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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
第三章 黒煙と双環

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第9話 白煙



 グレイスの腰のあたりから、黒い鎖が蠢いた。


 一本ではない。


 二本。

 三本。

 いや、もっと奥にある。


 影の中で、蛇の群れが目を覚ますように。


 じゃらり、と石床を撫でる音がした。


 処刑場の空気が、重くなる。


 ハルトは短剣を握り直した。


 毒は、まだ抜けきっていない。


 足の奥に、鈍い熱が残っている。

 踏み込めば痛む。

 無理に動けば、毒がまた回る。


 それでも。


 止まる理由にはならない。


「では、証明しましょう」


 グレイスが静かに言った。


「私が、生き残るべきだと」


 黒い鎖が、跳ねた。


 石床を叩き、蛇のようにうねりながらハルトへ伸びる。


 速い。


 重い。


 だが、見えない速さじゃない。


空纏衝(エアバースト)


 風を纏う。


 体の中心から、空気が渦を巻いた。


 足の痛みを、風で押し潰す。

 踏み込みの不足を、魔力で補う。

 毒の残る足を、無理やり前へ出す。


 黒い鎖が、ハルトの顔を狙ってくる。


 ハルトは低く沈み、鎖の下をくぐった。


 頬を風が裂く。


 一本目を避ける。

 二本目を短剣で払う。

 三本目が足を狙う。


 床を蹴った。


 風が爆ぜる。


 ハルトの体は、鎖の間を抜けてグレイスへ迫った。


 グレイスは目を細める。


「毒が残っているとは思えない動きですね」


「残ってるよ」


 短剣を振るう。


「だから急いでる」


 刃が、グレイスの肩を裂いた。


 血が飛ぶ。


 グレイスは後ろへ下がる。

 黒い鎖が、ハルトの脇腹へ回り込む。


 遅い。


 ハルトは半身をずらし、エアバーストでさらに加速する。


 短剣が腕を裂く。

 もう一撃。

 腹。

 太腿。

 脇腹。

 肩。


 深くはない。


 だが、多い。


 削る。


 ただ倒すためじゃない。


 これは粛清だ。


 グレイスは、ハルトを粛清場へ送った。

 証拠もなく。

 仲間も信じず。

 ハルトを殺して、線を切ろうとした。


 あの日、ハルトは全身を殴られ、切られ、踏みにじられた。


 なら、返す。


 ただ殺すだけじゃ足りない。


 こいつには、自分が踏ませた場所を見せなきゃいけない。


 血が石床に落ちた。


 グレイスの服が裂けていく。

 整えられていた髪が乱れる。

 白い肌に赤い線が増えていく。


 黒い鎖は速い。


 だが、一本一本なら見える。

 避けられる。

 払える。


 ハルトは鎖の隙間を走った。


 毒の熱が足の奥で疼く。

 体が少し遅れる。

 そのたびに風で補う。


 長期戦はできない。


 だから一気に畳みかける。


「っ……!」


 グレイスの膝が落ちた。


 石床に片膝をつく。


 その全身は、血まみれだった。


 頭脳派の男には見えない。


 帳簿を扱い、呪符を管理し、組織改革を語っていた男が、今は処刑場の真ん中で血に濡れて笑っている。


 笑っている。


 グレイスは、肩を震わせた。


 小さな笑いだった。


 それが、だんだん大きくなる。


「ふ、ふふ……」


 血を吐きながら、グレイスは笑った。


「はは……はははははっ……!」


 処刑場に、乾いた笑い声が響く。


 ナザルが眉をひそめた。


「笑ってる場合かよ」


 グレイスは、ナザルを見ない。


 ハルトも見ていない。


 その視線は、オルガンへ向いていた。


「オルガン様」


 グレイスは言った。


 声は震えている。

 だが、まだ折れていない。


「私は、優秀でしたよね」


 オルガンは答えない。


 茶色い髭の奥で、口元が固く結ばれている。


「実務は完璧にこなしました。帳簿も、呪符管理も、組織改革も。身だしなみを整え、余計な感情を出さず、黒牙のために働いた」


 グレイスは血のついた手を見つめた。


「この十年、黒牙は大きくなったはずです。私の案も、仕組みも、少しは役に立ったはずです」


 処刑場の誰も、笑わなかった。


 それはたぶん、嘘ではなかったからだ。


 グレイスは有能だった。


 それは、ここにいる誰もが分かっている。


 オルガンの補佐として、頭脳派の実務屋として、黒牙を支えてきた男。


 だからこそ、ここまで深く入り込めた。


「私は、黒牙を愛していた」


 グレイスは言った。


「本当に、愛していたんです」


 その声には、初めて熱があった。


「黒牙をもっと大きくしたかった。もっと強く、もっと合理的に、もっと巨大に。この街だけでは足りない。ルヴェリアだけでも足りない。黒牙は、もっと上へ行ける」


 血まみれの顔で、グレイスは笑う。


「オルガン様に拾ってもらった命です。私は、その命を黒牙のために使ってきた。黒牙を成長させるために、人生を費やしてきた」


「……グレイス」


 オルガンが、低く名前を呼んだ。


 だが、グレイスは止まらない。


「私は、自分すら捨てたんです」


 その言葉に、オルガンの目がわずかに揺れた。


