第1話 補佐役を増やせ
ゼギルと握手した。
世界の真実。
真実の石版。
国と聖教と騎士団が隠しているもの。
そんな言葉を聞かされた夜から、数日。
特に、何かが変わったわけではなかった。
ゼギルから新しい命令が下ることもない。
真実の石版を探しに行けと言われることもない。
ノアや副団長に呼び出されることもない。
あの夜、世界の裏側に指先だけ触れたような気がした。
けれど朝になれば、机の上には書類が積まれていた。
この忙しさを除けば、日常は戻ってきていた。
黒牙第六席としての、どうしようもなく面倒くさい日常が。
「ハルト様。こちらが昨日分の平和税加入申請です」
セリカが紙束を置いた。
どさり、という音がした。
俺はそれを見下ろした。
「……昨日分?」
「はい」
「三日分じゃなくて?」
「昨日分です」
「ふざけてる?」
「事実です」
セリカはいつものように淡々としていた。
黒髪を後ろでまとめ、背筋を伸ばし、涼しい顔で立っている。
ただし、目元だけは少し疲れていた。
セリカは十七歳だ。
俺と同い年のはずなのに、最近は完全に事務方の亡霊みたいになっている。
「多すぎるだろ」
「白煙の噂が広がりましたので」
「俺のせいか?」
「直接的には、はい」
「いや、俺が好きで白煙になったわけじゃねぇだろ」
「ですが、グレイスを粛清し、王都中に『白煙のハルトに逆らうと凍らされて粉になる』という噂が広まったのは事実です」
「だいぶ雑な噂だな」
「街の噂とはそういうものです」
否定しきれないのが嫌だった。
実際、グレイスもニオも最後は致命の氷穿で砕いた。
街の連中が細かい技名や事情を知っているはずもない。
結果だけ見れば、白煙に逆らったやつが粉になった。
それだけだ。
「で、その噂のせいで加入者が増えたと」
「はい。特に小規模商人と一般家庭が急増しています。今までは様子見だった者たちが、白煙の名を聞いて一気に動きました」
「怖がってるだけじゃねぇか」
「最初はそれで構いません」
セリカは別の書類を開いた。
「ただし、加入者が増えれば確認作業も増えます。黒牙刻印の付与、支払い記録、保護対象の場所、家族構成、周辺の危険度。全て管理が必要です」
「家族構成まで見るのか?」
「当然です。保護対象を把握していなければ、いざという時に守れません」
正論だった。
嫌になるくらい正論だった。
俺は椅子にもたれた。
かつて灰鼠で荷車を押していた頃は、書類仕事なんて想像もしなかった。
盗賊なんて奪って終わりだと思っていた。
けれど第六席になると違う。
奪うだけではシマは回らない。
誰が金を払っているのか。
どの店を守るのか。
どの路地に残党が潜んでいるのか。
どの下部組織が勝手に薬を流そうとしているのか。
知らなければ、支配できない。
支配できなければ、奪われる。
「ハルト様。こちらは昨日の苦情です」
「苦情?」
「平和税の中コース、牙印加入者からです。隣の店が小コース、黒印にもかかわらず、同じ路地の見回りを受けているのは不公平ではないか、と」
「めんどくさ……」
「こちらは黒印加入者からです。牙印の店が、黒印の者を見下していると」
「小学校かよ」
「学校ではありません。治安です」
セリカはさらに紙を出した。
「こちらは大コース、王牙印希望者です。金貸しですね。優先保護を受けたい代わりに、隣の商人に圧をかけてもらえないかと」
「却下」
「そう言うと思いました」
「そんなもん受けたら平和税じゃなくて脅迫代行だろ」
「黒牙がそれを言うのも不思議ですが」
「うるせぇ」
俺は額を押さえた。
やることが多すぎる。
薬を潰した。
平和税を広げた。
黒牙刻印を使って管理し始めた。
銀翼のシマも受け継いだ。
レヴィンのシマも見なければならない。
その上、白煙の噂で加入者が増えた。
良いことではある。
収益は安定し始めている。
薬よりも継続性がある。
何より、街が少しずつ落ち着いてきている。
だが、回す人間がいない。
「セリカ」
「はい」
「これ、終わるのか?」
「終わらせます」
「いつ」
「ハルト様が余計なことをしなければ、三日後には」
