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異世界転生した底辺盗賊の俺、悪名を喰らって悪の帝王へ成り上がる  作者: タクト
第七章 白煙と落日の王都

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第4話 春の家



 帰ろう。

 自分の家に。


 城壁を下りた時、ハルトは素直にそう思っていた。


 昼には帰れよ、ちゃんと。


 港で別れたナザルの声が、妙に耳に残っている。


 朝から館の様子はおかしかった。

 セリカは真顔でハルトを追い出し、ルーカスたちは分かりやすく慌て、シャノンは隠していないと言いながら目を逸らした。


 何かを隠している。


 それだけは分かる。

 分かるのだが、悪い気配ではない。

 そう思いたかった。


 大鐘楼の針は、正午へ近づいていた。


 第六陣営館の門が見える。


 ハルトは足を止めた。


 門に、見張りがいない。


 いつもなら、黒牙(こくが)の構成員が立っている。

 気を抜いているようで、最低限の目は光らせている。

 ハルトが戻れば、姿勢を正すか、慌てて扉を開けるか、少なくとも誰かが声をかけてくる。


 今日はいない。


「……は?」


 胸の奥が、嫌な形に締まった。


 ハルトは門を抜けた。


 庭も静かだった。


 春の風が植え込みを揺らしている。

 石畳の隙間に落ちた花びらが、乾いた音も立てずに転がっていく。


 いつもなら、どこかから声がする。


 構成員の話し声。

 誰かの足音。

 荷物を運ぶ音。

 ルーカスの気の抜けた返事。

 ベルノの妙に真面目な声。

 シャノンの文句。

 セリカの淡々とした注意。


 その全部が、抜け落ちていた。


 館の扉の前にも、誰もいない。


 ハルトは歩調を速めた。


「おい」


 扉を開ける。


 廊下は空だった。


 明かりはある。

 掃除もされている。

 荒らされた跡はない。


 それなのに、人の気配だけがない。


 静かすぎる。


 その静けさが、肌の内側へ入り込んでくる。


「セリカ!」


 返事はない。


「ルカ! ベルノ!」


 声が廊下の奥へ吸われる。


「シャノン!」


 沈黙。


 ハルトの右手が、腰の黒鋼(クロガネ)の短剣へ伸びた。


 何かが起きている。


 南諸島連合か。

 どこかの残党か。

 あるいは、また自分だけが知らないところで、何かが壊れたのか。


 食堂の扉が見えた。


 そこだけが閉まっている。


 ハルトは息を殺した。


 扉の向こうに気配がある。


 多い。

 一人や二人じゃない。


 ハルトは短剣の柄を握ったまま、扉の前に立つ。


「誰か!」


 返事はない。


 喉が渇く。


 嫌な想像が、頭の奥を掠めた。


 この世界に来てから、失うことには慣れたつもりだった。

 慣れたくもないのに、何度も慣らされた。


 だから、静けさが怖かった。


