第8話 金剛砕き
第8話 深淵鼓動
作戦当日の夜。
東区の空は、薄い雲に覆われていた。
月明かりは弱い。
屋根の上に伏せたハルトの姿を隠すには、十分な暗さだった。
ハルトが見下ろしているのは、古い料理店の裏口だけだ。
表通りは見えない。
馬車も見えない。
エイベルとセリカが待機している路地も、ここからでは確認できなかった。
だからこそ、時間で動くしかない。
金剛が表から出る。
その数分後、銀脈が裏口から出る。
その瞬間を叩く。
ハルトに見えるのは、裏口だけだった。
裏口の横には、酒樽と木箱が積まれている。
厨房から漏れる熱。
肉と香草と酒の匂い。
こんな場所で、銀翼の団長と副団長が食事をしている。
普通に考えれば、襲う側がどうかしている。
だが、普通では上に行けない。
ハルトは、腰に差した黒い短剣に触れた。
黒い刀身。
黒い牙の紋様。
エイベルから渡された、レヴィンの短剣。
掌に残る冷たい重みが、心臓の音を少しだけ静かにした。
懐には信号呪符がある。
銀脈を殺したら、赤い光を上げる。
それが合図。
エイベルとセリカは、金剛の足止めを切り上げる。
全員撤退。
暗殺は、殺して終わりではない。
逃げて初めて成功。
エイベルの言葉が、頭の奥で繰り返されていた。
ハルトは息を殺す。
サイレントムーブ。
自分の存在を、夜の影へ沈める。
表側の扉が開く音が、建物越しにかすかに聞こえた。
低い笑い声。
重い足音。
金剛が出た。
姿は見えない。
だが、音と時間で分かる。
銀翼団長、金剛のヴァルド。
刃も魔法も通らない。
痛覚もない。
抜き手は、すべてを貫く。
戦うな。
見つかるな。
近づくな。
何度も言われた言葉が、頭の中で鳴る。
足音は、表通りの向こうへ消えていった。
予定通りなら、ヴァルドは馬車へ向かっている。
その先で、エイベルとセリカが足止めする。
ハルトには見えない。
確認もできない。
だから、信じるしかない。
いや、信じるという言葉は少し違う。
作戦通りに進んでいるものとして、動くしかない。
ここから三分。
短くて、やけに長い時間だった。
厨房の音。
遠くの車輪。
路地を流れる夜風。
そのすべてを聞きながら、ハルトは裏口だけを見下ろした。
裏口が開いた。
ぎい、と古い蝶番が鳴る。
先に出てきたのは、護衛が二人。
一人は短剣。
一人は曲刀。
周囲を確認するように、左右を見る。
その後ろから、細身の男が出てきた。
銀色の飾りがついた外套。
痩せた顔。
鋭い目。
戦う体ではない。
だが、弱い人間の目でもない。
あれが。
銀脈のロウエン。
ハルトは屋根の縁に足をかけた。
タイミングは完璧だった。
サイレントムーブを深くする。
音を消す。
気配を消す。
そして、落ちた。
屋根から裏路地へ。
普通なら足を壊す高さ。
だが、訓練塔の五階よりは低い。
着地の寸前、足元に空気の層を挟む。
エアクッション。
衝撃が足から膝へ抜ける。
痛い。
だが、止まらない。
着地と同時に、ハルトは一人目の護衛の背後へ入っていた。
男が振り返る前に、黒い短剣を抜く。
致命の一撃。
刃が、首の横へ沈んだ。
声は出させない。
血が噴く。
一人目が崩れるより早く、ハルトは体を反転させた。
二人目が曲刀を抜こうとしている。
遅い。
エアバースト。
足元で風が弾ける。
ハルトの体が、短い距離を一気に詰めた。
二人目の目が見開かれる。
黒い短剣が、胸の隙間へ滑り込む。
致命の一撃。
心臓。
手応え。
二人目の体が、糸を切られたように崩れた。
数秒。
たぶん、それだけだった。
ハルトは荒く息を吐く。
できた。
護衛二人を、殺した。
