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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
第三章 黒煙と双環

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第7話 毒針のヨルド



「俺が先に行く」


ハルトは言った。


路地の先、水路の向こうに外縁区へ続く道がある。


風を使えば、最短で駆け抜けられる。


今は説明している時間も、待っている時間も惜しかった。


ニオが移された。


ハルトの名で。


自分が命じていない移送命令で。


それだけで、もう充分だった。


「おいおい、新入り」


ナザルが肩をすくめる。


「先輩を、あんまり舐めるなよ」


「俺が全速で行った方が早い」


「言うねぇ」


ナザルは笑った。


軽い笑いだった。


だが、その目だけは笑っていない。


「信じろよ」


ハルトは舌打ちした。


信じる。


その言葉は、まだ苦手だった。


けれど今、迷っている時間はない。


「……分かった。信じるぜ、ナザル」


「よし。ならこっちだ」


ナザルは水路沿いの桟橋へ向かった。


そこにあったのは、古びた小舟だった。


木は傷み、縁は欠け、底板の一部には補修の跡がある。


どう見ても、急行用の船ではない。


ハルトは眉を寄せた。


「おい。こんな時に冗談か?」


「冗談言うと思うかよ」


ナザルは小舟へ軽く飛び乗った。


ぎし、と嫌な音がする。


「乗れ」


ハルトは一瞬だけ迷い、それから船に乗った。


リスティアも、何の躊躇もなく乗り込む。


彼女は焼き菓子の包みを片手で押さえながら、ぽつりと言った。


「ハルト、掴まって」


「リスティア?」


「掴まって」


その声は、いつものように淡々としていた。


けれど、妙に確信があった。


ハルトが船縁を掴んだ次の瞬間。


水路が爆ぜた。


「っ!?」


小舟が前へ吹き飛んだ。


櫂を漕いだわけではない。


帆があるわけでもない。


ナザルの足元から水が噴き上がり、小舟の底を押している。


水流が、船を運んでいる。


いや、撃ち出している。


水路の水面が左右に割れた。


後ろには、十メートル近い水柱が立ち上がる。


左右の岸に白い波が叩きつけられ、係留されていた小舟がまとめて跳ねた。


「言っとくけど、いつもはしねぇからな!」


ナザルが叫んだ。


「当たり前だ! 危なすぎる!」


ハルトも叫び返す。


まともに立っていられない。


掴まっていなければ、最初の一撃で水路へ投げ出されていた。


一方で、リスティアは船縁を片手で掴みながら、妙に落ち着いていた。


髪だけが風で揺れている。


「リスティア、お前なんで平気なんだよ!」


「見えてたから」


「見えてたら怖くねぇのか!?」


「分かるのと、実際にするのは違う」


「どっちだよ!」


小舟は水路を駆け抜ける。


岸辺で釣り糸を垂らしていた中年の男が、ぽかんと口を開けた。


次の瞬間、波が岸壁へ叩きつけられる。


「うおおっ!? ナザル! てめぇ、またか!」


桶が倒れ、釣ったばかりの小魚が石畳で跳ねた。


「悪いな、おっちゃん! 今日は急ぎだ!」


「いつも急いでんだろうが!」


小型の輸送船が水柱に煽られ、大きく傾く。


積まれていた麻袋がずれ、船頭が舵にしがみついた。


「荷が落ちる! 落ちるって!」


「落ちたら拾っといてくれー!」


「拾えるか馬鹿!」


前方の運搬船が、慌てて進路を変えようとする。


ナザルが片手を上げた。


「ちょっとごめんよー! 急いでてな!」


「ナザルー! 洗濯物飛んだー!」


岸から子どもの声が飛んだ。


「わりぃ! 今度遊んでやるから許せ!」


「絶対だぞー!」


「めちゃくちゃだな!」


ハルトが叫ぶと、ナザルは笑った。


「先輩を舐めんなって言ったろ!」


「そういう意味じゃねぇ!」


船は曲がり角へ突っ込んだ。


水流が船体を持ち上げる。


水路の壁ぎりぎりを、斜めに滑る。


ハルトの胃が浮いた。


小舟は外縁区の水門近くへ突っ込んだ。


速度は落ちない。


いや、落とせない。


ナザルが舌打ちし、両手を広げる。


「着くぞ!」


次の瞬間、小舟の底が悲鳴を上げた。


木材が砕ける。


船体が裂ける。


ハルトの体が宙に投げ出されかけた。


だが、水が三人を包んだ。


柔らかい水の腕が、体を受け止める。


落下の衝撃はほとんどなかった。


水が引いた時、足元には大破した小舟の残骸だけがあった。


ナザルは頭をかきながら言う。


「悪いな。こっからは、俺は普通に走りになっちまう」


「十分めちゃくちゃだった」


「褒め言葉として受け取っとく」


ナザルは外縁区の奥を指した。


「先に行け、ハルト」


「ああ」


ハルトは地面を踏みしめた。


まだ風は白くない。


冷気もない。


ただ、全身に魔力を通す。


エイベルに叩き込まれた空纏衝(エアバースト)