 ハルトは歯を噛み、扉を開けた。


 ぱん、と音が弾けた。


 続けて、ぱぱん、と乾いた破裂音。


 視界の前で、色とりどりの紙片が舞った。


 短剣が半ば抜けかける。


「ハルト様!」


 セリカの声が響いた。


「お誕生日、おめでとうございます!」


 食堂には、人がいた。


 セリカ。

 ルーカス。

 ベルノ。

 シャノン。

 ナザル。

 イグニス。

 クロード。

 そして、黒牙の構成員たち。


 皆が、クラッカーを手にしていた。


 木のテーブルには料理が並んでいる。

 肉の焼ける匂い。

 魚の香ばしい匂い。

 湯気の立つスープ。

 大皿に盛られた料理。

 果物を飾った丸いケーキ。

 一本だけ立てられた小さな蝋燭。


 壁には控えめな飾りがあった。

 少し曲がっているものもある。

 それすら、誰かが慣れない手で貼ったのだと分かる。


 春の光が窓から差し込んで、舞い落ちる紙片を照らしていた。


 ハルトは、しばらく動けなかった。


「……え?」


 短剣から手を離す。


「……どういうことだ?」


 ナザルが腹を抱えて笑った。


「いやー、いい顔したな、ハルト!」


「お前……」


「敵の本拠地に突っ込む顔してたぞ」


「笑いごとじゃねぇだろ!」


 ハルトの声は荒くなった。


 怒りよりも、先に安堵が来ていた。


 抜けた力が遅れて膝に落ちそうになり、ハルトは慌てて踏みとどまる。


 セリカが一歩前へ出て、静かに頭を下げた。


「驚かせてしまい、申し訳ありません」


「驚かせるにも限度があるだろ」


「はい。ですが、必要でした」


「何が必要なんだよ」


「サプライズです」


「真顔で言うな」


 食堂に小さな笑いが広がった。


 ルーカスが申し訳なさそうに手を上げる。


「ハルト様、すみません。俺、隠し事が下手で……」


「下手なのはお前だけじゃねぇよ。全員怪しかったぞ」


「ハルト様も、だいぶ疑ってましたもんね」


「当たり前だろ。館から追い出されて、戻ったら誰もいねぇんだぞ」


「にゃはは。バレてたにゃ」


「笑うな。心臓に悪いんだよ」


 ベルノが真面目な顔で一歩前へ出る。


「ですが、成功です。ハルト様」


「お前はなんで勝った顔してんだ」


「任務を完遂しましたので」


「これ任務だったのかよ」


 セリカは淡々と頷いた。


「はい。極めて重要な任務でした」


「お前まで乗るな」


 イグニスが楽しそうに笑った。


「まあまあ、めでたい日じゃないか。まずは祝われときな」


「めでたい日って……」


 ハルトは、まだ状況を飲み込めないままセリカを見る。


「誕生日って、俺のか?」


「はい」


「俺も知らねぇんだけど」


「正確な日付は、分かりませんでした」


 セリカは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「ですが、ハルト様は、春に生まれたからハルトなのだと。そう聞きました」