ロウエンが振り返っている。
その顔に、初めて焦りが浮かんでいた。
「何者だ」
声は低い。
焦ってはいるが、崩れてはいない。
さすがに副団長。
ただの標的ではない。
ハルトは答えない。
短剣を握り直す。
届く。
あとは、この男を刺すだけ。
殺して、信号呪符を上げる。
逃げる。
それで終わる。
そう思った瞬間だった。
「何してやがる?」
声がした。
低い。
重い。
背中に、鉄の塊を置かれたような声だった。
ハルトの体が止まる。
路地の入口に、ヴァルドが立っていた。
金剛のヴァルド。
手には、小さな包みを持っている。
何かを渡し忘れたのだろう。
それだけ。
たったそれだけのことで、作戦は崩れた。
ハルトは、ヴァルドが戻ってくるところを見ていない。
見えるはずがなかった。
表側は死角だった。
だからこそ、ハルトは完璧なタイミングで動いた。
完璧に動いて。
それでも、破綻した。
ロウエンが息を吐く。
「ヴァルド」
「おい、ロウエン。そいつはなんだ」
ヴァルドは、倒れた護衛二人を見た。
そして、ハルトを見る。
視線が合った瞬間、ハルトの心臓が一つ大きく鳴った。
金剛。
痛覚がない。
刃も魔法も通らない。
抜き手はすべてを貫く。
戦うな。
見つかるな。
近づくな。
エイベルの言葉が、一斉に頭の中で鳴った。
ハルトは信号呪符に手を伸ばしかける。
だが、遅い。
ヴァルドの足が、石畳を踏んだ。
それだけで、路地の空気が沈む。
「黒牙か」
ヴァルドが言った。
笑っている。
怒っているのではない。
面白がっている。
それが、余計に怖かった。
「ロウエンを狙ったのか」
ハルトは答えない。
答えたら、喉が震えそうだった。
次の瞬間、風が走った。
ハルトの前へ、エイベルが降り立つ。
息が少し荒い。
間に合った。
いや、遅れた。
作戦通りではない。
それでも、来た。
「ハルト」
エイベルの声は静かだった。
「逃げなさい」
ハルトは、黒い短剣を握ったまま動けなかった。
ヴァルドが笑う。
「風読みか。てめぇもいたのか」
「ええ」
エイベルは、ハルトの前に立った。
「時間を稼ぎます。逃げなさい」
「でも」
「作戦は破綻しました」
エイベルは言った。
「銀脈を殺せていなくても逃げる。そう決めたはずです」
ハルトの喉が詰まる。
その通りだ。
何度も言われた。
作戦が破綻したら逃げる。
生きて戻る。
それも任務。
分かっている。
分かっているのに、足が動かない。
店の方から怒号が聞こえた。
銀翼の援軍。
別の路地から、金属音。
セリカたちが止めているのだろう。
だが、いつまで持つか分からない。
ここに残れば死ぬ。
死んだらニオを殺せない。
そんなことは分かっている。
それでも。
ここで逃げたら。
ハルトは、エイベルの背中を見た。
黒牙に来て、初めて教えてくれた男。
信用はしていない。
利用し合うだけ。
そう言った。
それでも。
銀の皿を受け取って、静かに礼を言った男。
黒い短剣を渡してきた男。
目的を忘れるなと言った男。
その背中を置いて逃げたら。
また、自分は一人になる。
そんな気がした。
「逃げろ、ハルト」
エイベルがもう一度言った。
ヴァルドが、拳を鳴らす。
「逃がすと思うか?」
低い音が路地に響いた。
ハルトは短剣を握り直した。
逃げるべきだ。
分かっている。
それでも、足は後ろへ下がらなかった。
「……逃げねぇ」
ハルトは言った。
エイベルの肩が、わずかに動く。
「命令違反ですよ」
「知るか」
ハルトはヴァルドを見た。
怖い。
全身が逃げろと叫んでいる。
それでも、前を見た。
「ここで逃げたら、俺はまた一人だ」
