャノンの黄色い瞳が細くなった。
「そっちは薄い」
右のチャクラムをかわす。
水蒸気になって崩れた。
「こっちは臭い」
左のチャクラムを爪で弾く。
甲高い音が鳴り、実体の刃が跳ねた。
ミゼルの笑みが、少しだけ深くなる。
「へぇ。鼻がいいね」
「鼻だけじゃない」
シャノンは地面を蹴った。
ミゼルの足元へ潜り込み、魔力をまとった拳を叩き込む。
ミゼルの体が揺らぐ。
水蒸気になって崩れた。
「外れ」
ミゼルの声が、背後から聞こえた。
チャクラムが背中へ迫る。
だが、シャノンは見ていないのに避けた。
魔力の尻尾が地面を叩き、体が横へ跳ねる。
刃が髪をかすめた。
「そこ」
シャノンの爪が、ミゼルの袖を裂く。
水色の髪が揺れた。
今度は本物だった。
「痛いなぁ」
ミゼルは笑った。
腕から血が垂れている。
それでも、笑っている。
「猫ちゃん、思ったより怖いね」
「猫じゃない」
「でも、獲物で遊ぶのは好きでしょ?」
「殴るのは好き」
シャノンは低く唸る。
「でも、いたぶるのは嫌い」
「そうかなぁ?」
ミゼルの指が動いた。
周囲に水蒸気が広がる。
白く薄い霧。
その中で、チャクラムの影が揺れた。
一枚。
二枚。
三枚。
殺気が混ざる。
匂いもある。
魔力もある。
シャノンは右の一枚を弾いた。
水蒸気になって消える。
次に、殺気の薄い一枚を無視する。
それが、実体のまま脇腹を裂いた。
「っ……!」
血が飛ぶ。
シャノンは距離を取る。
ミゼルは軽く首を傾げた。
「あれ? 匂いがないから幻だと思った?」
シャノンの眉が寄る。
傷は浅い。
だが、妙な痺れが指先に残った。
「毒……?」
「神経毒。すぐには動けなくならないよ」
ミゼルは、チャクラムを指先で回す。
「少しずつ、少しずつ。足が鈍って、指が震えて、最後は惨めに転ぶ」
楽しそうだった。
本当に、楽しそうだった。
「そういう顔を見るのが、好きなんだ」
シャノンの黄色い瞳が、細くなる。
「趣味悪い」
「そうかなぁ?」
また白い水蒸気が揺れる。
今度は、殺気のある刃と、殺気のない刃。
シャノンは殺気のある方を避ける。
水蒸気。
殺気のない刃が、太腿を浅く裂いた。
また痺れが入る。
次は匂いのある刃。
弾く。
水蒸気。
匂いのない刃が、肩を切る。
その次は、見えている刃が本物だった。
その次は、見えない刃が幻だった。
ミゼルは、ずっと二択を作っていた。
見えるか、見えないか。
匂うか、匂わないか。
殺気があるか、ないか。
魔力が濃いか、薄いか。
水蒸気の幻影。
フェイドをかけた実体。
殺気を込めた幻。
殺気を消した本物。
シャノンの知覚を、少しずつ、ぐちゃぐちゃにしていく。
「ほら、遅くなってきた」
ミゼルの声が、霧の向こうで笑う。
「猫ちゃん、もう走れない?」
「猫じゃ……ない」
シャノンは歯を食いしばった。
足先の感覚が薄い。
指も鈍い。
魔力の尻尾が、さっきより揺れている。
このままでは、先に体が止まる。
見えている。
匂いも分かる。
殺気も拾える。
でも、それが全部、嘘になる。
知覚が、邪魔をする。
シャノンの脳裏に、銀髪の武人の声がよみがえった。
知覚した情報で反射するのではない。
知覚した情報で、予測することだ。
「……予測」
シャノンは呟く。
難しい。
正直、難しい。
でも。
意味のない攻撃はない。
目の前の攻撃は、殺すためか。
避けさせるためか。
足を止めるためか。
後ろを向かせるためか。
いたぶるためか。
シャノンは、霧の中で目を細めた。
正面から一枚のチャクラムが来る。
殺気は濃い。
軌道は派手。
でも、喉にも心臓にも向かっていない。
これは、避けさせる攻撃。
「罠」
シャノンは動かない。
刃は水蒸気になって消えた。
次に、背後から刃が来る。
見えにくい。
匂いも薄い。
殺気もない。
でも、軌道が雑だった。
本命に見せるための奇襲。
「それも罠」
尻尾で地面を叩き、ほんの少しだけ位置をずらす。
刃は水蒸気になって崩れた。
ミゼルの笑みが、初めて薄くなる。
「へぇ」
シャノンは低く構える。
「見えたものじゃなくて、あんたが何をしたいかを見る」
「猫ちゃん、急に賢くなった?」
「猫じゃない!」
シャノンが踏み込む。
今度は、ミゼルが後ろへ下がった。
シャノンの爪が、ミゼルの頬をかすめる。
血が一筋、流れた。
「……痛いなぁ」
ミゼルの目から、薄い笑みが消えた。
「じゃあ、終わろうか」
水蒸気が濃くなる。
チャクラムが増える。
正面に二枚。
そして、シャノンが避けるであろう右側に、さらに二枚。
これまでと同じ。
どちらかが幻影。
