第5話 イグニスの予感
牙宴の翌日。
俺はリスティアと並んで、イグニス邸へ向かっていた。
並んで、というより、リスティアが少し近い。
「近い」
「遠いと見えにくい」
「歩くのに見えるも何もないだろ」
「あるよ」
リスティアは、淡い色の瞳でこちらを見る。
夢に微睡んでいるような目。
でも、眠っているわけではない。
むしろ、その逆だ。
見えすぎるから、少しぼんやりしているように見えるのかもしれない。
「あなた、やっぱり過去が見えない」
「昨日も聞いた」
「うん。今日も見えない」
「毎日確認すんな」
「気になる」
「気にすんな」
「無理」
会話になっているのか、なっていないのか分からない。
俺はため息を吐いた。
牙宴の後、団長ゼギルから命じられたこと。
黒牙の内部を探れ。
レヴィンを殺したやつと、その奥で絵を描いたやつを探せ。
そして、ニオはまだ殺すな。
その言葉は、胸の奥にまだ残っている。
ニオを殺す。
そのために強くなると決めた。
それなのに、まだ殺すなと言われた。
納得はできていない。
ただ、理解はしている。
ニオだけでは無理だ。
裏口。
金庫。
指輪。
黒牙の双環。
俺に渡されたお守り。
粛清場。
あれ全部を、ニオ一人で描けるはずがない。
そして俺は思い出した。
事件の前、ニオは何度か、顔を隠した男と話していた。
水路沿いの路地。
倉庫の裏口。
市場の端の、使われていない井戸のそば。
そのたびに、少しだけ様子がおかしかった。
笑うのが遅く、返事が短い。
いつもの軽さが薄く、荷物を持つ手に力が入っている。
あれは、ただの知り合いじゃなかった。
「最初はイグニスなの?」
リスティアが聞いた。
「ああ。事件前にレヴィンと揉めてたらしい」
「うん」
「知ってたのか?」
「少し。団長が言ってた」
「じゃあ聞くなよ」
「あなたの言葉で聞きたかった」
「変なやつだな」
「よく言われる」
リスティアは表情を変えずに言った。
イグニス邸は、外から見ただけでも分かりやすかった。
赤い屋根。
黒い壁。
庭には石を組んだ大きな炉のようなものがある。
火を扱う人間の住処、という感じだった。
門の前に立つと、中から声がした。
「入っていいよ」
まだ叩いてもいない。
リスティアが小さく首を傾げる。
「気づかれてる」
「だろうな」
門を開けて中へ入る。
庭では、イグニスが椅子に座って肉を焼いていた。
朝から肉。
豪快というより、当たり前のように肉を焼いている。
「来るの早いね、ハルト」
「遊びに来たわけじゃない」
「知ってるよ」
イグニスは串をひっくり返した。
火が少しだけ跳ねる。
彼女の近くは、空気がほんのり暖かい。
回炎のイグニス。
牙宴で見た時よりも、ずっと柔らかい雰囲気だった。
でも、近づきすぎると危ない。
そう感じる熱もある。
「リスティアも食べる?」
「甘いものがいい」
「肉も甘辛くすれば甘いよ」
「それは違う」
「そっか。残念」
イグニスは笑った。
それから、俺を見る。
「で、レヴィンの話?」
俺は少しだけ黙った。
やっぱり早い。
「……ああ」
「牙宴の流れなら、そうなるよね」
イグニスは串を皿に置いた。
火を少し弱める。
「事件前、レヴィンと揉めてたって聞いた」
「揉めたってほど可愛いものでもないけどね」
「何で」
「警備」
短い答えだった。
「警備?」
「あいつ、自分の警備を軽く見すぎてた」
イグニスの声が、少しだけ低くなる。
「レヴィンは黒煙を使えた。そりゃ強いよ。弱くはない。でも、あいつは油断するところがあった」
「油断?」
「人を信用しすぎる」
その言葉は、静かだった。
「自分が相手を信用したら、相手も同じだけ返してくれると思ってる。馬鹿だよね」
イグニスは笑った。
けれど、その笑い方は、牙宴で酒を飲んでいた時とは違った。