黒い短剣が、夜の光を吸った。
金剛のヴァルドが、笑った。
「いい目だ」
路地の空気が、重く沈む。
作戦は終わった。
ここから先は、ただの殺し合いだった。
「ロウエン」
ヴァルドが言った。
「下がってろ」
「分かっている」
ロウエンは、倒れた護衛を一瞥し、すぐに後ろへ退いた。
戦う気はない。
だが、逃げる足取りでもなかった。
あの男は知っている。
この場で誰が一番強いのか。
誰の後ろにいれば安全なのか。
ヴァルドが一歩前へ出た。
それだけで、ハルトの肌が粟立つ。
隙を探す。
サイレントムーブ。
気配を薄める。
黒い短剣を低く構える。
どこだ。
どこに入ればいい。
喉。
脇腹。
膝裏。
心臓。
どこを刺せば死ぬのか。
どこを刺せば止まるのか。
見えない。
ガレスの時は見えた。
下っ端の時も見えた。
けれど、金剛には見えない。
隙がないのではない。
隙という概念が、届かない場所にある。
「どうした」
ヴァルドが笑った。
「来ねぇのか」
ハルトは奥歯を噛んだ。
なら、崩す。
右手を前に出す。
空圧弾。
空気が、ぼん、と鳴った。
訓練で木人を数メートル吹き飛ばした風の塊。
それが、ヴァルドの胸へぶつかる。
服が、わずかに揺れた。
それだけだった。
「……は?」
体勢は崩れない。
呼吸も乱れない。
足も止まらない。
ヴァルドはただ、そこに立っていた。
「それで終わりか?」
ヴァルドが笑う。
ハルトの背筋が冷えた。
エアショットで崩す。
その隙に、致命の一撃を入れる。
エイベルに叩き込まれた形。
その最初の一手が、形にすらならない。
踏み込めば死ぬ。
その直感だけが、全身を縛っていた。
「ハルト」
エイベルが静かに言った。
「一度、私が前へ出ます」
「正面からやる気かよ」
「正面から勝つ気はありません」
エイベルの足元で、風が巻いた。
「隙を作ります」
次の瞬間、エイベルの体が前へ滑った。
エアバースト。
風をまとった踏み込みは速い。
だが、ヴァルドは避けない。
避ける必要がないと言いたげに、ただそこに立っている。
エイベルの指先が動いた。
真空波。
見えない刃が、ヴァルドの首筋へ走る。
だが、音もなく止まった。
皮膚の上で、風が砕ける。
エイベルの目が、ほんのわずかに細くなった。
金系元素。
刃も魔力も通さない、異常な硬度。
風では相性が悪い。
いや、とエイベルは即座に考え直す。
たとえ有利な雷であっても、今の自分たちでは届かない。
これは相性以前の差だ。
「軽いな」
ヴァルドが言った。
エイベルは止まらない。
さらに一歩、踏み込む。
拳が来る。
速い。
重い。
エイベルは紙一重で身をずらした。
頬を風が切る。
ただ拳が通っただけで、空気が裂けた。
ハルトは息を呑む。
あれを食らえば、終わる。
エイベルは、その拳の内側へ入った。
ほとんどゼロ距離。
掌をヴァルドの腹へ押し当てる。
「エアショット」
空気が爆ぜた。
ゼロ距離の空圧弾。
普通の人間なら、内臓ごと吹き飛ぶ距離。
少なくとも、息は止まる。
体勢は崩れる。
膝が沈む。
そのはずだった。
ヴァルドは、怯まなかった。
腹に当たった風が、ただ服を揺らしただけだった。
「どっちも風か」
ヴァルドが、エイベルとハルトを見て笑う。
「残念だったな。金には相性が悪い」
次の瞬間、ヴァルドの手がエイベルの胸ぐらを掴んだ。
「エイベル!」
ハルトが叫ぶより早く、拳が入った。
腹。
ただの腹パン。
それだけで、エイベルの体が折れた。
「がっ……!」
血が吐き出される。
エイベルの足が石畳を擦った。
風で衝撃を散らしている。
エアクッションで、内側から打撃を逃がしている。
