第5話 未来視
最初に聞こえたのは、水の音だった。
ぽちゃん。
暗いどこかで、雫が落ちる。
次に、煤の匂いがした。
焦げた木と、濡れた石と、血の匂いが混ざっている。
ハルトは、ゆっくり目を開けた。
視界は暗い。
天井は低く、石造りだった。
壁際に松明がいくつか立てられていて、橙色の火が湿った空気の中で揺れている。
頭の後ろに、誰かの膝があった。
「……起きたの?」
声がした。
リスティアだった。
いつものような距離の近い声。
けれど、どこか薄く、静かだった。
「リス……ティア……?」
「うん。私だよ」
ハルトは身を起こそうとした。
その瞬間、全身に激痛が走った。
「っ、が……!」
腹の奥から火箸を突っ込まれたような痛み。
胸が軋み、背中が裂け、右腕の先まで痺れが走る。
息が詰まった。
「動いちゃだめ」
リスティアの手が、ハルトの肩を押さえた。
強い力ではない。
けれど、逆らうだけの余力がなかった。
ハルトは荒く息を吐きながら、自分の体を見た。
服がない。
上半身は裸だった。
その上に、黒い外套がかけられている。
クロードからもらったばかりの外套だった。
しなやかだった布地は、焼け焦げ、裂け、あちこちが白い粉と血で汚れている。
腹には、大きな傷があった。
裂けた皮膚を、銀色の糸が縫い留めている。
糸は松明の火を受けて、濡れたように細く光っていた。
周囲には、治療魔法の淡い痕が残っている。
クロードの治療跡なのか。
そう思いかけて、ハルトは奥歯を噛んだ。
「……ここは」
「地下水路」
リスティアが答える。
「生きてる人たちを、ここに逃がしてる」
ハルトは、重い首を少しだけ動かした。
暗い地下水路だった。
壁際に、老人が座り込んでいる。
子供を抱いた女が、震える手で口元を押さえている。
すすで汚れた顔の少女が、泣き声を殺して母親の服を握っている。
怪我をした男が、布を巻かれて横たわっていた。
人が多い。
それなのに、声は少ない。
誰もが息を潜めている。
遠くで、地鳴りがした。
ごごん、と石の天井が震える。
松明の火が揺れ、天井の隙間から細かい煤が降った。
子供が小さく悲鳴を上げる。
女がその口を塞ぎ、抱き寄せた。
上で、まだ何かが起きている。
戦っている。
ハルトは息を荒げながら、リスティアを見た。
「リスティア……何が起きた」
喉が掠れていた。
「みんなは?」
リスティアは、すぐには答えなかった。
松明の火が、彼女の横顔を揺らす。
「みんな……知りたい?」
「何言ってんだ」
ハルトは痛みも忘れて声を荒げた。
「当たり前だろ!!」
腹の傷が引きつり、視界が白く弾ける。
「っ……!」
「だから、動いちゃだめってば」
リスティアは困ったように眉を下げた。
いつもの彼女なら、もっと近づいてくる。
もっと興味深そうに、ハルトの目を覗き込む。
けれど今は、妙に優しかった。
それが、怖かった。
「私の口からは言えないよ」
「……は?」
「言葉にしたら、たぶん違うものになる」
リスティアは、ハルトの胸元に手を置いた。
黒鋼のネックレスは、そこにあった。
煤で汚れても、折れず、曲がらず、胸の上に残っている。
「でも、私が見たものや、感じたものを見せてあげることはできる」
ハルトは歯を噛んだ。
「……サイコメトリーか」
レヴィンの時の感覚が、脳裏を掠める。
他人の記憶。
過去に触れる感覚。
見たくないものまで、目の前に差し出されるあの力。
リスティアが頷いた。
「そう」
彼女の瞳が、薄暗い地下で静かに光った。
「見る覚悟はある?」
聞くまでもない。
それでも、リスティアは聞いた。
優しさなのか。
残酷さなのか。
ハルトには分からなかった。
「……くそ」
ハルトは、掠れた声で吐き捨てた。
「早く見せてくれ」
リスティアは、少しだけ目を伏せた。
それから、ハルトの上半身をそっと抱き寄せた。
腹の傷に触れないように。
折れた体を崩さないように。
まるで壊れものを扱うように、優しく。
ハルトの頬が、リスティアの肩に触れた。
「大丈夫」
