第7話 黒い短剣
その日から、仕事と勉強は一度止まった。
文字の練習も。
元素の授業も。
黒牙の仕事も。
全部、後回しになった。
「今日から二日間、戦闘訓練以外は行いません」
エイベルは当然のように言った。
「文字はいいのかよ」
「二日後に死ねば、読める文字が増えても意味がありません」
「嫌な言い方だな」
「事実です」
ハルトは舌打ちした。
反論はできなかった。
二日後。
銀翼団長、金剛のヴァルド。
そして、銀翼副団長、銀脈のロウエン。
二人が月に一度だけ開く食事会。
そこを狙う。
エイベルは、そのためにハルトを仕上げると言った。
副団長を殺すために。
ニオへ届くための足場を作るために。
「まず、作戦の前提を確認します」
エイベルは中庭に立ち、地図を広げた。
セリカも横にいる。
地図には、候補になっている店と、周辺の路地、水路、裏口、厨房口が書き込まれていた。
「金剛は可能な限り避けます」
「倒さないのか」
「倒せません」
エイベルは即答した。
「何度も言わなくていいだろ」
「何度でも言います。君が勘違いしないために」
「してねぇよ」
「では、確認します。金剛には痛覚がありません」
「痛覚?」
「斬られても、焼かれても、骨を砕かれても、痛みで動きが鈍ることがない。そもそも、刃も魔法もほとんど通りませんが」
「痛覚までないのか……化け物だな」
「ええ。ですが、利点だけではありません」
「弱点にもなるってことか?」
「その可能性はあります」
エイベルは静かに頷いた。
「痛みは、体の異常を知らせる警報でもあります。痛みがないということは、傷や変化に気づくのが遅れるということです」
「でも、あいつに傷なんかつけられねぇんだろ」
「今は、そうです」
「今は?」
「覚えておきなさい。強みは、条件が変われば弱みに変わります」
ハルトは地図を見る。
金剛。
刃も魔法も通らない。
抜き手はすべてを貫く。
痛みすらない。
そんな化け物を避けながら、副団長を殺す。
どう考えても正気の作戦ではない。
けれど、ここで引けば、ニオへ届く道は遠のく。
作戦は単純だった。
会食後、金剛は表から出て、少し離れた馬車へ向かう。
エイベルとセリカは、その路地で金剛を足止めする。
長くは持たない。
その間に、ハルトは屋根から裏口へ降りる。
護衛を声も出させず処理し、銀脈を殺す。
成功したら、信号呪符を上げる。
赤い光を確認したら、全員撤退。
それだけ。
それだけの作戦だった。
「銀脈を殺したら、これを使いなさい」
エイベルは細長い紙片を一枚差し出した。
赤い線が一本だけ入っている。
「呪符か?」
「信号用の呪符です。魔力を流して空へ向ければ、赤い光が上がります」
「合図か」
「はい。暗殺は、殺して終わりではありません。逃げて初めて成功です」
ハルトは呪符を見下ろした。
薄い紙片。
これを上げるかどうかで、全員の動きが変わる。
「信号が上がらなかったら?」
「失敗、死亡、妨害。そのどれかです」
「縁起悪いな」
「想定です」
エイベルは地図から目を上げた。
「作戦が破綻した時は、銀脈を殺せていなくても逃げなさい」
「功績は?」
「捨てます」
「……」
「生きて戻ることも任務です」
エイベルは淡々と言った。
「君も、セリカも、私も。死んでいい駒ではありません」
「黒牙っぽくねぇな」
「無駄死にを好む組織は長く残りません」
セリカが横から口を開いた。
「エイベル様は、作戦が破綻した場合の話を何度もします」
「縁起悪いな」
「生存率が上がります」
「真面目かよ」
「はい」
セリカは何の迷いもなく頷いた。
ハルトは小さく息を吐いた。
逃げる。
捨てる。
生きて戻る。
殺すための授業なのに、最初に教えられるのは逃げ方だった。
信号呪符を懐にしまう。
薄い紙一枚が、妙に重かった。
「君の役目は、金剛と戦うことではありません」
エイベルは言った。
「銀脈を殺し、生きて戻ることです」
「……分かった」
「分かっただけでは足りません」
「またそれかよ」
「本番で、必ず守りなさい」
その言葉だけ、妙に重かった。
その日、訓練はすぐに始まった。
最初は空緩衝。
エイベルは、五階ほどの高さがある訓練塔の上にハルトを立たせた。
「降りなさい」
「階段で?」
「飛び降りてください」
「殺す気か!」