それでも、殺しきれない。
ヴァルドは、胸ぐらを掴んだまま笑った。
「残念だったな」
エイベルの口元から、血が垂れた。
それでも、その目は死んでいない。
むしろ、静かだった。
「いいえ」
エイベルは、かすれた声で言った。
「計画通りです」
その瞬間。
ハルトは動いていた。
サイレントムーブ。
気配を殺し、エイベルの影から滑り込む。
エアバースト。
足元で風を爆ぜさせ、距離を消す。
ヴァルドの意識は、エイベルを掴んでいる。
ほんの一瞬。
それだけでよかった。
黒い短剣が、ヴァルドの胸へ届く。
致命の一撃。
入った。
そう思った。
だが、刃は止まった。
「……は?」
ハルトの声が漏れた。
刃先は、皮膚の上で止まっていた。
肉に沈まない。
骨に届かない。
心臓など、はるか遠い。
ヴァルドの胸は、金属の壁だった。
ヴァルドが、ゆっくりとハルトを見下ろす。
「いい踏み込みだ」
笑っていた。
「だが、軽い」
次の瞬間、拳が来た。
抜き手ではない。
ただの拳。
それなのに、ハルトは死を見た。
腹の前に、反射で空気の層を挟む。
エアクッション。
次の瞬間、世界がひっくり返った。
音が消えた。
上下が消えた。
腹の奥で、何かが爆ぜた。
内臓が全部裏返るような衝撃。
肺から空気が消える。
血が喉まで上がる。
体が壁へ叩きつけられた。
「がっ……!」
血を吐いた。
石壁に背中を打ち、膝から崩れる。
息ができない。
どこが痛いのか分からない。
全部痛い。
いや、痛いより先に、体の中がぐちゃぐちゃに混ざったような感覚があった。
「死んだかぁ?」
ヴァルドが首を傾げる。
ハルトの指が、かすかに動いた。
まだ、生きている。
エアクッションがなければ死んでいた。
エイベルに叩き込まれた、地味な風魔法。
それが、即死だけを避けた。
「ほう」
ヴァルドが笑う。
「器用だな」
そして、つまらなそうに続けた。
「苦しみが長引くだけだがな」
エイベルの目が変わった。
初めて、焦りが見えた。
風が爆ぜる。
エイベルが踏み込んだ。
今度は牽制ではない。
全力だった。
エアバーストで加速し、ヴァルドの懐へ入る。
拳を避ける。
真空波。
エアショット。
体勢をずらす風。
足元を滑らせる風。
すべてを重ねる。
エイベルは避けた。
避け続けた。
だが、避けているだけだった。
当たらないことと、戦えていることは違う。
ヴァルドの拳がかすめるたび、風が剥がれた。
肩が裂ける。
肋が軋む。
口元から血が落ちる。
エアクッションの質は、ハルトよりずっと高い。
受け流しも、ずらし方も、比べ物にならない。
それでも、衝撃を殺しきれない。
ヴァルドは、遊んでいるように見えた。
だが、その一撃一撃が、死に直結している。
試合ではない。
そもそも、試合にすらなっていない。
「風読み」
ヴァルドが言った。
「よく避けるな」
「それしかできませんので」
エイベルは血を拭いながら答えた。
「そうか」
ヴァルドが踏み込む。
速い。
エイベルが避ける。
だが、避けた先に拳があった。
読まれている。
「ぐっ……!」
エイベルの体が折れた。
腹に拳が入る。
エアクッションが衝撃を散らす。
それでも血が吐き出された。
エイベルの膝が沈む。
ヴァルドが、もう一度拳を引いた。
次で死ぬ。
ハルトには分かった。
エイベルが死ぬ。
そう思った瞬間、ハルトの体が勝手に動いた。
窮鼠猫噛。
壊れた体に、無理やり力が流れ込む。
肋が軋む。
内臓が悲鳴を上げる。
血が口から漏れる。
それでも、体が立つ。
エアバースト。
今出せる最大の風を、足元で爆ぜさせた。
黒い短剣を握る。