「……誰から」


「ロッソとバルドです」


 ハルトは目を瞬いた。


「あいつらが?」


「はい。二年ほど共に過ごしていたそうですので」


 すぐには返事が出なかった。


 それは、今の自分が覚えている記憶ではない。

 この身体が、この世界で生きていた頃の話だ。


 春に生まれたから、ハルト。


 曖昧で、雑で、けれど妙に温かい理由だった。


「正確な日付が分からない以上、春のうちに祝うべきだと判断しました」


「それで、今日なのか」


「はい」


「春ならいつでもよかったんじゃねぇか」


「春は、いつまでも続きませんので」


 セリカの声は静かだった。


 ハルトは少しだけ黙る。


 考えてみれば、この世界で自分の誕生日を気にしたことはなかった。


 一年の暦は、元の世界よりほんの少し長い。

 季節の巡りも、月の数え方も、似ているようで少し違う。


 それ以前に、そんなことを考える余裕がなかった。


 生きること。

 食うこと。

 奪われないこと。

 殺されないこと。


 誕生日なんて、思いつきもしなかった。


「……そうか」


 ハルトは小さく息を吐いた。


「だから妙によそよそしかったのか」


「すみません、ハルト様」


 セリカは少しだけ目を伏せる。


「私は、演技が苦手ですので」


「自覚あるんだな」


「あります」


「じゃあ今度からもう少し自然にやれ」


「努力します」


「無理そうだな」


「はい」


 小さな笑いが起きた。


 ハルトは食堂を見渡した。


 全員が、こちらを見ている。

 笑っている者。

 照れくさそうな者。

 得意げな者。

 いつも通りを装っている者。


 黒牙の構成員たちもいる。


 全員が、盗賊だ。

 悪人だ。

 世間から見れば、まともな連中ではない。


 けれど今は、その誰もが、ハルトを祝うためにここにいた。


「……本当に」


 言葉が少し詰まる。


 ハルトは、誤魔化すように笑った。


「嬉しいよ」


 食堂の空気が、少しだけ柔らかくなった。


 セリカの表情も、ほんのわずかに緩む。


「それでは」


 セリカがケーキをハルトの前へ運んだ。


 丸いケーキだった。

 白いクリームの上に春の果物が飾られている。

 中央には、小さな蝋燭が一本だけ立っていた。


「一本だけか」


「正確な年齢分を立てると、食堂が煙で満ちますので」


「俺は爺じゃねぇ」


「それに、一本で十分かと」


 セリカは蝋燭に火をつけた。


 小さな火が灯る。


 ハルトの目の前で、ゆらゆらと揺れた。


「願い事をして、吹き消してください」


「誰に教わったんだよ、それ」


「詳しくは知りません」


「雑だな」


「ですが、悪くないと思いました」


 ハルトは蝋燭の火を見る。


 小さな火だった。

 息を吹けば、簡単に消える。


 その火を、全員が見ている。


 願い事。


 そんなものを、まともに考えたことがあっただろうか。


 金。

 力。

 悪名。

 生き残ること。

 奪われないこと。

 殺されないこと。


 そういうものなら、いくらでも考えてきた。


 けれど、願い事と言われると、すぐには出てこなかった。


 ふと、食堂の音が耳に入る。


 シャノンが肉に手を伸ばし、ベルノに止められている。

 ルーカスが笑っている。

 ナザルが勝手に酒を開けようとして、セリカに目で止められている。

 イグニスが料理の皿を整えている。

 クロードが穏やかに見守っている。

 構成員たちが、少し遠慮がちにこちらを見ている。


 願うほどのことじゃない。


 けれど、思った。


 こんな日が続けばいい。


 ハルトは息を吹いた。


 小さな火が消えた。


 拍手が起きる。


「おめでとうございます、ハルト様!」


「ハルト様、おめでとうございます!」


「おめでとうございます!」


「おめでとうにゃ、ハルト様」


 声が重なる。


 どう返せばいいか、分からなかった。


 ハルトは少しだけ俯き、それから顔を上げた。


「……ありがとな」