「余計なことってなんだよ」
「薬を潰し、平和税を広げ、白煙と呼ばれ、レヴィン事件を掘り返し、グレイスを粛清し、ニオを粛清したことです」
「ほとんど必要なことだっただろ」
「必要なことと、仕事が増えないことは別です」
セリカの声は冷静だった。
冷静すぎて怖かった。
俺は黙って、机の上を見た。
書類。
帳簿。
申請。
苦情。
報告。
確認。
どれも無視できない。
できないが、俺とセリカだけで回す量でもない。
「……補佐、足りねぇな」
セリカのペンが止まった。
「ようやくお気づきになりましたか」
「その言い方やめろ」
「失礼しました。三日前にはお気づきいただきたかったです」
「悪化してんじゃねぇか」
セリカは小さく息を吐いた。
「エイベル様の頃は、エイベル様自身がかなりの実務を処理していました。私も補佐をしていましたが、あの方は元々、管理も教育も得意でしたので」
「俺は得意じゃねぇぞ」
「存じています」
「即答すんな」
「ですから、補佐を増やす必要があります」
そう言われて、俺は少し黙った。
補佐を増やす。
それは、前にもオルガンに言われたことだった。
グレイスの件が片付いた後、オルガンは俺に礼を言いに来た。
その時、平和税と黒牙刻印の話にもなった。
最後に、あの髭もじゃの爺さんは低い声で言った。
『補佐役を増やせ』
その時は、まあそうだな、くらいに思っていた。
だが今なら分かる。
これは忠告ではなく、警告だった。
このままだとセリカが潰れる。
俺も書類に潰される。
そして第六席のシマが回らなくなる。
「増やすか」
「はい」
「じゃあ、募集かけるか」
「……募集?」
セリカの眉がわずかに動いた。
「補佐見習い。使えるやつを集める」
「ハルト様」
「なんだよ」
「ここは黒牙です」
「知ってる」
「盗賊組織です」
「だから人手がいるんだろ」
「人員を公募する盗賊組織など聞いたことがありません」
「じゃあ最初になれるな」
「ならなくていいです」
セリカの声が冷たくなった。
俺は腕を組んだ。
「でも、こっちから声かけるって言っても、誰が使えるか分かんねぇだろ」
「下部組織や既存の構成員から推薦を受けるのが一般的です」
「推薦って、そいつらの都合が入るだろ。自分の手駒を入れたいとか」
「それはあります」
「なら公募でいい。来たやつを試せばいい」
「危険人物や間者が紛れ込みます」
「それも試せばいい」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないなら、お前が決めてくれ」
「……」
セリカは黙った。
その沈黙で分かった。
セリカにも、もう余裕がない。
誰かを選んで育てる手間すら、今のセリカには重い。
「見習いでいい。いきなり補佐じゃなくて、補佐見習い」
「……見習いですか」
「お前の下につける。使えなかったら切る」
「私の仕事を減らすために、私の仕事を増やすのですね」
「そう言われると何も言えねぇな」
「言わないでください」
セリカはこめかみを押さえた。
「ですが、必要なのは事実です」
「だろ?」
「ただし、募集文はこちらで確認します。ハルト様が書くと危険です」
「俺をなんだと思ってんだよ」
「『飯あり、寝床あり、裏切ったら死ぬ』と書きそうな方です」
「……書いちゃ駄目なのか?」
「駄目です」
こうして、黒牙第六席の補佐見習い募集が決まった。
俺としては、わりと真面目な判断だった。
人手が足りない。
だから募集する。
試して選ぶ。
それだけの話だった。
だが、黒牙は会社ではない。
それを俺は、翌朝思い知ることになった。
◇
「ハルトォォォォ!!」
朝から館の扉が怒鳴り声で震えた。
その声だけで、誰が来たか分かった。
「……早くねぇか?」
「早いですね」
セリカが顔を上げた。
俺が返事をする前に、扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、茶色い髭を蓄えた爺さん。
第七席、鉄壁のオルガン・メイザー。
片眼鏡の奥の目が、完全に怒っていた。
手には、しわくちゃになった一枚の紙。
