第4話 広がる悪名
王都ルヴェリアに、冬が来た。
朝の石畳は薄く白く染まり、屋根の端には雪が残る。
吐く息は煙のように白く、路地を吹く風は肌を刺した。
その冬と、ほとんど同じ頃。
王都の裏通りに、一つの名が広がり始めた。
白煙のハルト。
凍らせ、砕き、粉にする少年。
黒煙のレヴィンの後に現れた、白い煙の第六席。
人々は噂した。
冬が来たから白煙が生まれたのか。
白煙が現れたから、冬が深くなったのか。
もちろん、そんなはずはない。
ただの季節だ。
だが、噂は事実よりも早く凍る。
【悪名が拡散しています】
【白煙】
【冬を連れてきた者】
【白煙の選別】
【ステータスを更新しました】
「……またかよ」
朝から、これで何度目だ。
一つ一つの補正は、ほんのわずかだ。
体が急に作り替わるほどではない。
だが、問題は数だった。
白煙の噂。
平和税の噂。
雪と白煙を結びつけた、馬鹿みたいな噂。
それに、補佐見習い試験の話まで妙な方向へ広がっているらしい。
詳細は知らない。
知りたくもない。
だが、俺の右目の奥で、堕落の王は小さく脈打ち続けていた。
【悪名が拡散しています】
【ステータスを更新しました】
【悪名が拡散しています】
【ステータスを更新しました】
「うるせぇ……」
俺は机の上の書類に目を落とした。
平和税の申請書。
黒牙刻印の管理表。
外縁区の見回り報告。
三人の補佐見習いが入ってから、第六席の仕事は思ったより回り始めていた。
理由は簡単だ。
ベルノがいる。
ルーカスの小学生みたいな報告書を、ベルノが実務用に直す。
シャノンの「臭い」「怪しい」「なんかいる」みたいな報告を、ベルノが使える情報に変える。
セリカの負担も、ほんの少しだけ軽くなったように見える。
ルーカスは相変わらず何を考えているのか分からないが、観察と雑務は意外とできる。
シャノンは書類を任せると危険だが、外回りではかなり役に立つ。
ベルノは、普通に有能だ。
問題は、俺の方だった。
「ハルト様。こちらに確認印をお願いします」
セリカが書類を差し出す。
「ああ」
俺は机の上の印を取った。
黒牙刻印の確認に使う、小さな印だ。
力を入れる必要なんてない。
いつも通り、軽く押せばいい。
そのはずだった。
ぱき。
「……あ」
乾いた音がした。
手元を見る。
印の持ち手が、俺の指の中で割れていた。
セリカが静かに目を細める。
「ハルト様」
「違う」
「まだ何も言っていません」
「わざとじゃねぇ」
「それは三つ目です」
「……三つ目か」
「はい。三つ目です」
俺は割れた印を見下ろした。
力を入れたつもりはない。
だが、壊れた。
悪名補正が、日に日に強くなっている。
一つ一つは微増でも、積み重なれば体が変わる。
動きが速くなる。
握る力が強くなる。
反応が鋭くなる。
戦いなら、たぶん良いことだ。
だが、日常では厄介すぎる。
「このままじゃ、やばいな……」
俺は割れた印を机に置いた。
セリカは少しだけ考え、それから言った。
「誰かに相談した方がいいかもしれません」
「誰に」
「力の扱いに詳しい方です」
力の扱い。
魔法ではなく、体の使い方。
俺の頭に、何人かの幹部の顔が浮かぶ。
その中で、まず思い浮かんだのは、燃えるような赤い髪の女だった。
「……イグニスのところに行くか」
◇
イグニスの屋敷は、外と空気が違った。
王都の路地には雪がちらついている。
吐く息も白い。
だが、イグニスの屋敷へ入った瞬間、肌に触れる空気が変わった。
暖かい。
暖炉を焚いているというより、屋敷そのものがほんのり熱を持っているような感じだった。
火の魔法の影響なのか。
