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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
第七章 白煙と落日の王都

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第7話 銀の約束



 意識が、地下水路の湿った闇へ戻ってきた。


 石の天井が震えている。

 遠くで、腹の底に響くような地鳴りが鳴っていた。


 水音。

 煤の匂い。

 血の匂い。

 誰かのすすり泣く声。


 ハルトは、目だけを動かした。


「……セリカ」


 喉が焼けている。

 声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。


「セリカは……?」


 リスティアは、すぐには答えなかった。


 ただ、細い指をそっと上げる。


 地下水路の壁際。

 そこに、小さな部屋があった。

 古い鉄の扉。

 上部についた格子窓から、弱い光が漏れている。


 蝋燭の光だった。


 ハルトは、体を起こそうとした。


 腹が裂けるように痛んだ。

 縫い留められた銀の糸が、肉の奥でぎしりと鳴った気がした。


「だめ」


 リスティアが、慌てて肩を押さえる。


「動いたら、死んじゃうよ」


「……死なねーよ」


 ハルトは、歯を食いしばった。


「リスティア……セリカのとこへ……頼む……!」


 リスティアの顔が、くしゃりと歪む。


 それでも、彼女は何も言わなかった。

 ハルトの腕を自分の肩に回し、ゆっくりと支える。


 一歩。


 膝が折れそうになった。


 二歩。


 腹の傷が熱を持ち、視界の端が白く散る。


 三歩。


 鉄の扉の前に立った時、ハルトはほとんどリスティアに体重を預けていた。


 リスティアが扉に手をかける。


 ぎぃ、と重い音を立てて、扉が開いた。


 蝋燭の光が、狭い小部屋の中で揺れていた。


 クロードが立っていた。


 眼鏡の奥の目は、いつものように冷たくはなかった。

 煤で汚れた顔。

 血に濡れた手。

 その指先は、まだ何かを繋ぎ止めようとしていた形のまま、力なく垂れている。


 クロードは、ハルトを見るなり、言葉を失った。


「ハルト様……」


「セリカは?」


 返事はなかった。


 ハルトは、部屋の奥を見た。


 簡易的な寝台があった。

 その上に、セリカが横たわっている。


 肩までの黒髪は乱れ、頬に張りついていた。

 いつもきちんと結ばれていたハーフアップも崩れている。

 青白い肌。

 薄く開いた唇。

 胸は、かすかに上下していた。


 生きている。


 生きているだけだった。


「セリカ……」


 ハルトはリスティアの肩から離れ、倒れ込むように寝台の横へ膝をついた。


 腹の傷が開きそうになる。

 それでも構わなかった。


 セリカの顔を覗き込む。


 目は開いていた。

 けれど、いつもの鋭さはなかった。


「なんで……」


 ハルトの声が震えた。


「なんで、俺を優先した……」


 セリカは、ほんの少しだけ笑った。


「約束……したじゃないですか」


「馬鹿野郎……!」


 喉の奥が詰まる。


 怒鳴りたいのに、声が出ない。

 殴りたいのに、どこにもぶつける場所がない。


 クロードが、静かに口を開いた。


「セリカ様の傷は、今できる限りの処置をしました。ですが、治療が遅く……感染症が酷いです。医療品もありません」


「どういう意味だ?」


 ハルトは振り向いた。


 クロードは目を伏せた。


「……セリカ様は、助かりません」


「……嘘つくな」


 ハルトは、低く言った。


「生きてる」


「生きているだけです」


 クロードの声も震えていた。


「感染症は、治療師の分野ではありません。それに、医者が今ここにいたとしても……同じです。臓器が、もう……」


「ふざけんなよ」


 ハルトは、セリカの手を掴んだ。


「ふざけんなよ、セリカ……死ぬな」


「無理を言わないでください」


 セリカの声は、小さかった。

 けれど、いつものように静かだった。


「俺は、お前とこの第六陣営にいたいんだよ」


 言葉が、勝手に溢れた。


「やっと家になったんだよ。やっと居場所になったんだ。お前がいないと、俺は……!」


 セリカの指が、わずかに動く。


「俺は何もできねぇし……お前がいたから、エイベルの時も立ち直れたんだ……!」


