第10話 夕日の粛清
ハルトが目を覚ましたのは、グレイスを粛清してから二日後だった。
最初に見えたのは、白い天井。
次に、薬草の匂い。
最後に、呆れた顔の男。
魔法治療師、クロード・ヴェインだった。
「目が覚めましたか」
「……ああ」
ハルトは体を起こそうとした。
だが、腹の奥が痛む。
足も重い。
体の節々が、錆びた歯車みたいに軋んだ。
「起きないでください」
クロードの声は穏やかだった。
だが、穏やかなまま逃がしてくれない圧があった。
「あなたは毒を受けた状態で戦い、さらに魔力を使い切る寸前まで身体を酷使しました。普通なら寝ているだけでも褒められる状態です」
「寝てただろ」
「二日では足りません」
「二日も寝たのか」
「二日しか、です」
クロードは淡々と言った。
「金剛を砕こうが、白煙と呼ばれようが、怪我人は怪我人です。そこに例外はありません」
ハルトは顔をしかめた。
「……白煙?」
「ご存じないのですか」
「知らない」
「では、後で聞くといいでしょう」
クロードは包帯を替えながら、ため息をついた。
「本当に、あなたは毎回毎回……」
「説教か?」
「治療師としての当然の説明です」
「長いやつだ」
「長くなります」
ハルトは面倒くさそうに目を逸らした。
だが、嫌いではなかった。
金剛砕きになっても。
第六席になっても。
白煙と呼ばれても。
クロードは、同じ顔で怒る。
怪我人を怪我人として扱う。
それが少しだけ、息をしやすかった。
「クロード」
「何ですか」
「ありがとう」
クロードは一瞬だけ目を止めた。
それから、いつもの穏やかな顔に戻る。
「礼を言う暇があるなら、次は怪我を減らしてください」
「それは無理だな」
「でしょうね」
クロードは小さく息を吐いた。
「分かっていて言っています」
部屋の扉が開いた。
入ってきたのはセリカだった。
黒髪をハーフアップにまとめ、手には書類の束を抱えている。
寝ていた二日の間も、相当忙しかったのだろう。
目元に少し疲れが見えた。
「ハルト様。お目覚めになりましたか」
「ああ。悪い、寝てた」
「寝ていてください。仕事は山のようにありますが、今すぐ起きていただく方が迷惑です」
「言い方」
「事実です」
セリカは容赦がない。
ハルトは苦笑した。
「それで、白煙って何だ」
セリカは少しだけ表情を変えた。
「ご存じなかったのですね」
「今クロードに聞いた」
「団長が命名されました」
「団長が?」
「はい。グレイス粛清後、処刑場で」
セリカは静かに言った。
「白煙。今日から、それがあいつの二つ名だ、と」
ハルトは黙った。
白煙。
黒煙のレヴィン。
白煙のハルト。
その繋がりに気づかないほど、鈍くはない。
「……重いな」
「はい」
セリカは頷いた。
「ですが、誰も異論を挟みませんでした」
「怖くて?」
「それもあります」
「あるのかよ」
「ですが、それだけではありません」
セリカは書類を机に置いた。
「ハルト様は、白煙の名に相応しい実力を示しました。黒煙のレヴィン様の後を継ぐ者として、誰も文句を言えないほどに」
ハルトは、少しだけ息を吐いた。
実感はない。
あるのは、体の痛みだけだった。
だが、世界はもう動き始めている。
名前が変わる。
噂が変わる。
人の目が変わる。
そして、堕落の王も。
右目の奥が、ずきりと疼いた。
黒い文字が浮かぶ。
【悪名が更新されました】
【金剛砕き】
【白煙】
【レヴィンの後継】
【粛清を請け負う者】
【ステータスを大幅に更新しました】
ハルトは目を細めた。
奥に、続けて文字が浮かぶ。
【スティール レベル2】
【隠形 レベル2】
【致命の一撃 レベル2】
【空纏衝】
【空圧弾】
【空緩衝】
【窮鼠猫噛】
【深淵鼓動】
【氷煙陣】