イグニス自身の体質なのか。
詳しいことは分からない。
ただ、外の冷気で固まった指先が、すぐにほどけていく。
「……暑くね?」
俺が呟くと、奥から笑い声が聞こえた。
「冬なんだから、暖かい方がいいでしょ」
イグニスの声だった。
案内された先には、大きな鉄板が置かれていた。
その上で、分厚いステーキが焼けている。
肉の脂が跳ね、香ばしい匂いが広がっていた。
周りにはイグニスの構成員たちが何人か座っていて、普通に肉を食っている。
雰囲気は思ったより明るい。
黒牙幹部の屋敷というより、肉好きの集まりだ。
焼いているのは、イグニス本人だった。
赤い髪を後ろへ流し、鉄板の前に立ち、肉をひっくり返している。
「食べる?」
イグニスが聞いてきた。
「相談に来たんだけど」
「食べながらでいいでしょ」
「また肉かよ」
「肉はいいよ。裏切らない」
「偏ってんな」
「好きなもん食えばいいんだよ」
イグニスはそう言って、焼けた肉を皿に乗せた。
言っていることは雑なのに、焼き加減は妙に丁寧だった。
俺は皿を受け取る。
構成員たちは少し緊張したようにこちらを見たが、イグニスが気にする様子もないため、すぐに肉へ戻った。
仲が良さそうだ。
少なくとも、俺のところよりは飯の空気が柔らかい。
「で、白煙。聞いたよ」
イグニスが肉を切り分けながら、楽しそうに笑った。
「……何を聞いた」
「補佐見習い試験」
「ろくでもない話だろ」
「降りられない応募者を、笑いながら崖から蹴り落としたんだって?」
「助けたんだよ」
「風で弄びながら?」
「空緩衝で受け止めたんだよ」
「それから、百人まとめて恐怖で倒したとか」
「百人じゃねぇ。最後に残ったやつらに軽く試しただけだ」
「軽く、ね」
イグニスは楽しそうだった。
完全に面白がっている。
「君、自分が思ってるよりだいぶ怖いよ」
「だから相談に来たんだよ」
「その前に、オルガン怒ったでしょ」
「怒鳴り込んできた」
「だろうね。黒牙を求人屋にされたら、あの爺さん怒るよ」
「俺だって好きで求人屋になったわけじゃねぇよ」
「でも、結果は面白いじゃないか」
イグニスは肉を口に運ぶ。
「三人採ったんだって?」
「ああ」
「オルガンの推薦は?」
「ベルノは採った。三席で」
「三席?」
イグニスが少し眉を上げる。
「オルガン、また怒ったでしょ」
「かなり不服そうだった」
◇
採用結果を報告した時、オルガンは分かりやすく固まった。
「ベルノはどうじゃった」
「採用しましたよ」
「当然じゃな」
「三席で」
「……なんじゃと?」
オルガンの片眼鏡が、わずかにずれた。
「ベルノが、三席……?」
「三番手採用です」
「一番は誰じゃ」
「ルーカス・グランベルです」
「グランベル……?」
オルガンの顔が変わった。
「まさか、風刃のアーヴィンと雷刃のエレナの息子か!?」
「誰ですか?」
「お前は本当に何も知らんのう!」
オルガンが額を押さえた。
セリカも少しだけ考えるように目を細める。
「グランベル……名前は聞いたことがあります」
「知ってるのか?」
「英雄祭で名を聞いた程度です。私は冒険者には詳しくありませんので」
「ルヴェリアの風神雷神じゃぞ」
オルガンが言った。
「アーヴィン・グランベルとエレナ・グランベル。冒険者なら知らぬ者はおらん。前年にはドラゴンを討ち、英雄祭の主賓になった英雄夫婦じゃ」
「そんなに有名なのか」
「王都で知らん方がおかしいわい。第一線は半分退いておるが、今でも国の仕事を受けることがある。剣技、魔法、スキル、頭脳。どれも隙がない二人じゃ」
「そんなやつらの息子が、なんでうちに来たんだよ」