黒牙第六席補佐見習い募集。
昨日出したばかりの紙だった。
「これはなんじゃ!!」
「チラシです」
「見れば分かるわい!!」
オルガンは紙を机に叩きつけた。
紙が跳ねた。
セリカが静かに目を伏せた。
「黒牙が、誰でも入れる組織だと思われたらどうするんじゃ!!」
「いや、だから厳選しますって。面接もするし」
「なにが面接じゃ!! そんなもので何が分かる!!」
「人柄とか」
「人柄で黒牙が務まるか!!」
「じゃあどうするんですか?」
俺が聞くと、オルガンは髭を揺らした。
「自分の目で見て、実績を考慮し、素性を洗い、こちらから声を掛ける。そうして初めて、黒牙は黒牙たる格を保つのじゃ!」
「いや、無理だって」
「何が無理じゃ!」
「俺、目を見て『こいつは違うな』とか分かんないですよ」
「それはお前が甘ったれておるからじゃ!!」
怒鳴られた。
朝から元気だな、この爺さん。
「だいたい、お前は何を考えておる! 補佐を増やせとは言った。だが、公募しろとは言っておらん!」
「人を増やせって言われたから、増やす方法を考えたんですよ」
「その結果がこれか!」
「はい」
「堂々とするな!」
オルガンは机に置かれた募集文をつかんだ。
「業務内容。平和税管理補助、黒牙刻印確認、帳簿整理、外縁区巡回補助、来客対応、その他第六席の命じる業務」
「セリカが直しました」
「待遇。能力に応じる。食事、寝床あり」
「それもセリカです」
「注意。裏切り、横領、情報漏洩は粛清対象」
「そこは俺も賛成しました」
「そこだけ黒牙らしくするな!」
セリカが小さく咳払いをした。
「オルガン様。私も公募には反対でした」
「なら止めんか!」
「止めました」
「止まらなかったか」
「はい」
オルガンが俺を見た。
俺は視線を逸らした。
「ハルト。お前は自分の立場を理解しておるのか」
「第六席ですよね」
「そうじゃ。王牙幹部の一人じゃ。お前の下に入るということは、黒牙の一角に触れるということじゃ。そこへ誰でも応募できる形を取れば、どうなる」
「変なのが来る」
「分かっておるではないか!」
「でも、変なのの中に使えるやつもいるかもしれない」
オルガンの眉が跳ねた。
「……お前は本気で言っておるのか」
「はい」
俺は頷いた。
「俺は灰鼠でした」
オルガンが黙った。
「灰鼠だった俺を、団長は拾った。エイベルも教えてくれた。セリカも支えてくれてる。だったら、下から拾うのも無しじゃないと思います」
「……」
「もちろん、誰でも入れるつもりはないです。試します。落とすやつは落とす。怪しいやつは潰す。でも、最初から推薦だけにしたら、見逃すやつもいるかもしれない」
オルガンはしばらく俺を見ていた。
それから、低く唸った。
「理屈は通っておる」
「じゃあ」
「だが、やり方が馬鹿じゃ」
「なんでだよ」
「黒牙第六席の補佐見習いを、街角の求人のように貼り出すなと言っておる!」
それは、まあ、そうかもしれない。
だが貼ってしまったものは仕方ない。
「じゃあ、こうしましょう」
「なんじゃ」
「オルガンさんの一押しも面接に入れればいい」
オルガンの片眼鏡が光った。
「……何?」
「俺が公募で集めたやつと、オルガンさんが選んだやつ。どっちが使えるか見ればいいでしょ」
セリカがこちらを見た。
その目は、やめろと言っていた。
だがもう遅い。
俺は言った。
「どっちが合ってたか、分かりますよ」
オルガンの髭が、怒りでわずかに揺れた。
「いいだろう」
低い声だった。
「黒牙の掟というものを、その甘い頭に叩き込んでやるわい」
「上等です」
「ハルト様」
セリカが静かに言った。
「なぜ火に油を注ぐのですか」
「寒かったから?」
「燃やしますよ」
「怖い」
オルガンは立ち上がった。
「わしの推薦する者を一人送る。名はベルノ。実務、礼儀、黒牙の掟、帳簿、識別管理。全てに通じておる」
「めちゃくちゃ優秀そうじゃないですか」
「優秀じゃ」
「じゃあ採用で」
「まだじゃ! お前の言う面接とやらに入れてやると言っておる!」
「面倒くさ……」
「聞こえておるぞ」