【氷冷爆発】
【氷結斬】
【致命の氷穿】
増えている。
明らかに、増えていた。
エイベルに教わった風の技。
金剛戦で目覚めた氷。
ヨルド戦とグレイス戦で形になった白煙。
それらが、スキルとして並んでいる。
ハルトは内心で苦笑した。
便利になった。
だが、その分だけ、自分が人から外れていくような気もした。
「ハルト様?」
「いや。ステータスが更新されてた」
「またですか」
「まただな」
「便利ですね」
「便利すぎて怖い」
「ハルト様が怖いのは、今さらです」
「おい」
セリカは少しだけ笑った。
それから、机の書類を広げる。
「変わったのは、二つ名だけではありません」
「まだあるのか」
「平和税の申請が急増しています」
ハルトは眉を寄せた。
「そんな急に?」
「白煙の名が広まった影響です」
セリカは紙を指で押さえる。
「シマ内の商人、酒場、金貸し、小規模な裏稼業。これまでは様子見だった者たちが、一斉に申請してきています」
「白煙効果か」
「それだけではありません。レヴィン様と似た二つ名であることも大きいです」
黒煙のレヴィン。
白煙のハルト。
レヴィンを慕っていた者たちにとっては、その繋がりが安心材料になる。
同時に、グレイスを砕いた恐怖もある。
信頼と恐怖。
どちらも、平和税を押し広げていた。
「他のシマからも問い合わせが来ています」
「他のシマ?」
「はい。うちにも黒牙刻印を入れられないか、と」
「ややこしいな」
「とても」
セリカは真顔で言った。
「とても、ややこしいです」
「ごめん」
「謝るくらいなら早く回復してください」
「はい」
ハルトが素直に返すと、セリカは少しだけ満足そうに頷いた。
その日の夕方、オルガンが訪れた。
茶色い髭。
片眼鏡。
相変わらず、歩く帳簿みたいな重さがある男だった。
「寝ているところをすまんな」
「起きてます」
「起きているだけだろう」
「みんな同じこと言うな」
「それだけ事実ということだ」
オルガンは椅子に座った。
セリカが茶を出す。
オルガンは湯気の立つ茶を一口飲み、静かに言った。
「平和税の件、本格的に進める」
「魔力識別の管理ですか」
「ああ。黒牙刻印を単なる印にするな。識別魔法と結びつけ、対象と範囲を管理する。適当に増やせば崩れる」
「セリカも忙しそうでした」
「当然だ。よい仕組みほど、始める時が一番荒れる」
オルガンはセリカを見る。
「補佐を増やせ。今の人数では回らん」
「手配します」
セリカは即答した。
オルガンは頷き、それからハルトへ視線を戻した。
「本題は別だ」
「グレイスの件ですか」
「ああ」
オルガンの声が、少し沈んだ。
「世話になった」
ハルトは少し驚いた。
オルガンが、頭を下げるわけではない。
だが、その言葉には重みがあった。
「グレイスは、他国から流れてきた戦争孤児だった」
「戦争孤児……」
「まだ幼かった。だが、目が良かった」
オルガンは茶を見つめる。
「生き残る目だ。飢えて、汚れて、それでも諦めていない目だった」
「拾ったんですか」
「拾った」
オルガンは短く答える。
「そういう者は、何人かいる。黒牙は綺麗な場所ではないが、行き場のない者に役目を与えることはできる」
合理だけの男ではない。
ハルトはそう思った。
オルガンは頑固で、道理を重んじる。
だが、冷たいだけではなかった。
「グレイスは優秀だった」
「はい」
「私は、あのユニークスキルも知っていた。野望変容。己の野望に合わせて、自分を作り替える力」
オルガンは目を閉じた。
「実年齢は、二十五ほどだった」
「……え?」
ハルトは思わず声を漏らした。
グレイスはもっと上に見えた。
三十代半ば。
落ち着いた実務屋。
そういう姿だった。
「若すぎる補佐は舐められる。だから、あやつは自分の見た目を変えた」
