第3話 鉄拳のダリオ
包帯が取れたのは、それから数日後だった。
治療は終わった。
少なくとも、裂けた傷は塞がり、折れた骨も最低限は繋がっている。
ただし、万全とは程遠い。
クロード・ヴェインは薬箱を閉じると、いつもの穏やかな声で言った。
「傷は塞がりました。ですが、無理は禁物ですよ」
「分かってる」
「そう言う方ほど、分かっていません」
静かな声なのに、逃げ場がない。
俺は何も言い返せず、外套を羽織った。
「ハルト様」
扉の前で、セリカが待っていた。
黒髪をきっちりまとめ、手には書類。
いつも通りの顔だ。
ただ、呼び方だけがまだ慣れない。
「……やっぱりむずむずするな、それ」
「慣れてください」
「努力はしてる」
「努力の成果が見えません」
「早すぎるだろ」
セリカは小さく息を吐いた。
「本日は、平和税の実務案を詰めます。黒印、牙印、王牙印の区分、それから集金役と刻印役の割り振りです」
「いきなり税務かよ」
「平和を売るのでしょう?」
「言い方が嫌だな」
「事実です」
便利な言葉だ。
俺は腰に黒い短剣を差した。
エイベルの短剣。
銀の皿の返しに渡された、あの短剣だ。
食卓ではなく、現実に残った刃。
まだ、腰にあるだけで少し重い。
物理的な重さではない。
もっと奥に沈む重さだ。
俺とセリカが廊下へ出た時、屋敷の外が騒がしくなった。
怒鳴り声。
足音。
誰かが止めようとする声。
そして、骨が鳴るような音。
「……何だ」
窓から外を見る。
前庭に人だかりができていた。
売人。
外縁区の荒くれ。
黒牙の下部構成員。
様子見に来たらしい部下たち。
その中心に、一人の大男が立っていた。
頭を剃り上げた、完全なスキンヘッド。
太い首。
潰れたような鼻。
傷の入った眉。
丸太みたいな腕。
岩のような拳。
顔はかなりイカつい。
笑っているだけで、周りの売人たちが一歩下がっていた。
「あれがダリオか」
「はい」
セリカは少しだけ眉を寄せた。
「鉄拳のダリオ。黒牙の正式構成員ではありませんが、下部組織側の問題解決屋です」
「問題解決屋?」
「殴って解決する男、という意味です」
「分かりやすいな」
「小さな徒党を組んでいます。普段は武闘派に近いところで動いていますが、頭脳派から借りられることもあります」
「便利じゃねぇか」
「便利ですが、予測不能です。短絡的な行動も多いため、正式な黒牙入りはしていません」
「でも強いんだろ」
「はい。黒牙の一般構成員では、ほとんど勝てないでしょう」
つまり、下にいるには強すぎるが、上に入れるには危なすぎる。
暴れ駒。
そういうやつか。
「ハルト様」
「何だよ」
「戦闘は禁止されています」
「クロードには、無理は禁物って言われただけだ」
「それは戦闘禁止という意味です」
「解釈が硬いな」
「常識です」
セリカは俺の前に立つように一歩動いた。
「相手にする必要はありません。あなたは第六席です。下部組織の力試しに、毎回応じる立場ではありません」
「分かってる」
「分かっていません」
「でも今回は応じる」
セリカが黙った。
俺は前庭を見下ろす。
ダリオの周りには、昨日見た売人らしき連中も混じっていた。
薬を潰すと言われ、平和税の集金や刻印役へ回されるかもしれない連中。
面白くないに決まっている。
だから、力で試しに来た。
金剛砕きは本当に強いのか。
灰鼠上がりのガキが、本当にこのシマを持つ資格があるのか。
ここで引けば、平和税は始まる前から舐められる。
「薬を潰すって言ったばっかりだ。平和税も始める。なのに、最初に来た力自慢を無視したらどうなる」
「舐められます」
「だろ」
「ですが、戦えば傷が悪化します」
「それも分かってる」
「分かった上でやるのは、賢いとは言いません」
「エイベルにも似たようなこと言われそうだな」
「エイベル様なら、もっと長く説教します」
「じゃあ短い方で助かる」
セリカはもう一度、深いため息をついた。
「魔法は使わない」
「そういう問題ではありません」
「刃も抜かない」
「なおさら問題です」
「拳で来るやつには、拳で分からせる」
「ハルト様は拳の人ではないでしょう」
「拳じゃなくてもいい。殺さず止める」
セリカは数秒、俺を見た。
そして、諦めたように目を伏せた。
「無理をしたら、クロードさんに報告します」
「それ、脅しか?」
「報告です」
