第6話 残された血文字
黒牙の中にいる。
リスティアの言葉が、頭の中に残っていた。
内部の犯行。
そう考えれば、確かに筋は通る。
ニオだけでは無理だ。
裏口を開けた誰かがいる。
痕跡を消した誰かがいる。
金庫を開けるための呪符を用意した誰かがいる。
でも。
「内部の犯行だとして、なんで外から開けるんだ?」
俺は裏口を見た。
「黒牙の人間なら、中から入れるんじゃないのか」
リスティアは、裏口の鍵穴を指でなぞった。
「入れる人もいる。でも、入ったら識別が残る」
「だから外から開けた?」
「うん」
「でも外から開けても、普通は痕跡が残るんだろ」
「残る」
リスティアは淡々と言った。
「だから消した」
「消せるやつがいるのか」
「いる」
リスティアの淡い瞳が、鍵穴から俺へ向いた。
「この国で、この精度の解錠ができる人は三人くらい」
「三人?」
リスティアは、指を一本ずつ折るように言った。
「王城管理局のラザロ。大商会付きの鍵師、メルド。あと、黒牙の構成員」
「黒牙?」
「カイル。ナザルの部下」
初めて聞く名前だった。
「カイルは、そんなにすごいのか」
「うん。解錠だけじゃなく、施錠もできる。港の上がりを回収する時、小さな金庫やキャッシュボックスを厳重な金庫に変えられる」
「便利だな」
「かなり有能」
リスティアは、裏口の鍵跡を見つめたまま続ける。
「それに、識別も消せる。短い時間なら、侵入の痕跡もほとんど消せる」
「どれくらい」
「五分くらい」
五分。
その間にニオが入って、指輪を盗んで出る。
「でも、他の二人の可能性もあるんじゃないのか」
「低い」
「なんで?」
「他の二人なら、識別を消す必要がない」
リスティアは淡々と言った。
「登録されていない魔力配列が、ランダムに残るだけ。黒牙の内部犯だと疑われる理由にはならない」
「でも、カイルなら」
「自分の識別が残ると困る。だから消す」
リスティアの淡い瞳が、裏口の鍵跡を見つめる。
「ここは、何も残ってない。何も残ってないことが、残ってる」
少し背筋が冷えた。
「つまり、消す必要があるやつが消した」
「うん」
「カイルで間違いない、と」
「私は、そう思う」
線が、少し見えた。
裏口。
高等解錠魔法。
消された識別。
五分の侵入痕跡。
「なるほどな」
俺は裏口の向こうを見る。
「じゃあ、現場も見てみるか」
「うん」
俺たちは裏口から中へ入った。
レヴィン邸の中は、空気が冷たかった。
人が住まなくなった家の冷たさ。
それでも、荒れてはいない。
誰かが定期的に掃除しているのだろう。
廊下。
階段。
金庫のある部屋。
そこへ向かう間、リスティアは何度か足を止めた。
「黒い」
「黒煙か?」
「うん。残り香みたいなもの」
レヴィンの黒煙。
それは、俺が思っていたような単なる戦闘用の煙ではなかった。
館の中に、見えないほど薄い黒煙を張っていた。
床。
壁。
天井。
家具の隙間。
どこに何があるか。
誰がどこにいるか。
それを把握していないと気持ち悪くなる。
そういう、几帳面な男だった。
仲間を疑っていたわけじゃない。
むしろ、仲間を信用していたから、入口は広かった。
けれど、館そのものには薄い黒煙の神経が通っていた。
だから、ニオは見つかった。
気配を消していたのに。
足音も殺していたのに。
レヴィンだけが気づいた。
金庫のある部屋に入った瞬間、リスティアが俺の袖を掴んだ。
「手」
「手?」
「見やすくなる」
「……分かった」
俺は手を差し出した。
リスティアの指が、俺の指の間に入ってくる。
指と指が絡む。
恋人同士がするような繋ぎ方だった。
「ちょ、待て」
「なに?」
「この握り方じゃないと駄目なのか?」
「別にそうじゃないよ」
「え……」
リスティアは、特に何も気にしていない顔をしていた。
こっちだけが変に焦っている。
「じゃあ、なんで」
「この方が見やすそうだったから」
「そういうものなのか?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
リスティアの手は小さく、冷たかった。
次の瞬間、視界が揺れた。
部屋の輪郭が薄くなる。
現実の上に、別の光景が重なった。
金庫。
暗い部屋。
外套を被った小柄な影。
ニオだ。
顔は見えない。