「自分で?」
「ああ。十年前からな」
オルガンは静かに続ける。
「ヨルドやニオと接触する時も、顔を変えていたのだろう。レヴィン邸前でゴロツキを雇った時も同じだ。目撃証言で足がつかないわけだ」
「疑ってたんですか」
「疑ってはいた」
オルガンは苦い顔をした。
「だが、疑わないようにしていたのかもしれん」
部屋が静かになる。
「私のために、黒牙のために、自分の顔すら変えた男だ。そこまでの忠誠心に、私は目を背けたのかもしれん」
オルガンは茶を置いた。
「だが、それでも」
「はい」
「やったことは、許されん」
ハルトは頷いた。
グレイスは黒牙を愛していた。
でも、レヴィンを殺し、カイルを使い、ニオを使い、ハルトを粛清場へ送った。
愛していたから正しい、とはならない。
「ハルト」
「はい」
「ありがとう」
オルガンは、もう一度言った。
今度は、はっきりと。
「私の補佐を、私の手で裁けなかった。お前に背負わせた」
「俺が請け負ったんです」
「そうか」
オルガンは少しだけ目を細めた。
「ならば、その分、平和税の管理は私が背負おう」
「助かります」
「助かるどころではない。お前たちだけでは破綻する」
「言い方」
「事実だ」
ハルトは笑った。
オルガンも、ほんの少しだけ口元を動かした。
数日が過ぎた。
ハルトの体は、まだ万全ではない。
だが、起き上がれる程度には戻っていた。
平和税の申請は増え続け、セリカは連日走り回っている。
ハルトは机に向かいながらも、書類の半分以上をセリカに助けられていた。
その日の昼過ぎ。
ゼギルから呼び出しが来た。
場所は、黒牙の処刑場。
嫌な場所だった。
だが、行かない理由はない。
処刑場には、ゼギルがいた。
副団長ヴァイス。
ナザル。
数人の構成員。
それから、下部組織の者たちも何人か連れてこられている。
見せしめ。
そういう空気だった。
中央には、カイルがいた。
顔色は悪い。
手足は縛られ、口元は震えている。
ナザルは、少し離れた場所に立っていた。
いつもの軽さはない。
眠そうな顔でもない。
ただ、静かにカイルを見ていた。
「吐いた」
ゼギルが言った。
「概ね、お前らの想像通りだ。裏口を開け、痕跡を消し、ニオを入れた。グレイスの指示でな」
ハルトはカイルを見る。
カイルは目を逸らした。
「グレイスは死んだ。だが、関わったやつを放っておくわけにはいかねぇ」
ゼギルの声は低い。
「カイル」
名前を呼ばれた瞬間、カイルの体が震えた。
「お前は黒牙の金に触れ、黒牙の鍵に触れ、黒牙の信頼に触れていた」
ゼギルは、ゆっくりと手を上げる。
「その手で、レヴィンの扉を開けた」
「だ、団長……」
カイルの声が掠れる。
「お、俺は、命令されただけで……グレイスに……」
「そうか」
ゼギルは短く答えた。
「だから何だ」
その瞬間、カイルの立っていた場所だけ、空間が剥ぎ取られた。
闇が広がったのではない。
床も、空気も、音も。
そこにあったはずの世界が、薄皮を剥がされるように消える。
残ったのは、黒い穴ではなかった。
虚空。
世界の裏側にあるはずのない深淵が、そこだけ露出していた。
外にいる者には、中の様子など見えない。
カイルが叫んでいるのか。
泣いているのか。
許しを乞うているのか。
何も分からない。
ただ、粛清が行われている。
それだけは分かった。
連れてこられた下部組織の者たちは、誰も声を出せなかった。
こうはなりたくない。
その感情だけが、喉の奥に凍りついている。
カイルは、何も感じなかった。
上も下もない。
前も後ろもない。
自分が立っているのか、倒れているのか。
そもそも、自分がまだそこにいるのかさえ分からない。
音がない。
光がない。
痛みもない。