「ハルト様……」


「セリカ……」


 セリカは、ゆっくりと瞬きをした。


「別れは唐突です」


 蝋燭の火が揺れる。


「物語のように、ドラマチックで劇的なものばかりではないのですよ」


「そんなこと、言うなよ……」


「約束、守ってくれてありがとうございます」


「約束……?」


「死なないって……」


 ハルトは、自分の腹に触れた。


 裂けた腹を縫い留める銀の糸。

 命を繋ぎ止めている、細い銀色。


「お前のおかげじゃねぇか……こんなもん……」


「それでいいんです」


 セリカは、かすかに笑った。


「ハルト様は、皆に支えられて生きていくんです」


 薄い唇が、ゆっくりと言葉を作る。


「もう、ひとりではないので」


「お前がいないと、俺じゃねぇよ!!」


 ハルトの声が、小部屋に響いた。


 クロードが唇を噛む。

 リスティアが目を伏せる。


「お前も、俺の人生の一部だって言ってるだろ!!」


「私も、同じ気持ちでした」


 セリカは言った。


「だから、優先したんですよ」


 ハルトの言葉が止まった。


 同じ気持ち。


 そう言われたら、何も返せなかった。


 逆なら。

 自分が同じ場所にいたなら。


 きっと、同じことをした。


 絶対に、した。


「セリカ……!!」


 ハルトは、セリカの小さな手を握りしめた。


「行くな……」


 冷たかった。


 いつも書類を捌いていた手。

 短剣を渡してくれた手。

 紅茶を淹れ、外套を直し、当たり前みたいに隣にあった手。


 その手が、冷たかった。


「ハルト様」


 セリカが、静かに言った。


「無理を言っていいですか?」


「なんでも言えよ」


「ずっと、そばにいたいです」


「いろよ」


 ハルトは即答した。


「いつまでも」


 セリカの指先から、細い銀が紡がれた。


 銀線(シルバーライン)


 それは、弱々しくも美しい糸だった。


 糸はハルトの首元へ伸びる。

 セリカが渡した黒鋼(クロガネ)のネックレスに、ゆっくりと巻きついていく。


 黒だけだった意匠に、銀が絡む。

 黒と銀。

 冷たい鋼と、細い糸。


 まるで、離れないように結び直すみたいに。


「誕生日プレゼントに、しては……地味だったので」


 セリカが、小さく息を漏らした。


「これで、少しは……」


「大切にする」


 ハルトは、ネックレスを握った。


「これを、セリカだと思う」


「良かったです」


 セリカは安心したように目を細めた。


「あぁ……なんだか……こうやって誰かに手を握ってもらうというのは……悪くないですね」


「いつか、生まれ変わったら」


 ハルトは、セリカの手を包んだ。


「またこうして手を繋げばいい。待ってろ、セリカ」


「いつに……なることやら」


「何回でも輪廻すればいいだろ」


 ハルトは、黒鋼と銀のネックレスを握りしめた。


「黒鋼は断てない。俺たちの糸もだ。必ず、いつか巡り会う」


「ふふ……変わりましたね」


 セリカの声が、少しずつ遠くなる。


「やっぱり……ハルト様……あの時、言えなかったのですか……」


「なんだ……?」


 脳裏に、別の光景が浮かんだ。


 蝋燭ではなく、暖かな部屋の光。

 崩れた壁ではなく、飾られた食堂。

 血の匂いではなく、料理の匂い。


 誰かが笑っていた。

 誰かが茶化していた。


 セリカが、そこにいた。


『今はどうなんだよ?』


『今ですか?』


 セリカは、少しだけ目を伏せていた。


『今は……』


 その先を、聞けなかった。


 言えなかった言葉。

 届かなかった答え。


 セリカの唇が、ゆっくりと動く。


「今は……一番大事な……家族です……」


 ハルトは、手を握る力を強めた。


「俺もだ」


 涙が落ちた。


「俺も、そう思ってる」


 セリカは、安心したように笑った。


「……また……会いましょ……う……」


 声が、ほどけていく。


「約束……です……よ……」


「あぁ」


 ハルトは頷いた。


「俺は、約束を破らねぇ」


 セリカは、静かに息を吐いた。


 それは、眠りに落ちる時のように穏やかだった。


 蝋燭の火が揺れる。

 地下水路の奥で、また地響きが鳴る。


 それでも、その部屋だけは、ひどく静かだった。


 セリカは、安心したような顔のまま、息を引き取った。


 ハルトは、手を離さなかった。

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