第6話 一糸
「セリカ……」
瓦礫の山の奥から、掠れた声が聞こえた。
微かな声だった。
爆風の残響と、遠くで響く崩落音に混ざれば、聞き逃してしまうほど弱い。
それでも、リスティアは息を止めた。
聞き間違えるはずがなかった。
「ハルト……?」
足が動いた。
膝は震えている。
体のあちこちが痛む。
頭の奥では、まだ未来視が嫌な熱を持っていた。
それでも、歩いた。
砕けた柱を越える。
割れた皿を踏む。
焼け焦げた布と、血のついた木片の上を進む。
どうにか、生きている。
運命は変えられる。
未来視は絶対ではない。
無数にある可能性のひとつを、脳へ無理やり流し込んでくるだけだ。
それなのに。
ハルト。
死。
その文字だけが、どうしても消えない。
「ハルト……!」
見つけた。
砕けた食堂の床。
瓦礫の隙間に、ハルトが倒れていた。
リスティアは駆け寄った。
途中で瓦礫に足を取られ、前のめりに転ぶ。
関係なかった。
手のひらが切れる。
膝が擦れる。
そんなものは、どうでもよかった。
ハルトの腹部から、血溜まりが広がっている。
口元にも血がついていた。
息はある。
けれど、浅い。
今にも消えそうなほど、浅い。
「……そんな」
リスティアの声が震えた。
「ハルト……死んだらだめ……」
頬に触れる。
冷たい。
「黒牙に、あなたが必要なの……!」
誰か。
誰か、助けられる人はいないのか。
リスティアは顔を上げた。
構成員たちが倒れている。
まだ息のある者。
呻き声すら出せない者。
すでに動かない者。
瓦礫と血と煤の中に、さっきまで笑っていた人間たちが散らばっていた。
その時、リスティアの感覚が反応した。
瓦礫の隙間から、腕が見えている。
「セリカ……!」
リスティアは這うように近づき、瓦礫へ手をかけた。
重い。
動かない。
指先に力を込めても、爪が割れるだけだった。
「動いて……!」
肩を入れる。
足を踏ん張る。
それでも、瓦礫はびくともしない。
「動いてよ……!」
その時。
どん、と重い音がした。
大きな柱が、瓦礫の隙間に差し込まれる。
「助けるよ……」
声がした。
ルーカスだった。
顔は煤で汚れ、額から血が流れている。
足元はふらついていた。
それでも、彼は立っていた。
ボロボロのルーカスの周りを、四体のシルフが飛び回っている。
小さな風の精たちは、ルーカスの裂けた皮膚へ柔らかな風を当てていた。
血の流れが少しずつ弱まり、荒かった呼吸が整っていく。
四体がかりの治癒は、確かに強い。
それでも、全快には程遠かった。
ルーカスが柱に体重をかけるたび、骨の奥が軋むように顔が歪む。
膝は震え、肩は上下し、握った手には力が入りきっていない。
「リスティア様、下がって!」
ルーカスが柱に力を込めた。
「ぐっ……!」
腕の筋肉が膨れ上がる。
足元の石が軋む。
歯を食いしばった顔が、痛みに歪む。
瓦礫が、少しずつ持ち上がっていく。
「今……!」
リスティアは開いた隙間に腕を差し込み、セリカの体を引き抜いた。
セリカは、ひどい状態だった。
いつもは丁寧にまとめられている黒髪のハーフアップが、血と煤で乱れている。
ほどけた髪が頬に張りつき、衣服は裂け、体の下には濃い血が広がっていた。
「……ありがと……う、ございま……」
声が、途中で途切れた。
ルーカスの顔が凍りつく。
「そんな……!」
セリカの腹には、大きな木片が刺さっていた。
深い。
見ただけで分かる。
抜けば、きっと血が止まらない。
「どうしたら……」
ルーカスが頭を抱えた。
「どうしたらいいんだ。セリカ様……俺……」
「私は……いいので……」
セリカの唇が、かすかに動く。
「ハルト……様……」
リスティアは、ハルトの方を振り返った。
「セリカ……ハルトが重症で……」
「クロードが……いるはずで……す」
セリカは、途切れそうな息で言った。
「治療師……」
ルーカスの周りを飛んでいたシルフたちが、まだ彼から離れようとしない。
ルーカスは、荒い息を吐きながら首を振った。