 それだけ言った。


 食事が始まった。


 皿の音が鳴る。

 酒が注がれる。

 誰かが笑う。

 誰かが文句を言う。


 シャノンは肉を取りすぎて、セリカに皿を戻されていた。

 ルーカスはケーキを綺麗に切ろうとして、なぜか全部斜めになった。

 ベルノはそれを見て、真剣な顔で切り方を直そうとしている。

 ナザルはハルトの杯へ勝手に酒を注ぎ、イグニスは火加減の完璧な肉を当然のように配っていた。


「これ、うまいな」


 ハルトが言うと、イグニスは満足そうに笑った。


「当然。今日の主役に半端なものは出せないよ」


「火加減、完璧じゃねぇか」


「火の扱いで私に勝てると思う?」


「思ってねぇよ」


「ならよし」


 イグニスは笑って、次の皿を置いた。


「食べな。こういう日は、ちゃんと食べるんだよ」


 ハルトは肉を口へ運ぶ。


 香ばしい。

 熱い。

 噛むと肉汁が広がる。


 ただの飯なのに、妙に胸に残った。


 ナザルが、小さな瓶を掲げて近づいてくる。


「次は俺だな!」


「嫌な予感しかしねぇ」


「なんでだよ」


「お前だから」


「ひでぇな!」


 ナザルは笑いながら、淡い色の液体が入った瓶を差し出した。


「流行りの香水だ」


「香水?」


「あぁ。男は香りも大事だぞ、ハルト」


「急に何の話だ」


 ナザルは満面の笑みで言った。


「失恋したと思うけど、次は頑張れよ」


 一瞬、食堂が静かになった。


 次の瞬間、シャノンが吹き出す。


「にゃはははは!」


「誰が失恋だ!」


 ハルトが声を荒げる。


「というか、お前よりモテるわ!」


「はぁ!? 俺の方がモテるに決まってんだろ!」


「お前は勢いで押してるだけだろ!」


「それも才能だろうが!」


「才能って言うな!」


 ナザルとハルトが言い合う。


 イグニスが楽しそうに笑い、セリカは香水の瓶をちらりと見た。


「香りは悪くありませんね」


「お前も乗るのかよ」


「実用性はあります」


「何のだよ」


 ナザルは胸を張る。


「次の恋だろ」


「だから失恋してねぇ!」


 笑い声が広がる。


 ハルトは瓶を受け取り、ため息をついた。


「……まあ、ありがとな」


「おう!」


 次に、イグニスが小箱を差し出した。


 さっきまでの笑みとは少し違う。

 どこか柔らかく、真面目な顔だった。


「私からは、これ」


 ハルトは箱を受け取る。


 開ける。


 中には、指輪が入っていた。


 金と赤を基調にした意匠。

 小さな不死鳥が、輪の上で翼を広げている。

 羽根の中央には、赤い石が嵌め込まれていた。


「不死鳥……」


「うん」


 イグニスは頷いた。


「不死鳥は、燃えても戻ってくる」


 ハルトは指輪を見る。


 炎のような金。

 血のような赤。

 けれど、不思議と嫌な色ではない。


「だから、これ」


 イグニスの声は、いつもより少しだけ静かだった。


「お守りだよ」


 食堂の空気が、ほんの少しだけ落ち着く。


「ハルトには、必要だと思ったから」


 ハルトは、すぐには返せなかった。


 イグニスは軽く笑う。

 肉を焼き、酒を飲み、豪快に笑う。


 でも、この人の言葉は軽くない。


「死なないでよ、ハルト」


 その一言が、妙に重かった。


「……重いな」


 ハルトは小さく言った。


「うん。重いよ」


 イグニスは隠さずに頷く。


「でも、あなたには必要だと思った」


 ハルトは指輪を取り出し、左手へ通した。


 人差し指には、黒牙の双環がある。

 団長から託された、レヴィンの指輪。


 黒い石と、赤い石。


 二つの光が、左手に並ぶ。


「……ありがとな、イグニス」


「うん」


 イグニスはそこでようやく笑った。


「ちゃんと帰ってきな」


「あぁ」


 ハルトは頷く。


 次に前へ出たのは、クロードだった。


「私からは、こちらを」


 差し出されたのは、新しい黒の外套だった。


 しなやかな布地。

 丈夫な縫製。