なのに、怖い。
理由がない。
理由がないからこそ、逃げ場がない。
その闇の中に、何かが現れた。
牛の頭骨のようなものを被った影。
人ではない。
獣でもない。
ただ、それを見た瞬間、カイルは理解した。
見てはいけないものだ。
触れてはいけないものだ。
呼ばれてはいけないものだ。
カイルは叫んだ。
だが、自分の声すら聞こえなかった。
その時、ゼギルの声だけが届いた。
「深淵魔法」
低く、冷たい声。
「第四禍 怠惰の悪魔」
カイルは、恐怖した。
あれが悪魔だと知ったからではない。
知る前から、体の奥はとっくに壊れていた。
ただ、名前を与えられたことで、恐怖の輪郭だけがはっきりした。
もう助からない。
それだけが分かった。
次の瞬間、深淵が引いた。
剥ぎ取られていた世界が戻る。
そこにカイルはいなかった。
残っていたのは、拳ほどの肉塊。
そして、石床に飛び散った血だけだった。
肉塊は、何度か脈打った。
一度。
二度。
三度。
そして、止まった。
誰も動かなかった。
構成員たちも。
下部組織の者たちも。
カイルを知っていた者たちも。
全員が、理解していた。
これが黒牙の団長。
これが、深淵。
これが、裏切り者の末路。
ナザルが、静かに膝をついた。
泣いてはいなかった。
叫びもしなかった。
ただ、膝をついたまま、止まった肉塊を見ていた。
カイルは裏切った。
レヴィンを殺した事件に関わった。
それでも、ナザルの下で働いていた男だった。
港の金を動かし、鍵を閉め、眠れない夜を少しだけ軽くしていた部下だった。
怒りもある。
責任もある。
喪失もある。
けれど、そのどれもが声にはならなかった。
恐怖は声にならない。
声になる前に、心の奥へ沈んでいった。
ゼギルの支配が、さらに深く根を張った。
ゼギルは、肉塊から視線を外した。
「ハルト」
「はい」
「ニオの粛清は、お前に任せる」
ハルトは小さく息を吸った。
その言葉が来ることは、分かっていた。
「二人で話す時間をください」
「ああ」
「立会人は、団長とセリカだけで」
「いいだろう」
「場所は、夕日が見える崖がいいです」
ゼギルの目が、少しだけ動いた。
「灰鼠の頃に、ニオと行った場所か」
「はい」
「分かった」
ゼギルは短く頷いた。
「そこで終わらせろ」
夕方。
東の海へ沈む太陽が、空を赤く染めていた。
この世界では、太陽は東へ沈む。
最初にそれを知った時、ハルトは本当に別の世界へ来たのだと思った。
そして、その夕日をニオと見た。
ひどい世界だと思っていた。
でも、知らないものがまだ多すぎると思った。
あの時の風を、まだ覚えている。
潮の匂い。
遠くに見える街。
海へ沈む赤い光。
ニオは、その崖に立っていた。
手には短いナイフ。
だが、握る手は震えている。
少し離れた場所に、ゼギルとセリカがいる。
声は聞こえない距離だ。
けれど、見届けるには十分な距離。
ハルトはニオの前へ歩いた。
「久しぶり、って言うのも変だな」
ニオが笑った。
笑おうとした。
でも、上手く笑えていない。
「そうだな」
ハルトは答えた。
風が吹く。
赤い髪が揺れる。
灰鼠だった頃、何度も見た横顔だった。
「全部、話せ」
ハルトは言った。
ニオは頷いた。
「グレイスって名前は、聞いてなかった」
「偽名か」
「うん。顔も違ったと思う。今思えば、全部違ったんだと思う」
ニオはナイフを見つめる。
「指輪を盗めば、外へ出られるって言われた。金も、札も、逃げ道も用意するって」
「俺は?」
「ハルトも助けるって言われた」
ニオの声が震えた。
「二人で逃げられるって。だから、一度だけ渡せって。ハルトが持ってれば、殺されることはないって」
「それで俺に渡したのか」
「うん」
ニオは唇を噛んだ。