「シルフ……俺はもういい」
小さな風の精たちが、迷うように揺れた。
「ほかの人を優先して……お願い」
それでも、シルフたちは離れない。
まるで、まだ彼が危ないと言っているように。
ルーカスは、無理に笑った。
「大丈夫……俺は、まだ動けるから」
シルフたちは、しばらく迷うようにルーカスの周りを回った。
それから、一体ずつ散っていく。
一体は倒れた構成員の胸元へ降りた。
一体は瓦礫の隙間へ潜った。
一体は遠くの反応を追うように、崩れた壁の向こうへ飛んでいく。
残る一体が、ハルトの上へ降りかけた。
「こっち……!」
リスティアは叫びかけた。
だが、シルフは止まらなかった。
ハルトの上を、ただ通り過ぎる。
何も見なかったように。
そこに助けられる命がないと判断したように。
「……っ」
リスティアの喉が詰まる。
そのシルフは、次にセリカのそばへ降りた。
血と煤に乱れた黒髪。
腹に刺さった木片。
弱く、途切れそうな呼吸。
シルフは、ほんの一瞬だけ迷うように揺れた。
けれど、そこにも留まらなかった。
薄い風をひと撫でだけ残し、別の瓦礫の下へ飛んでいく。
「待って……」
リスティアの声は掠れた。
「待ってよ……!」
シルフは冷たいわけではない。
残酷なわけでもない。
助かりそうな命を、優先しているだけだ。
だからこそ、怖かった。
ハルトも。
セリカも。
シルフには、選ばれなかった。
「違う……」
リスティアは首を振った。
「まだ……まだ、違う……!」
リスティアは周囲を見渡した。
遠くの空では、白い光がまだ落ちている。
一点だけではない。
街を押し潰すように、満遍なく。
光が落ちるたびに、遠い地鳴りが足元へ伝わってくる。
脳の奥で、未来視が暴れそうになる。
リスティアは目を閉じた。
いらない。
今はいらない。
見えすぎる未来を、意識の外へ押し出す。
代わりに、瓦礫の中の気配を探った。
確定ではない。
でも、いる気がした。
クロードが、そこにいる気がした。
「ルーカス」
「なに……?」
「あそこを掘ってほしい……多分、クロードがいる」
「わかった!」
ルーカスが歩き出す。
その途中で、柱の影に倒れている二つの影を見つけた。
「しゃ、シャノン! ベルノ!」
ベルノが、シャノンに覆いかぶさるように倒れていた。
ルーカスが慌てて近づき、肩を揺さぶる。
「シャノン! シャノン!」
「……いてて」
シャノンのまぶたが震えた。
「何が……ベルノっち? 重いにゃ……」
シャノンの目が、少しずつ焦点を結ぶ。
そして、見た。
自分の上に覆いかぶさるベルノが、血まみれになっていることを。
頭から血が流れ続けていることを。
「ベルノっち……?」
シャノンの声が、小さく崩れた。
「ベルノっち! ベルノ!!」
ベルノを優しく横たえる。
声をかける。
肩に触れる。
頬を叩く。
返事はない。
「あの瞬間……」
シャノンは震える声で言った。
「ベルノっちが、マジックシールドを私に張って……」
シャノン自身の傷は浅い。
それが、何より残酷だった。
ルーカスは、ベルノを見下ろした。
「ベルノ……死なないでよ」
声が、頼りなく揺れる。
そこへ、小さな風が降りてきた。
どこから飛んできたのか分からない。
一体のシルフが、ベルノの額のそばでふわりと揺れた。
薄い風が、傷口に触れる。
流れていた血が、ほんの少しだけ勢いを失った。
ベルノの胸が、小さく上下する。
「……ベルノっち?」
シャノンの声が震えた。
シルフは答えない。
ただ、ベルノの頭の周りをゆっくり回りながら、細い風を送り続けている。
助かったわけではない。
けれど、まだ終わっていない。
それだけは、分かった。
「ルーカス、シャノン」
リスティアが言った。
「早くクロードを見つけて。それしかない」
「分かってるよ!!」
ルーカスが声を荒らげた。
すぐに、はっとしたように唇を噛む。
シャノンが涙を拭い、息を吸った。
「ルカ……大丈夫。どうすればいいにゃ?」