体の中心から風が渦を巻く。


足元の砂埃が弾けた。


空気が圧縮される。


「行く」


次の瞬間、ハルトの姿が消えた。


ドンッ、と遅れて音が鳴る。


ナザルが目を丸くした。


「……こりゃ、本当に走った方が早かったかもな」


リスティアは、大破した小舟を見てから、ぽつりと言った。


「でも、ナザルの方が楽しかった」


ナザルが横目で見る。


「本当か?」


「怖かった」


「どっちだよ……」


ハルトは外縁区の路地を駆け抜けた。


風が体を押す。


曲がり角を蹴り、壁を蹴り、積まれた木箱の上を跳ぶ。


見える景色が流れていく。


倉庫。


廃屋。


崩れた石壁。


錆びた鉄扉。


その先に、古い工場跡のような建物があった。


扉の前には、黒牙(こくが)の下部組織らしき男たちが数人立っている。


ハルトを見るなり、一人が慌てて頭を下げた。


「あ、ハルト様。今、移送が終わったところです」


ハルトは答えなかった。


足も止めなかった。


「え、あの、ハルト様?」


「どけ」


それだけ言って、右手を上げる。


空圧弾(エアショット)


圧縮された空気が、木製の扉を内側へ吹き飛ばした。


木片が工場内へ散る。


古い空気が外へ吐き出される。


油と鉄と、湿った木の匂い。


その奥に、手足を縛られたニオがいた。


床に転がされ、口元には布が巻かれている。


目だけが見開かれた。


「は、ハルト……!?」


ニオの声は掠れていた。


その近くに、細い男が立っていた。


長い外套。


黒い手袋。


灰色の髪。


目元は穏やかだが、温度がない。


男は吹き飛んだ扉を見てから、ゆっくりとハルトへ向き直った。


「ずいぶん乱暴な入室ですね」


「そいつから離れろ」


「助けに来たのですか?」


男は静かに笑った。


ハルトは短剣を抜く。


「勘違いすんな」


視線はニオへ向けない。


「そいつを殺すのは俺だ」


ニオの顔が歪んだ。


男は目を細める。


「なるほど。では、私とは目的が違うようですね」


「誰だ、お前」


「ヨルド」


男は指先を軽く開いた。


そこに、緑がかった細い針が生まれる。


魔力で編まれた、毒の針。


毒針(どくばり)のヨルド、と呼ばれています」


針が飛んだ。


ハルトは横へ跳び、短剣で弾く。


針は硝子のように砕け、空中で薄い煙になって消えた。


次の針が三本。


ハルトは踏み込みながら避ける。


一本が背後の木箱に刺さった。


じゅわ、と嫌な音がする。


木が黒く泡立ち、刺さった針は毒を吐き切るように溶けて消えた。


ハルトは舌打ちした。


受けられない。


けれど、避けられる。


ヨルドの針は速い。


だが、ハルトの踏み込みの方が速かった。


風をまとった足が床を叩く。


ハルトは一瞬で間合いを詰める。


短剣がヨルドの胸元へ走った。


ヨルドは身を引く。


完全には避けきれない。


外套が裂け、肩口に血が走る。


「速いですね」


ヨルドは後退しながら、また針を放った。


ハルトは弾く。


針は砕けて消える。


床に刺さった一本も、黒い染みを残して消えた。


ハルトはさらに踏み込む。


ヨルドの防御は崩れている。


身体能力では、こちらが上だ。


風の出力も、踏み込みの重さも、反応速度も。


ヨルドは強い。


だが、押しているのはハルトだった。


短剣が腕を裂く。


蹴りが腹をかすめる。


空圧弾(エアショット)がヨルドの体勢を崩す。


ヨルドは倒れない。


倒れないまま、針を投げる。


当てるためではない。


後ろへ下がりながら、壁へ、床へ、柱へ、木箱へ。


毒針を散らしていく。


針は砕け、溶け、消えていく。


弾いた針は空中で薄い煙になった。


木箱に刺さった針は、黒い泡を残して消えた。


床板に刺さった針も、じゅわ、と毒を吐いて跡だけを残した。


ハルトはさらに踏み込む。


ヨルドの肩が、わずかに開いた。


喉が見える。


一瞬だけ、急所が空いた。


ハルトの右目の奥が熱を持つ。


致命の一撃(モータルピアス)