「殺す気なら、下に槍を置きます」
「怖ぇこと言うな!」
下には、硬い土の地面がある。
高さは十分すぎる。
落ちれば、普通に足が折れる。
いや、下手をすれば背骨がいく。
「エアクッションは、落ちる直前に出しても間に合いません。落下中に作り、着地の瞬間に厚みを合わせる必要があります」
「説明がもう怖い」
「落ちれば分かります」
「落ちたくねぇんだよ」
「落ちなければ覚えません」
ハルトは空を見上げた。
逃げたい。
だが、逃げたところでセリカに記録されるだけだ。
たぶん「五階から逃げたネズミ」とか書かれる。
それは腹が立つ。
「……やるよ」
ハルトは息を吸い、塔の端から飛び降りた。
胃が浮いた。
風が耳元で暴れる。
地面が近づく。
「っ!」
足元へ魔力を送る。
空気の層を作る。
薄い。
足りない。
もう一枚。
さらに押し込む。
着地の瞬間、空気が潰れた。
「ぐっ……!」
衝撃は消えなかった。
膝が軋む。
肺から空気が抜ける。
足の裏が焼けるように痛い。
だが、骨は折れていない。
ハルトはその場に膝をつき、荒く息を吐いた。
「……生きてる」
「はい」
エイベルが上から見下ろしていた。
「成功です」
「成功でこれかよ」
「成功とは、無傷の意味ではありません」
「言うと思ったよ」
セリカが記録板に何かを書く。
「落下したネズミ、骨折なし」
「お前、絶対楽しんでるだろ」
「記録です」
「記録にネズミって書くな」
次は空圧弾。
木人が、石畳の向こうに立っていた。
エイベルは短杖で木人の胸を指す。
「狙うのは胸の中心です。殺す必要はありません。怯ませる。体勢を崩す。呼吸を乱す。それで十分です」
「分かってる」
「では」
ハルトは右手を前に出した。
空気を押す。
掌の奥へ魔力を集める。
撃ち出す。
空気が、ぼん、と鳴った。
木人の肩に当たる。
胸を狙ったはずが、肩だった。
「外れました」
セリカが言う。
「見りゃ分かる」
「精度はまだですね」
エイベルは言った。
「ですが、威力は悪くない」
木人は二メートルほど後ろへ滑っていた。
足元の土が削れている。
ハルトは自分の掌を見た。
「今の、結構飛んだな」
「はい。精度はまあまあ。威力は申し分ありません」
「珍しく褒めたな」
「事実です」
「そこは素直に褒めろよ」
「褒めています」
ハルトはもう一度、手を構える。
エアショット。
撃つ。
今度は胸に当たった。
木人が数メートル吹き飛び、背中から地面へ倒れる。
殺傷力は低い。
だが、人間なら息が詰まる。
体勢が崩れる。
その一瞬に懐へ入ればいい。
その一瞬に、刃を入れればいい。
ハルトは短剣の柄に触れた。
エアショットで崩す。
サイレントムーブで入る。
致命の一撃で刺す。
少しずつ、形が見えてきた。
次は空纏衝。
これは、ハルトに一番合っていた。
体に風を纏う。
足元で弾けさせる。
踏み込みすぎる体を、風で支える。
止まれない体に、風で手綱をつける。
最初は壁に突っ込んだ。
二度目は足がもつれた。
三度目は、セリカの張った糸に引っかかって転んだ。
「今のは何だ」
「罠です」
「なんで仕掛けた」
「実戦では、足元が安全とは限りません」
「性格悪いな」
「実戦的です」
だが、繰り返すうちに、少しずつ変わっていった。
踏み込む。
風で支える。
曲がる。
止まる。
また踏み込む。
ルシファーによって強化された身体能力に、ようやく手綱がかかり始めていた。
体が勝手に先へ行く。
その先へ、風を置く。
自分の速度を、自分のものにする。
「エアバーストは、実戦で使えます」
エイベルが言った。
「本当か?」
「はい。十分です」
ハルトは肩で息をしながら笑った。
「珍しく分かりやすく褒めたな」
「褒めるべき時は褒めます」
「じゃあ、もっと褒めろ」
「調子に乗るので控えます」
「最悪だな」
夕方まで、訓練は続いた。
エアクッション。
エアショット。
エアバースト。
サイレントムーブ。
致命の一撃。
侵入。
暗殺。
逃走。
失敗した時の道。
殺せなかった時の道。
金剛が来た時の道。
夜になると、三人はまた地図を囲んだ。
食事会の候補地は、ほぼ絞れていた。
港に近い古い料理店。
表向きは高級店ではないが、奥の個室が広く、裏口から水路へ抜けられる。
護衛を少なく見せかけても、逃走経路は多い。
そういう場所だった。