「でも、本当はどこかで分かってた。そんな都合よくいくわけないって。ハルトが巻き込まれるって。分かってたのに、見ないふりした」
ハルトは黙って聞いていた。
「粛清場で、ハルトが殴られて、切られて、殺されかけて……」
ニオの目から、涙が落ちた。
「俺、自分のせいだって分かってた。でも、見られなかった。現実を見たくなかった」
声が崩れる。
「だから、渡してないって言った。俺のせいじゃないって思いたかった。そう思わないと、立ってられなかった」
「……そうか」
「ごめん」
ニオは泣きながら言った。
「ごめん、ハルト。俺、弱かった」
ハルトは目を閉じた。
怒りはあった。
恨みもあった。
裏切られた痛みも、まだ残っている。
それでも。
もし自分がニオだったら。
同じ場所に立って、同じように怯えて、同じように追い詰められていたら。
同じことをしなかったと言い切れるのか。
言い切れなかった。
「許す」
ハルトは言った。
ニオが顔を上げる。
「……え?」
「全部、許す」
ニオの顔が歪む。
泣きそうで、笑いそうで、崩れそうな顔だった。
「でも」
ハルトは短剣を抜いた。
「粛清する」
ニオは、静かに頷いた。
「うん」
「弱さとは罪だ」
ハルトは言った。
「この世界では、間違いなく」
潮風が吹く。
「強さとは責任だ」
ハルトは、ニオを見る。
「だから、俺がやる」
ニオは震える手でナイフを構えた。
「ごめんな」
ハルトが言う。
ニオは首を横に振った。
「ううん」
涙を流しながら、笑った。
「ありがとう。許してくれて」
二人の間に、夕日が差した。
昔見た景色と、同じだった。
でも、もう同じではない。
ニオが走り出す。
ナイフは震えている。
足も震えている。
それでも、真正面から来た。
ハルトは手加減しなかった。
それが、最後の礼儀だった。
短剣に冷気が集まる。
白い煙が、刃に絡む。
「致命の氷穿」
一撃。
ニオの胸を、冷たい刃が穿った。
ニオの体が止まる。
その顔に、痛みは少なかった。
ただ、少しだけ安堵したような表情があった。
次の瞬間、氷が広がった。
胸から、肩へ。
首へ。
指先へ。
赤い髪まで、白く凍っていく。
ニオは何かを言おうとした。
声にはならなかった。
代わりに、笑った。
そして、砕けた。
氷の粉が、夕日の中へ舞う。
潮風が、それをさらっていく。
赤い光の中で、ニオだったものが空へ溶けていった。
ハルトは、しばらくそこに立っていた。
何も言えなかった。
涙は出なかった。
怒りも、悲しみも、思ったより遠かった。
ただ。
終わった。
その感情だけが、胸の底に沈んでいた。
ゼギルとセリカのところへ戻ると、セリカが静かに頭を下げた。
「終わりましたか」
「ああ」
ハルトは海を見た。
「もっと色んな感情が来ると思った」
「……」
「怒りとか、悲しみとか、後悔とか。そういうのが、もっと」
「違ったのですか」
「スッキリした、っていうか」
ハルトは言葉を探した。
「終わった、って感じだ」
セリカは、少しだけ目を伏せた。
「それなら、よかったのかもしれません」
「いや」
ハルトは自分の胸元に手を当てた。
「心まで凍ったのかもな」
ゼギルが鼻で笑った。
「違う」
ハルトとセリカが、ゼギルを見る。
「心は化学反応だ」
「化学……?」
セリカが首を傾げる。
「混ざるもんで結果が変わる」
ゼギルは夕日を見る。
「つまり、ここじゃまともなもんは混ざらねぇってことだ」
ハルトは、少しだけ笑った。
「ひでぇ世界ですね」
「ああ」
ゼギルも笑う。
「だから面白い」
しばらく、三人で夕日を見ていた。
ニオが消えた空。
白い氷の粉が舞った海。
灰鼠だった頃に見た景色。
その全部が、ひとつの終わりになっていた。
やがて、ゼギルが口を開いた。