リスティアが囁く。
「ちゃんと、見せてあげる」
その声が、耳の奥で遠くなる。
松明の火が滲む。
水音が沈む。
地鳴りが、遠ざかる。
ハルトの意識が、暗い底へ落ちていった。
水音が遠ざかっていく。
地下水路の湿った空気も、松明の火も、リスティアの腕の感触も、薄い膜の向こうへ沈んでいった。
代わりに、乾いた紙の匂いがした。
広い部屋。
重い机。
壁一面の書棚。
窓の外に広がる、王都の空。
ゼギルの執務室だった。
だが、ハルトの体はそこにない。
声を出そうとしても、喉がない。
手を伸ばそうとしても、腕がない。
ただ、見ている。
リスティアが見たものを。
リスティアが感じたものを。
空間に、細いひびが入った。
透明な硝子に爪を立てたような亀裂が、音もなく広がっていく。
次の瞬間、世界の一部が砕けた。
割れた空間の向こうから、三つの影が現れる。
ヴァイス。
リスティア。
そして、一人の女。
黒髪のショート。
涼しげな顔立ち。
感情の起伏をほとんど見せない瞳。
そこにいるだけで、部屋の空気が一段冷えるような、不思議な存在感があった。
黒牙第二席。
神風のシオン。
「団長」
シオンは室内を一度だけ見回し、ゼギルへ視線を向けた。
「一体どうしたの」
声は軽い。
けれど、緩んではいない。
「シオン、呼び戻して悪いな」
「いいよ。けど、よっぽどなんでしょ?」
「あぁ」
ゼギルは机に手を置いたまま、短く答えた。
「南諸島連合と聖都の襲撃に備える。一度、黒牙の幹部をルヴェリアに集結させる」
「そうなんだ」
シオンは、ただ頷いた。
「分かった」
返事は軽い。
だが、その指示は絶対だった。
マグナ。
シオン。
ヴァイス。
魔法の特性上、この三人は遠征任務に就くことが多い。
黒牙の領域外で動き、離れた土地で任務を果たす。
だからこそ、今ここに呼び戻す意味は重かった。
「シオン、お前は本部の部屋を好きに使え。しばらくは待機だ」
「分かった。疲れたから、少し寝たい」
「あぁ。好きにしろ」
シオンは頷いた。
次の瞬間には、もういなかった。
音もない。
魔力の揺らぎすら、ほとんど残さない。
そこにいたはずの女が、風にほどけるように消えている。
ゼギルは半眼になった。
「……シオンは」
言いかけて、部屋の中を見回す。
「もう行ったな」
リスティアが、くすりと笑った。
「もう、ベッドで寝てる」
「あいつ……便利な能力だな」
ヴァイスが静かに頷く。
「羨ましい限りです」
「お前も相当だぞ、ヴァイス」
ゼギルは、ヴァイスへ視線を向けた。
「時空元素魔法は、お前たち二人しか使えない。場合によっちゃ、お前たち二人は黒牙の生命線だ」
声が、わずかに低くなる。
「俺の指示以外で、無理はするな」
「承知しております」
ヴァイスは乱れなく頭を下げた。
迷いも、揺らぎもない。
その態度がいつも通りであるほど、ゼギルは小さく息を吐いた。
「そうだろうな」
それから、少しだけ口元を緩める。
「シオンは何考えてるか分かんねぇが……頼りにしてるぞ、ヴァイス」
「身に余るお言葉です」
リスティアは、部屋の端で目を閉じていた。
いつものような、好奇心の浮いた笑みはない。
空気の奥へ指を差し込むように、何かを探っている。
「リスティア」
ゼギルが呼ぶ。
「そろそろマグナは見つかりそうか?」
リスティアは答えなかった。
細い指が、ぴくりと動く。
ゼギルの眉がわずかに寄った。
「リスティア?」
「守って」
その声は、普段の彼女のものとは違っていた。
薄く、短く、冷たい。
「なに?」
リスティアが目を開ける。
その瞳に、いつもの好奇心はなかった。
「今、守ってくれないと」
彼女は、まっすぐにゼギルを見た。
「私は死ぬよ」
ゼギルの目が見開かれる。
次の瞬間、執務室の床から闇が噴き上がった。
黒い魔力が球状に展開し、ゼギル、ヴァイス、リスティアの三人を包み込む。
世界から音が消えた。
そして。
白い光が、黒牙本部を包んだ。
闇の球体が軋む。
外側から、光が削ってくる。
熱ではない。