どちらかが本物。
そう思わせる形。
「さぁ」
ミゼルの声が弾む。
「どっちが本物かなぁ!!」
シャノンの黄色い瞳が細くなる。
正面の二枚。
避けた先の二枚。
殺気。
匂い。
魔力。
水蒸気の揺れ。
刃の重さ。
見る。
見て、考える。
そして気づく。
違う。
これは、どっちが本物かじゃない。
どっちも本物だ。
避けても、当たる。
避けなくても、当たる。
どちらにも、神経毒が乗っている。
「避けても、避けなくても」
ミゼルが笑う。
「お前は惨めに動けなくなる!!」
その通りだった。
この二択に入った時点で、シャノンの体は止まる。
詰んでいる。
足の痺れが強い。
指先の感覚も薄い。
全力で飛べるのは、あと一回だけ。
なら。
シャノンは顔の前で両手を交差させた。
血が顎から落ちる。
「避けるために飛ばない」
正面のチャクラムが迫る。
シャノンの黄色い瞳が、ミゼルを捕まえた。
「あんたを倒すために飛ぶ!!」
「は?」
シャノンは、正面へ踏み込んだ。
二枚のチャクラムが迫る。
避けない。
体を捻り、刃の円に沿って肉を削らせる。
受けるのではない。
受け流す。
それでも毒は入る。
腹が裂ける。
肩が裂ける。
足が痺れる。
指が鈍る。
視界が揺れる。
だが、まだ一回だけ飛べる。
「タマちゃん……」
シャノンの腰の後ろで、魔力の尻尾が揺れた。
「力を貸して!!」
一本だった尻尾が、裂ける。
二股。
猫又の尾が、砂利の地面を叩いた。
ばづん、と鈍い音が鳴る。
直線だった跳躍が、折れた。
いや、曲がった。
二本の尻尾が地面を叩き、シャノンの体を押し上げる。
落ちるはずだった体が、もう一度浮いた。
軌道が、弧を描く。
その瞬間、シャノンの体が前へ回った。
前宙。
交差していた両腕に、回転の勢いが乗る。
「なんで……!?」
ミゼルの目が、初めて見開かれた。
避けると思っていた。
逃げると思っていた。
惨めに動けなくなると思っていた。
だが、シャノンは逃げなかった。
「全部うまくいくと思ったら、大間違いにゃ」
シャノンは血を吐きながら笑う。
「私は、思い通りにされるのが」
黄色い瞳が、ミゼルを捉えた。
「大っ嫌いなんだ!!」
交差した両手に、魔力の爪が灯る。
「爪術」
空中で、シャノンの体が回る。
ミゼルの胸元が開く。
「八切!!」
二本の魔力爪が、ハの字に開いた。
右上から左下へ。
左上から右下へ。
交差するようで、交差しない。
ミゼルの胸に、二つの爪痕が刻まれる。
水蒸気ではない。
幻影ではない。
本物の肉が裂ける音がした。
「……うそ」
ミゼルの口から、血がこぼれた。
チャクラムが、からん、と乾いた音を立てて落ちる。
ミゼルの体が、砂利の上に崩れた。
一拍。
沈黙。
そして黒牙側から、歓声が上がった。
「シャノン、勝ったな!!」
ハルトが思わず声を上げる。
「偉いぞ!」
シャノンは、立っていた。
腹から血を流し、肩を裂かれ、足元もふらついている。
それでも、立っていた。
「シャノン?」
セリカが目を細める。
シャノンは返事をしない。
黄色い瞳が、ゆっくりと外側を向いた。
口の端から、よだれが垂れる。
「しゃ、シャノン!?」
「ニャニャニャニャ……」
そのまま、シャノンの体が横へ倒れた。
ばたん。
黒牙側の歓声が、変な形で止まる。
審判役の構成員が、ミゼルを見る。
動かない。
次に、シャノンを見る。
動かない。
ただ、口元だけが小さく震えている。
「……両者、戦闘不能です」
ルーカスが瞬きをした。
「つまり……」
セリカが、深く息を吐く。
「相打ちですね」
ハルトは、倒れたシャノンを見下ろした。
シャノンは白目寸前の顔で、まだ小さく鳴いている。
「ニャ……ニャ……」
ハルトが呟く。
「いや…猫じゃねーか…」
誰も、否定できなかった。
あとがき
第二戦、シャノン対ミゼルでした。
今回は少し軽めの回……のつもりでしたが、シャノンも普通に命を張りました。
ミゼルは幻惑、殺気、フェイド、水蒸気、神経毒を混ぜて、相手をじわじわ追い詰めるタイプです。
一方シャノンは、知覚と本能で動くタイプ。
だからこそ、今回はラインハルトの教えだった「知覚で反射するな、予測しろ」が少しだけ形になりました。
最後は、避けても避けなくても動けなくなる二択。
そこでシャノンは、避けるためではなく、倒すために最後の一回を使いました。
あと「タマちゃん」は、いつかちゃんと触れる予定です。
結果は相打ち。
ニャニャニャニャっていってますが猫じゃないらしいです、誰も否定できませんでした。
次回、代表戦は続きます。