いける。


長引かせるな。


ニオがいる。


こいつを殺すのは俺だ。


そのためには、目の前の男を沈めるしかない。


ハルトは踏み込んだ。


短剣の軌道に、ヨルドの喉が入る。


届く。


そう思った瞬間。


足裏に、細い熱が刺さった。


「……っ!?」


激痛が膝まで跳ね上がる。


踏んだ。


床に、一本だけ針が残っていた。


消えたはずの毒針が。


ハルトの踏み込みが、半歩だけ崩れた。


喉を狙った刃は逸れ、ヨルドの肩を浅く裂く。


致命傷ではない。


ハルトは足裏に刺さった毒針を見た。


「針は……消えない……」


今までの針は、砕けた。


刺さっても、毒を吐いて消えた。


なのに、これは消えていない。


ヨルドは肩の血を押さえながら、静かに言った。


「ええ。私が解除しなければ」


「……解除?」


「魔力で作った針です。消すことも、残すこともできる」


ヨルドの口元が、わずかに歪む。


「そして、私はあえて解除していました」


ハルトの足裏から、熱が膝へ昇ってくる。


「あなたが、強かったので」


ヨルドは続けた。


「正面から受け続ければ、私が先に崩れる。だから、針は消えるものだと覚えてもらう必要がありました」


ハルトは歯を食いしばった。


「……誘導、かよ」


「ええ」


ヨルドの指先に、また毒針が生まれる。


「ようやく、足が止まりました」


次の針が飛んだ。


ハルトは避ける。


遅い。


さっきまでなら避けきれた角度の針が、頬をかすめた。


「足に入りましたね」


ヨルドの声が近くなる。


「走れば回る。止まれば刺す」


針がまた生まれる。


「どうします?」


ハルトは歯を食いしばった。


形勢が、変わった。


そこへ、風とは違う音が工場の入口から響いた。


水が床を叩く音。


ナザルが飛び込んでくる。


その後ろにリスティア。


「ハルト!」


ナザルが水をまとって踏み込もうとした。


「手を出すな」


ハルトは毒の回り始めた足で、床を踏みしめた。


「こいつは俺の獲物だ」


「そんなこと言ってる場合かよ! 足、やられてんだろ!」


「だからだ」


「意味わかんねぇよ!」


ナザルが今にも飛び出そうとする。


その横で、リスティアが静かに言った。


「大丈夫」


「リスティア?」


「まだ、終わらない」


ナザルは舌打ちした。


「……見えてんのか」


リスティアはハルトを見たまま、こくりと頷く。


「少しだけ」


「なら、止めるぞ。あいつが死にそうになったら俺が入る」


「うん。でも、まだ入らない方がいい」


「理由は?」


「今入ったら、ハルトが怒る」


「そこかよ」


「あと、勝つ」


ナザルは一瞬だけ黙り、それから低く笑った。


「分かったよ。死ぬなよ、金剛砕き」


ハルトは返事をしなかった。


足が熱い。


毒が上がってくる。


このまま動けば回る。


止まれば刺される。


なら。


ハルトは毒針の刺さった足に手を当てた。


冷やす。


血を。


肉を。


毒の通り道を。


足裏から膝へ向かう熱を、無理やり凍らせるように押さえ込む。


ヨルドの目が細くなった。


「冷気で血流を鈍らせた……毒の巡りを遅らせましたか」


「……」


「ですが、応急処置です」


ハルトの右目の奥が、ずきりと痛んだ。


胸の奥で、黒い鼓動が鳴る。


一度。


二度。


世界の底から、何かが開くような感覚。


周囲に恐怖を振りまく。


その場の全員が空気が変わったのを感じた。


堕落の王(ルシファー)が鼓動しました】


深淵鼓動(アビスハート)