俺がルーカスを見ると、ルーカスはいつも通りぼーっとしていた。
「母に、働きなさいって言われました」
それだけだった。
あとから聞いた話では、流れはこうらしい。
◇
貴族街にある、グランベル家の大きな屋敷。
そこで、ルーカスは大学を卒業してから二ヶ月ほど、特に何もせず過ごしていたらしい。
父、アーヴィン・グランベルが聞いた。
「夢とかないのか? ルカ」
ルーカスは答えた。
「やりたいことない」
母、エレナ・グランベルが言った。
「なんでもいいから始めることが大切!」
ルーカスは頷いた。
「わかった」
そして、履歴書を持って外へ出た。
貴族街から王都の街へ降りる。
最初に目に入った求人広告。
黒牙第六席補佐見習い募集。
そのまま当日に応募した。
◇
「進路の決め方が雑すぎるわい!」
オルガンが叫んだ。
俺もそう思う。
「二番は誰じゃ」
「シャノンです」
「何者じゃ」
「ユニークスキル持ちですね。猫みたいな」
「ユニーク持ち!?」
オルガンの声が跳ねた。
「公募でか!?」
「はい」
「なぜそんな者が公募で来る!?」
「一般職で雇ってもらえなかったらしいです。猫っぽくて」
「王都の人事は何を見ておるんじゃ……!」
「猫耳?」
「そこではないわ!」
オルガンは不服そうだった。
だが、首席がグランベルの息子。
二席がユニークスキル持ち。
その二人の後なら、ベルノが三席になった理由も理解はできるらしい。
「……納得はせん」
「でしょうね」
「だが、理解はできる」
「それで十分です」
「公募を認めたわけではないからな」
「はいはい」
「返事が軽い!」
◇
その話をすると、イグニスは愉快そうに笑った。
「公募でグランベルの息子とユニーク持ちを拾ったなら、オルガンも黙るしかないね」
「黙ってはなかったけどな」
「だろうね」
イグニスは新しい肉を鉄板に置いた。
脂が跳ねる。
赤い髪の横で、火が小さく揺れた。
「で、本題は?」
イグニスの声が、少しだけ落ち着いた。
俺は肉を一口食べてから、口を開いた。
「悪名が広がると、勝手に身体能力が上がるスキルがある」
イグニスは、驚いた様子を見せなかった。
ただ、肉を焼きながら聞いている。
「最近、噂が増えすぎてる。白煙だの、冬を連れてきただの、補佐試験だの。ひとつひとつは微増なんだけど、数が多い」
「それで?」
「力加減がズレてきてる」
俺は割れた印の感触を思い出した。
「ハンコを砕いた」
「ハンコ?」
「書類に使う印だよ」
「ああ」
イグニスは少し考えてから言った。
「勝手に強くなるなら、いいことじゃない?」
「扱えなきゃ意味がない」
「まあ、それはそうだね」
「今はハンコで済んでる。でもこのままだと、人を壊しかねない」
イグニスの笑みが、少しだけ薄くなった。
鉄板の上で、肉が焼ける音だけがした。
「扱えない力は、強さじゃないよ。暴走だ」
その声は、さっきまでよりずっと真面目だった。
「だろ」
「なら、あたしよりラインハルトだね」
「ラインハルトか……」
俺は牙宴で見た第五席を思い出した。
長い銀髪を後ろで束ねている。
三十歳くらい。
静かで、真面目で、隙がない。
武人。
そんな言葉がよく似合う男だった。
正直、結構苦手なタイプな気がする。
「第五席。魔法をほとんど使わず、剣と身体だけであそこまで登った男だよ」
「道場って言ってたな」
「うん。あいつの道場、誰もいないから大丈夫」
「それは大丈夫なのか?」
「喜ぶと思うよ?」
イグニスはステーキをひっくり返した。
「あいつ、教える相手がいると結構嬉しそうにするから」
「人、来ないのか?」
「来ないねぇ」
「なんで」
「怖いから」