その作戦を、夜が更けるまで何度もなぞった。
金剛を足止めする場所。
ハルトが降りる屋根。
銀脈が出てくる裏口。
信号呪符を上げるタイミング。
そして、逃げる道。
紙の上では、何度やっても同じ場所で終わる。
金剛を止める。
銀脈を殺す。
信号を上げる。
逃げる。
ただ、それだけ。
だが、地図の上の線が、明日の夜も同じ形で動く保証はどこにもなかった。
夜の訓練が終わった頃、空は完全に暗くなっていた。
ハルトは中庭の端で座り込み、荒く息を吐いていた。
右腕も、足も、肺も痛い。
だが、昨日よりは動く。
昨日よりは見える。
昨日よりは、殺すための形ができている。
「ハルト」
エイベルの声がした。
顔を上げると、エイベルが一本の短剣を持っていた。
鞘は黒い。
飾りは少ない。
ただ、柄の部分に黒い牙の紋様が彫られていた。
「この前のお返しです」
「お返し?」
「銀の皿をいただきましたので」
「皿の返しが短剣なのかよ」
「黒牙ですので」
エイベルは短剣を差し出した。
ハルトは受け取り、鞘から抜く。
黒い刀身が、灯りを吸った。
特別に鋭い、という感じではない。
だが、妙に硬そうだった。
冷たい重みが、手に馴染む。
「これ……」
見覚えがあった。
戦槍のガレスを殺した時。
あの薄青い戦槍の隙を縫い、心臓を貫いた短剣。
「あの時のか」
「はい」
「いいのかよ」
「あなたにふさわしいと思います」
エイベルは静かに言った。
「これは、レヴィン様からいただいたものです」
「レヴィン……」
その名前が出ると、空気が少しだけ重くなる。
黒煙のレヴィン。
殺された幹部。
ニオが関わった事件。
ハルトは黒い刀身を見下ろした。
「特別鋭いわけではありません。ですが、非常に硬い。刃こぼれしにくく、使うほどに研がれていく金属です」
「使うほどに?」
「はい。持ち主の使い方に合わせて、刃が馴染む」
「呪いの武器みてぇだな」
「ただの性質です」
「その言い方が一番怖ぇよ」
エイベルは少しだけ目を細めた。
「私が持っていても、あまり研がれませんでした」
「なんで」
「私は、あまり短剣で殺しませんので」
「さらっと言うなよ」
「事実です」
ハルトは短剣を握り直した。
ガレスを殺した刃。
銀翼の幹部を、初めて沈めた刃。
そして今、エイベルから渡された刃。
借り物ではなくなる。
自分のものになる。
「卒業祝いか?」
ハルトが冗談めかして言うと、エイベルは首を横に振った。
「いいえ」
静かな声だった。
「入学祝いです」
「……入学?」
「はい。君はこれから、本当の意味で黒牙の仕事を覚える」
エイベルはハルトを見た。
「盗むこと。殺すこと。逃げること。生き残ること。その全てをです」
「嫌な学校だな」
「入ったからには、卒業まで面倒を見ます」
「卒業できんのかよ」
「生きていれば」
「最悪だな」
「現実的、と言ってください」
ハルトは小さく笑い、黒い短剣を鞘に戻した。
柄に彫られた黒い牙が、掌に当たる。
黒牙の紋様。
その冷たさが、妙に現実的だった。
「明日、仕掛けます」
エイベルが言った。
ハルトは顔を上げる。
「覚えておきなさい。作戦が破綻した時は、必ず逃げること」
「……分かった」
「生きて戻る。それも任務です」
エイベルの声は静かだった。
だが、そこには何か別の重さがあった。
死者は、なるべく減らす必要がある。
その言葉が、ハルトの中に残っている。
掌に、冷たい重みが残る。
ガレスを殺した時と同じ重み。
けれど今度は、借り物ではない。
殺すための授業は、まだ終わらない。
次は、本番だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第7話では、副団長暗殺に向けた作戦と、ハルトの詰め込み訓練を書きました。
狙うのは銀翼副団長、銀脈のロウエン。
避けなければならないのは、銀翼団長、金剛のヴァルド。
ハルトは少しずつ風魔法を形にし、暗殺のための動きも覚え始めています。
そして今回は、エイベルから黒い短剣を受け取りました。
卒業祝いではなく、入学祝い。
ここからハルトは、本当の意味で黒牙の仕事を覚えていくことになります。
次回は、いよいよ作戦本番です。
殺すための授業が、実戦でどこまで通じるのか。
続きを読んでもらえたら嬉しいです。