炎でもない。
白い何かが、闇を押し潰そうとしていた。
轟音が遅れて届く。
執務室の天井が消えていた。
壁の半分が吹き飛び、重い机は裂け、床には砕けた石材と木片が散らばっている。
黒牙本部の一角は、白い光に抉られたように半壊していた。
その上空に、一人の男が浮いている。
荘厳な白装束。
背に広がる白い翼。
白く発光する体。
光の中で揺れる、赤い長髪。
整いすぎた顔立ちは、人間の美しさとは少し違っていた。
首には、太い金の輪。
聖環。
大司教以上の高位聖職者が身につける、聖教会の象徴だった。
「誰だ、てめぇ……」
ゼギルの声が低く落ちる。
男は、空から静かに告げた。
「聖教会に仕える者」
白い翼が、王都の空を覆うように広がる。
「神の使徒第四柱、ウリエル」
白光の中で、赤い長髪が揺れた。
「神命は下った」
ウリエルの瞳が、半壊した本部を見下ろす。
「黒き牙よ。裁きの時だ」
ゼギルは、砕けた床の上で笑った。
黒牙本部が半壊した。
王都の空が焼けようとしている。
その中心に、聖教会の最高戦力が浮かんでいる。
「俺が誰かは、知ってるな?」
「黒牙のゼギル」
ウリエルは淡々と答えた。
「悪魔を使役し、聖教会へ仇なす背信者。排除対象だ」
「はっ」
ゼギルの口元が歪む。
「なら話が早ぇ」
視線だけを、ヴァイスへ向けた。
「ヴァイス。できるだけ構成員を助けろ」
「承知しました」
「リスティアを逃がせるか?」
ヴァイスの目が、わずかに揺れた。
「……イノセントを相手に、ゼギル様お一人で残られるおつもりですか」
「俺を誰だと思ってやがる」
ヴァイスは一瞬だけ黙った。
それから、深く頭を下げる。
「失礼いたしました」
ヴァイスの手が、リスティアの肩へ添えられる。
「リスティア」
「……なに?」
「ハルトのもとへ」
リスティアは、少しだけ目を揺らした。
「……わかった」
ヴァイスの指が空をなぞる。
空間に、細いひびが入ろうとした。
透明な硝子の表面へ、亀裂が走る直前のような歪み。
世界の一部が、わずかに軋む。
その瞬間。
「逃がすとでも?」
ウリエルの声が落ちた。
光が走る。
速い。
空間が割れるよりも早く。
ヴァイスの魔法が開ききるよりも早く。
一条の白が、二人へ向かって伸びた。
「っ……!」
ヴァイスは、座標の固定を捨てた。
綺麗に開く余裕はない。
道を作る余裕もない。
閉じる暇すらない。
ただ、空間の歪みにリスティアを叩き込む。
それだけだった。
ヴァイスはリスティアの肩を掴み、強く突き飛ばした。
「リスティア!」
リスティアの体が、まだ割れきっていない空間へ落ちる。
透明な硝子を無理やり踏み抜いたように、世界が砕けた。
その直後。
一条の光が、ヴァイスの右腕を斬り落とした。
「ヴァイス!!」
ゼギルの怒号が聞こえた。
けれど、その声はすぐに遠ざかる。
割れかけた空間が、巻き戻るように閉じていく。
砕けた硝子片が元の形へ戻るように。
ひびが消え、亀裂が塞がり、世界が何事もなかったかのように繋がっていく。
最後に見えたのは、右腕を失ったヴァイスの背中だった。
次の瞬間、リスティアは石畳の上に転がった。
そこは、第六陣営館ではなかった。
見覚えのある通り。
遠くに続く塀。
屋根越しに、かすかに見える館の影。
近い。
けれど、届いていない。
ヴァイスが定めたはずの座標は、わずかにずれていた。
「っ、は……!」
リスティアは石畳に手をついた。
頭が割れそうだった。
喉の奥に吐き気が込み上げる。
心臓が、ばくばくと嫌な音を立てている。
息が浅い。
指先が震える。
それでも、止まれなかった。
第六陣営館は、まだ先にある。
走らなければ届かない。
走らなければ、間に合わない。
見たくもない未来が、脳に流れ込んでくる。
未来視。
リスティアの固有スキル。
望んだ未来を見る力ではない。
見たくもない予知が、脳に直接流れ込んでくる力だ。
白い光。
砕ける大鐘楼。
爆ぜる倉庫。
炎に呑まれる市場。
瓦礫の下から伸びる手。