「若さも、顔も、名前の軽さも。舐められるものは全部捨てた。黒牙のために、オルガン様のために、役に立つ形へ自分を変えてきた」


 グレイスの声は、少しずつ熱を帯びていく。


「このままでは終われない。オルガン様も、私も、黒牙も、まだ成長できる。私がいれば、もっと大きくなれる」


 グレイスの目が、狂気と理性の間で光る。


「そこに、レヴィンの優しさはいらなかった」


 空気が変わった。


 イグニスの目が、鋭くなる。


 ゼギルは動かない。


 ただ、見ている。


「団長の恐怖支配だけでも足りなかった」


 グレイスは続けた。


「優しさだけでは腐る。恐怖だけでは固まる。黒牙には、正しい設計が必要だった。無駄を削り、穴を潰し、弱さを切り捨てる仕組みが必要だった」


 グレイスは、オルガンへ手を伸ばす。


「理解してください。私は間違っていない。私は、黒牙をもっと強くしたかっただけなんです」


 オルガンは、しばらく黙っていた。


 長い沈黙だった。


 処刑場の石が、冷たく沈む。


 やがて、オルガンは口を開いた。


「お前は優秀だった」


 グレイスの目が、わずかに揺れる。


「実務も、帳簿も、改革案も。お前の働きが黒牙を支えたことは事実だ」


「なら――」


「だがな、グレイス」


 オルガンの声が低くなる。


「世界は、道理だけでは動かん」


 グレイスが止まる。


「正解だけでも、人はついてこない」


 オルガンは、静かに言った。


「レヴィンの優しさも、団長の恐怖も、ナザルの軽さも、イグニスの情も、リスティアの見えすぎる目も、マグナの破壊も」


 処刑場の空気が、少し震えた。


「歪みも、悪も、正しさも、弱さも、全部含めて黒牙だ」


 オルガンの目が、グレイスを射抜く。


「お前が愛した黒牙は、お前が切り捨てようとしたもの全部でできている」


 グレイスは、息を止めた。


 ほんの一瞬。


 その顔に、悲しみのようなものが浮かんだ。


「……そうですか」


 グレイスは呟く。


「残念です」


 そして、顔を上げた。


 その目は、もうオルガンを見ていなかった。


 もっと遠く。


 自分の中にある、肥大した野望だけを見ていた。


「世界を変えられないなら」


 グレイスの声が、熱を帯びる。


「私が変わるしかない」


 黒い鎖が、震えた。


「変わるしかないんだ!!」


 その瞬間、グレイスの魔力が膨れ上がった。


 ユニークスキル。


 野望変容アンビション・リライト


 グレイスの体が、内側から作り替えられていく。


 骨が軋む音。

 肉が膨らむ音。

 鎖が影から噴き出す音。


 血まみれだった上半身が、異様に膨れた。


 筋肉が丸く盛り上がり、首が肩の中に埋まっていく。

 顔だけが、肉の塊の上に浮いているように見える。


 腕が太くなる。


 指が短く、太く、硬くなる。


 背中から、黒い鎖が何本も生える。


 一本。

 三本。

 五本。

 十本。


 さっきまでの蛇ではない。


 鎖の群れだ。


 グレイスは、自分を作り替えている。


 まずは生き残るために。

 ハルトに勝つために。


 刃を通しにくい筋肉。

 鎖を操るための魔力。

 全ての急所を覆い尽くす肉体。


 それは、まるで致命の一撃(モータルピアス)そのものを拒むための体だった。


 人間の姿を、野望で捻じ曲げていく。


「……気持ち悪いな」


 ハルトは呟いた。


 グレイスが笑う。


 顔だけが、以前の整った男のままだった。


「合理的でしょう?」


 鎖が、一斉に動いた。


 速い。


 多い。


 一本なら、余裕を残して避けられた。


 二本でも、まだいける。


 だが、これは違う。


 前から三本。

 横から二本。

 足元を這う一本。

 上から振り下ろされる鎖。


 エアバーストで避ける。


 毒の残る足が痛む。


 風で補う。


 それでも、数が多すぎる。


 一本が、ハルトの左腕に絡みついた。


「っ!」


 すぐに切ろうとする。


 その前に、別の鎖が右足を掴む。


 体が宙に浮いた。


 次の瞬間、石床へ叩きつけられる。


 肺の空気が全部抜けた。


「がっ……!」


 さらに、鎖が腹を打つ。

 背中を打つ。

 肩を打つ。


 太くなった腕が、ハルトの腹へ叩き込まれた。


 視界が白く飛ぶ。


 エアクッション。


 反射で、体と拳の間に空気の層を挟んだ。


 エイベルに教わった基礎。


 打撃を完全に止める技じゃない。


 衝撃をずらし、逃がし、殺す技。


 それが、無意識に作用した。


 完全にはいなせない。


 内臓がひっくり返るような衝撃は残る。


 それでも、まだ息をしている。


 死んでいない。


 鎖がハルトの体を持ち上げた。


 宙吊りにされる。


 グレイスの顔の近くへ引き寄せられた。


 顔だけは、まだ整っている。


 その目が、憎しみで濁っていた。


「お前さえいなければ」


 グレイスは言った。


「お前が、何度も私の計画を狂わせた」


 鎖が締まる。


 骨が軋む。


灰鼠(はいそ)のまま死んでいればよかった」


 ハルトは血を吐きながら、短剣を握った。


 近い。


 近すぎる。


 なら、届く。


 右目の奥が熱を持つ。


 致命の一撃(モータルピアス)