「私は、その仕組みを変えろって言った」
「仕組み?」
「黒牙の仲間なら、そのまま入れる。黒牙の人間が招けば、黒牙以外の人間でも入れる。もちろん入ったやつの魔力識別は残るけどね」
イグニスは、肉の串を皿に置いた。
「でもさ、仲間だからって簡単に入れるなら、セキュリティの意味がないだろ?」
「……それは」
「致命的だよ。信用するなとは言わない。でも、信用を前提にした穴を残すなって言ったんだ。誰かが悪用したら終わる」
「レヴィンは?」
「困った顔して笑ってたよ。そんなことは起きないって、本気で思ってたんだろうね」
火の上で、肉の脂が落ちる。
小さく炎が跳ねた。
「正直ね」
イグニスが言った。
「いつかこうなる気はしてた」
「レヴィンが死ぬってことか」
「そこまでは思いたくなかったよ」
イグニスは、少しだけ目を細める。
「でも、あいつの優しさは、いつか誰かに踏まれると思ってた。踏まれても、あいつは相手の足の怪我を心配するような男だったから」
言い方は軽い。
けれど、声は軽くなかった。
「だから私は、信用するなら、疑う仕組みも置いとけって言ったんだ」
「レヴィンは聞かなかった」
「聞いてはいたよ。ちゃんと聞いて、困った顔して、でも最後は変えなかった」
イグニスは小さく笑った。
「最悪でしょ」
「……ああ」
「最悪に、優しい男だった」
その言葉は、妙に残った。
最悪に優しい。
それで救われた人間がいる。
それで死んだ男がいる。
俺はまだ、レヴィンを知らない。
でも、この人の中に残っているレヴィンは、ただの死者ではなかった。
「レヴィンは、どんな人だった」
俺は聞いた。
イグニスは少しだけ目を伏せる。
「優しすぎた」
「団長も、そう思ってるのか?」
「たぶんね。ゼギルは、あいつのそういうところを一番嫌って、一番愛してたと思うよ」
「愛してた?」
「兄弟だからね」
イグニスは、少しだけ寂しそうに笑った。
「レヴィンは、人を拾うんだよ」
「拾う?」
「落ちてるものを、そのままにできない。汚れてても、壊れてても、面倒でも、手を伸ばす」
その言葉で、牙宴でのイグニスの目を思い出した。
俺の腰の短剣を見た時の、あの寂しそうな目。
レヴィンのものだった短剣。
エイベルに渡り、今は俺の腰にある。
イグニスは、あの流れを見ていたのだろう。
「君もそうなのかもね」
「俺?」
「レヴィンが拾ったものが、エイベルに渡って、エイベルが拾った子の腰にある」
イグニスは俺の短剣をちらりと見た。
「変な縁だよ」
「……そうだな」
「だから、雑に扱わないで」
「扱わない」
「ならいい」
イグニスは、少しだけ満足そうに頷いた。
それから、声の調子を変える。
「で、事件の話だよね」
「ああ」
「私の見立てでいいなら、武闘派じゃない」
「なぜだ」
「やり方が面倒すぎる」
即答だった。
「武闘派ならもっと分かりやすくやる。襲う、壊す、燃やす、奪う。もちろん例外はあるけど、あそこまで裏口、金庫、指輪、灰鼠、粛清場まで繋げるなら、たぶん頭脳派」
「頭脳派」
「オルガンのところに行きな」
「オルガン?」
「証拠がないと動かない爺さんだけど、証拠があればちゃんと見る。あと、頭脳派の動きには敏感だよ」
「牙宴では平和税に食いついてた」
「あの爺さん、金と守りの話が好きだからね」
「頑固そうだった」
「実際、頑固」
イグニスは笑った。
「でも悪い人じゃないよ。怒ると長いけど」
「牙宴でも怒られてたな」
「私が悪いみたいに言わないでくれる?」
「倉庫の壁を三枚焼いたんだろ」
「あれは壁が悪い」
「本当に言うんだな」
イグニスは楽しそうに笑った。
少しだけ、場が緩む。
でも、すぐに彼女は真面目な顔に戻った。
「ハルト」
「何だ」
