第8話 神に後悔させる
ハルトは、手を離さなかった。
蝋燭の火が、細く揺れている。
地下水路の奥では、まだ地響きが続いていた。
そのたびに、天井から細かな砂が落ちる。
古い石壁が、軋むように鳴る。
けれど、ハルトはセリカの手だけを握っていた。
冷たい。
何度握り直しても、温かさは戻らない。
「セリカさんは……もう」
クロードが、かすれた声で言った。
「分かってる」
ハルトは答えた。
分かっている。
息をしていないことも。
もう目を開けないことも。
この手が握り返してこないことも。
全部、分かっている。
それでも、離せなかった。
「どうするの?」
リスティアが、静かに聞いた。
いつもの甘えるような声ではない。
地下水路の闇に溶けそうな、小さな声だった。
ハルトは、セリカの手を握ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
「聖教会だとか、言ったな」
声は低かった。
「俺たちは、少なからず罪人だ。盗みもすれば、殺しだってやる」
クロードが黙る。
リスティアも、何も言わない。
「でもな」
ハルトは、黒鋼と銀のネックレスを握った。
「俺たちの居場所を奪うってんなら、容赦はしない」
銀の糸が、蝋燭の光を受けて鈍く光る。
「それが黒牙だ」
ハルトの瞳に、暗い熱が宿った。
「相手が神の使いだろうが、神の使徒だろうが……いや、それが神だったとしても、俺は許さない」
「ハルト……」
「神に後悔させる」
リスティアの表情が歪んだ。
「強いよ」
その声には、恐れが混じっていた。
「ハルトより、ずっと」
「関係ない」
ハルトは、セリカへ視線を戻した。
青白い顔。
乱れた黒髪。
もう動かない指先。
「セリカ」
ハルトは、そっとその手を寝台の上に戻した。
「ここは寒いし、綺麗な場所でもない」
声が、少しだけ揺れる。
「でも、もう少しだけここで待っててくれ」
ハルトは、セリカの指に触れた。
「そしたら、一緒に家に帰ろう」
手を離す。
指先が、ひどく重かった。
ハルトは膝に力を入れ、立ち上がった。
腹の傷が軋む。
銀糸が肉を引き止める。
視界が一瞬、暗く沈んだ。
それでも、立った。
「黒牙の反撃だ」
ハルトは言った。
「王牙幹部、王牙六領として、俺の領地を守る」
「許可できません」
クロードが、即座に言った。
その声は硬かった。
治療師の声だった。
「あなたの身体は、動ける状態ではありません」
「なら治せ」
「これ以上の回復魔法は、体の負担が増えます」
クロードは眼鏡の奥で、ハルトを睨んだ。
「後遺症が残りますよ。後遺症が残らなくとも、少なくとも寿命が縮みます。これは脅しではありません」
「やれ」
「……」
「なら、このまま行く」
ハルトは足を引きずるように、扉へ向かった。
一歩進むだけで、腹から熱いものが滲む。
息をするだけで、体の奥がひび割れる。
「あなたたちは、本当に勝手です」
クロードの声が、背中に刺さった。
「私たち治療師の感情を考えたことはありますか?」
ハルトの足が止まる。
「なぜ、死なせるために手を尽くさなければならないのですか」
クロードの拳が震えていた。
「私は、生かすためにこの道を選んでいるのですよ」
部屋の中が、静まり返った。
蝋燭の火だけが、かすかに音を立てる。
「……迷惑かけるな、クロード」
ハルトは、振り返らずに言った。
クロードは、深く息を吐いた。
「……変わりませんね、あなたは」
眼鏡の奥の目が、苦しげに細まる。
「出会った時から、ずっとそうです」
「変われねぇんだ」
ハルトは、首元のネックレスを握った。
「もう……俺は、この世界で充分変わった」
黒鋼に、銀の糸が絡んでいる。
「これ以上は、大切なモノが守れねぇ」
「大馬鹿ですよ、あなたは」
クロードは吐き捨てるように言った。
けれど、その声には怒りだけではないものが混じっていた。
「ですが、私も無免許の治療師ですので」
クロードは、血に濡れた手袋を外した。
「やはり、気持ちを大切にしたいです」
ハルトが振り向く。
クロードは、真っ直ぐにハルトを見ていた。
「ですが、覚悟してくださいね」
その声は、冷たくも優しくもなかった。
ただ、痛かった。
「命を縮めますよ」
「それでいい」
ハルトは、即答した。
「平和税を払ったやつらがいる。まだ生きてる奴らを助けてくる」
セリカの方を見る。
「セリカが俺を生かした意味を作るんだ」
クロードは、しばらく何も言わなかった。
やがて、椅子を引く。
「ならば、座ってください」
ハルトはクロードを見る。
「もう少しだけ、時間をください」
「……分かった」
ハルトは、寝台の横の椅子に腰を下ろした。
セリカは、すぐ隣にいる。
けれど、もう声は届かない。
クロードが両手をかざす。
淡い光が、ハルトの腹へ落ちた。
治癒の光は温かいはずだった。
だが、今は熱した針を体の奥へ差し込まれるようだった。
「ぐ……っ」
「動かないでください」
クロードの声が飛ぶ。
「今のあなたは、壊れた器に無理やり水を注いでいるようなものです。少しでも暴れれば、内側から崩れます」
「知るか……」
「知ってください」
クロードが言った。
「それでも行くと言ったのは、あなたです」
ハルトは歯を食いしばる。
腹の奥で、裂けたものが無理やり繋がれていく。
骨の髄に、冷たい汗が滲む。
視界が明滅する。
そのたびに、首元の銀が揺れた。
セリカの糸。
ハルトは、それを握った。
痛みが走る。
意識が飛びそうになる。
それでも、握った。
「セリカ」
声にならない声で、ハルトは呟いた。
「少しだけ、待ってろ」
クロードの回復魔法が、地下の小部屋に淡く満ちていく。
遠くで、また地鳴りがした。
王都はまだ、壊れている。
生きている者は、まだ上にいる。
ハルトは、目を閉じなかった。