 短剣を振り上げる。


 グレイスの脳天へ突き立てた。


 刃が沈む。


 だが。


 グレイスは笑った。


「もう、脳はそこじゃありませんよ」


 血が流れる。


 それでも、グレイスの意識は消えない。


「もっと深いところにあります」


 グレイスの太い腕が、ハルトを殴った。


「残念です」


 視界が横へ吹き飛ぶ。


 ハルトの体は石床を跳ね、転がり、壁際まで叩きつけられた。


 今度こそ死んだと思った。


 だが、息が残っていた。


 エアクッション。


 まただ。


 エイベルの教えが、体に染み込んでいる。


 完全には守れない。


 痛みは消えない。

 骨も軋む。

 血も吐く。


 それでも、死だけを少しずらしている。


 少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 それが、ハルトを繋いでいる。


「ハルト!」


 ナザルが叫んだ。


 水が床を走る。


 ナザルが飛び出そうとした。


 その前に、副団長ヴァイスが動いた。


 無言のまま、ナザルの前へ立つ。


「どけ!」


 ナザルが怒鳴る。


 ヴァイスは静かに見返した。


「掟に逆らうのか」


 低い声だった。


 ナザルの顔が歪む。


「でも、ハルトが! 死んじまうだろ!!」


 構成員たちからも、ざわめきが上がる。


「無理だ……」

「あんなの、人間じゃねぇ」

「粛清返し……」

「金剛砕きも、ここまでか……」


 声が、耳の奥でぼやける。


 体が重い。


 毒がまた回り始めている。


 石床に手をつく。


 立てない。


 立たなきゃいけない。


 でも、体が言うことを聞かない。


「そうかな」


 イグニスの声がした。


 軽い。


 でも、どこか確信がある。


「あいつは、いつもここからなんだろ?」


 セリカが、静かに答える。


「はい」


 その声は震えていなかった。


「ハルト様は、どん底から立ち上がります」


 リスティアが瞬きをする。


「多分、大丈夫」


 ナザルが叫ぶ。


「多分ってなんだよ!」


「でも、大丈夫」


 リスティアは、ハルトを見ていた。


 見えすぎる目で。


 ハルトは笑った。


 笑えたのかは分からない。


 ただ、口元が少し歪んだ。


 どん底。


 ああ。


 ここは、知っている。


 雪山でも。

 灰鼠でも。

 粛清場でも。

 金剛の前でも。


 ハルトはいつも、ここからだった。


 右目の奥が痛む。


 胸の奥で、黒い鼓動が鳴る。


 一度。


 二度。


 深い場所で、何かが開く。


窮鼠猫噛(キュウソネコカミ) 最大出力】


深淵鼓動(アビスハート) 最大出力】


 血まみれの体に、魔力が叩き込まれる。


 折れかけた体が、無理やり立ち上がる。


 突風が吹いた。


 次に、冷風。


 処刑場の空気が、一気に変わる。


 冷たい白煙が、ハルトの足元から地を這った。


 薄く。

 低く。

 ゆっくりと。


 だが、止まらない。


 石床を舐め、乾いた血の跡を覆い、グレイスの鎖の間をすり抜けて広がっていく。


 気温が下がる。


 息が白くなる。


 構成員たちの肩が震える。


 だが、寒さだけじゃない。


 理由のない恐怖。


 何が怖いのか分からない。

 誰に殺されるのか分からない。

 なぜ逃げたいのか分からない。


 それなのに、体の奥が先に震える。


 構成員の何人かが、その場に腰を抜かした。


 血まみれの少年を見ている。


 ただの第六席を見ている。


