第1話 命をかける理由
ラインハルト道場での修行が始まってから、ひと月が経った。
王都ルヴェリアは、すっかり冬になっていた。
吐く息は白く、屋根の端には薄い雪が残っている。朝の石畳はところどころ凍り、路地を抜ける風は、服の隙間から遠慮なく肌を刺してくる。
ルーカス・グランベルは、寒いのが苦手だった。
だから今日も、裏起毛の厚手の外套を肩までしっかり羽織り、首元の留め具をきっちり閉じていた。
それでも寒い。
そして、今日三回目の出動だった。
「……銀翼の人たち、元気ですね」
白い息を吐きながら、ルーカスはぽつりと言った。
隣を歩くシャノンが、鼻をひくつかせる。
「寒いのに、よく暴れるよね」
「本当ですね。家にいた方がいいと思います」
「家がないのかも」
「それは少し悲しいですね」
「でも襲ってくるから倒す」
「それはそうですね」
会話だけ聞けば、まるで迷子の野良犬でも探しているようだった。
だが、二人が向かっているのは、銀翼残党による襲撃現場だ。
黒牙第六席の管轄では、ここ最近、平和税の加入者を狙った事件が増えていた。
平和税。
ハルトが作った、第六席管轄の新しい仕組み。
黒牙刻印を刻んだ家や店は、第六席の保護対象になる。理不尽な取り立て、襲撃、脅し、嫌がらせ。そういうものから守る。その代わり、月ごとに金を払う。
乱暴に言えば、保護料だ。
けれど、ハルトはそれを平和税と呼んだ。
平和を売る。保護を売る。安心を売る。
なら、その平和が脅かされた時、動かないわけにはいかない。
平和税加入者が襲われる。
黒牙刻印が削られる。
白煙の管轄でも守られないという噂が広がる。
それだけで、金を払う者は減る。
銀翼残党は、そこを突いてきていた。
金を奪うだけではない。
第六席の信用を削っている。
だから、ルーカスとシャノンはこうして出動している。
現場研修。
セリカはそう言った。
ルーカスとしては、研修という言葉にしては、ずいぶん血生臭い気がしている。
「場所、こっちだよ」
シャノンが細い路地へ入る。
ルーカスも後に続いた。
その先に、小さな薬屋があった。
入口横の壁には、黒牙の刻印がある。
いや、あった。
半分ほど削られている。
さらにその横には、雑に描かれた銀色の羽根の印。
店の前には割れた壺と薬草の束が散らばっていた。床には店主らしき男が倒れている。血は出ているが、呼吸はある。
その奥。
銀翼の残党らしき男が、若い女の首に短剣を当てていた。
「近づくな!! こいつを殺すぞ!!」
ルーカスは、眉を下げた。
「殺すって、そんな……落ち着きましょうよ。ね?」
「てめぇ、白煙のとこのやつだろ! 近づくな!!」
「近づかないと止められないので……」
「来るなっつってんだろ!!」
男の腕に力が入る。
女が小さく悲鳴を漏らした。
ルーカスは、少しだけ息を吐いた。
白い息が、外套の襟元で揺れる。
「殺すとかさ、やめてくださいよ」
声の温度が、少しだけ下がった。
「弱いんだから」
「……あ?」
銀翼の男の顔が歪んだ。
「てめぇ、舐めてんのか?」
「……? 舐めてるんじゃなくて、事実なのになぁ」
ルーカスは本気で困っていた。
挑発したつもりはない。
ただ、分かりきったことを言っただけだ。
この距離で。
この人数で。
この程度の構えで。
自分を止められるはずがない。
「ぶっ殺すぞ!!」
「それもやめた方がいいです」
「ああ!?」
「できないことを言うと、後で悲しくなるので」
男の顔が真っ赤になった。
周囲の銀翼残党が、じりじりと距離を詰める。
シャノンは屋根の上に跳び上がっていた。逃走経路を見るためだ。たぶん。
たぶん、というのは、途中で干し肉の匂いに反応して一瞬だけ視線が逸れていたからだ。
「……はぁ」
ルーカスは、膝を沈めた。
「じゃあ、もう知りませんよ?」
「な、なんだ……?」
石畳が小さく鳴った。
次の瞬間、ルーカスは男の目の前にいた。
男が驚くより早く、ルーカスの手が短剣を持つ手首を取る。
刃の向きを外す。
女の首から離す。
肩を押さえる。
膝裏を払う。
男の体が、くるりと半回転した。
背中から石畳へ落ちる。
肺の空気が抜け、男は声も出せずに転がった。