「一番嫌なやつだな」
俺は前庭へ出た。
集まっていた連中の視線が、一斉にこちらへ向く。
空気が張り詰める。
その中心で、ダリオが歯を剥いて笑った。
「出てきたか」
声がでかい。
腹の底に響くような声だった。
「お前が金剛砕きのハルトか」
「そう呼ばれてるらしいな」
「らしい?」
「まだ慣れてねぇ」
ダリオは、愉快そうに笑った。
「はっ。正直なやつだな」
「で、何しに来た」
「確かめに来た」
ダリオは拳を鳴らす。
骨の音が、前庭に響いた。
「金剛を砕いたって噂が本当かどうか。薬を潰すだの、シマを守るだの、偉そうなことを言うだけの力があるのかどうか」
「売人に頼まれたのか」
「頼まれちゃいねぇ」
ダリオは売人たちを一瞥した。
売人たちは慌てて目を逸らす。
「こいつらが騒いでたから来ただけだ。俺は、強いやつが上に立つなら文句はねぇ。弱いやつが椅子に座るなら、引きずり下ろす」
「分かりやすいな」
「分かりやすい方がいいだろ」
「それは同感だ」
ダリオが一歩出る。
地面が少し沈んだように見えた。
でかい。
金剛ほどではない。
当然だ。
あれは別格だった。
人間というより、動く城壁に近かった。
だが、ダリオも十分にでかい。
そして、ただの喧嘩自慢ではない。
立ち方が違う。
肩に余計な力が入っていない。
拳を振るうことに慣れすぎている。
「ルールは?」
俺が聞くと、ダリオは肩を回した。
「俺が殴る。お前が倒れる。それで終わりだ」
「馬鹿なのか?」
「分かりやすいだろ」
「まあな」
俺は息を吐いた。
「じゃあ俺が倒したら?」
「従う」
周囲がざわついた。
ダリオは売人たちを無視して続ける。
「俺は弱いやつに従わねぇ。強いやつには従う。それだけだ」
「お前、裏表なさすぎて逆に怖いな」
「よく言われる」
ダリオが構えた。
構えというより、ただ拳を握っただけに見える。
でも隙は少ない。
雑に見えて、体の芯がぶれていない。
俺も構える。
刃は抜かない。
風も使わない。
氷も使わない。
深淵鼓動も、もちろん使わない。
身体だけ。
この数日で包帯は取れた。
治療も終わった。
だが、万全じゃない。
胸の奥には、まだ鈍い痛みがある。
力を入れすぎれば、たぶんまた裂ける。
クロードの顔が脳裏に浮かんだ。
無理は禁物ですよ。
悪い、先生。
少しだけ、無理をする。
ダリオが動いた。
速い。
でかい体が、予想よりずっと速く前に出る。
右の拳。
重い。
風を裂く音がした。
俺は横へ避けた。
避けた、つもりだった。
「っ」
身体が思ったより深く動いた。
足が地面を噛みすぎる。
踏み込みが鋭すぎる。
視界が一瞬、流れる。
悪名補正。
出力が上がりすぎている。
今までの感覚で動くと、身体が勝手に先へ行く。
危ない。
避けすぎたせいで、胸に痛みが走った。
ダリオの拳が空を切る。
「おお」
ダリオが笑う。
「速ぇな」
「こっちもびっくりしてる」
「は?」
「気にすんな」
二撃目。
今度は左。
拳というより、丸太が飛んでくるみたいだった。
俺は半歩引く。
引くだけでは足りない。
肩をひねって、拳をすれすれで流す。
風圧だけで頬が痛い。
当たったら終わる。
少なくとも、今の身体では倒れる。
「逃げるのは上手ぇな!」
「生き残るために必要だったんでな」
エイベルの声が、ふと頭をよぎる。
相手を見る。
拳を見るな。
肩を見る。
腰を見る。
踏み込みを見る。
エイベルは風魔法だけを教えたわけじゃない。
戦うための目を、叩き込んでくれた。
ダリオの拳は重い。
速い。
だが、金剛とは違う。
痛覚のない城壁ではない。
人間だ。
力を出す前には、必ず体が動く。
肩。
腰。
足。
そこを見れば、次の拳が読める。
ダリオが踏み込む。
右。
見えた。
俺は横に逃げず、前へ出た。
ダリオの拳の内側へ潜る。
「おっ」
ダリオの目が少し見開かれた。
懐に入る。
だが、そこで終わらない。
でかい相手は、懐に入れば安全というわけじゃない。
膝もある。
肘もある。
掴まれたら終わる。
ダリオの腕が、俺を捕まえようと動く。
俺はその腕をくぐり、足を払った。
普通なら、こんな大男は崩れない。
でも、悪名で上がった身体が、思ったより強く地面を蹴った。
ダリオの重心がわずかに浮く。
「ぐっ」
その瞬間、胸が痛んだ。
無理に力を出したせいだ。
痛みで一瞬、息が詰まる。