「そこを……掘れって、リスティア様が……」
「よし、掘るにゃ……」
シャノンは、震える手を握りしめた。
「たまちゃん……力を貸してほしいにゃ」
魔力が揺れる。
シャノンの頭に、魔力の耳が生えた。
腰のあたりから、尾のような魔力が伸びる。
腕にも、獣の爪のような魔力がまとわりついた。
二人で瓦礫をどかしていく。
石材を投げ、木片を剥がし、焼けた柱を持ち上げる。
少しずつ、下にいた人影が見えた。
大きな体。
ダリオだった。
「おせぇよ……」
ダリオは、血まみれの顔で笑った。
そのまま、力が抜けるように横へ崩れる。
下には、クロードがいた。
ダリオの巨体が覆いかぶさっていたおかげか、クロードの怪我は比較的浅い。
「ダリオさん……ありがとうございます」
クロードが、掠れた声で言った。
「頑丈さしか……俺にゃ取り柄がねぇ……」
ダリオは、苦しげに息を吐く。
「みんなを……頼む」
「ダリオさん……」
ルーカスの声が詰まった。
クロードは、深く頷いた。
「分かりました」
顔を上げた瞬間、クロードの目が変わった。
そこに迷いはなかった。
「お二人は、怪我人を一か所に集めてください。重傷者は動かさず、動ける者は生存者の確認を」
声は冷静だった。
だからこそ、残酷に響いた。
「そして、助からないと判断した者は……そのままです」
ルーカスの顔色が変わる。
「そんなの、分からないですよ! 判断できない!」
「お二人の直感にお任せします」
「そんな……!」
ルーカスの拳が震えた。
「みんな助けたい……!」
「ルーカスさん」
クロードの声が、少し強くなる。
「今は、そういう時ではありません」
ルーカスが息を呑む。
「私は一人しかいません。魔力の総量にも優れておりません。ですが、何より足りないのは時間です」
クロードは、ルーカスをまっすぐ見た。
「決断を」
ルーカスは歯を食いしばった。
血の味がするほど、強く。
シャノンが、ベルノの手を握ったまま顔を上げる。
「私が見るにゃ」
「シャノン……」
「ルカは瓦礫を。私が、生きてる人を探す」
ルーカスは、目を伏せた。
「……分かった」
ルーカスがリスティアの方へ向かう。
クロードとシャノンは、ベルノとダリオをハルトの近くへ運んだ。
クロードは瓦礫の中を見渡し、リスティアを見る。
「リスティアさん……よかった。あなたがいれば、瓦礫から生存者を見つけやすい」
「それより」
リスティアは、ハルトを指した。
「ハルトを見て」
クロードがハルトの前に膝をついた。
「ハルト様……」
その表情が、変わる。
腹部は大きく裂けている。
血はまだ溢れている。
呼吸は浅く、意識はない。
クロードは、すぐに視線を動かした。
ハルトの上を、シルフが通り過ぎたことに気づいたのだ。
助かりそうな命から優先する風の精が、ハルトを選ばなかった。
クロードの喉が、小さく鳴った。
「これは……もう……」
リスティアの指が震える。
「他の者を優先します」
その時だった。
クロードの足を、弱い手が掴んだ。
セリカだった。
「クロード……」
血の気の失せた顔で、セリカがクロードを見上げている。
「ハルト様が、最優先です」
「セリカ様」
クロードの声が揺れた。
「お気持ちは察します。ですが、あなたの方が見込みが高い」
「私は……いいのです」
「いいえ」
クロードは首を振る。
「そもそも針も糸もありません。湯も沸かせない。この状況で私にできることは、多くありません」
セリカの指に、力がこもった。
「それでも……いいんです……」
「セリカ様」
「クロード……!」
別の声がした。
ナザルだった。
イグニスに肩を支えられ、どうにか立っている。
顔には血が流れ、片足を引きずっていた。
それでも、目は死んでいない。
その周りを、シルフが一体だけ飛んでいた。
四体がかりの治癒とは違う。
一体だけの風は、傷をすぐに塞ぐほど強くはない。
それでも、ナザルの呼吸を少しずつ整え、流れる血をゆっくり抑えている。