サイレントムーブなど、もう形だけだった。
隠れる余裕はない。
ただ、届くために。
エイベルが死ぬ前に。
ハルトは飛んだ。
「おお」
ヴァルドが楽しそうに笑う。
ハルトの短剣が、もう一度金剛の胸へ向かう。
全身の力。
風。
悪名で強化された体。
窮鼠猫噛。
全部を乗せた一撃。
刃は、また止まった。
「クソが……」
ハルトの声が漏れる。
ヴァルドが笑った。
「悪くねぇ」
拳が上がる。
今度は、ただの殴りではない。
抜き手。
あらゆるものを貫く、金剛の手。
ハルトは動けない。
体がもう、限界だった。
「死ね」
ヴァルドの抜き手が、ハルトへ向かった。
その間に、エイベルが入った。
風が、最後に一度だけ弾ける。
エイベルはハルトの前へ出た。
金剛の抜き手が、エイベルの体を貫いた。
音がなかった。
ただ、エイベルの体が大きく揺れた。
血が落ちる。
赤い滴が、石畳に跳ねる。
「エイ、ベル……?」
ハルトの声がかすれた。
エイベルは、振り返らなかった。
振り返る余裕がなかった。
それでも、声だけはいつものように静かだった。
「逃げなさいと、言いました」
「……」
「君は、本当に」
エイベルの膝が折れる。
「言うことを、聞きませんね」
ヴァルドが腕を引き抜いた。
エイベルの体が崩れる。
地面に倒れる寸前、ハルトが支えようとした。
だが、ハルト自身も立っていられない。
二人まとめて、石畳へ沈む。
エイベルは、まだ息をしていた。
虫の息。
だが、生きている。
ハルトの視界が、赤く滲む。
何かが、胸の奥で鳴った。
違う。
心臓ではない。
もっと奥。
もっと底。
右目の奥で、黒い鎖が鳴った。
今まで開かなかった項目の一つに、亀裂が入る。
【堕落の王が鼓動しました】
【封鎖項目の一部を解放】
??? → 深淵鼓動
心臓が、深い底から叩かれた。
血が冷える。
魔力が冷える。
風が、白く染まっていく。
ハルトの息が、白く漏れた。
石畳に、霜が走る。
黒い短剣の刀身に、薄い氷が張った。
冷たい。
痛みすら、遠い。
怒りも、遠い。
ただ、底の方から何かが上がってくる。
暗く。
深く。
冷たいもの。
「……なんだ?」
ヴァルドが、初めて眉を動かした。
ハルトは立ち上がった。
立てるはずのない体が、立った。
窮鼠猫噛が、死にかけの体を噛み起こす。
深淵鼓動が、魔力を冷たく変質させる。
ハルトの周囲に、白い冷気が流れた。
「風じゃねぇな」
ヴァルドが笑う。
「面白ぇ」
ハルトは答えなかった。
短剣を握る。
足元で、白い風が弾けた。
エアバースト。
だが、さっきまでの風ではない。
冷たい。
白い。
踏み込んだ石畳に、霜が残る。
ハルトの姿が、白い煙の中へ消えた。
氷煙陣。
冷気の煙が、路地を満たす。
視界が白く潰れる。
ヴァルドが笑った。
「目くらましか」
その声は余裕を含んでいた。
だが、ハルトは正面から斬りに行かなかった。
エアショット。
白く冷えた空圧が、ヴァルドの胸へ叩き込まれる。
ヴァルドの体は揺れない。
だが、胸元に白い霜が付いた。
ハルトはすぐに離れる。
エアバースト。
位置を変える。
サイレントムーブ。
音を消す。
もう一度。
エアショット。
同じ胸へ。
白い衝撃がぶつかる。
ヴァルドは顔をしかめない。
痛覚がない。
痛みは、体の異常を知らせる警報。
その警報が、金剛にはない。
ハルトは、エイベルの言葉を思い出していた。
強みは、条件が変われば弱みに変わります。
ヴァルドの胸に、薄い氷が重なる。
ハルトは止まらない。
正面からは通らない。
だから、同じ場所を叩く。
最初にモータルピアスが止まった場所。