そこへダリオの肘が来た。
まずい。
俺は体を沈める。
肘が髪をかすめた。
背筋が冷える。
拳だけじゃない。
こいつ、ちゃんと強い。
力任せに見えて、近距離の潰し方を知っている。
「やるな、金剛砕き!」
「嬉しくねぇよ」
ダリオが笑う。
本当に楽しそうだった。
こいつは売人のために来たんじゃない。
上に立つやつが本当に強いか、確かめに来ただけだ。
なら、やることは簡単だ。
分からせる。
俺は一度、大きく息を吐いた。
身体の中の出力を抑える。
速く動きすぎるな。
深く踏み込みすぎるな。
今の身体は、自分の感覚より前に出る。
手綱を引け。
ダリオが三度目の踏み込みをした。
今度は真正面。
拳を振り下ろす。
大振り。
でも、誘いでもある。
避けたところを掴むつもりだろう。
俺は避けなかった。
半歩だけ前へ出る。
拳の軌道の下。
肘の内側。
体が一番詰まる場所へ入る。
エイベルの短剣には触れない。
代わりに、右手を二本指に揃えた。
首筋。
血管の上。
そこへ、指先を当てる。
視界の隅に、黒い文字が浮かびかけた。
【致命の一撃――】
発動する寸前で止める。
指先が、ダリオの首筋に触れていた。
ほんの薄皮一枚。
押し込めば、死ぬ。
ダリオの動きが止まった。
周囲の音も止まった。
売人たちが息をのむ。
構成員たちも、誰も動けない。
その瞬間、空気が少し冷えた。
殺気ではない。
魔力でもない。
理由はない。
ただ、怖い。
その場にいた何人かが、無意識に後ずさった。
ダリオの喉が、小さく鳴る。
目の奥に、初めて恐怖が浮かんだ。
俺自身も、その空気に気づいた。
深淵鼓動は使っていない。
氷も出していない。
なのに、ほんの少しだけ、何かが漏れた気がした。
胸の奥が冷たい。
見物人の中で、年嵩の黒牙構成員が顔を強張らせる。
「……今の」
「黙れ」
隣の男が小声で制した。
「余計なことを言うな」
俺は聞こえないふりをした。
指先を、ダリオの首から離す。
「終わりだ」
ダリオは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……殺さねぇのか」
「殺したら人手が減る」
「は?」
「俺に楯突くやつ。お前みたいに力試しに来るやつ。売人ども。そういうのは、お前が止めろ」
ダリオが目を瞬かせる。
周囲もざわついた。
「俺を使う気か」
「使えるならな」
「負けた俺に?」
「負けたからだろ」
ダリオは一瞬、ぽかんとした顔をした。
それから、腹の底から笑った。
「ははっ」
でかい笑い声が前庭に響く。
「いいな、お前」
「何がだよ」
「殺して終わりじゃねぇのか。気に入った」
「気に入られても困る」
「いいぜ、金剛砕き」
ダリオは拳を下ろした。
そして、売人たちの方を向く。
「聞いたか、てめぇら」
売人たちがびくりと肩を跳ねさせる。
「薬は終わりだ」
「ダ、ダリオさん」
「文句があるやつは、俺を通せ」
ダリオは拳を鳴らした。
「それでも文句があるなら、この人に行け。首に指一本当てられて、死ぬ感覚を味わってこい」
売人たちは、誰も何も言わなかった。
俺は小さく息を吐く。
胸が痛い。
やっぱり無理はした。
セリカが無言で近づいてくる。
「ハルト様」
「怒ってる?」
「怒っていません」
「嘘だろ」
「報告します」
「誰に」
「クロードさんに」
「怒ってるじゃねぇか」
「報告です」
最悪だ。
でも、これで一つ片づいた。
ダリオは俺の前に立つ。
「で、俺は何をすりゃいい」
「まずは売人を黙らせろ。薬を売るな。売りたいやつは俺のところに連れてこい」
「殴っていいか?」
「殺すな」
「難しい注文だな」
「できねぇなら使えない」
「できる」
即答だった。
「あと、薬をやめる気がある売人は集めろ。平和税の集金と刻印の仕事をやらせる」
「平和税?」
「治安を売る」
ダリオは眉をひそめる。
「よく分からん」
「分からなくていい。お前は暴れるやつを止めろ」
「それなら分かる」
「だろうな」
セリカが横で小さく息を吐いた。
「適材適所ですね」
「褒めてるのか?」
「評価しています」
「お前、それ便利に使いすぎだろ」
「便利ですので」
ダリオが笑う。
「第六席、面白ぇ補佐つけてんな」
「だろ」
「褒めていません」
「今のは俺への評価だ」
「都合よく解釈しないでください」
空気が少しだけ緩んだ。