ルーカスは、その手首を押さえたまま言う。
「動かないでください。たぶん、次はもっと痛いです」
「て、てめぇ……!」
「はい。痛い方ですね」
軽く力を入れる。
男が情けない声を上げた。
「ぎゃああああ!?」
「だから言ったのに」
その瞬間、横から別の男が飛びかかってきた。
ルーカスは振り返りもせず、片手で襟を掴む。
「うわ」
引いた。
それだけで、男の体勢が崩れた。
足が浮き、壁に背中からぶつかる。木箱が割れ、薬草の束が舞った。
「……あ」
ルーカスは少しだけ気まずそうにした。
「今のは、少し強かったかもしれません」
「少しじゃないと思う!」
屋根の上からシャノンの声が飛ぶ。
「すみません」
銀翼の残党が、さらに三人。
短剣、棒、錆びた片手斧。
ルーカスは小さく首を傾げる。
「あー、もう……わざわざ痛い思いしなくても」
「囲め! こいつ一人だ!」
「一人じゃないよ」
シャノンが屋根から落ちるように降ってきた。
いや、落ちてきたのではない。
落下の途中で壁を蹴り、身体を捻り、残党の一人の肩を踏み台にする。
そのまま首筋へ踵を落とした。
男が白目を剥いて倒れる。
「一応、私もいる」
「助かります」
「お腹すいた」
「今ですか?」
「今も」
シャノンは倒れた男の服を嗅ぎ、顔をしかめた。
「酒と油と古い血の匂い。嫌な匂い」
「そうですね」
ルーカスは残り二人を見た。
「降参しますか?」
「するわけねぇだろ!」
「そうですか」
ルーカスは歩いた。
走る必要もなかった。
男が棒を振る。
遅い。
手首を取る。
内側に入る。
肘を押す。
足を払う。
一人目が落ちる。
片手斧が横から来る。
ルーカスは半歩だけ下がった。
斧が外套の前を通り過ぎる。
「危ないですね。これ、裏起毛なんですよ」
男の顔面に掌底を入れる。
鼻血を噴いて、男が崩れた。
殺してはいない。
けれど、しばらく立てないだろう。
ルーカスは倒れた男たちを見下ろした。
「この人たちも、一応プロの盗賊なんだよなぁ……」
小さく呟く。
「こんなものなのかな」
返事はなかった。
倒れた店主が呻く。
人質にされていた女が、震えたまま床にへたり込んだ。
シャノンが近づき、女の腕を軽く嗅いでから言う。
「怪我、浅い。血は出てるけど死なない」
「よかった」
よかった。
そう思う。
けれど、胸の奥に残るものはあまり気持ちのいいものではなかった。
人質を取る。
殺すぞと叫ぶ。
弱い人を狙う。
保護の印を削る。
相手が嫌がることを選んでやる。
汚い。
汚い奴らばかりで、嫌になる。
盗賊とは、こういうものなのだろうか。
ルーカスの父と母は、冒険者だった。
遺跡探索やダンジョン攻略には、盗賊職の者を雇うことがある。罠を見つけ、鍵を開け、隠し通路を探す。斥候として先を見て、仲間を危険から守る。
ルーカスにとって、盗賊という言葉は、必ずしも悪人だけを指すものではなかった。
けれど。
今、目の前に転がっている者たちは違う。
銀翼の残党。
折れた翼の残りかす。
そのやり方は、あまりにも汚かった。
「ルーカス」
路地の入口から声がした。
ベルノだった。
黒い外套を羽織り、手には報告用の板と紙を持っている。現場の被害確認と記録のために来たのだろう。
「終わりましたか」
「はい。一応」
「一応?」
「殺してはいません」
「それは報告上、重要です」
ベルノは倒れている銀翼残党を見て、手早く状態を確認していく。
手首の脱臼。
肋骨数本。
鼻骨骨折。
気絶二名。
逃走者なし。
ベルノは淡々と記録した。
「相変わらず、制圧が速いですね」
「そうですか?」
「はい。かなり」
「でも、なんか……」
ルーカスは言葉を探した。
倒れた男たちを見る。
「嫌になりますね」
ベルノは、少しだけ目を上げた。
「銀翼が、ですか」
「はい。というか、盗賊が」
「なるほど」
ベルノは短く答え、また記録に戻った。
その反応があまりにも普通だったので、ルーカスは少しだけ首を傾げた。
「ベルノは、嫌にならないんですか?」
「何にですか」
「こういうのに」
ルーカスは路地を見た。
割れた壺。
怯える女。
呻く店主。
削られた黒牙刻印。
石畳に転がる銀翼残党。