ハルトの周囲で、風が渦を巻いた。


最初はただの風だった。


床の埃が舞い、落ちていた紙片が跳ね、壊れた木箱の欠片が震える。


だが、その風の中に、白いものが混じった。


息のような、煙のような、冷たい靄。


それは一瞬で濃くなり、ハルトの体を中心に渦を巻く。


次の瞬間、白い風が床を這い、柱を舐め、古い工場の奥へ広がっていった。


油と鉄の匂いが、冷気に押し潰される。


床に落ちた釘が白く曇る。


壊れた作業台の縁に霜が咲く。


木箱の隙間を、白い煙がすり抜ける。


工場全体が、冬に沈んでいく。


ナザルが、眉をひそめた。


「……なんだ、今の」


リスティアが小さく答える。


「深淵に似てる」


「冷気がか?」


「違う」


リスティアは、白い煙の奥に立つハルトを見る。


「怖い方」


冷気そのものは、ただ冷たいだけだった。


だが、その奥に別のものが混じっている。


見えない穴を覗き込んだ時のような、理由のない怖気。


足がすくむほどではない。


叫び出すほどでもない。


けれど、皮膚の裏側だけが先に逃げようとしていた。


ハルトの姿が、白い煙の中で薄くなる。


【技能変質】


サイレントムーブ → 気配希薄(フェイド)


音が消える。


足音が消える。


気配が消える。


ヨルドは目を細めた。


そして、目を閉じた。


「視界を奪う煙。音を殺す歩法。気配を消す技能」


ヨルドは静かに言った。


「ならば、空気の流れを読むまで」


プロだった。


ヨルドは慌てない。


見えないなら、見ない。


音がないなら、聞かない。


気配がないなら、空気の流れを見る。


ハルトが動けば、風が動く。


風が動けば、位置が分かる。


それが、経験に裏打ちされた正解だった。


普通の相手なら。


次の瞬間、風が吹いた。


前から。


後ろから。


左から。


右から。


上から。


足元から。


工場内の白い煙が、全方位で揺れた。


ヨルドの眉が動く。


「これは……」


風を隠しているのではない。


風そのものを、偽装に使っている。


毒は回る。


時間はこちらにある。


なら、追い詰められた獣は必ず牙を剥く。


ヨルドは迎撃を選んだ。


ハルトは必ず接近してくる。


急所を狙う。


さっきと同じように。


経験が、ヨルドに正解を選ばせた。


そして、その正解が、ハルト相手には罠になった。


白い煙が、ヨルドの周囲だけで逆巻いた。


逃げ道を塞ぐのではない。


空気そのものを、そこへ集めている。


ヨルドの目が開いた。


「まさか、接近ではなく……」


冷気が、一点に収束する。


ハルトの声が、白い煙の向こうから聞こえた。


氷冷爆発(ダイヤモンドダスト)


次の瞬間、冷気が爆ぜた。


音は小さかった。


だが、古い工場の空気が一瞬で硝子のように煌めく。


白い粒が舞う。


星屑のような氷晶が、ヨルドの腕、肩、足首、喉元に張りついた。


筋肉が止まる。


関節が凍る。


呼吸が白く固まる。


ヨルドの体が、その場で動かなくなった。


殺してはいない。


だが、動けない。


ハルトは白い煙の中から現れた。


足元はふらついている。


毒は完全には止まっていない。


それでも、短剣の切っ先はヨルドの喉元にあった。


ヨルドは凍りついた唇をわずかに動かす。


「……殺さないのですか」


ハルトは荒い息のまま答えた。


「聞きたいことがある」


ヨルドの目が、初めてわずかに歪んだ。


ハルトは短剣を下げない。


「誰に命じられた」


工場の中に、白い冷気がまだ立ち込めていた。


ニオは縛られたまま、震える目でハルトを見ている。


ナザルは水をまとったまま、呆れたように息を吐いた。


「おいおい……」


リスティアは、白い煙の奥で静かに瞬きをした。


「勝った」


ナザルが横目で見る。


「見えてたんだろ」


「うん」


「怖かったか?」


リスティアは少しだけ間を置いた。


「分かるのと、実際に見るのは違う」


ナザルは笑った。


「ほんと、便利なんだか不便なんだか分かんねぇな」


ハルトはヨルドの首元に刃を当てたまま、低く言った。


「答えろ。誰が、俺の名前でニオを移した」


ヨルドは、凍った体のまま、目だけを細めた。


その沈黙こそが、答えの入口だった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


今回はナザルの水路爆走と、毒針のヨルド戦でした。


ナザルは第九席らしく、水路ではかなり無茶ができます。

ただし、本人も言っていた通り、いつもあんな走り方をしているわけではありません。

たぶん。


そしてヨルドは、単純な毒針使いではなく、かなり経験のある殺し屋です。

ハルトの方が身体能力では上ですが、戦い慣れ、殺し慣れという面ではヨルドの方が上でした。


それでもハルトは、風、冷気、ルシファー由来の力を混ぜながら、少しずつ戦い方が変わってきています。


次回は、この偽の移送命令の裏側へさらに踏み込んでいきます。


面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価を入れていただけると嬉しいです。

続きを書く力になります。

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