「黒牙の連中が怖がるって相当だな」
「道場に入ると、まず姿勢を直されるらしいよ」
「そこからかよ」
「次に呼吸を直される」
「戦闘指南じゃねぇのか?」
「本人の中では戦闘指南なんだよ」
想像して、少し嫌になった。
「ラインハルトって、どうやって幹部になったんだ?」
俺が聞くと、イグニスは肉を切りながら少し笑った。
「最初は、ただの因縁だったらしいよ」
「因縁?」
「ゴロツキに絡まれて、倒した。そしたら、その上が来た。次を倒したら、さらに上が来た」
「……」
「そうやって一人ずつ倒してたら、最後には黒牙の幹部級が出てきた」
「幹部を倒したのか?」
「相手は手加減できるような強さじゃなかった。だから斬った」
「それ、普通なら粛清されるだろ」
「でも筋はラインハルトにあった。あいつは、そこだけは折れなかった」
「それで?」
「団長が言ったんだって」
「なんて?」
「面白れぇ、って」
あの団長なら言いそうだった。
「その前任の幹部は、粛清担当の力で幹部になった男だったらしいよ。ラインハルトはそいつを斬って、幹部に入った。ただし末席から」
「そこから第五席まで?」
「強さだけで上がった」
「……怖すぎるだろ」
「怖いよ。だから道場に人が来ない」
イグニスはあっさり言った。
でも、その言葉には少しだけ信頼があった。
「あいつは魔法なしで、あそこまで登った男だ。身体の使い方、力の通し方なら、黒牙で一番詳しい」
「力の通し方?」
「気功術」
聞き慣れない言葉だった。
「魔力を外に出すんじゃなくて、内側に巡らせる技術。魔法で外から強くするんじゃなくて、体の中に流れを作る」
「内側の流れ……」
「君みたいに、勝手に強くなる体には必要だと思うよ」
俺は、自分の手を見る。
割れた印。
強くなりすぎる指。
日に日にズレていく力加減。
今の俺に必要なのは、ただ強くなることじゃない。
強さを扱うことだ。
「……あの三人も連れていくか」
「補佐見習い?」
「ああ。力も見たいし、ラインハルトの道場ならちょうどいいだろ」
ルーカスの身体能力。
シャノンの現場性能。
ベルノの基礎能力と恐怖耐性の課題。
三人を見るにも、悪くない。
「いいんじゃない?」
イグニスは焼けた肉を皿に乗せた。
「たぶん、ラインハルトも喜ぶよ」
「怖い喜び方じゃないことを祈るよ」
◇
イグニスの屋敷を出ると、雪はさっきより少し強くなっていた。
外の空気は冷たい。
さっきまで鉄板と肉の熱の中にいたせいで、余計にそう感じた。
吐いた息が白く煙る。
白い路地。
白い雪。
白煙の噂。
勝手に強くなるこの体を、このまま放っておくわけにはいかない。
魔法ではなく、内側の流れ。
気功術。
俺は第五席ラインハルトの道場へ向かうことになった。
もちろん、補佐見習い三人も一緒に。
……正直、嫌な予感しかしなかった。
あとがき
第4章「白煙と新しい牙」第4話でした。
今回は、白煙の噂と悪名補正、そしてラインハルトへの導入回です。
冬と同時に広がり始めた白煙の噂によって、ハルトの悪名はさらに拡大中です。
ひとつひとつの補正は小さくても、積み重なれば無視できないものになっていく。
戦闘では強みになる一方で、日常ではハンコを砕くほど力加減がズレ始めています。
そこで相談に向かったのが、イグニスです。
肉を焼きながら相談に乗ってくれるあたり、彼女らしい気もします。
そして次回からは、第五席ラインハルトと気功術。
魔法ではなく、内側の流れ。
勝手に強くなる身体を、ハルトがどう扱えるようになるのか。
補佐見習い三人も一緒に、いよいよ道場編です。
よろしくお願いします。




