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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
第四章 白煙と新しい牙

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第6話 ヤマザルのベルノ



 ヤマザルのベルノ。


 旧城下町のスラムでは、そう呼ばれていた。


 十四歳。


 背はまだ伸びきっていない。

 髪はぼさぼさ。

 服は汚れ、靴は片方だけ底が剥がれていた。

 口は悪く、頭も悪く、字も読めず、礼儀など知るはずもない。


 ただ、腕っ節だけは強かった。


 子供のくせに、大人を殴り倒す。

 石を握って、相手の歯を折る。

 奪う。

 逃げる。

 睨み返す。


 そうやって生きていた。


 旧城下町のスラムでは、弱いやつから順に食われる。

 腹が減れば盗む。

 殴られれば殴り返す。

 逃げられないなら噛みつく。


 正しいかどうかではない。


 そうしなければ、次の日まで残れない。


「おい、ヤマザル」


 汚れた路地の奥で、男が笑った。


「お前、またやったらしいな」


「何をだよ」


「下部組織の金に手ぇ出したって話だ」


 ベルノは鼻で笑った。


「落ちてたんだよ」


「落ちてるわけねぇだろ」


「じゃあ、俺の前に置いたやつが悪い」


 男たちが笑った。


 ベルノも笑った。


 その時は、本気でそう思っていた。


 旧城下町のスラムで、誰の金かなど関係ない。

 取れる場所にあった。

 取った。

 それだけだ。


 だが、相手が悪かった。


 その金は、黒牙(こくが)の下部組織のものだった。


 翌日。


 ベルノは捕まった。


 最初は、いつもの喧嘩と同じだと思った。


 相手は大人だった。

 黒牙の構成員だった。

 だが、大人を倒したことは何度もある。


 だから、いつも通り殴りかかった。


 次の瞬間、地面に叩きつけられていた。


「……っが」


 息が詰まる。


 何が起きたのか分からない。


 起き上がろうとした瞬間、腹を蹴られた。

 背中を踏まれた。

 腕を捻られた。


 痛い。


 それより、動けない。


 動けないことが、怖かった。


「ガキが。黒牙の金に手を出した意味、分かってんのか」


「知らねぇよ……!」


 口だけは動いた。


 だが、体は動かない。


 ベルノは初めて、抵抗できない負けを知った。


 ただ殴られたのではない。

 ただ転ばされたのではない。

 何をしても通じない。

 歯を食いしばっても、噛みつこうとしても、指一本まともに動かせない。


 ヤマザルのベルノが、大人に潰された。


 そのまま、ベルノは粛清場へ連れていかれた。


   ◇


 粛清場は、寒かった。


 石の床。

 鉄の匂い。

 古い血の跡。


 周囲には黒牙の構成員と、金を奪われた下部組織の者たちがいた。


 誰もベルノを助けようとはしない。


 当然だ。


 ベルノも、誰かを助けたことなどなかった。


 膝をつかされる。


 手は縛られている。


 顔は腫れていた。

 唇は切れ、口の中は血の味がした。

 片目は半分しか開かない。


 目の前に刃が見えた。


 粛清役の男が、低い声で名を呼ぶ。


「ベルノ」


 ベルノは顔を上げられなかった。


「黒牙下部組織の預かり金に手を出した罪。横領、および組織財産の窃盗」


 周囲の下部組織の男たちが、にやにやと笑っていた。


「掟により、これよりベルノを粛清する」


 死ぬ。


 その言葉が、初めて体の中へ落ちてきた。


 腹の奥が冷えた。


 喉が乾く。

 呼吸が浅くなる。

 歯が鳴る。


 強がろうとした。


 睨み返そうとした。


 だが、できなかった。


 ベルノは、もうひとつの敗北を知った。


 次がない敗北。


 喧嘩に負けたなら、次に勝てばいい。

 逃げられたなら、次に奪えばいい。

 殴られたなら、いつか殴り返せばいい。


 だが、ここで負けたら次はない。


 死ぬ。


 腰が抜けた。


 脚の間が、熱くなった。


 小便を漏らしていた。


 一瞬の静寂。


 そのあと、笑い声が爆ぜた。


「ヤマザルが漏らしたぞ!」


「さっきまで吠えてたのにな!」


「聞いたか? 横領犯様が小便漏らしてらぁ!」


「黒牙の金に手ぇ出すからだ!」


 下部組織の連中が腹を抱えて笑った。


 ベルノは何も言えなかった。


 悔しかった。


 死ぬほど悔しかった。


 だが、それ以上に怖かった。


 粛清場では、泣けなかった。


 怖すぎた。


 刃が見えていた。

 死がそこにあった。

 喉は張りつき、息は浅く、頭の中は真っ白だった。


 腰が抜けた。

 小便も漏らした。


 だが、涙は出なかった。


