第二話 盗品の荷車
「起きろ」
腹に、鈍い衝撃が入った。
「ぐっ」
ハルトは息を詰まらせて目を開けた。
最初に見えたのは、湿った土だった。
次に、草のほとんど生えていない街道。
それから、見覚えのない革靴。
バルドが、足でハルトの脇腹を軽く押していた。
「いつまで寝てんだ。荷車を押すぞ」
「……け、蹴る必要ありました?」
寝起きの頭で、ついそう言った。
バルドは眉を寄せる。
「なんだお前。今日はやけに口が回るな」
「……すみません」
ハルトは慌てて起き上がった。
体はまだ痛い。
昨日、馬車を襲った時に落ちた。
ロッソたちはそう言っていた。
もちろん、ハルトにそんな記憶はない。
けれど、肩や背中の痛みだけは本物だった。
ロッソは少し離れた場所で、荷車にかけた布を確認している。
ニオはもう起きていて、街道脇の水辺で顔を洗っていた。
空はまだ薄暗い。
「水、使うなら今のうちだよ」
ニオが声をかけてくる。
「すぐ出るって」
「うん」
ハルトは立ち上がり、ふらつきながら水辺へ向かった。
川と呼ぶには細い。
街道沿いを流れる浅い水路のようなものだった。
水は冷たく、底の石がぼんやり見えている。
ハルトは膝をつき、水をすくった。
顔にかける。
冷たさで、少しだけ意識がはっきりした。
もう一度、水をすくおうとして、手が止まる。
水面に、知らない顔が映っていた。
「……え」
そこにいたのは、ハルトの顔ではなかった。
年は同じくらいだと思う。
高校二年だった自分と、大きく離れているようには見えない。
身長も、たぶん前と同じくらいだ。
けれど、顔が違う。
前の自分は、もっと普通だった。
教室にいても、廊下を歩いていても、部活の集合写真に混ざっていても、特に目立つ顔ではなかった。
悪くはない。
でも、良いとも言われない。
どこにでもいる高校生。
水面の向こうにいる少年は、少し違った。
黒い髪。
その一部に、白い筋のような髪が混じっている。
多くはない。
けれど黒髪の中に、その白だけが妙に目についた。
目は黒い。
顔立ちは、自分で言うのも変だが、整っている方だと思う。
ただ、その目元が少し冷たい。
何かを見ているようで、何も見せない目。
昨日、ニオが言っていた。
前のハルトは、あまり喋らなかった。
言われたことだけをやる。
たまに、目だけが少し怖かった。
水面の顔を見て、ハルトは少しだけ納得した。
たしかに、何を考えているのか分からない顔だった。
「……俺じゃない」
小さく呟く。
水面の少年も、同じように口を動かした。
知らない顔。
知らない体。
でも、名前だけは同じだった。
ハルト。
ただ、それだけだ。
苗字もない。
家もない。
学校もない。
この体がここで積み上げてきた過去だけが、周りの人間の中に残っている。
ハルトは、しばらく水面を見つめていた。
やがて、顔を上げる。
街道の先が見えた。
あちらが、今日向かう場所だと聞いている。
東の都。
けれど、その方角の空はまだ暗かった。
代わりに、背中側の木々の隙間から、薄い朝の光が滲み始めている。
「……あれ?」
東の都へ向かっている。
なら、あちらが東のはずだ。
でも、明るくなっているのは反対側。
「……東?」
小さく呟いた声は、水音に紛れた。
太陽が、西から昇っている。
そう理解した瞬間、足元がほんの少し頼りなくなった。
顔だけじゃない。
服も、言葉も、組織も。
そして、空の決まりまで。
自分の知っている世界とは違っていた。
本当に、別の世界だ。
「顔、忘れてた?」
横からニオの声がした。
ハルトは肩を跳ねさせる。
「いや、その……確認してた」
「確認?」
ニオは不思議そうに隣へしゃがんだ。
水面に、赤い髪が映る。
ニオは十七歳くらいに見えた。
赤髪を真ん中で分けていて、少し切れ長の目をしている。
顔立ちは柔らかく、笑うとどこか人懐っこい。
ハルトより少し背が低い。
「昨日から、ほんと変だよ」
ニオが言った。
「そう、かな」
「うん。前はもっと喋らなかったし」
「……そんなに?」
「そんなに」
ニオは水をすくって顔を洗った。
「言われたことだけやる感じだった。怒られても、褒められても、あんまり反応しないし」
「そうなんだ」
「でも、たまに目だけ怖い時があった」