オルガンは募集紙を握り潰した。
「だが忘れるな、ハルト。人を抱えるということは、弱点を抱えるということでもある。補佐を増やせば、お前は楽になる。だが同時に、裏切りも、失敗も、責任も増える」
その声だけは、怒鳴り声ではなかった。
「分かってます」
「本当に分かっておるならよいがな」
オルガンは背を向けた。
扉の前で一度だけ振り返る。
「それと、面接の前に数を減らせ。全員の相手などしておれん。身体、観察、実務。最低限の適性を見ろ」
「それは最初から考えてました」
「ならばよい」
オルガンは鼻を鳴らした。
「妙なものを拾うなよ」
「それは保証できないですね」
「保証しろ!」
怒鳴って、オルガンは出て行った。
扉が閉まる。
しばらく沈黙が落ちた。
セリカが紙束を整えながら言った。
「ハルト様」
「はい」
「面接官は私もやります」
「助かる」
「ただし、二度と独断で求人を貼らないでください」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
セリカの声が、朝の空気より冷たかった。
◇
その後、募集は正式に試験形式へ変更された。
一次試験は身体能力。
走れるか。
登れるか。
最低限、自分の身を守れるか。
二次試験は観察と報告。
見たものを覚えられるか。
大事なことを拾えるか。
それを人に伝えられるか。
三次試験は実務。
帳簿。
平和税の分類。
黒牙刻印の管理。
簡単な計算と報告書。
そこまでで人数を絞り、最後に面接を行う。
そう決まった。
問題は、応募者の数だった。
俺は、多くても二十人くらいだと思っていた。
黒牙第六席の補佐見習い。
危険も多い。
裏切れば粛清。
そもそも盗賊組織だ。
普通の人間なら避ける。
そう思っていた。
だが、俺は一つ忘れていた。
今の俺は、街ではただの第六席ではない。
金剛を砕いた灰鼠上がり。
粛清人を殺して生き残った粛清返し。
黒煙のレヴィンの後を継ぐように現れた白煙。
その噂は、俺が思っていたよりもずっと大きく広がっていた。
翌日。
館の外が、朝からやけに騒がしかった。
「……なんだ?」
俺が窓から外を見ると、人の列ができていた。
下部組織の若い連中。
腕自慢らしい大男。
真面目そうな商家の息子。
妙に目つきの悪いゴロツキ。
白煙に憧れているのか、こちらを見て目を輝かせる少年。
どう見ても飯目当てのやつ。
そして、明らかに何かを企んでいる顔のやつ。
それから、どう見ても仕事目当てではない若い女たちもいた。
「白煙様、ほんとに若い……」
「思ったより顔いい……」
「目つき悪いの、逆にいい……」
「凍らされるって本当かな」
「少しだけなら……」
俺は少しだけ黙った。
悪い気はしなかった。
この世界に来てから、向けられる視線といえば、疑い、恐怖、敵意、殺意ばかりだった。
顔がいい。
そんな平和な評価をされたのは、いつ以来だろうか。
「ハルト様」
セリカの声が、いつもより低かった。
「はい」
「今、少し嬉しそうでしたね」
「嬉しそうじゃねぇ」
「口元が緩んでいました」
「気のせいだ」
「では、気のせいということにしておきます」
セリカは手元の書類に、不採用の印を押した。
どん、とやけに強く。
「……まだ何も見てないだろ」
「志望動機が不純です」
「聞いてないだろ」
「聞こえました」
「遠くないか?」
「聞こえました」
どん。
また一枚、不採用の印が押された。
「セリカ」
「はい」
「印、壊れるぞ」
「備品ですので問題ありません」
機嫌が悪い。
いつにも増して。
その時、扉が叩かれた。
「入れ」
入ってきたのは、第六席の館に詰めている黒牙の構成員だった。
男は、なぜか少し顔を引きつらせている。
「ハルト様」
「どうした」
「応募者の数ですが」
「何人来た?」
男は一拍置いた。
「門の外まで列が伸びています。すでに百人を超えました」
俺は、静かに窓を閉めた。
「帰っていいか?」
「駄目です」
即答したのはセリカだった。
第六席の日常は、まだ戻ってきたばかりだった。
だがどうやら、もう壊れ始めているらしい。