金属の壁みたいだった場所。
そこへ、冷気を何度も重ねる。
エアショット。
エアバースト。
白い煙。
位置を変える。
また撃つ。
胸へ。
胸へ。
胸へ。
「ちょこまかと……!」
ヴァルドが腕を振る。
路地の壁が砕けた。
ハルトの頬が裂ける。
避けきれない。
だが、止まらない。
窮鼠猫噛が、傷だらけの体を無理やり動かす。
深淵鼓動が、魔力をさらに冷やす。
ハルトの目は、もうロウエンを見ていなかった。
ヴァルドの胸だけを見ていた。
そこだけ。
そこだけを砕く。
ヴァルドが踏み込む。
抜き手が来る。
ハルトは白い煙の中で体を沈める。
エアバースト。
真横へ跳ぶ。
抜き手が肩をかすめる。
肉が裂ける。
だが、致命傷ではない。
ハルトは、すれ違いざまに短剣を構えた。
胸が凍っている。
最初より、白い。
最初より、鈍い。
金剛は気づいていない。
痛みがないから。
異常を、異常として受け取れないから。
「終わりだ」
ハルトの声は、自分でも驚くほど冷たかった。
足元で、最大出力のエアバーストが爆ぜる。
白い風が、ハルトの体を撃ち出した。
サイレントムーブ。
ホワイトアウト。
窮鼠猫噛。
深淵鼓動。
全部を、黒い短剣の先へ集める。
凍りついた胸へ。
最初に届かなかった場所へ。
ハルトは、短剣を突き込んだ。
致命の氷穿。
凍った金剛の胸が、砕けた。
黒い短剣が、氷の割れ目を突き破る。
肉へ。
骨へ。
奥へ。
心臓へ。
「……お」
ヴァルドの目が、ほんの少し見開かれた。
痛みではない。
驚き。
初めて、自分の体が壊れたことを理解した顔だった。
ハルトはさらに押し込んだ。
冷気が、胸の内側へ走る。
ヴァルドの巨体が、わずかに揺れた。
そして、膝が落ちた。
金剛のヴァルドが、石畳へ沈む。
路地が静まり返った。
白い煙が薄れていく。
ハルトは、短剣を引き抜いた。
息が白い。
血も、手も、心も。
全部が冷えていた。
「ヴァルド……?」
ロウエンの声がした。
震えていた。
銀翼の頭脳。
銀脈のロウエン。
彼は、後ずさった。
「待て。話そう」
ロウエンは両手を上げた。
「取引ができる。黒牙にとっても悪くない話だ。私を殺せば、銀翼の残党が散る。だが、生かせば統合できる。金も、人も、縄張りも、私なら」
ハルトは歩いた。
一歩。
二歩。
ロウエンの言葉が、白い息の中で震える。
「聞け。君は第六席を狙っているのだろう。なら、私を使え。私は組織を広げられる。ヴァルドが死んだ今、私には価値が」
ハルトの手が、ロウエンの顔を掴んだ。
冷たい指が、頬に食い込む。
「価値?」
ハルトの声は低かった。
自分の声なのに、自分のものではないようだった。
「俺に、命乞いの価値を説明すんな」
「ま、待て」
「遅ぇよ」
ロウエンの頭が、石畳へ叩きつけられた。
鈍い音。
一度。
もう一度。
もう、言葉は出なかった。
銀翼の拳と頭脳。
その両方が、同じ夜に沈んだ。
ハルトは、しばらく立っていた。
体が動かない。
いや、動いている方がおかしかった。
傷。
骨。
内臓。
全部が限界だった。
それでも、まだ倒れられない。
ハルトは振り返る。
エイベル。
石畳の上に、エイベルが倒れていた。
まだ息がある。
ほんの少しだけ。
ハルトは膝をつき、その側へ寄った。
「エイベル」
声がかすれた。
エイベルの目が、わずかに開く。
「……勝ちましたか」
「ああ」
「そうですか」
エイベルは、小さく息を吐いた。
「見事です」
「褒めるの、遅ぇよ」
「調子に乗るので」
「こんな時までそれかよ」
ハルトは笑おうとして、うまくできなかった。
喉が詰まる。