ハルトは水面の顔を見る。
黒い目。
朝の水面でも、その奥が少し暗く見える。
「何考えてるのか、分かんなかった」
ニオはそう言ってから、少し気まずそうに笑った。
「まあ、俺もそんなに長く一緒にいたわけじゃないけど」
「ニオは、いつから灰鼠に?」
「俺? お前より後」
「俺の方が先なんだ」
「そうだよ。覚えてないの?」
「……その辺、ちょっと」
「本当に頭打ったんだな」
ニオは苦笑した。
「お前は、ロッソとバルドに直接誘われたんだよ。一緒に仕事がしたいって」
「俺が?」
「うん。なんか、静かだけど使えそうだったんじゃない?」
使えそう。
その言葉に、妙な重さがあった。
この体のハルトは、どういう人間だったのだろう。
何かから逃げてきたのか。
誰かに売られたのか。
それとも、自分から黒牙に入ったのか。
ハルトには分からない。
分からないのに、その過去だけが周囲に残っている。
「おい、早くしろ!」
バルドの声が飛んだ。
「荷車が勝手に王都まで歩くと思ってんのか!」
ニオが立ち上がる。
「ほら、行こう。朝から怒られると一日長いよ」
「うん」
ハルトも立ち上がった。
荷車は二台あった。
一台はロッソとバルドが見る。
もう一台を、ハルトとニオが押すことになった。
盗品を積んだ荷車は、見た目よりずっと重かった。
車輪は泥を噛み、軋むたびに手のひらへ振動が返ってくる。
舗装された道ではない。
草がないだけの、踏み固められた土の道だ。
荷馬車が二台すれ違えるくらいの幅はあるが、石や轍が多い。
少しでも気を抜くと、車輪が取られる。
「これ、馬は……」
言いかけて、ハルトは黙った。
バルドが振り返る。
「なんだ?」
「いえ、なんでも」
ニオが小声で笑った。
「馬なんて、灰鼠に使わせるわけないじゃん」
「そういうものなんだ」
「そういうもの」
ニオは肩を入れて荷車を押す。
「灰鼠は足と手が仕事道具。たまに頭も使うけど、使いすぎると怒られる」
「怒られるんだ」
「上が考えることを、下が考えるなってさ」
ハルトは荷車を押しながら、街道の先を見た。
遠くに、何かが見えた。
最初は山かと思った。
だが、違う。
高い土地に向かって、白っぽい建物がいくつも並んでいる。
そのさらに上に、城のようなものが薄く見えた。
かなり遠い。
なのに、見える。
「あれが王都?」
ハルトが聞くと、ニオは少しだけ得意げに頷いた。
「東の都、ルヴェリア」
「ルヴェリア……」
初めて聞く名前のはずなのに、どこか体の奥で反応するような気がした。
この体が知っているのかもしれない。
「でかいね」
「でかいよ。たぶん、お前が思ってるよりずっと」
ニオは荷車を押しながら言った。
「王城と新しい城下は高台の方。金持ちとか偉いやつは、だいたいあっち」
ハルトは遠くの高台を見る。
まだ朝の光はそこまで届ききっていない。
白い城の輪郭だけが、暗い空を背負ってぼんやり浮かんでいる。
「じゃあ、俺たちは?」
「低い方」
ニオは笑った。
「港とか、倉庫とか、市場とか、古い城下跡とか。外縁の方は、だいたい金がないやつと、金を拾いに来たやつの場所」
「金を拾いに来たやつ?」
「一発逆転ってやつ」
荷車が石に引っかかった。
二人で力を入れて押す。
車輪が、ごり、と音を立てて乗り越えた。
ニオは息を吐いて続ける。
「ルヴェリアはさ、世界一の貧富の差がある国だって言われてる」
「世界一」
「高台には、金が余ってるやつらが住んでる。低地には、今日の飯も怪しいやつがいる」
ニオは前を向いたまま言った。
「でも、人は増えるんだよ」
「どうして?」
「金があるから」
簡単な答えだった。
「巨大な港。運河。市場。倉庫。城壁工事。娼館。酒場。賭場。裏仕事。なんでもある」
ニオの声には、少しだけ熱があった。
「だから、村で食えなくなったやつも、借金で逃げたやつも、家を出たやつも、みんな来る。ここなら何か掴めるかもしれないって」
ハルトは荷車を押しながら、黙って聞いた。
巨大な都市。
遠くの高台。
その下に広がる低地。
さらにその外側の街道。
自分は今、その一番端で盗品の荷車を押している。
「灰鼠ってさ」
ニオが言った。
「だいたい田舎者の集まりなんだよ」
「田舎者」