「レヴィンのこと、ちゃんと見てきて」
「見てくる?」
「君はまだ、レヴィンを知らない。噂と指輪と、死んだ事実しか知らない」
イグニスは串の肉を皿に置いた。
「それだと、たぶん見誤る」
「……分かった」
「あと、エイベルの娘の件。忘れてないから」
「ああ」
「何か分かったら言いな。私も探す」
「助かる」
「肉も食べに来な」
「それは別件だろ」
「だいたい同じだよ」
「違うと思うけどな」
イグニスは笑って、焼いた肉を俺に差し出した。
「食べな。若い子は食べなきゃ」
「またそれか」
「おねーさんだからね」
俺は肉を受け取った。
熱い。
でも、うまかった。
イグニス邸を出た後、俺たちはオルガン邸へ向かった。
オルガンの邸は、イグニスの家とはまるで違った。
石造り。
重い門。
庭には無駄な装飾がほとんどない。
壁そのものが要塞みたいだった。
「防衛の人って感じだな」
「うん。硬い」
「お前が言うと、本当に硬さを見てそうだな」
「見えるよ」
「何が?」
「守り方」
リスティアは壁を見上げる。
「ここ、重なってる」
「重なってる?」
「壁と、魔力と、意識」
「説明になってるようでなってないな」
「そう?」
「そう」
門番に取り次ぎを頼むと、すぐに通された。
オルガンは書斎にいた。
茶色い髭。
片眼鏡。
机の上には帳簿と地図。
壁には、ルヴェリアの区画図らしきものがいくつも貼られている。
「来たか、第六席」
「はい」
「牙宴の翌日に来るとは、せっかちなことだ」
「レヴィンの件で」
「だろうな」
オルガンは椅子から立たなかった。
片眼鏡の奥の目が、俺とリスティアを見る。
「第十席まで連れているとなれば、ただの挨拶ではあるまい」
「事件前、イグニスとレヴィンが揉めていた件を聞きました」
「ふむ」
「イグニスは、頭脳派のやり方だと」
「それで私のところへ来たか」
「はい」
オルガンは髭を撫でた。
「証拠を持ってきなさい」
即答だった。
「まだ何も言ってないんですけど」
「疑いだけなら誰でも言える」
「イグニスの話でも?」
「イグニスは感情で動くことがある」
「でも」
「だが、完全に外しているとも思わん」
オルガンは机の上の地図を指で叩いた。
「レヴィン邸の事件は、複数の要素が絡んでいる。侵入、解錠、指輪、灰鼠、粛清場。単独犯ではない」
「やっぱり、そう見えますか」
「当たり前だ」
オルガンは眉を寄せる。
「むしろ、それをニオ一人の犯行と処理する方が乱暴だ」
「なら」
「だからこそ証拠が必要だ」
オルガンの声が少し低くなった。
「頭脳派を疑うなら、なおさらな。感情で誰かを指せば、黒牙の中で火種になる」
「分かってます」
「分かっている人間は、証拠を持ってくる」
また言われた。
この世界の大人は、やたら同じような刺し方をしてくる。
「レヴィン邸に行け」
オルガンは言った。
「あの場に残っているものを見ろ。消えているものも見ろ。第十席がいるなら、見えないものも拾えるだろう」
リスティアがこくりと頷いた。
「拾う」
「ただし、見えたものをそのまま信じるな。残滓は事実の欠片であって、事実そのものではない」
「分かってる」
「本当か?」
「たぶん」
「不安な返事だな」
オルガンはため息を吐いた。
「第六席」
「はい」
「証拠を持ってきなさい。そうすれば、私も動く」
「分かりました」
「それと」
「何ですか」
「平和税の刻印案、後で詳細を持ってこい。識別魔法の管理は雑にやると崩れる」
「そっちもですか」
「当然だ。金と守りの話は待たせるな」
オルガンは頑固そうに言った。
たぶん、この人は本当に金と防衛が好きだ。
オルガン邸を出た俺たちは、そのままレヴィン邸へ向かった。
レヴィン邸は、思っていたより静かだった。
大きすぎるわけではない。