エイベルは、血に濡れた口元をわずかに動かした。
「ハルト」
「なんだよ」
「あなたは、人を信用できないと言っていましたね」
「……言ったな」
「信用しなくても構いません」
エイベルの声は、もうほとんど風だった。
「ですが、誰かを信じられないことと、誰かのために動けないことは、同じではありません」
ハルトは何も言えなかった。
「あなたは、逃げませんでした」
「命令違反だろ」
「はい」
エイベルは、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「最悪の生徒です」
「入学したばっかだぞ」
「先が思いやられます」
ハルトは、エイベルの手を握った。
冷たい。
血で濡れている。
この手が、文字を教えた。
風を教えた。
逃げ方を教えた。
殺し方を教えた。
そして、最後にハルトを庇った。
「娘」
ハルトは言った。
エイベルの目が、かすかに揺れる。
「あんたの娘。俺が探す」
エイベルは何も言わない。
ハルトは続けた。
「生きてるなら、見つける。死んでても、ちゃんと知る。だから」
声が震えた。
「安心しろ」
長い沈黙。
それから、エイベルは小さく息を吸った。
「ありがとうございます」
それが、最後の言葉だった。
手から、力が抜ける。
ハルトは、その手を握ったまま動けなかった。
白い冷気が、少しずつ消えていく。
遠くで、セリカの叫ぶ声がした気がした。
誰かが走ってくる音。
黒牙の怒号。
銀翼の悲鳴。
全部が遠い。
ハルトの視界が、ゆっくりと傾いた。
体が限界を思い出す。
窮鼠猫噛の反動。
深淵鼓動の冷え。
金剛の一撃。
全部が、一度に戻ってくる。
ハルトは、エイベルの手を離せなかった。
そのまま、意識が沈んでいく。
この夜。
銀翼は、拳と頭脳を同時に失った。
金剛のヴァルド。
銀脈のロウエン。
二人を討ったのは、ついこの間まで灰鼠だった少年。
そして黒牙は、一人の風読みを失い、一匹の鼠を拾い上げることになる。
のちに金剛砕きと呼ばれる男。
黒牙第六席、ハルトを。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第8話、かなり大きな山場でした。
銀翼団長、金剛のヴァルド。
そして銀翼副団長、銀脈のロウエン。
銀翼の拳と頭脳を同時に討つことになりました。
ただし、その代償として、ハルトはエイベルを失いました。
エイベルから教わった風魔法。
逃げ方。
殺し方。
そして、目的を忘れないこと。
その全部が、この戦いでハルトを生かしました。
今回、ハルトの堕落の王の封鎖項目がひとつ解放され、深淵鼓動が発現しました。
また、作中の属性相性として、金元素の魔法には氷が有効です。
ヴァルドのような硬すぎる防御を、痛覚のなさと合わせて少しずつ冷やして脆くする形になりました。
とはいえ、この時点のハルトがヴァルドより強かったわけではありません。
本来なら、勝てるはずのない相手です。
エイベルが命を張って隙を作ったこと。
エアクッションで即死だけを避けられたこと。
ヴァルドに痛覚がなかったこと。
そして、ルシファーの力がこの瞬間に開いたこと。
いくつもの条件が重なって、ようやく届いた一撃でした。
これは単純にハルトが氷魔法を覚えたというより、ルシファー由来の魔力変質によって起きたものです。
そしてここからは、レヴィン殺害事件の真相へ。
なぜレヴィンは殺されたのか。
誰が裏で糸を引いていたのか。
ニオは本当に何をしたのか。
その先には、ニオの粛清があります。
ハルトが何を知り、何を選ぶのか。
続きを読んでもらえたら嬉しいです。