でも、分かる。
気配を消している。
以前、ニオが使っていた隠形。
普通なら、気づかれない。
でも。
部屋の隅に、黒い煙があった。
見えないほど薄い煙。
床。
壁。
天井。
家具の隙間。
黒煙が、ニオの位置を捉えている。
ニオが金庫に近づく。
手に呪符がある。
それを金庫に貼る。
魔法が走る。
金庫が開く。
ニオが中へ手を伸ばす。
その瞬間、黒煙が動いた。
指輪が、黒煙にさらわれる。
金庫から離れ、部屋の奥へ。
そこに、レヴィンが立っていた。
細い手。
静かな顔。
黒煙を従える男。
指輪は、レヴィンの右手にはまった。
ニオが固まる。
黒煙が、ニオの体を捕らえた。
首。
腕。
足。
逃げられない。
レヴィンが何かを言う。
声は聞こえない。
でも、表情は怒りではなかった。
問いかけている。
なぜ、と。
どうして、と。
ニオは震えていた。
黒煙が、少しだけ緩む。
話を聞くために。
信用したのだ。
その瞬間、ニオの手が動いた。
短い刃。
レヴィンの腹に刺さる。
黒煙が揺れた。
レヴィンが膝をつく。
ニオも震えていた。
逃げるべきなのに、足が動いていない。
その視線が、レヴィンの右手に落ちる。
指輪。
黒牙の双環の片割れ。
床に手をついたレヴィンの右手。
その人差し指に、指輪がはまっている。
ニオは、泣きそうな顔で短剣を握り直した。
やめろ。
そう思った。
けれど、過去の光景は止まらない。
ニオは短剣を振り下ろした。
刃が、レヴィンの右手の人差し指を落とす。
血が跳ねた。
指輪をはめた指が、床に転がる。
ニオはそれを掴んだ。
震える手で、指輪を抜き取る。
レヴィンは、血のついた手で床に文字を書いていた。
赤い文字。
大丈夫だよ。
ニオはそれを見た。
一瞬だけ、顔が歪む。
それでも、指輪を握りしめて後ずさった。
逃げる。
その直後、扉が開く。
ボディーガードらしき男たちが駆け込んでくる。
でも、間に合わない。
外套を被ったニオの後ろ姿が、一瞬だけ見える。
灰鼠の腕章の切れ端が、床に落ちていた。
視界が、一度途切れた。
だが、リスティアはまだ俺の手を離さなかった。
「まだ、残ってる」
「まだ?」
「うん」
視界が、もう一度揺れる。
時間が少しだけ進んだ。
部屋には、血の匂いが残っていた。
冷たくなったレヴィンが、床に横たわっている。
その前に、ゼギルが立っていた。
護衛たちは、床に膝をついていた。
泣き崩れている者もいる。
額を床につけ、何度も許しを乞う者もいた。
「申し訳、ありません……」
「我々が、離れなければ……」
「レヴィン様を、お守りできず……」
ゼギルは、何も言わなかった。
ただ、レヴィンを見ていた。
黒いものが、足元から滲む。
闇ではない。
もっと深いもの。
見ているだけで、喉が詰まるような何かが、床を這い始めていた。
その時、ゼギルの視線が止まった。
床に残された、赤い文字。
大丈夫だよ。
声が聞こえた気がした。
ゼギルの指が、ぴくりと動く。
「……優しすぎる」
低い声だった。
「馬鹿な弟だった」
護衛の一人が、震えながら顔を上げる。
「だ、団長……?」
ゼギルは、血文字を見つめたまま言った。
「だから、最高の弟だった」
その目に、ほんの少しだけ優しさが混じった。
「お前らは不問にする」
護衛たちが、息を呑む。
「レヴィンが大丈夫だって言うなら、大丈夫なんだよ」
ゼギルは静かに言った。
「俺が暴走しねぇように、死んでまで止めやがった」
ゼギルは、ゆっくりと視線を動かした。
床に落ちていた、ちぎれた灰鼠の腕章。
その瞬間、優しさが消えた。
「だがな」
声が、低く沈む。
「この件に関わった奴らは、全員始末する」
視界が戻った。
俺は息を吐いた。
心臓が嫌な音を立てている。
リスティアは、ようやく手を離した。
指先に、まだ冷たさが残っている。
「見えた?」
「ああ」
「レヴィンは、ニオをすぐには殺さなかった」
「ああ」
「話を聞こうとした」
「……ああ」
それで刺された。
その後、指まで落とされた。
優しすぎた。
だから死んだ。
喉の奥が、嫌な感じに詰まる。
俺はレヴィンを知らない。
なのに、今見た光景だけで、少しだけ分かってしまった気がした。
あの人は、殺せた。
たぶん、ニオを殺せた。
でも、殺さなかった。