だが、手入れが行き届いている。
門。
庭。
窓。
壁。
正面の扉。
どこも整っている。
レヴィンという人間の几帳面さが、少しだけ見える気がした。
リスティアは門の前で一度立ち止まり、壁に触れた。
「硬い」
「壁が?」
「うん。ちょっとした魔法なら弾く」
俺も壁に触れる。
冷たい石。
だが、ただの石ではない。
薄く魔力が通っている。
「入口も裏口も、ちゃんとしてる」
リスティアは歩きながら言った。
「外の人が普通に入れる場所じゃない」
「なら、どうやって入った」
「入口が広かった」
「広い?」
「仲間には」
リスティアは玄関を見る。
「レヴィンは、黒牙の仲間を信用してた。黒牙の人なら入りやすい。黒牙の人が招けば、外の人も入れる」
「それ、甘くないか」
「うん。でも、入った人の魔力識別は残る」
「なら盗めばバレるだろ」
「普通は」
普通は。
リスティアがその言葉を言うと、だいたい普通じゃない話になる。
「だから、識別がまだ薄い子を使った」
「灰鼠か」
「うん。どこの誰か分かりにくい。黒牙の仲間が直接盗むより、真相が見えにくい」
リスティアは裏口の方へ歩いていく。
俺も続いた。
裏口は、正面より小さな扉だった。
目立たない。
けれど、安っぽくはない。
ここもちゃんと施錠されていたらしい。
扉の前で、リスティアが止まった。
「ここ」
「何かあるのか」
「ない」
「ない?」
「だから、ある」
リスティアはしゃがみ込み、扉の縁に指を添えた。
「痕跡がない」
「消したってことか」
「うん。でも、ただ消したんじゃない」
彼女は扉の下、蝶番、鍵穴の周りを順に見る。
「綺麗すぎる」
「綺麗だと駄目なのか」
「普通は、何か残る。魔力識別の欠片。解錠の癖。触れた人の残り香。でも、ここは何もない」
「何もないなら、何も分からないんじゃないのか」
「違う」
リスティアの淡い瞳が、裏口の鍵跡を見つめる。
「何も残ってないことが、残ってる」
少し背筋が冷えた。
「リスティア」
「うん」
「それは、外から来た誰かの仕業なのか?」
リスティアは答えなかった。
代わりに、裏口の鍵穴を指でなぞる。
「外の人なら、ここまで綺麗に消さない」
「じゃあ」
「消さないと困る人が、消した」
リスティアの淡い瞳が、俺を見た。
「黒牙の中にいる」
屋敷の冷たさが、急に深くなった気がした。
イグニスの言葉が、頭の奥で蘇る。
信用を前提にした穴を残すな。
誰かが悪用したら終わる。
終わったのだ。
もう、とっくに。
あとがき
第5話でした。
今回は、レヴィン事件の調査開始回です。
タイトルは「イグニスの予感」。
イグニスは、レヴィンが殺されることまで予想していたわけではありません。
ただ、レヴィンの優しさや、仲間を信用しすぎるところが、いつか誰かに踏まれるかもしれない。
そんな嫌な予感を抱えていた、という回でした。
レヴィン邸は、単純に警備が弱かったわけではありません。
外から普通に破るにはかなり難しい場所です。
入口も裏口も施錠され、館そのものも魔法に対してかなり硬い。
それでも裏口は開けられていました。
しかも、ただ開けられたのではなく、痕跡が綺麗に消されている。
外の人間なら、そこまで綺麗に消す必要はない。
むしろ何も残っていないこと自体が、黒牙内部の誰かが関わっている証拠になっていく。
つまり今回見えてきたのは、外敵の侵入ではなく、内部の犯行かもしれないという線です。
次回は、レヴィン邸の中へ。
黒煙の残滓を辿り、事件当日の光景に近づいていきます。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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