 泣くということすら、できなかった。


 その時だった。


「そのガキ、ワシが買う」


 低い声がした。


 場の空気が変わる。


 ベルノは顔を上げた。


 そこに立っていたのは、茶色の髭を整えた男だった。


 片眼鏡。

 上等な服。

 小柄ではないが、武闘派の大男というわけでもない。


 それでも、周囲の黒牙構成員たちが一斉に姿勢を正した。


「オルガン様……」


 誰かがそう呼んだ。


 オルガン。


 黒牙幹部。


 ベルノでも、その名くらいは聞いたことがあった。


 頭脳派の幹部。

 金と守りと計算の男。

 弱いやつを拾う慈善家ではない。


 その男が、ベルノを見ていた。


「そのガキは、黒牙の金に手を出したんです」


 構成員の一人が言う。


「知っておる」


「掟に従えば、粛清です」


「それも知っておる」


「では」


「だから買うと言っておる」


 オルガンは懐から小さな帳面を取り出した。


「失われた金はいくらじゃ」


 下部組織の男が金額を答える。


 オルガンは頷いた。


「賠償を含めて三倍払う」


「三倍……?」


「不満か」


「い、いえ」


「迷惑料も乗せる。今回の件で動いた者たちの手間賃も払う。場を立てたことへの詫びも払う」


 オルガンは淡々と言った。


 そして、その場で現金を出した。


 即決だった。


 誰かに後で払わせるのではない。

 組織の金でもない。


 私財。


 その場で。

 現金で。


 黒牙の掟を止める。


 それがどれだけ重いことか、ベルノにはまだ分からなかった。


 だが、周囲の者たちの顔を見れば、異常なことだけは分かった。


 オルガンは払った。


 下部組織の者たちが黙るほどに。

 構成員たちが何も言えなくなるほどに。


 そして、ベルノの縄を解かせた。


「連れていく」


 その一言で、ベルノは粛清場から引き出された。


   ◇


 粛清場を離れ、旧城下町の路地へ出た。


 足はまだ震えていた。

 顔は腫れ、唇は切れ、服には汚れと小便の臭いが染みついている。


 背中の向こうでは、まだ笑い声が聞こえていた。


「ヤマザルが買われたぞ」

「小便くせぇガキに、いくら払ったんだよ」

「オルガン様も物好きだな」


 ベルノは何も言い返せなかった。


 言い返したかった。


 だが、喉の奥が詰まって、声が出なかった。


 歩くたびに、膝が震えた。

 口の中は血の味がした。


 それなのに、死ななかった。


 死ななかった。


 そう思った瞬間、何かが切れた。


 涙が出た。


 ベルノは、自分が泣いた記憶などほとんどなかった。


 親がボロ雑巾みたいになって死んだ時も、泣かなかった。

 腹と背中がくっつきそうなほど飢えた時も、泣かなかった。

 寒くて眠れず、朝まで歯を鳴らしていた時も、泣かなかった。


 泣いたところで、誰も助けてくれない。


 そう知っていたからだ。


 なのに、涙が止まらなかった。


 ぼろぼろと落ちる。

 拭っても、拭っても、止まらない。


「……くそ」


 ベルノは袖で乱暴に目をこすった。


「くそ、くそ……なんだよ、これ……」


 オルガンは前を歩いていた。


 笑わなかった。

 振り返って、馬鹿にもしなかった。


 ただ、少しだけ歩く速度を落とした。


「怖かったか」


 オルガンが言った。


 ベルノは噛みつくように睨んだ。


「怖くねぇよ」


「そうか」


「怖くなんか、ねぇ」


「なら、なぜ泣いとる」


「知らねぇよ!」


 声が裏返った。


 悔しかった。

 怖かった。

 惨めだった。

 死にたくなかった。


 その全部が、ぐちゃぐちゃになって喉から出た。


 オルガンは、やはり笑わなかった。


「泣けるなら、生きとる証拠じゃ」


「……」


「死んだ者は泣けん」


 ベルノは何も言えなかった。


 しばらく歩いて、ようやく息が戻ってきた。


 涙はまだ止まっていなかった。

 だが、悔しさも戻ってきた。


「……何してんだよ、ジジイ」


 ベルノは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま言った。


「俺みてぇなやつに、あんな大金……馬鹿じゃねーか」


 オルガンは前を向いたまま答えた。


「馬鹿じゃないわい。バカはお前じゃ」


「……知ってるよ」


 それだけは、分かっていた。


 自分が馬鹿なことくらい。


 黒牙の金に手を出して、捕まって、漏らして、買われた。


 馬鹿以外の何者でもない。


 オルガンは、そこで初めて少しだけ振り返った。


「じゃがな、ベルノ」


 片眼鏡の奥の目が、ベルノをまっすぐ見ていた。


「バカと無価値は違うぞ」


 ベルノは、また何も言えなくなった。


   ◇


 やがて、二人は古い建物の前で足を止めた。


 牙狼院(がろういん)