「そ。村じゃ食えない。町に行けば何かあると思った。ルヴェリアなら一発当てられるかもしれないって思った」
荷車の車輪が、また軋む。
「で、来てみたら仕事はない。宿代は高い。飯も高い。兵士は助けてくれない。まともな店は身元がないやつを雇わない」
ニオは笑った。
「そういうやつが、最後は俺らみたいな盗賊になる」
「黒牙に?」
ハルトが聞くと、ニオは首を横に振った。
「黒牙になれるなら、いい方だよ」
「いい方?」
「選ばれたやつしかなれない。黒牙って名前を背負えるのは、ちゃんと認められた連中だけ」
ニオは自分たちが押している荷車を顎で示した。
「大体は、俺たち灰鼠みたいな下部組織。あとは、もっと下の末端組織だな」
「末端組織」
「売人、情報屋、港の裏仕事、借金取りの手伝い。黒牙の名前を借りてるだけみたいなやつもいる」
ニオは少しだけ声を落とした。
「薄い関係まで入れたら、いくらでもいるよ。でも、黒牙そのものじゃない」
ハルトは遠くの高台を見た。
王城。
城下町。
市場。
港。
倉庫。
外縁区。
その下に、黒牙がいて。
そのさらに下に、灰鼠がいる。
「じゃあ、俺たちは」
「下の方」
ニオは軽く笑った。
「でも、一応は黒牙の下だ。そこだけは、まだマシ」
まだマシ。
その言葉に、ハルトは何も返せなかった。
「だから、考えてることはみんな同じだと思ってる」
「同じ?」
「金貯めて、いつか抜ける。ちゃんとした仕事をする。店でも持つ。もう誰かの荷車を押さない」
ニオはハルトを見た。
「お前もそうだろ?」
「……うーん?」
「うーんって何だよ」
ニオが少し笑う。
「自分のことだろ」
ハルトは返事に詰まった。
自分のこと。
そう言われても困る。
自分は田舎から来た覚えがない。
この街に夢を見て来た覚えもない。
そもそも昨日まで、雪山で死にかけていたはずだった。
「頭を打ったってことにしといてほしい」
そう言うと、ニオは呆れたように息を吐いた。
「変なの」
それから少しだけ、口元を緩める。
「まあ、前から変だったけど」
「前から?」
「うん。あんまり喋らないし、何考えてるか分かんないし。たまに目だけ怖いし」
「……俺が?」
「お前が」
ニオは軽く肩をすくめた。
「でも今日は、なんか普通に喋るな」
ハルトは荷車の取っ手を握りしめた。
その言葉に、背中の奥が少し冷える。
この体のハルト。
自分の知らないハルト。
その過去の上に、今の自分は立っている。
ニオはしばらく黙って荷車を押していた。
やがて、ぽつりと言う。
「話してみるとさ」
「うん」
「お前、結構いいやつだな」
ハルトは思わず返事に詰まった。
「……そう、かな」
「うん」
ニオは小さく笑った。
「前はもっと、何考えてるか分かんなかったし」
「そっか」
「いや、悪い意味じゃないよ。たぶん」
「たぶんなんだ」
ハルトは曖昧に笑った。
自分でも分かるくらい、ぎこちない笑いだった。
いいやつ。
そう言われると、少し困る。
今の自分は盗品の荷車を押している。
黒牙の灰鼠で、周りから見れば立派な裏稼業の人間だ。
その場所で「いいやつ」と言われても、どんな顔をすればいいのか分からない。
ニオは荷車を押しながら、また前を見た。
「でも、今日はよく喋るな」
「……そんなに違う?」
「違うよ。前は、聞かれたことに答えるだけって感じだった」
「そうなんだ」
「うん。だから少し変な感じ」
ニオは少しだけ笑った。
「まあ、頭打ったなら仕方ないか」
「その方向でお願いしたい」
「なんだよ、自分のことなのに」
ハルトも少しだけ笑った。
ぎこちないが、さっきよりは自然だった。
荷車は軋みながら、王都へ向かって進んでいく。
遠く、高台の城は少しずつ大きくなっていた。
その下に、どれほど広い街があるのか。
どれほどの人がいて、どれほどの金が動き、どれほどの闇があるのか。
ハルトにはまだ分からない。
分からないまま、押すしかなかった。
盗品の荷車を。
灰鼠として
読んでいただきありがとうございます。
ハルトの異世界生活は、盗品の荷車を押すところから始まりました。
次回は、東の都ルヴェリアに入り、灰鼠としての最初の夜が動き出します。
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