ナザルは、その小さな風を鬱陶しそうに片手で払った。
「俺はまだ死なねぇよ」
そして、クロードを見る。
「俺が水を出す」
ナザルは、歯を見せて笑った。
「イグニスが沸かす。それでいいだろ?」
イグニスはクロードを見た。
「私の再生は、他人には適応できない」
その声は、いつもより低かった。
「あんたしかいない。あんたをどう使うかは、黒牙が決める。違うの?」
クロードは歯を食いしばった。
「あなたたちは……本当に……悪人ですよ」
声の奥に、怒りにも似たものが滲む。
「助かる命を、増やせるかもしれないのに」
ナザルは、静かに言った。
「俺たちは盗賊だ」
煤と血に汚れた顔で、笑う。
「命も選別する。いいんだな? セリカちゃん」
セリカは、無理に笑った。
それは笑顔と呼ぶには、あまりにも弱かった。
「はい……」
それでも、彼女は言った。
「私ではなく……ハルト様です」
クロードは、目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして、開く。
「できるだけ、やってみます」
ハルトの上半身から、残った布を取り払う。
傷口を見たクロードの顔が、さらに険しくなる。
だが、手は止まらなかった。
「湯を」
「任せろ」
瓦礫から見つけた金属の桶に、ナザルが魔法で水を満たす。
イグニスが手をかざすと、直火のような熱が走った。
水が一気に泡立ち、白い湯気を上げる。
ナザルが、慎重に桶をクロードのそばへ置いた。
「十分沸いてる」
「ありがとうございます」
クロードは瓦礫の中から、薄いガラス片を拾い上げた。
刃物には程遠い。
けれど、この場では使うしかない。
それを湯へ沈める。
「糸は……糸はありませんか」
セリカが、震える手を伸ばした。
細い銀色の魔力が、指先から零れる。
銀線。
魔力で紡がれた、金元素の糸。
細く、しなやかで、先端だけが針のように硬くなる。
「これを……使って……ください……」
クロードの目が見開かれた。
「セリカ様。今、魔法を使えば、あなたは死にますよ」
「はい……」
セリカは、息を吸う。
短く。
苦しそうに。
「ですが……ここは……」
彼女の視線が、瓦礫の山になった第六陣営館をなぞる。
「私の、唯一の……居場所……です」
クロードは唇を噛んだ。
「ハルト様は、治療をしても死ぬかもしれません」
「死にませ……ん」
「なぜですか」
セリカは、ほとんど閉じかけた目で、かすかに笑った。
「約束……したから……です」
その言葉を最後に、セリカの体から力が抜けた。
「セリカ!」
リスティアが抱き留める。
セリカは気を失っていた。
クロードは、銀の糸を受け取った。
「それは……頼もしい根拠です」
震える息を吐く。
「助けるしか、ありませんね」
クロードはハルトの腹部に両手をかざした。
治療魔法の淡い光が灯る。
ガラス片で損傷した部分を整える。
銀線で縫う。
魔法をかける。
また縫う。
内側を。
裂けた臓器を。
血の止まらない場所を。
そして、皮膚を。
何度も。
何度も。
ハルトは、ぴくりとも動かなかった。
リスティアは、動ける者たちと一緒に生存者を探した。
瓦礫の下に手を伸ばす。
まだ息のある者を見つける。
もう動かない者から目を逸らし、それでも次を探す。
頭の奥で、未来視がまだ疼いている。
ハルト。
死。
その文字は、消えていなかった。
だが、リスティアは見ないふりをした。
見るより先に、手を動かした。
しばらくして、別の気配が近づいてきた。
オルガン陣営の構成員たちだった。
装備は汚れているが、被害は少ない。
オルガン陣営の区画は、防衛が機能していたらしい。
「近くの水路から地下へ入れる!」
誰かが叫んだ。
「負傷者を運べ! 動ける者からだ!」
助けが入る。
ハルト。
セリカ。
ベルノ。
ダリオ。
傷ついた構成員たち。
そして、リスティア。
瓦礫の山になった第六陣営館から、地下水路へ。
血と煤と呻き声を抱えたまま、彼らは運び込まれていった。