 表向きは、旧城下町や外縁区の孤児を保護する施設。

 飯、寝床、最低限の読み書きを与える場所。


 だが、黒牙の者なら知っている。


 そこは、オルガンが運営する人材育成の場所でもあった。


 普通の孤児もいる。


 そして、黒牙の牙として育てられる子供たちもいる。


 扉を開けると、十代の少年少女たちがこちらを見た。


 痩せた者もいる。

 傷のある者もいる。

 服がまだ馴染んでいない者もいる。


 けれど、全員がどこか鋭い。


 ベルノは、顔をボコボコに腫らしていた。

 鼻血も乾いている。

 唇も切れている。

 服は汚れ、小便の臭いも残っている。


 粛清場では、それを見て下部組織の連中が笑った。


 だが、牙狼院では誰も笑わなかった。


 誰も、ベルノの腫れた顔を笑わない。

 汚れた服を笑わない。

 漏らしたことを笑わない。


 ただ、一人が水を持ってきた。

 一人が布を持ってきた。

 一人が椅子を引いた。


 それが、余計に悔しかった。


 笑われる方が、まだ噛みつけた。

 優しくされると、何をすればいいのか分からなかった。


「ここでは、誰もお前を笑わん」


 オルガンはそう言った。


「ただし、甘やかしもせん」


「……何だよ、それ」


「家族というのは、そういうものじゃ」


「家族……?」


「そうじゃ」


 オルガンは、牙狼院の子供たちを見た。


「お前も今日から家族じゃ。こいつらと同じな」


 ベルノは、少年少女たちを見た。


 その中に、一人の少年がいた。


 整った顔。

 薄い笑み。

 こちらを見ているようで、見ていない目。


 グレイス。


 その時は、まだベルノはその名を知らなかった。


 だが、妙に覚えている。


 あの時のグレイスは、すでに何かを捨てる前の顔をしていた。


「ここにいる者は、みな何も持たなかった者たちじゃ」


 オルガンが言った。


「いや、持てなかった者たちと言うべきか」


 ベルノは、少年少女たちを見た。


 誰も笑わない。


 誰も馬鹿にしない。


 それが、逆に居心地が悪かった。


「ワシが与えてやれるのはチャンスだけじゃ」


 オルガンは続けた。


「自分の価値は、自分で作れ」


「俺に……価値なんて」


「ある」


 オルガンは即答した。


「ワシは人を見抜くのが得意でな」


 片眼鏡の奥の目が、ベルノから逸れない。


「ベルノ。お前は必ず輝く」


 その言葉は、牙狼院の静かな空気の中で、妙に熱かった。


「誰よりもな」


   ◇


 それから、ベルノは変わろうとした。


 最初は、何もできなかった。


 字が読めない。

 数字が分からない。

 礼儀を知らない。

 言葉遣いも荒い。

 食事の作法も知らない。

 帳簿など、紙に並んだ虫にしか見えない。


 何度も怒られた。


 何度も笑われた。


 それでも、オルガンの言葉だけは消えなかった。


 必ず輝く。

 誰よりも。


 だから、ベルノは勉強した。


 字を覚えた。

 数字を覚えた。

 礼儀を覚えた。

 帳簿を覚えた。

 報告書の書き方を覚えた。

 黒牙の掟を覚えた。

 下部組織の金の流れを覚えた。


 剣も振った。


 朝から晩まで、振った。


 腕が上がらなくなっても振った。

 手の皮が剥けても振った。

 血が滲んでも振った。


 口の悪さを殺した。

 背筋を伸ばした。

 服を整えた。

 眼鏡をかけた。


 ヤマザルのベルノは、少しずつ消えていった。


 黒髪を整え、眼鏡をかけ、丁寧な言葉を使うベルノになっていった。


 だが、オルガンの周りには、いつも才能があった。


 数字を見るだけで、帳簿の不自然さに気づく少年がいた。


 防衛魔法を覚えたばかりで、倉庫ひとつを丸ごと囲える少女がいた。


 一度会話しただけで相手の欲しい物を見抜き、金を引き出す男がいた。


 そして、グレイスがいた。


 それでも、ベルノには一つだけ自信があった。


 腕っ節だ。


 字は読めない。

 数字も弱い。

 礼儀も知らない。