「ハルト」
「はい」
「俺についてこい」
ハルトはゼギルを見た。
「命令ですか?」
「誘いだ」
ゼギルは言った。
「この世の真実を見せてやる」
「真実?」
「ああ」
ゼギルの目が、夕日の赤を映す。
「世界は何かを隠してる。国も、聖教も、騎士団も、全部だ」
「何を」
「まだ全部は分からねぇ」
ゼギルは懐から、小さな石片を取り出した。
古い石だった。
ただの石に見える。
だが、表面には読めない文字と、削れた絵のようなものが刻まれている。
「真実の石版」
「石版……」
「最初は、おとぎ話だと思った。神話の欠片。古い連中の妄想。だが、違った」
ゼギルの声が低くなる。
「ここに刻まれていることは、本当に起きている」
ハルトは石版を見つめた。
意味は読めない。
けれど、妙に目が離せない。
「俺はそれを集めている」
「世界の真実を?」
「盗むんだよ」
ゼギルは笑った。
「国が隠してるなら、国から盗む。聖教が隠してるなら、聖教から盗む。騎士団が守ってるなら、騎士団から奪う」
黒牙の団長は、当然のように言った。
「俺は、世界の真実を盗む」
ハルトは息を吐いた。
レヴィンの事件。
グレイスの野望。
ニオの粛清。
それらが大きかったと思っていた。
けれど、ゼギルの見ている世界は、もっと広い。
今まで見ていたものが、急に小さくなる。
そんな感覚があった。
「俺についてこい。ハルト」
ゼギルが手を差し出した。
「お前には、もっとでかい世界を見せてやる」
ハルトはその手を見た。
深淵を使う手。
弟を失った手。
黒牙を率いる手。
恐怖で支配しながら、それでもレヴィンの血文字で踏みとどまった手。
ハルトは、ゆっくりとその手を取った。
「団長にそこまで言われて、断れるわけないじゃないですか」
ゼギルが口元を歪める。
「拒否権ねぇってか?」
「いいえ」
ハルトは、握った手に力を込めた。
「拒否するつもりがないってことです」
ゼギルは笑った。
「いい返事だ」
夕日が、海に沈んでいく。
赤い光が、黒い影を伸ばしていく。
まだ、世界の真実なんて分からない。
真実の石版が何なのかも。
国が何を隠しているのかも。
聖教や騎士団が、何を守っているのかも。
何も分からない。
でも。
ゼギルは言った。
これまでのことが、ちっぽけに見えるくらいの世界を見せると。
なら、見てやる。
灰鼠だったハルトは、もういない。
黒牙第六席。
王牙六領。
金剛砕き。
そして、白煙のハルト。
ハルトは、夕日の沈む海を見た。
ひとつの物語が、終わる。
そして、もっと大きな闇の奥へ。
白い煙は、静かに流れ始めていた。
あとがき
第10話でした。
これで第3章「黒煙と双環」は完結です。
今回は、レヴィン事件の最後の後始末と、ニオの粛清回でした。
グレイス、カイル、ニオ。
それぞれ立場も罪の重さも違いますが、全員がレヴィン事件に関わっていました。
カイルは黒牙の鍵を裏切り、ゼギルの深淵で粛清されました。
ニオは弱さゆえにハルトを裏切り、最後はハルト自身の手で粛清されました。
ただ、ハルトはニオを憎んだまま殺したわけではありません。
許した上で、粛清しました。
この世界では、弱さは罪になる。
そして、強さには責任が伴う。
ハルトが第六席として、そして白煙のハルトとして、ひとつの決着をつけた回だったと思います。
そして最後には、ゼギルから「真実の石版」と「世界の真実」について語られました。
灰鼠から始まったハルトの物語は、黒牙の内部抗争を越えて、少しずつ世界そのものへ広がっていきます。
ここまで第3章を読んでくださり、本当にありがとうございます。
ブックマークや評価、感想など、とても励みになっています。
次章からも、白煙のハルトをよろしくお願いします。