まだ壊れていない街の上に、壊れた未来が透けて見える。
「っ、う……!」
胃の中が跳ね上がった。
吐く暇もない。
止まる暇もない。
走る。
走る。
予知を外す。
絶対に。
変える。
運命を変える。
リスティアは歯を食いしばり、石畳を蹴った。
昼の王都は、まだ壊れていない。
店先には布が揺れている。
水路には光が反射している。
荷車を押す男がいて、買い物帰りの女がいて、笑いながら歩く恋人たちがいる。
子供たちが、石畳の上を駆け回っていた。
「ねぇ、白煙三牙って知ってる?」
「知ってる! かっこいいよね!」
「ぼく、ルーカスが好き!」
「えー、ベルノの方が強そうじゃん!」
「シャノンもいるよ! 猫みたいで速いんだって!」
はしゃぐ声が、春の光の中を跳ねていく。
その声に、別の景色が重なった。
同じ子供たちが、石畳の上に倒れている。
さっきまで笑っていた口元から、血が零れていた。
小さな手が、何かを掴もうとして空を掻く。
駆け回っていた足は、もう動かない。
「っ……!」
リスティアの足が、一瞬だけもつれた。
違う。
まだだ。
まだ、そうなっていない。
今、子供たちは笑っている。
三人の名前を、憧れみたいに呼んでいる。
けれど、未来視は容赦なく未来を流し込んでくる。
笑い声の上に、血の味が重なる。
春の光の上に、瓦礫と煙が重なる。
頭の奥に、歪んだ文字が浮かぶ。
ルヴェリア。
死者。
推定、百万人。
「……っ」
リスティアの喉が鳴った。
見えている。
市場で笑っていた女。
荷車を押していた男。
走り回っていた子供たち。
橋の上で立ち止まった老人。
みんな、見えている。
助けたい。
助けたいに決まっている。
けれど、足を止めた瞬間、別の未来が脳を裂く。
第六陣営館。
白い光。
崩れる屋根。
砕ける食堂。
瓦礫の下に沈む、ハルトの姿。
歪んだ文字が、また浮かぶ。
ハルト。
死。
天秤にかける。
王都の人々と、ハルトを。
百万人と、たった一人を。
リスティアは、自分の中で何かが壊れる音を聞いた。
「……ごめん」
声は、ほとんど息だった。
無視する。
見えている死を。
聞こえてくる悲鳴を。
まだ起きていない、けれど確かに流れ込んでくる破滅を。
全部、無視する。
ハルトを。
ハルトを助ける。
「ハルトを……」
リスティアは石畳を蹴った。
「ハルトを、助ける……!」
子供たちの笑い声を背に、走る。
予知を外す。
絶対に。
変える。
運命を変える。
大鐘楼の鐘が鳴った。
ごぉん。
一度。
ごぉん。
二度。
重く澄んだ音が、王都の空へ広がっていく。
子供たちの笑い声が、その下を駆け抜ける。
誰かが昼を告げる鐘だと笑った。
店先の女が、鍋の火を見に戻る。
荷車の男が、肩を回して歩き出す。
いつもの正午だった。
いつもの王都だった。
リスティアだけが、違う音に聞こえていた。
終わりを告げる鐘。
「なんで……」
第六陣営館の門が見えた。
門の前に、誰もいない。
いつもなら誰かがいる。
構成員がいる。
使用人がいる。
警備がいる。
なのに、誰もいない。
「なんで、今日なの……!」
リスティアは速度を落とさなかった。
重い門へ、そのまま体ごとぶつかる。
鈍い音が響いた。
肩に痛みが走る。
膝が砕けそうになる。
それでも、門は開いた。
リスティアは転がるように中へ入り、石畳に膝をついた。
息ができない。
でも、顔を上げる。
「間に……合った……?」
その瞬間。
空が、白く裂けた。
光が落ちる。
祈りも。
叫びも。
願いも。
何ひとつ待たずに。
無慈悲な光が、第六陣営館を呑み込んだ。
リスティアの体が、爆風に弾かれる。
石畳を転がり、背中を打ち、肺の中の空気が抜けた。
視界が白い。
音がない。
熱い。
何も見えない。
それでも、頭の奥に残っていた。
未来視が、リスティアの脳に焼きつけた未来。
それは、まだ外れていない。
どれだけ走っても。
どれだけ願っても。
結末は、そこに残り続けている。
ハルトの死。
その未来だけが、白い光の中で消えなかった。