 なのに、その背後に、悪魔の影を見たような顔をしている。


 実際に何かが見えているわけじゃない。


 存在感。


 空気そのものが、場を支配している。


 グレイスの顔が、初めて歪んだ。


「……何ですか、それは」


 ハルトは血を吐き、短剣を握る。


「ここまで付き合ってやったんだ」


 白煙が、さらに濃くなる。


「楽に死ねると思うなよ?」


 グレイスの鎖が、白煙を叩いた。


 だが、煙は止まらない。


 鎖で殴れるものじゃない。


 地を這う白煙が、何本にも分かれてグレイスの周囲を回る。


 グレイスは鎖を振るう。


 白煙は裂ける。

 だが、すぐに繋がる。


 小さな光が、白煙の中で弾けた。


 氷冷爆発(ダイヤモンドダスト)


 小規模の爆発が、グレイスの鎖を凍らせる。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 白い冷気が立ち込める。


 視界が霞む。


 音が薄れる。


 ハルトの気配が、白煙の中へ沈む。


 気配希薄(フェイド)


 エアバースト。


 ホワイトアウト。


 ダイヤモンドダスト。


 風と冷気と煙が混ざり、処刑場を白く染める。


 グレイスが闇雲に鎖を振り回した。


 速い。

 重い。

 当たれば終わる。


 だが、当たらない。


 白煙の中で、ハルトは走る。


 痛みはある。

 毒もある。

 体は壊れている。


 それでも、今だけは動く。


 窮鼠猫噛が、壊れた体を魔力で強制的に動かしている。


 アビスハートが、冷気と恐怖を撒き散らしている。


 白煙が鎖を惑わせる。


 ダイヤモンドダストが関節を凍らせる。


 エアバーストが、ハルトを反応の外へ押し出す。


 短剣に冷気を纏わせた。


 氷結斬(アイスエッジ)


 一撃。


 グレイスの腕を裂く。


 裂けた場所が凍る。


 二撃。


 鎖の根元を切る。


 黒い鎖が、白く固まる。


 三撃。


 膨れた肩を抉る。


 四撃。


 背中。


 五撃。


 脇腹。


 六撃。


 首に埋まった肉の縁。


 グレイスの体が、少しずつ凍っていく。


「く、そ……!」


 グレイスが鎖を振り回す。


 ハルトには当たらない。


 白煙の中で、ハルトの位置は消えている。


 風は全方位で揺れている。


 冷気は視界を奪っている。


 恐怖は判断を鈍らせている。


 あまりに速い。


 あまりに強い。


 だが、それは永遠じゃない。


 ハルトの体も、もう限界に近い。


 だから、終わらせる。


 白煙が一気に収束した。


 グレイスの体に、氷が広がる。


「やめろ……」


 初めて、グレイスの声に怯えが混じった。


「やめろ、やめろ、やめろ……!」


 鎖が暴れる。


 石床を砕く。


 だが、白煙は止まらない。


 ハルトは、グレイスの正面に現れた。


 血まみれで。

 息も荒く。

 足も震えている。


 それでも、短剣の切っ先は揺れなかった。


「やめろおおおおおおおおお!!」


 断末魔と共に、冷気が散っていく。


 処刑場に、静寂が落ちた。


 グレイスは凍っていた。


 巨大に変容した体の中心。


 そこに、ハルトは短剣を添えている。


 氷の中で、グレイスの目だけがハルトを見ていた。


 まだ、何かを言おうとしている。


 まだ、生き残ろうとしている。


 ハルトは低く言った。


「地獄で待ってろ」


 右目の奥で、黒い力が脈打つ。


「続きはその時だ」


 冷気を纏った短剣が、氷の中心を穿つ。


 致命の氷穿(アイシクルピアス)


