第6話 銀の皿と万年筆
ハルトの一日は、だいたい痛みから始まるようになった。
朝は訓練。
昼は仕事。
夜は勉強。
その合間に、クロードの治療と確認が入る。
灰鼠にいた頃より、食事も寝床もずっとまともだった。
だが、楽になったかと言われると、まったくそんなことはない。
むしろ、別の種類の地獄が始まっただけだった。
「火、水、雷、風、土……」
ハルトは机に向かい、紙に文字を書き写していた。
五大元素。
エイベルがそう呼んだ、魔力の基本。
火。
水。
雷。
風。
土。
その横には、氷、金、光、闇といった特殊元素の項目もある。
ただし、深淵は闇とは別。
エイベルはそこだけ妙に強く念を押していた。
闇は特殊元素の一つ。
深淵は、魔法体系の外側に近いもの。
人間が普通に扱うものではない、と。
「……ややこしすぎるだろ」
ハルトは額を押さえた。
文字を読むだけでも面倒なのに、魔法の理屈まで覚えろと言われている。
だが、投げ出す気にはならなかった。
知らないと死ぬ。
エイベルは何度もそう言った。
たぶん、脅しではない。
この世界では、本当に知らないだけで死ぬ。
「意外ですね」
背後から声がした。
ハルトが振り返ると、セリカが立っていた。
手には書類の束を抱えている。
「何がだよ」
「田舎のネズミだと思っていましたが、勉強熱心なのは想定外でした」
「まだネズミ扱いかよ」
「修正には時間がかかります」
「お前の認識の話だろ」
セリカは机の上の紙を見る。
ハルトが書いた文字は、まだ不格好だった。
だが、最初の頃よりは読める形になっている。
「エイベル様が褒めていました」
「エイベルが?」
「はい。筋がいい、と」
ハルトは少しだけ固まった。
「あいつがそんなこと言うのかよ」
「言いました。文字も魔法も、覚え方が悪くないと」
「……へぇ」
変な感じだった。
褒められて嬉しい、というより、あのエイベルがそんなことを言うのが意外だった。
ハルトは視線を紙に戻す。
「別に、勉強が嫌いなわけじゃねぇよ」
「そうなのですか」
「高校受験は、そこそこ頑張った方だしな」
「こうこうじゅけん?」
セリカが眉をひそめた。
ハルトは、しまったと思った。
日本語。
高校受験。
この世界にはない言葉を、また口にした。
「……地元の試験みたいなもんだよ」
「田舎のネズミにも試験があるのですね」
「だから田舎じゃねぇって」
「山奥でしたか」
「戻すな」
セリカは小さく息を吐き、紙の端を指差した。
「そこ、違います」
「どこ」
「風の字です。線が一本足りません」
「細けぇな」
「文字は細かいものです」
セリカは隣に立ち、淡々と訂正を入れていく。
相変わらず言葉は刺々しい。
だが、教え方は丁寧だった。
エイベルとは違う。
エイベルは理屈から組み立てる。
セリカは間違いを一つずつ潰す。
そのどちらも、ハルトには必要だった。
昼になれば、勉強は終わる。
代わりに、実践が始まる。
エイベルの下での仕事は、灰鼠時代とはまるで違った。
盗品の荷車を押すだけではない。
黒牙の商人を護衛する。
銀翼の下部組織が使う倉庫を見張る。
水路沿いで密書を受け取る。
取引相手が裏切らないか、屋根の上から監視する。
時には、銀翼に寝返りかけた男の部屋へ忍び込み、書類を奪い返す。
どれも危ない。
だが、どれも意味があった。
誰を見張るのか。
何を奪うのか。
どこから逃げるのか。
なぜその仕事が必要なのか。
エイベルは、必ず説明した。
それが、灰鼠とは決定的に違った。
そして、ハルトはその中で、風魔法を使わされた。
空圧弾。
空気の圧で相手を怯ませ、体勢を崩す。
最初はよく外れた。
壁に当たり、箱を倒し、味方の足元に当たりかけた。
セリカはそのたびに記録した。
「外れました」
「見りゃ分かる」
「記録です」
