第4話 春の家
帰ろう。
自分の家に。
城壁を下りた時、ハルトは素直にそう思っていた。
昼には帰れよ、ちゃんと。
港で別れたナザルの声が、妙に耳に残っている。
朝から館の様子はおかしかった。
セリカは真顔でハルトを追い出し、ルーカスたちは分かりやすく慌て、シャノンは隠していないと言いながら目を逸らした。
何かを隠している。
それだけは分かる。
分かるのだが、悪い気配ではない。
そう思いたかった。
大鐘楼の針は、正午へ近づいていた。
第六陣営館の門が見える。
ハルトは足を止めた。
門に、見張りがいない。
いつもなら、黒牙の構成員が立っている。
気を抜いているようで、最低限の目は光らせている。
ハルトが戻れば、姿勢を正すか、慌てて扉を開けるか、少なくとも誰かが声をかけてくる。
今日はいない。
「……は?」
胸の奥が、嫌な形に締まった。
ハルトは門を抜けた。
庭も静かだった。
春の風が植え込みを揺らしている。
石畳の隙間に落ちた花びらが、乾いた音も立てずに転がっていく。
いつもなら、どこかから声がする。
構成員の話し声。
誰かの足音。
荷物を運ぶ音。
ルーカスの気の抜けた返事。
ベルノの妙に真面目な声。
シャノンの文句。
セリカの淡々とした注意。
その全部が、抜け落ちていた。
館の扉の前にも、誰もいない。
ハルトは歩調を速めた。
「おい」
扉を開ける。
廊下は空だった。
明かりはある。
掃除もされている。
荒らされた跡はない。
それなのに、人の気配だけがない。
静かすぎる。
その静けさが、肌の内側へ入り込んでくる。
「セリカ!」
返事はない。
「ルカ! ベルノ!」
声が廊下の奥へ吸われる。
「シャノン!」
沈黙。
ハルトの右手が、腰の黒鋼の短剣へ伸びた。
何かが起きている。
南諸島連合か。
どこかの残党か。
あるいは、また自分だけが知らないところで、何かが壊れたのか。
食堂の扉が見えた。
そこだけが閉まっている。
ハルトは息を殺した。
扉の向こうに気配がある。
多い。
一人や二人じゃない。
ハルトは短剣の柄を握ったまま、扉の前に立つ。
「誰か!」
返事はない。
喉が渇く。
嫌な想像が、頭の奥を掠めた。
この世界に来てから、失うことには慣れたつもりだった。
慣れたくもないのに、何度も慣らされた。
だから、静けさが怖かった。
ハルトは歯を噛み、扉を開けた。
ぱん、と音が弾けた。
続けて、ぱぱん、と乾いた破裂音。
視界の前で、色とりどりの紙片が舞った。
短剣が半ば抜けかける。
「ハルト様!」
セリカの声が響いた。
「お誕生日、おめでとうございます!」
食堂には、人がいた。
セリカ。
ルーカス。
ベルノ。
シャノン。
ナザル。
イグニス。
クロード。
そして、黒牙の構成員たち。
皆が、クラッカーを手にしていた。
木のテーブルには料理が並んでいる。
肉の焼ける匂い。
魚の香ばしい匂い。
湯気の立つスープ。
大皿に盛られた料理。
果物を飾った丸いケーキ。
一本だけ立てられた小さな蝋燭。
壁には控えめな飾りがあった。
少し曲がっているものもある。
それすら、誰かが慣れない手で貼ったのだと分かる。
春の光が窓から差し込んで、舞い落ちる紙片を照らしていた。
ハルトは、しばらく動けなかった。
「……え?」
短剣から手を離す。
「……どういうことだ?」
ナザルが腹を抱えて笑った。
「いやー、いい顔したな、ハルト!」
「お前……」
「敵の本拠地に突っ込む顔してたぞ」
「笑いごとじゃねぇだろ!」
ハルトの声は荒くなった。
怒りよりも、先に安堵が来ていた。
抜けた力が遅れて膝に落ちそうになり、ハルトは慌てて踏みとどまる。
セリカが一歩前へ出て、静かに頭を下げた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません」
「驚かせるにも限度があるだろ」
「はい。ですが、必要でした」
「何が必要なんだよ」
「サプライズです」
「真顔で言うな」
食堂に小さな笑いが広がった。
ルーカスが申し訳なさそうに手を上げる。
「ハルト様、すみません。俺、隠し事が下手で……」
「下手なのはお前だけじゃねぇよ。全員怪しかったぞ」
「ハルト様も、だいぶ疑ってましたもんね」
「当たり前だろ。館から追い出されて、戻ったら誰もいねぇんだぞ」
「にゃはは。バレてたにゃ」
「笑うな。心臓に悪いんだよ」
ベルノが真面目な顔で一歩前へ出る。
「ですが、成功です。ハルト様」
「お前はなんで勝った顔してんだ」
「任務を完遂しましたので」
「これ任務だったのかよ」
セリカは淡々と頷いた。
「はい。極めて重要な任務でした」
「お前まで乗るな」
イグニスが楽しそうに笑った。