 だが、喧嘩なら負けない。


 旧城下町のスラムで、大人を殴り倒してきた。

 ヤマザルと呼ばれたのは、伊達ではない。


 だから、戦闘訓練の日。


 ベルノは、どこかで思っていた。


 これなら勝てる。


 ここなら、自分が一番になれる。


 相手はグレイスだった。


 整った顔で、薄く笑う少年。

 腕も脚も、ベルノより細い。

 どう見ても、殴り合いに向いた体ではない。


 勝てる。


 そう思った。


 次の瞬間、ベルノは地面に伏せていた。


 何をされたのか、分からなかった。


 腕を取られた。

 足を払われた。

 喉元に木剣の先が触れていた。


 ただ、それだけは分かった。


 殺されている。


 もしこれが本物の刃なら、自分はもう死んでいる。


 グレイスは、息ひとつ乱していなかった。


「力任せですね」


 薄い笑みのまま、グレイスは言った。


「でも、それだけです」


 その言葉で、ベルノの中の最後の何かが折れた。


 腕っ節なら。


 喧嘩なら。


 それだけは、自分のものだと思っていた。


 だが、それすら一番ではなかった。


 グレイスは貪欲だった。


 野望変容アンビション・リライト


 そのユニークスキルで、グレイスは自分の顔さえ変えた。


 上へ行くために。

 過去を捨てるために。

 年齢すら曖昧にし、舐められない姿を作るために。


 その貪欲さは、ただの野心では終わらなかった。


 グレイスは金を作った。

 人を動かした。

 帳簿の穴を塞ぎ、無駄な流れを切り、オルガンの下に確かな利益をもたらした。


 ベルノと同じ頃に拾われたはずなのに、グレイスだけは最初から見ている場所が違った。


 ベルノも努力した。


 成績が悪かったわけではない。

 実務もできるようになった。

 剣も強くなった。

 報告も、礼儀も、帳簿も、誰より真面目にこなした。


 だが、一番ではなかった。


 何一つ、一番になれなかった。


 学校ではない。


 社会では、二番では意味がないことがある。


 一番の者が流れを作る。

 一番の者が席を取る。

 一番の者が上に行く。


 ベルノはいつも、少しだけ届かなかった。


   ◇


 グレイスがハルトに倒された日。


 黒牙の一部では、喝采が上がった。


 裏切り者。

 組織の掟を破った者。

 黒煙のレヴィンを殺した事件に関わった者。


 倒されて当然。


 そう言う者もいた。


 ベルノも、それは分かっていた。


 グレイスは道を外れた。

 掟を破った。

 オルガンの信頼も、組織の秩序も、踏みにじった。


 それでも。


 皆が喝采する中で、ベルノだけは泣いた。


 悲しかったからではない。


 羨ましかった。


 そこまで組織とオルガンを敬愛できたことが。


 そこまで命を懸けられたことが。


 顔も、過去も、立場も、すべてを捨ててまで、自分の野望に走れたことが。


 羨ましかった。


 ベルノは、道を外れることすらできなかった。


 正しい場所で、正しい努力をして、正しい言葉を使い、正しい姿勢で立ち続けた。


 だが、そこから踏み外すほどの熱はなかった。


 そのことが、たまらなく悔しかった。


 グレイスの死から、そう時間は経たなかった。


 ベルノはオルガンに呼ばれた。


 いつもの執務室。


 机の上には帳簿と書類。

 片眼鏡の奥の目は、いつも通りだった。


「ベルノ」


「はい」


「ハルトの元へ行け」


 その言葉を聞いた瞬間、ベルノの胸の奥で何かが落ちた。


 見限られた。


 一瞬、そう思った。


 もう、オルガン様の側にはいられないのか。

 自分には、そこに立つ価値がなかったのか。

 誰よりも輝くと言ってくれたあの言葉は、もう失われたのか。


 だが、オルガンは軽く髭を撫でながら言った。


「あいつの鼻を明かしてやりたいからの」


 ベルノは顔を上げた。


「鼻を、ですか」


「そうじゃ。あやつ、ワシが推薦した者を甘く見ておる節がある」


 オルガンは少しだけ笑った。


「一番優秀な部下を送ってやりたいんじゃ」