「人質とか、脅しとか、殺すとか」
ベルノは少しだけ黙った。
「嫌にはなります」
「ですよね」
「ですが、嫌になることと、やるべきことは別です」
ベルノは紙に最後の一行を書いた。
「平和税は、ハルト様が売っている約束です。破られたなら、直さなければなりません」
「約束……」
「はい」
ベルノは顔を上げる。
「ヘキサレインの約束です」
ルーカスは、その言い方が少し気になった。
ヘキサレインの約束。
そんな言葉を、ベルノは真面目な顔で言う。
少し前まで、オルガンの管轄にいたはずなのに。
「ベルノは」
ルーカスは、気づいたら聞いていた。
「どうしてハルト様のところに来たんですか?」
「ハルト様の管轄に、という意味ですか」
「あ、はい。オルガン様のところから、どうしてこっちに来たのかなって」
ベルノは、今度こそ筆を止めた。
「最初は、オルガン様の命令でした」
「やっぱり」
「はい。正直に言えば、見限られたのだと思いました」
「見限られた?」
「私は、オルガン様の下で育ちました。オルガン様の役に立つことが、私の価値だと思っていましたから」
ベルノの声は静かだった。
「ですが、今は違います」
「違うんですか?」
「はい」
ベルノは削られた黒牙刻印を見る。
「今は、第六席陣営で、私自身の価値を作りたいと思っています」
「価値……」
「オルガン様の部下だった私ではなく。ハルト様の補佐見習いとして。セリカ様の下で働く者として。ベルノという一人の黒牙として」
そこまで言って、ベルノは少しだけ苦笑した。
「もちろん、出世もしたいです」
「出世」
「はい。私はまだ、何者にもなれていませんから」
何者にもなれていない。
その言葉は、少しだけルーカスの胸に残った。
「楽しいですか?」
「はい?」
「仕事。楽しいと思ったこと、ありますか?」
ベルノは考え込んだ。
長い沈黙だった。
ルーカスは、聞く相手を間違えたかもしれないと思った。
「仕事を楽しいと思ったことは、あまりありません」
「ないんですか」
「はい」
ベルノは真面目な顔で言った。
「ですが、成長は楽しいです」
「成長」
「苦しいですが」
ベルノは、倒れている銀翼残党を見下ろした。
「できなかったことが、できるようになる。怖かったものを、少しだけ直視できるようになる。昨日の自分より、今日の自分の方が少しだけ進んでいる」
それから、ルーカスを見る。
「それは、楽しいです」
ルーカスは返事ができなかった。
ベルノは本気だ。
苦しいと言いながら、楽しいと言う。
弱さを抱えたまま、それでも進むことを選んでいる。
ルーカスには、それが少し眩しかった。
◇
その後、捕縛した銀翼残党は下部組織へ引き渡された。
店主と女は治療へ回され、削られた黒牙刻印は後で刻み直すことになった。
帰り道、シャノンは干し肉をかじっていた。
「それ、どこから出したんですか?」
「懐」
「いつから?」
「ずっと」
「寒い中で干し肉って硬くないですか?」
「硬いけど、飯」
「飯なんですね」
シャノンは頷く。
ベルノとの会話が、ルーカスの中にまだ残っていた。
だから、今度はシャノンにも聞いてみることにした。
「シャノンは、なんで黒牙に来たんですか?」
「飯」
即答だった。
「もう少し詳しくお願いします」
「家族に飯を食わせるため」
「家族」
「うん。兄弟、多い。飯、すぐ消える。仕事、いる」
シャノンは干し肉を噛みながら言う。
「ここは給料がいい。住む場所もある。飯もある。昇進したら、もっと飯が増える」
「飯ばっかりですね」
「大事」
「それは、そうですね」
ルーカスは少し笑った。
「楽しいことはありますか?」
「ある」
「何ですか?」
「人を殴って褒められる。飯が食える」
「……それは楽しいんですか?」
「楽しい」
シャノンは真顔だった。
「前は、人を殴ったら怒られた。ここでは、悪いやつを殴ったら褒められる。しかも飯が食える」
「なるほど……?」
「いい職場」
その言い方があまりに素直で、ルーカスは少し困った。
「死ぬのは、怖くないんですか」
シャノンは干し肉を噛むのを止めた。
「怖い」
「ですよね」
「でも、家族が腹減る方が嫌」
その答えは、簡単だった。