「悪口の間違いだろ」
「では、悪口として記録します」
「するな」
空緩衝。
空気の層で衝撃を和らげる。
屋根から降りる訓練では、薄すぎて尻を打った。
打撃を受ける訓練では、空気の層を出すのが遅れて、普通に腹を殴られた。
クロードが見たら、また顔をしかめただろう。
空纏衝。
体の周囲で風を弾けさせ、瞬間的に加速する。
これも難しかった。
加速しすぎて木箱に突っ込んだ。
跳びすぎて屋根の端に腹を打った。
曲がろうとして、そのまま壁に肩をぶつけた。
「猪ですね」
セリカが言う。
「またかよ」
「今回は、風を纏った猪です」
「強そうに言うな」
「強そうではあります。賢そうではありません」
「お前、いつか本当に泣かす」
「文字がもう少し綺麗になってからにしてください」
そういう日々が続いた。
訓練。
仕事。
勉強。
また訓練。
ハルトは少しずつ、読める文字を増やした。
少しずつ、足音を消す時間を伸ばした。
少しずつ、エアショットの形を覚えた。
少しずつ、自分の体の出力に慣れていった。
だが、それでも足りない。
銀翼の副団長を殺すには、まだ足りない。
それは、ハルト自身が一番分かっていた。
その夜、エイベルは珍しく三人で食事を取ると言った。
場所は館の小さな食堂だった。
大きな宴会場ではない。
丸い木の机に、三人分の皿が並んでいる。
煮込んだ肉。
香草を使ったスープ。
焼いた黒パン。
それから、薄く切られた野菜と、白身魚のようなもの。
派手ではない。
だが、丁寧に作られているのは分かった。
「これ、あんたが作ったのか?」
「はい」
エイベルは当然のように答えた。
「料理もできんのかよ」
「料理は手順です。手順を守れば、ある程度は形になります」
「なんでも授業みたいに言うな」
ハルトは皿を見た。
毒か。
そう聞きかけて、やめた。
もう、聞かなくていい気がした。
そのことに気づいて、少しだけ居心地が悪くなる。
セリカがこちらを見る。
「今日は聞かないのですね」
「毎回聞いてたら疲れるだろ」
「少しは学習したようで」
「お前、褒める時も刺してくるな」
「褒めました」
「刺しただろ」
「両方です」
ハルトは舌打ちして、スープを口に運んだ。
温かい。
うまい。
それが少し悔しい。
「……うまいな」
「ありがとうございます」
エイベルは静かに言った。
セリカは、なぜか少し誇らしげだった。
食事は穏やかに進んだ。
黒牙の館の中。
銀翼との抗争中。
外ではまだ血の跡が残っている。
それなのに、その食卓だけは少しだけ普通だった。
普通。
ハルトにとって、その言葉はもう遠いものになりつつある。
だからこそ、妙に落ち着かなかった。
食事が終わりかけた頃、ハルトは腰の袋から包みを二つ取り出した。
「これ」
エイベルが目を向ける。
「何ですか」
「見りゃ分かるだろ」
「見ても分からないから聞いています」
「じゃあ開けろよ」
エイベルは、ゆっくりと包みを開いた。
中に入っていたのは、銀の皿だった。
大きくはない。
食事用というより、取り皿に近い。
だが、磨かれていて、淡い光を返している。
「これは」
「銀の皿だ」
「それは見れば分かります」
「毒が入ってたら分かるんだろ。あと、魔よけにもなるって聞いた」
エイベルは黙った。
「飯、作ってくれたから。あと、世話になってる」
「……私に?」
「他に誰がいるんだよ」
エイベルは、珍しく言葉を返さなかった。
皿を見ている。
銀の表面に、灯りが揺れていた。
ハルトはもう一つの包みをセリカへ差し出した。
「お前にはこれ」
「私に?」
「そう」
セリカは少し警戒するように包みを受け取った。
中に入っていたのは、細い万年筆だった。
黒い軸に、小さな銀の飾りがついている。
「……万年筆」
「文字、教えてくれただろ」