 その言葉は、嬉しいはずだった。


 一番優秀な部下。


 オルガンが、そう言った。


 なら、誇るべきだった。


 胸を張るべきだった。


 ベルノは深く頭を下げた。


「お任せ下さい」


 礼儀正しく。

 いつも通り。

 声を整えて。


 だが、その声は震えていたかもしれない。


 悔しかった。


 悔しい。

 悔しい。

 悔しい。


 オルガン様の側を離れることが。

 自分が一番になれなかったことが。

 それでも「一番優秀」と言われて嬉しくなってしまったことが。


 悔しかった。


 それなのに。


 心のどこかで、ほんの少しだけ安堵している自分がいた。


 もう、誰とも競争しなくていい。


 一番にならなくていい。


 オルガン様の側で、自分より輝く誰かを見続けなくていい。


 その安堵が、何よりも悔しかった。


   ◇


 道場の床が、視界に戻る。


 雪の匂い。

 木刀の重み。

 ラインハルトの静かな視線。


 ベルノは、自分がほんの一瞬、過去へ沈んでいたことに気づいた。


 目の前には、第五席ラインハルトが立っている。


「思い出したか」


 ラインハルトが言った。


 ベルノは答えられなかった。


 ラインハルトは静かに続ける。


「貴様の弱点は心だ」


 その言葉は、先ほどよりも深く響いた。


「貴様は正しい。よく学び、よく鍛え、よく仕えている」


「……」


「だが、正しさに隠れている。未知を恐れている。崩されることを恐れている。積み上げた努力が通じないと知ることを恐れている」


 ベルノは木刀を握りしめた。


「私は……」


 言葉が出ない。


 ラインハルトは責めているわけではなかった。


 ただ、見抜いている。


 剣を交えただけで。


 ベルノが十年かけて見ないようにしていたものを。


「恐怖に打ち勝て、ベルノ」


 ラインハルトは言った。


「命を捨てる覚悟と、恐怖に勝つことは違う」


「……」


「本当に強い敵は、正しく来ない。騙す。外す。誘う。気をてらう。貴様の正しさを踏み台にしてくる」


 ベルノは、グレイスを思い出した。


 そして、ハルトを思い出した。


 あの白煙も、正しくなど来ない。


 生き残るために、勝つために、必要ならどんな形でも踏み込む。


 自分の剣は、そこへ届くのか。


「では、私はどうすれば」


 ベルノは、ようやく声を出した。


 ラインハルトは即答した。


「剣を振れ」


「……剣を」


「そうだ。ただひたすらに剣を振れ。正しい型を持ったまま、正しくないものに踏み込め」


 ラインハルトの目は、まっすぐだった。


「弱さから逃げるな。抱えたまま強くなれ」


 ベルノは息を呑んだ。


「自分を信用できるその時までな」


 ラインハルトは、静かに続けた。


「心が伴った時、貴様は名刀になる」


 名刀。


 その言葉が、胸に残った。


 誰よりも輝く。


 昔、オルガンがくれた言葉と、どこかで重なった。


 ベルノは深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 その声は、震えていなかった。

あとがき


第4章「白煙と新しい牙」第6話でした。


今回はベルノの過去回です。


礼儀正しく、実務もできて、剣も堅実。


そんなベルノですが、元々は旧城下町のスラムで「ヤマザル」と呼ばれていた少年でした。


オルガンに命を買われ、牙狼院で居場所を得て、努力で今の自分を作った男です。


ただ、努力しても届かないものがある。


才能、覚悟、野望、そして自分にはない熱。


グレイスへの感情も、単純な憎しみではなく、羨望に近いものでした。


そしてラインハルトからの言葉。


弱さから逃げるな。抱えたまま強くなれ。


ベルノがここからどう変わっていくのか。


白煙三牙の一人として、彼の成長も見守ってもらえると嬉しいです。


次回もよろしくお願いします。

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