話を聞こうとした。
その一瞬の優しさが、全部を壊した。
そして、その優しさは、死んだあとも団長を止めていた。
大丈夫だよ。
あの血文字が、どれだけ重いものなのか。
今の俺には、少しだけ分かった気がした。
「ハルト」
リスティアが言う。
「ここ」
彼女は金庫の前にしゃがみ、鍵の周辺を指でなぞった。
「呪符」
「金庫を開けたやつか」
「うん。焦げ跡が少しだけ残ってる」
「それで分かるのか」
「少しだけ。魔力の質が、帳簿系の保管符に近い」
「帳簿系?」
「グレイスの管理下」
「グレイス?」
聞き慣れない名前だった。
「オルガンの補佐の一人。頭脳派の実務屋」
リスティアは淡々と言った。
「帳簿、組織改革、呪符管理。そういうものに関わってる」
「オルガンの補佐か」
「うん。でも、オルガンが関わってるとは限らない」
「……補佐が勝手に動いた可能性もあるってことか」
「ある」
オルガンの補佐。
頭脳派の実務屋。
そして、グレイス管理下の呪符。
カイルとグレイス。
線が、少しずつ見えてくる。
けれど、まだ足りない。
「カイルを探す」
俺は言った。
レヴィン邸を出て、俺たちは港の管理所へ向かった。
カイルは、ナザルの管理下に近い頭脳派の実務要員らしい。
解錠だけではなく、施錠もできる。
港の金庫回りを任されることも多く、かなり有能な男だった。
港の管理所は、書類と木箱と人の声でごった返していた。
水路から運ばれた荷。
密輸まがいの品。
帳簿。
回収金。
黒牙の金と物が流れる場所。
そこで働いていた構成員にカイルのことを聞くと、男は困ったように顔をしかめた。
「カイルさんなら、昨日から姿を見せていません」
「昨日から?」
「はい。部屋にも戻っていません。仕事にも出ていないと」
カイル。
外から裏口を開けた解錠魔法。
消された識別。
五分の侵入痕跡。
グレイス管理下の呪符。
そして、昨日から行方不明。
「グレイスとは?」
俺が聞くと、構成員は少しだけ眉を寄せた。
「グレイスさんですか?」
「ああ。オルガンの補佐の一人だろ」
「はい。帳簿や呪符の管理に関わっている方です」
「カイルと関わりは?」
「あります。というより、かなり仲は良かったと思います」
「どれくらいだ」
「最近はよく一緒にいました。港の金庫管理や帳簿の共有、それに組織改革の話をしていたと聞いています」
構成員は、少し考えてから続けた。
「カイルさんはナザル様の下で港の金回りを見ていましたし、グレイスさんはオルガン様の補佐で帳簿や呪符の管理に強い。仕事の話で繋がること自体は、不自然ではありません」
「不自然ではない、か」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「昨日からカイルさんが消えているとなると、少し話は変わります」
その言葉で、空気が少し重くなる。
カイルは消えた。
グレイスの名が出た。
カイルとグレイスは、よく一緒にいた。
線が、繋がりかけている。
「金剛砕きが来てるって聞いたけどよ」
少し遅れて、背後から声がした。
振り返ると、ナザルがいた。
目の下に、いつもより濃い隈がある。
「問題か?」
「ナザル」
「おう。第九席、今日も元気に寝不足だ」
元気には見えない。
ナザルは片手を上げて、近くの構成員に書類を渡した。
「カイルがいないみたいだな」
「ああ、知ってる」
ナザルは深く息を吐いた。
「おかげでまた寝れてねぇからな。港の金庫回り、あいつに任せてた仕事も多いんだよ」
「そんなに有能なのか」
「かなりな。鍵を開けるだけじゃねぇ。閉めるのも上手い。金を動かす現場じゃ、ああいうやつが一人いるだけで全然違う」
ナザルは肩を鳴らした。
「だから、消えられると困る。めちゃくちゃ困る。俺の睡眠が死ぬ」
「それはいつもだろ」
「ひどくない? 俺いま傷ついたよ?」
いつもの軽さ。
だが、俺は笑えなかった。
「ナザル」
「ん?」
「カイルは、レヴィン殺しに関与してる可能性がある」
ナザルの顔から、軽さが少し落ちた。
「……まじ?」
「ああ」
「ブラックすぎて逃げたわけじゃなくてか?」
「違うと思う」
ナザルは、冗談で逃がすように笑おうとした。
でも、笑いきれなかった。
俺はリスティアを見る。
「リスティアが、裏口の痕跡を見た」