 戦闘で動くことを前提にした作りでありながら、見た目は整っている。


「おお……」


 ハルトは素直に声を漏らした。


「かっこいいな」


「それは何よりです」


 クロードは穏やかに頷く。


「これ以上、無茶はしないでくださいよ、と申し上げるつもりでしたが」


 そこで一度、口を閉じる。


「今日のところは、やめておきます」


「ほぼ言ってんな」


 ハルトは苦笑した。


「ありがとう、クロード」


「はい。おめでとうございます、ハルト様」


 その時、食堂の扉が勢いよく開いた。


「ハルト様!」


 ダリオが大量の酒瓶を抱えて入ってきた。


 肩にも一本。

 脇にも二本。

 両腕いっぱいに抱えた瓶が、がちゃがちゃと危なっかしい音を立てている。


「今日は死ぬまで飲みましょう!」


「物騒な祝い方すんな!」


 ハルトが思わず突っ込む。


「お前、どんだけ持ってきたんだよ!」


「祝うなら酒でしょうが!」


「限度があるだろ!」


「第六席の誕生日ですよ? 足りません!」


「足りるわ!」


 ダリオは構成員たちに瓶を配りながら、堂々と言い切った。


「それと、今日は俺も祝わせてもらいますからね」


 ハルトは、少しだけ目を細めた。


 ダリオはもう、真正面から噛みついてくるだけの男ではない。

 けれど、素直に祝いに来たと言えるほど器用でもない。


 それでも、酒瓶を抱えてここへ来た。


「……ありがとな、ダリオ」


「酒が余ったら持って帰ります」


「台無しだよ」


「冗談ですって」


 ダリオが笑う。


 それにつられて、食堂にも笑いが戻った。


「では、次は俺たちです」


 ベルノが一歩前へ出た。


 ルーカスとシャノンも並ぶ。


 ルーカスが細長い箱を両手で差し出した。


「ハルト様。俺たち三人からです」


「三人から?」


「はい」


 ハルトは箱を受け取った。


 蓋を開ける。


 中に入っていたのは、右手だけの黒い手袋だった。


 黒い革。

 動きを邪魔しない薄さ。

 指先まで丁寧に仕立てられ、手首の部分には黒牙の紋章が小さく入っている。


 ただの防具ではない。


 内側には、銀にも似た細い糸が血管のように走っていた。


魔導手袋(マギグローブ)です」


 ベルノが言った。


「特殊な魔力繊維で作られています。魔力の流れを整え、増幅する効果があるそうです」


 ルーカスが続ける。


「右手専用の、オーダーメイド品です。ハルト様に合わせて作ってもらいました」


「オーダーメイドって、お前ら」


「ハルト様は、すぐ無茶しますから」


 ベルノが言った。


 その声は、少しだけ硬かった。


「全部を止められるわけじゃありません。でも、せめて右手くらいは守りたかったんです」


 ハルトは、何も言えなくなった。


 右手。


 何度も氷を放った。

 短剣を握った。

 敵を掴んだ。

 傷つき、焼け、血を流した。


 それを、三人は見ていた。


 シャノンがそっぽを向く。


「高かったんだから、ちゃんと使ってくださいね。ハルト様」


「お前、それ言うか」


「言うにゃ。高かったもん」


「シャノン」


 ベルノが小さく咎める。


「はいはい。セリカ様にも怒られるにゃ」


 ルーカスが笑った。


「でも、本当に高かったです」


「ルカまで言うのかよ」


「すみません」


 三人は、どこか照れくさそうにしていた。


 ハルトは右手袋を手に取る。


「……つけろってことか?」


「はい!」


 ルーカスが頷く。


「今つけてください!」


「お前らも圧が強ぇな」


 ハルトは右手を通した。


 革の内側が、指に吸いつくように馴染む。


 右手を開く。

 閉じる。


 細い魔力の流れが、肌に沿って走った。


 指先の感覚が、少し澄む。

 魔力の流れが、いつもより近く、輪郭を持って感じられる。


 防具というより、誰かの心配が右手に形を持ったようだった。


「どうですか?」


 ルーカスが身を乗り出す。


「……悪くない」


「それ、嬉しい時の言い方にゃ」