簡単すぎて、重かった。
「死んでもいいんですか」
「死にたくはない」
シャノンは言った。
「でも、家族が飯食えるなら、死ぬ覚悟はある」
ルーカスは足を止めそうになった。
シャノンは平気な顔で歩いている。
干し肉をまた噛む。
いつも通り、腹を空かせている。
いつも通り、少し変で。
それなのに、当たり前みたいに命を賭けると言う。
「……なんで」
ルーカスは小さく呟いた。
「なんで皆、命をそんなに簡単に扱うんだろう」
「簡単じゃないよ」
シャノンは横目でルーカスを見た。
「でも、腹は減る」
その言葉に、ルーカスは何も返せなかった。
命は、大事なもののはずだ。
父も母も、そう教えてくれた。
強さは、守るためにある。
力は、誰かを助けるために使う。
ルーカスは、そういう世界で育ってきた。
けれど、ここでは違う。
ベルノは、自分の価値を作るために命を賭ける。
シャノンは、家族に飯を食わせるために命を賭ける。
ハルトは、何を賭けているのだろう。
いや。
自分は、何を賭けているのだろう。
親に働けと言われた。
街へ降りた。
最初に見た求人が、黒牙第六席補佐見習いだった。
だから来た。
仕事は嫌ではない。
むしろ、思っていたより楽しい。
セリカの指示は分かりやすい。
ベルノは真面目で、話すと勉強になる。
シャノンはよく分からないけれど、見ていて飽きない。
ハルトは怖いけれど、変なところで雑だ。
でも。
その程度の熱で、ここにいていいのだろうか。
黒牙で。
第六席の下で。
白煙の補佐見習いとして。
命を賭ける理由もないまま、ここに立っていていいのだろうか。
◇
館に戻る頃には、空が暗くなり始めていた。
冬の夕暮れは早い。
冷たい空気が、ルーカスの外套の隙間から入り込む。
寒い。
けれど、胸の奥のもやもやの方が気になった。
分からない。
ベルノのことも。
シャノンのことも。
銀翼のことも。
盗賊というものも。
そして、自分のことも。
このままなら、職場を変えた方がいいのかもしれない。
そう思った。
思ってしまった。
けれど、すぐに首を横に振る。
今、辞めるのは違う気がした。
理解できないから逃げる。
それは、何か違う。
少なくとも、自分はまだ何も見ていない。
銀翼の汚さにうんざりしただけだ。
ベルノの熱に圧倒されただけだ。
シャノンの覚悟に驚いただけだ。
分からない。
でも、分からないまま逃げるわけにはいかない。
そう思った時、ルーカスの足は自然とハルトの執務室へ向かっていた。
扉の前で、一度だけ息を吐く。
白い息は、もう出なかった。
屋内だからだ。
軽く扉を叩く。
「入れ」
中から、ハルトの声がした。
ルーカスは扉を開ける。
ハルトは机に向かっていた。
書類の山。
横に置かれた欠けた印章。
たぶん、また力加減を間違えたのだろう。
ハルトは顔を上げる。
「どうした、ルーカス」
ルーカスは少し迷った。
何から聞けばいいのか分からない。
黒牙とは何か。
盗賊とは何か。
命を賭けるとは何か。
信念とは何か。
どれも大きすぎる。
だから、一番変な質問から出た。
「ハルト様」
「なんだ」
「ここに入ってから、本気で楽しかったことって、ありますか?」
ハルトは、少しだけ目を細めた。
ルーカスは、その意味が分からなかった。
ただ、聞いてしまった以上、もう逃げられないと思った。
そこで、話は途切れた。
あとがき
第5章「銀翼と不殺の牙」開始です。
今回はルーカス視点からのスタートになります。
第4章では、ルーカス、シャノン、ベルノが第六席陣営に加わり、修行や日常寄りの話が中心でした。
第5章では、そこから一気に現場へ出ます。
黒牙第六席が売っているものは「平和」であり「保護」です。
だからこそ、それを脅かされると対応せざるを得ない。
今回は、銀翼残党がその弱点を突いてきます。
そしてルーカスは、そこで初めて「盗賊」というものの汚さを真正面から見ることになります。
ベルノにはベルノの覚悟があり、シャノンにはシャノンの理由がある。
では、ルーカスには何があるのか。
この章では、ルーカスが自分なりの答えを見つけていく予定です。
第5章もよろしくお願いします。