リスティアはこくりと頷いた。
「カイルの可能性が高い」
ナザルは黙った。
さっきまで騒がしかった管理所の音が、少し遠くなる。
「リスティアが言うなら……そうだな」
ナザルは、いつになく真面目な目をした。
「笑って流す話じゃねぇか」
「グレイスの名前も出た」
「グレイス?」
「オルガンの補佐の一人。呪符管理に関わってる」
ナザルは眉を寄せた。
「カイルとグレイスなら、仕事の話はよくしてた。港の金庫管理、帳簿の共有、組織改革。繋がってても不自然じゃねぇ」
「それが、逆に不自然になった」
「……だな」
ナザルは少し考えてから、俺を見た。
「金剛砕き」
いつもの軽い呼び方だった。
だが、すぐに言い直す。
「いや、ハルト。この件、俺も噛ませてくれないか?」
「寝る時間減るぞ」
「元からねぇよ」
ナザルは笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
「俺の下のやつが絡んでるなら、俺にも責任がある。港の金も、人も、鍵も、俺の水路を通る」
その声が、少しだけ低くなる。
「知らねぇで済ませるには、流れが悪すぎる」
その時だった。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
早い。
乱れている。
「ハルト様!」
飛び込んできたのは、セリカだった。
いつもの整った顔に、わずかな焦りが浮かんでいる。
「どうした」
「ニオが移送されました」
その名前で、胸の奥が冷える。
「……どこへ」
「外縁区の倉庫です」
「誰の命令だ」
セリカは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「ハルト様の名で、命令が出ています」
「俺は出してない」
「はい」
セリカの目が細くなる。
「ですので、急ぎ報告に来ました」
ニオ。
生き証人。
まだ殺すなと言われた男。
その男が、俺の名で動かされている。
誰かが、線を切ろうとしている。
ナザルの表情が変わった。
「おいおい」
軽い声ではなかった。
「このタイミングで、それかよ」
「リスティア」
「うん」
リスティアは、もうこちらを見ていた。
「急いだ方がいい」
俺は腰の短剣に触れた。
エイベルの短剣が、冷たい。
「ニオが危ない」
俺は立ち上がった。
「行くぞ」
ナザルが水の入った革袋を掴んだ。
「俺も行く」
「港は?」
「寝てねぇやつは、ついでに働けるんだよ」
ナザルは笑った。
今度は、少しだけいつもの顔に戻っていた。
「案内する。外縁区の倉庫なら、水路から回った方が速い」
誰かが、線を切ろうとしている。
なら、その前に掴む。
ニオを殺すためにも。
その奥で絵を描いたやつを、引きずり出すためにも。
あとがき
第6話でした。
今回は、レヴィン事件の核心にかなり近づく回でした。
前回の最後で見つかった「何も残っていないことが残っている」痕跡。
そこから、外部犯ではなく黒牙内部の誰かが関わっている可能性が濃くなっていきます。
そして今回は、リスティアの感知によって事件当日の光景も少し描きました。
レヴィンはニオを殺せた。
でも、殺さなかった。
話を聞こうとしてしまった。
その優しさが、結果的に事件を決定的なものにしてしまいました。
また、今回ようやくレヴィンが残した血文字「大丈夫だよ」にも触れました。
この言葉は、ただの最期の言葉ではなく、ゼギルの怒りと深淵を止めるための言葉でもありました。
レヴィンの優しさは、彼を死なせた弱さでもあり、ゼギルにとっては最高の弟だった理由でもあります。
そして後半では、カイル、グレイス、ナザルの線も少しずつ見えてきました。
カイルはナザルの下で港の金庫回りを任されていた有能な実務担当。
グレイスはオルガンの補佐の一人。
この二人の繋がりが、レヴィン事件の裏側に少しずつ伸びていきます。
最後は、ハルトの名で出された偽の移送命令。
ニオはまだ殺すなと言われた生き証人です。
誰かが、線を切ろうとしている。
次回は、ナザルと共に水路を使って外縁区の倉庫へ向かいます。
ここから一気に動きます。
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