「うるせぇ」


 ハルトは右手を見た。


 黒い魔導手袋が、ぴったりと馴染んでいる。


 その重さはほとんどない。

 けれど、確かにそこにある。


 最後に、セリカが小さな包みを持って前へ出た。


「ハルト様。私からです」


 食堂の空気が、少しだけ静かになる。


 ハルトは受け取った。


 丁寧に包まれた布を解く。


 中にあったのは、黒鋼のネックレスだった。


 光を吸い込むような黒。

 派手ではない。

 けれど、角度を変えると鈍く艶めく。


 小さな飾りは、黒牙の紋章を思わせる形をしていた。


「……これ」


黒鋼(クロガネ)です」


 セリカが言った。


 ハルトは指先で触れる。


 見た目より軽い。


 けれど、その軽さは頼りなさではない。

 刃を当てても断てず、力を込めても曲がらず、折れもしない。

 黒牙で黒鋼と呼ばれるものが、ただ硬いだけの金属でないことくらい、ハルトにも分かるようになっていた。


「万年筆のお礼が、できていませんでしたので」


「気にすんなよ、そんなの」


「形にしておきたいのです」


 セリカは、静かにハルトを見る。


「黒鋼の意味は、分かりますよね?」


 ハルトは、ネックレスを見つめた。


「……分かってる」


「このネックレスを、第六陣営だと思って大切にしてください」


 セリカの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「ハルト様が帰る場所として」


 ハルトは、息を止めた。


 帰る場所。


 その言葉が、胸の奥へ落ちる。


「身につけてください」


「……今かよ」


「今です」


 ハルトは少し笑った。


「分かったよ」


 首にかける。


 黒鋼が胸元に落ちた。


 軽い。


 けれど、確かにそこにある。


「似合っています」


 セリカが言った。


「……そうかよ」


「はい」


 その一言が、変に胸へ残った。


 ハルトは、ふと食堂を見渡した。


 構成員たちの笑い声。

 皿の音。

 酒瓶の触れ合う音。

 シャノンを注意するベルノの声。

 ルーカスの困ったような笑い声。

 ナザルの馬鹿みたいな笑い声。

 イグニスの焼いた肉の匂い。

 ダリオが配っている酒。

 クロードの穏やかな横顔。


「人が増えたな、ここも」


 ハルトがぽつりと言うと、隣にいたセリカも食堂へ目を向けた。


「ええ。前より、少し賑やかになりました」


「そうだな」


 賑やか。


 その言葉は、間違っていない。


 けれど、ハルトは少しだけ胸の奥が締まるのを感じた。


 セリカにとって、この場所はどう見えているのだろう。


 短い間に、彼女を育てた二人がいなくなった。

 レヴィンも、エイベルも。

 構成員は増えた。

 笑い声も増えた。

 それでも、空いた穴がそのまま残っている場所だってあるはずだ。


「セリカ」


「はい?」


「俺は、ここが家だと思ってるよ」


 セリカが、少しだけ目を動かした。


「それは、セリカも同じだよな」


 すぐに答えは返ってこなかった。


 食堂の騒がしさが、少しだけ遠くなる。


 セリカは、ハルトから視線を外さず、静かに頷いた。


「……そうですね」


「俺は死なねーから」


「なんですか? 急に」


「いや、心配かと思って」


 セリカは一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、いつもの調子で言う。


「ハルト様は、殺したって死にません」


「どういうことだよ」


「ずっとそうでしたから。この半年」


「まあ、死にかけはしたな」


「はい。でも……」


「ん?」


 セリカは、そこでほんの少しだけ表情を緩めた。


 ハルトが初めて見るような、柔らかい笑みだった。


「その約束……忘れないでくださいね」


 ハルトは、少しだけ言葉に詰まった。


「あぁ。忘れねぇ」


「では、食事を取り分けてきます」


「あ、あぁ」


 セリカは静かに踵を返した。


 いつも通りの歩き方だった。