売人たちはまだ青い顔をしている。
黒牙の構成員たちは、俺を見る目を変えていた。
金剛砕き。
それがただの噂ではないと、少しは伝わっただろう。
いや。
きっとまた、噂になる。
病み上がりの第六席が、鉄拳のダリオを魔法なしで止めた。
殺さずに従わせた。
首に指を当てただけで、場の空気が凍った。
噂は、勝手に育つ。
そして、ルシファーはそれを喰う。
俺は胸の奥の冷たさを押し込めた。
恐怖と支配を力に変える。
それが今の俺の生き方なら、使うしかない。
その後、ダリオは売人たちと、自分の徒党の男たちを連れて屋敷を出ていった。
門を抜けたあたりで、取り巻きの一人が声を潜める。
「ダリオ様」
「あ?」
「なぜ、あの程度のやつに……」
ダリオの足が止まった。
取り巻きの男は慌てて続ける。
「た、確かに、あの時の恐怖は団長に少し似ていましたが……」
「わかんねぇのか?」
ダリオが振り返る。
男は肩を跳ねさせた。
「何を、ですか」
「恐怖とかじゃねぇ」
ダリオは、自分の首筋に触れた。
さっき、ハルトの指先が触れた場所だ。
「あいつは、全く本気でやってねぇ」
「本気ではない?」
「ああ。むしろ逆だ。傷ついた体を庇うために、極わずかな力だけで動いてやがった」
ダリオは低く笑った。
「俺は、その片手間みてぇな動きに負けた」
「ですが、魔法も使っていませんでした」
「だからだよ」
ダリオは歯を見せた。
「聞いてた風魔法も使ってねぇ。金剛を砕いた氷も見せてねぇ。追い詰められてからがやべぇって噂もある。だが俺は、そこまで行けなかった」
「そこまで……?」
「あいつを追い詰めることすらできなかったってことだ」
男たちは黙った。
「まだ隠し球がいくつもある」
ダリオの声には、悔しさよりも熱があった。
「ありゃ、化け物になるぜ」
ダリオは拳を握った。
「俺の直感が叫んでやがる。今のうちに、金剛砕きに賭けろってな」
「賭ける……?」
「ああ」
ダリオは笑った。
「人生をだ」
夕方。
騒ぎが収まった頃、屋敷へ戻ると、セリカが一通の封書を持ってきた。
「ハルト様。団長から通達です」
「またかよ」
「明晩、幹部会合に出席せよ、とのことです」
「幹部会合?」
「はい。黒牙の幹部だけが集まる会合です。今回は牙宴とのことですので、食事もあります」
「飯つきの会議か」
「その認識で間違いありません。ですが、ただの食事会ではありません」
セリカは封書の下に添えられていた、もう一枚の紙へ視線を落とした。
「それと、団長から個別の伝言があります」
「俺に?」
「はい」
セリカは少しだけ声を落とした。
「牙宴では、最後まで残っていろ、とのことです」
「……最後まで?」
「はい」
その一言で、胸の奥がわずかに冷えた。
歓迎。
銀翼残党。
シマの処理。
表向きの理由はいくらでもある。
けれど、団長がわざわざ個別に残れと言うなら、話は別だ。
セリカも同じことを考えたのだろう。
「もしかしたら、レヴィン様の件かもしれません」
レヴィン。
その名前が出た瞬間、部屋の空気が少し重くなる。
俺は、腰の短剣に触れた。
「……やっとか」
ニオ。
指輪。
黒煙。
黒牙の双環。
そして、自分がまだ知らない、絵を描いたやつ。
全部が、また動き出そうとしていた。
あとがき
第3話でした。
今回は、鉄拳のダリオ回です。
薬撤廃と平和税を進めようとするハルトに対して、最初に飛んできたのは当然ながら拳でした。
ダリオは黒牙の正式構成員ではありませんが、下部組織側の問題解決屋のような立ち位置です。
力でしか分からない男ですが、だからこそハルトの強さもかなり正確に見ています。
ハルトは今回、風魔法も氷も使っていません。
まだ万全ではない身体を庇いながら、かなり抑えた状態でダリオを止めています。
そして、平和税の区分も少し出ました。
小が黒印。
中が牙印。
大が王牙印。
薬で腐らせるのではなく、治安を売る。
黒牙らしく綺麗な制度ではありませんが、ハルトなりのシマ作りが少しずつ始まっています。
次回は、幹部会合。
黒牙の幹部だけが集まる牙宴です。
新第六席ハルトの歓迎。
銀翼残党の処理。
そして、おそらくレヴィンの件。
そして、ブックマークが2件ついていました。
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