 氷が、割れた。


 中心から罅が走る。


 グレイスの体が、音を立てて砕けた。


 粉のような氷が舞う。


 黒い鎖も、膨れた腕も、野望に作り替えられた肉体も、全部。


 白い粉になって、処刑場の空気に散っていった。


 しばらく、誰も声を出さなかった。


 それから。


 歓声が上がった。


 構成員たちの声だった。


 さっきまで腰を抜かしていた者も、震えていた者も、声を上げていた。


 あの化け物に、誰が勝てた?


 この場にいた構成員の誰が、あれを止められた?


 もちろん、幹部ならやれた者もいるのだろう。


 だが、下の者たちには関係ない。


 目の前で見たのは、血まみれの第六席が、人をやめたグレイスを砕いたという事実だけだった。


「心配させやがって……」


 ナザルが、深く息を吐いた。


 ハルトは答えようとした。


 だが、体が傾く。


「ハルト様!」


 セリカが駆け寄ってくる。


 倒れる寸前で、彼女が支えてくれた。


 細い腕なのに、妙に頼もしかった。


「無茶をしすぎです」


「……いつものことだろ」


「いつもでは困ります」


「それは……ごめん」


 視界が霞む。


 白煙が消えていく。


 処刑場の冷気が、少しずつ戻っていく。


 ゼギルが、静かにイグニスを見た。


「見たか? イグニス」


 イグニスは、しばらく黙っていた。


 その目は、ハルトを見ているようで、どこか別の誰かを見ているようでもあった。


 黒煙のレヴィン。


 白煙をまとったハルト。


 似ているのかもしれない。


 違うのかもしれない。


 イグニスは、小さく息を吐いた。


「……うん」


 そして、静かに言った。


「似てた」


 ゼギルは少しだけ笑った。


 それから、処刑場にいる全員へ聞こえる声で言う。


「白煙」


 ざわめきが止まる。


「今日から、それがあいつの二つ名だ」


 白煙。


 白煙のハルト。


 その名が、処刑場に落ちた。


 誰も異論を挟まなかった。


 黒煙のレヴィンがいた。


 そして今、白煙のハルトが立った。


 血まみれで。

 毒を抱えたまま。

 人をやめたグレイスを砕いて。


 レヴィンの後継者として。


 黒牙第六席として。


 王牙六領として。


 誰も文句をつけられないだけの実力を、この場で示した。


 その噂は、たちまち王都ルヴェリアへ広がっていく。


 黒牙の第六席。


 金剛を砕いた灰鼠上がり。


 そして。


 黒煙の後を継ぐ、白煙のハルト。


 ハルトはその声を、遠くで聞いていた。


 セリカに支えられたまま、意識がゆっくり沈んでいく。


 最後に見えたのは、処刑場の石床に薄く残った白い霜だった。

あとがき


第9話でした。


今回は、グレイスとの決着回です。


グレイスは黒牙を裏切った男ですが、黒牙をどうでもいいと思っていたわけではありません。

むしろ、黒牙を本気で愛していた。

オルガンに拾われた命を使って、黒牙をもっと大きく、もっと強くしようとしていた。


ただ、その愛し方が間違っていた。


レヴィンの優しさも、団長の恐怖も、黒牙の歪みも弱さも、全部切り捨てて「正しい組織」に作り替えようとした。

でもオルガンが言った通り、黒牙はそういうもの全部を含めて黒牙です。


そして今回、ハルトは「粛清される側」から「粛清を請け負う側」へ立場が変わりました。


毒を受け、追い詰められ、それでもどん底から立ち上がる。

その姿を見て、ゼギルはハルトに新しい二つ名を与えます。


白煙。


黒煙のレヴィンの後を継ぐ者として。

そして、ハルト自身の冷気と深淵を示す名として。


ここからハルトは、白煙のハルトとして王都ルヴェリアに広まっていきます。


次回は、ニオの粛清。

第3章「黒煙と双環」の終わりになります。


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