「私は訂正をしただけです」
「その訂正が多すぎるんだよ。あと、俺の字に毎回文句つけるから。これなら書きやすいかと思って」
「文句ではなく訂正です」
「どっちでもいい」
セリカは万年筆を見たまま、しばらく動かなかった。
いつものような刺す言葉が返ってこない。
それが逆に怖い。
「高いやつじゃねぇぞ」
ハルトは早口で言った。
「変な意味もねぇ。世話になったから返しただけだ」
エイベルが、銀の皿から視線を上げる。
「ハルト」
「なんだよ」
「ありがとうございます」
静かな声だった。
セリカも、万年筆を両手で持ったまま小さく言った。
「……大事にします」
ハルトは顔をそらした。
「重いんだよ、反応が」
「贈り物を受け取った時の反応としては普通です」
「普通ってもっと軽いだろ」
「あなたが慣れていないだけでは?」
「うるせぇ」
変な空気だった。
悪くはない。
悪くはないが、むず痒い。
黒牙の館で、盗賊たちの間で、銀の皿と万年筆を渡している。
意味が分からない。
でも、なぜか少しだけ胸が軽かった。
その時、扉が叩かれた。
「エイベル様」
部下の声だった。
食堂の空気が変わる。
エイベルは銀の皿を机に置いた。
「入りなさい」
黒牙の構成員が入ってくる。
息が少し上がっていた。
ただの報告ではない。
ハルトにも、それは分かった。
「銀翼の情報です」
エイベルの目が変わった。
「話しなさい」
「銀翼団長、金剛と副団長。二人が月に一度、食事会を開いているという情報が入りました」
ハルトは顔を上げた。
「食事会?」
「二人は幼馴染だそうです。護衛は最小限。場所は毎回変わりますが、今回の候補が絞れています」
構成員は続けた。
「日時は二日後。店の特定も、もう少しでできます。裏口、厨房口、周辺の路地も確認中です」
二日後。
その言葉が、食卓の上に落ちた。
銀の皿は、まだ机の上で鈍く光っている。
セリカの手には、贈ったばかりの万年筆があった。
さっきまであった温かい空気は、もう消えていた。
エイベルはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「好機ですね」
「狙いますか」
セリカが聞く。
「狙います」
エイベルは即答した。
それから、ハルトを見る。
「二日で仕上げます」
エイベルは言った。
「君には、副団長を殺してもらう」
ハルトは息を吐いた。
二日。
短すぎる。
けれど、ニオへ届くための足場が、目の前に来ている。
ここで引けば、また遠のく。
「……分かった」
ハルトは短剣の柄に触れた。
「詰め込めるだけ、詰め込んでくれ」
「かなり厳しくなりますよ」
「今さら優しくされる方が怖ぇよ」
エイベルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「よろしい」
その声で、飯の時間は終わった。
ここから先は、殺すための授業だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第6話では、ハルトが少しずつ黒牙本体の仕事や訓練に馴染んでいく様子を書きました。
エイベルから風魔法を学び、セリカから文字を直され、実践の中で少しずつ盗賊としての技術を覚えていくハルト。
まだ未熟ですが、ただの灰鼠だった頃とは確実に変わり始めています。
そして今回は、銀の皿と万年筆の場面も入れました。
信用ではなく利害で繋がった関係。
でも、その中にも少しだけ温かいものが生まれ始めています。
ただ、その時間は長く続きません。
銀翼団長・金剛と副団長の食事会。
二日後に来る好機。
次回から、ハルトは副団長暗殺のためにさらに詰め込まれていきます。
ここから一気に、銀翼との抗争が動きます。
続きを読んでもらえたら嬉しいです。