 けれど、少しだけ耳が赤いように見えた。


 ハルトは視線を逸らし、誤魔化すように杯へ手を伸ばす。


 胸の奥が、妙に落ち着かなかった。


 首には黒鋼。

 右手には魔導手袋。

 左手には黒牙の双環と、不死鳥の指輪。

 近くにはナザルからもらった香水の瓶。

 肩にはクロードからの新しい外套。

 テーブルの上には食いかけの料理。

 酒瓶。

 消えた蝋燭。

 曲がった飾り。

 笑い声。

 皿の音。


 ハルトは、もう一度食堂を見渡した。


 セリカがいる。

 ルーカスがいる。

 ベルノがいる。

 シャノンがいる。

 ナザルがいる。

 イグニスがいる。

 クロードがいる。

 ダリオがいる。

 黒牙の構成員たちがいる。


 みんながいた。


 盗賊だ。

 悪人だ。

 まともな連中ではない。


 それでも。


 俺にはこんなに、失いたくないモノが増えた。


 胸の奥で、その言葉が落ちた。


 ハルトは杯を置いた。


「……なあ」


 食堂の声が、少しだけ静かになる。


「話しておきたいことがある」


 ナザルが「お、主役の挨拶か?」と茶化しかける。


 だが、ハルトの目を見て、口を閉じた。


 セリカが顔を上げる。

 ルーカスが不思議そうに瞬きをする。

 ベルノが背筋を伸ばす。

 シャノンが皿を置く。

 イグニスも、ダリオも、クロードも、こちらを見る。


 ハルトは、黒い右手を握った。


「まず、今日という日に感謝したい」


 言葉は、思ったより自然に出た。


「ありがとう」


 誰も、すぐには茶化さなかった。


「正式に黒牙に入ったのも、王牙幹部(レガリアファング)になったのも、まだ日が浅い」


 ハルトは続ける。


「それでも、これだけの人間が俺についてきてくれてる。祝ってくれてる」


 一度、息を吐く。


「本当に、感謝してる」


 食堂の奥で、誰かが小さく頷いた。


「それと、もう一つある」


 ハルトは、自分の胸に触れた。


 黒鋼のネックレスが、そこにある。


「俺は、この世界の人間じゃない」


 食堂が、静まり返った。


「俺の名前は、島崎春渡だった」


 島崎春渡。


 口にした瞬間、自分のものなのに、少し遠い名前に感じた。


「異世界から転生した」


 誰も、声を出さない。


 冗談だと笑う者はいない。

 ハルトの表情が、それを許さなかった。


「元いた世界は、もっと栄えてた。もっと平和だった。俺は、ただの学生だった」


 記憶を、言葉にする。


「向こうが嫌いだったわけじゃない。帰る場所がなかったわけでもない。大事じゃなかったわけでもない」


 ハルトは息を吸った。


「でも、今、元の世界に帰りたいかって聞かれたら」


 食堂の灯りが、静かに揺れる。


「胸を張って、違うって言える」


 黒鋼が、胸元に触れている。


「夢は見る。元の世界の夢を」


 誰かが息を呑んだ。


「学校へ行く夢。見慣れた道を歩く夢。当たり前だったものが、当たり前にそこにある夢」


 ハルトは少しだけ笑った。


「でも、その夢の中で、俺はここに帰りたいって思う」


 言葉にすると、不思議なくらい胸が軽くなった。


「ルヴェリアの水路を探す。第六陣営館の門を探す。セリカの声を、ルカたちの騒がしさを、ナザルの笑い声を、イグニスの焼いた肉の匂いを探す」


 ナザルがわずかに口角を上げる。

 イグニスは、何も言わずにハルトを見ていた。


「まだ半年だ」


 ハルトは言った。


「短くて、とても長かった半年だ」


 そして、ゆっくり顔を上げる。


「今の俺の家は、ここだ」


 静寂。


 その言葉は、食堂の中へ静かに落ちた。


 拍手も、歓声も、すぐには起きなかった。


 全員が、その言葉を受け止めているようだった。


 セリカが、静かに問いかける。


「ハルト様は……本当に、元の世界に帰りたくないのですか?」


「あぁ」


 ハルトは頷いた。


「帰りたくないって言うと、少し違うかもしれない。向こうを捨てたいわけじゃない」


 少しだけ目を伏せる。


「でも、こっちにもできたんだ」


 右手を開く。

 黒い手袋が、小さく軋む。


「同じくらい。いや、それ以上かもしれないくらい、失いたくないものが」


 セリカは黙っていた。


 ハルトは、少し照れくさくなって視線を逸らす。


「……こんな日が続けばいいなって、思った」


 セリカが、ほんの少し笑った。


「らしくないですね」


「悪かったな」


「来たばかりの頃は、近づくものすべてに噛みつきそうな野良犬のようでしたので」


「ひでぇな」


「事実です」


「今はどうなんだよ」


「今ですか?」


 セリカは少しだけ考えるように、目を伏せた。


「今は……」


「ハルト様!」


 ダリオの声が割り込んだ。


 酒瓶を片手に掲げ、妙に得意げな顔をしている。


「しんみりするのは終わりです! 今日は祝いの日でしょう!」


「お前なぁ」


「それに、今の話を聞いたら、なおさら飲むしかありません!」


「どういう理屈だよ」


「ハルト様がこの世界を選んだ記念です!」


 ナザルが笑って杯を持ち上げる。


「いいじゃねぇか。仕切り直すぞ」


 イグニスも杯を上げる。


「そうだね」


 ルーカスが慌ててグラスを取る。

 ベルノが背筋を伸ばす。

 シャノンが肉皿を片手に、もう片方で杯を持つ。

 セリカも静かに杯を持った。


 ダリオが声を張る。


「異世界転生者にして、新たな黒牙の牙!」


 食堂の全員が、杯を掲げる。


白煙(はくえん)のハルト様の誕生日を祝って!」


 遠くから鐘の音が響いた。


 ごぉん。


 大鐘楼の鐘だ。


 正午を告げる、重く澄んだ音。


 ごぉん。


 二つ目の鐘が、王都の空へ広がる。


 水路へ。

 港へ。

 城壁へ。

 春の街へ。


 ルヴェリアが、いつもの正午を迎える音だった。


 ハルトは杯を持ち上げた。


 セリカが微笑む。

 ルーカスが笑う。

 ベルノが胸を張る。

 シャノンが肉を狙う。

 ナザルが馬鹿みたいに笑う。

 イグニスが、優しい目をしている。

 ダリオが酒瓶を掲げている。

 構成員たちが、同じように杯を持っている。


 ここは俺の陣営じゃない。

 俺の席でも、俺のシマでもない。


 家だ。


 そう思った。


 ごぉん。


 鐘が鳴る。


 ハルトは息を吸った。


「乾杯!」


 その瞬間。


 世界が、真っ白になった。


 体が浮いたのだけは分かった。


 音はしなかった。


 いや。


 あまりに大きすぎて、音として分からなかった。


 さっきまであった笑い声が消えた。

 杯の音も、皿の音も、誰かが名前を呼ぶ声も、全部が白に飲まれた。


 体が動かない。

 息が吸えない。


 世界が揺れている。


 空が見えた。


 それがおかしかった。


 食堂にいたはずだ。

 天井があったはずだ。

 仲間がいたはずだ。


 なのに、空が見えている。


「……なんで」


 目だけを動かす。


 瓦礫の隙間から、誰かの腕が見えた。


「セリカ……」


 返事はない。


「ルカ……」


 喉が焼けるように痛い。


「ベルノ……」


 声にならない。


「シャノン……」


 体が動かない。


「ナザル……」


 地響きが起こる。


「イグニス……」


 また、揺れた。


 何度も。

 何度も。


 振動が、壊れた体に伝わってくる。


 大鐘楼の鐘は、まだ鳴っていた。


 ごぉん。


 歪んだ音が、遠くで揺れる。


 正午を告げるはずの鐘が、まるで弔鐘のように聞こえた。


 ハルトは、かろうじて空を見た。


 昼の空に、四つの白い光が浮かんでいた。


 まるで、昼に輝く星のようだった。


 右手を伸ばす。


 黒い魔導手袋の指先が、瓦礫を掻いた。


 届かない。


 胸元で、黒鋼が冷たく触れている。


 もう一度、名前を呼ぼうとした。


 けれど、口の中に血の味だけが広がった。


 そこで、世界が落ちた。

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