「まあまあ、めでたい日じゃないか。まずは祝われときな」
「めでたい日って……」
ハルトは、まだ状況を飲み込めないままセリカを見る。
「誕生日って、俺のか?」
「はい」
「俺も知らねぇんだけど」
「正確な日付は、分かりませんでした」
セリカは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「ですが、ハルト様は、春に生まれたからハルトなのだと。そう聞きました」
「……誰から」
「ロッソとバルドです」
ハルトは目を瞬いた。
「あいつらが?」
「はい。二年ほど共に過ごしていたそうですので」
すぐには返事が出なかった。
それは、今の自分が覚えている記憶ではない。
この身体が、この世界で生きていた頃の話だ。
春に生まれたから、ハルト。
曖昧で、雑で、けれど妙に温かい理由だった。
「正確な日付が分からない以上、春のうちに祝うべきだと判断しました」
「それで、今日なのか」
「はい」
「春ならいつでもよかったんじゃねぇか」
「春は、いつまでも続きませんので」
セリカの声は静かだった。
ハルトは少しだけ黙る。
考えてみれば、この世界で自分の誕生日を気にしたことはなかった。
一年の暦は、元の世界よりほんの少し長い。
季節の巡りも、月の数え方も、似ているようで少し違う。
それ以前に、そんなことを考える余裕がなかった。
生きること。
食うこと。
奪われないこと。
殺されないこと。
誕生日なんて、思いつきもしなかった。
「……そうか」
ハルトは小さく息を吐いた。
「だから妙によそよそしかったのか」
「すみません、ハルト様」
セリカは少しだけ目を伏せる。
「私は、演技が苦手ですので」
「自覚あるんだな」
「あります」
「じゃあ今度からもう少し自然にやれ」
「努力します」
「無理そうだな」
「はい」
小さな笑いが起きた。
ハルトは食堂を見渡した。
全員が、こちらを見ている。
笑っている者。
照れくさそうな者。
得意げな者。
いつも通りを装っている者。
黒牙の構成員たちもいる。
全員が、盗賊だ。
悪人だ。
世間から見れば、まともな連中ではない。
けれど今は、その誰もが、ハルトを祝うためにここにいた。
「……本当に」
言葉が少し詰まる。
ハルトは、誤魔化すように笑った。
「嬉しいよ」
食堂の空気が、少しだけ柔らかくなった。
セリカの表情も、ほんのわずかに緩む。
「それでは」
セリカがケーキをハルトの前へ運んだ。
丸いケーキだった。
白いクリームの上に春の果物が飾られている。
中央には、小さな蝋燭が一本だけ立っていた。
「一本だけか」
「正確な年齢分を立てると、食堂が煙で満ちますので」
「俺は爺じゃねぇ」
「それに、一本で十分かと」
セリカは蝋燭に火をつけた。
小さな火が灯る。
ハルトの目の前で、ゆらゆらと揺れた。
「願い事をして、吹き消してください」
「誰に教わったんだよ、それ」
「詳しくは知りません」
「雑だな」
「ですが、悪くないと思いました」
ハルトは蝋燭の火を見る。
小さな火だった。
息を吹けば、簡単に消える。
その火を、全員が見ている。
願い事。
そんなものを、まともに考えたことがあっただろうか。
金。
力。
悪名。
生き残ること。
奪われないこと。
殺されないこと。
そういうものなら、いくらでも考えてきた。
けれど、願い事と言われると、すぐには出てこなかった。
ふと、食堂の音が耳に入る。
シャノンが肉に手を伸ばし、ベルノに止められている。
ルーカスが笑っている。
ナザルが勝手に酒を開けようとして、セリカに目で止められている。
イグニスが料理の皿を整えている。
クロードが穏やかに見守っている。
構成員たちが、少し遠慮がちにこちらを見ている。
願うほどのことじゃない。
けれど、思った。
こんな日が続けばいい。
ハルトは息を吹いた。
小さな火が消えた。
拍手が起きる。
「おめでとうございます、ハルト様!」
「ハルト様、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「おめでとうにゃ、ハルト様」
声が重なる。
どう返せばいいか、分からなかった。
ハルトは少しだけ俯き、それから顔を上げた。
「……ありがとな」
それだけ言った。
食事が始まった。
皿の音が鳴る。
酒が注がれる。
誰かが笑う。
誰かが文句を言う。
シャノンは肉を取りすぎて、セリカに皿を戻されていた。
ルーカスはケーキを綺麗に切ろうとして、なぜか全部斜めになった。
ベルノはそれを見て、真剣な顔で切り方を直そうとしている。
ナザルはハルトの杯へ勝手に酒を注ぎ、イグニスは火加減の完璧な肉を当然のように配っていた。
「これ、うまいな」
ハルトが言うと、イグニスは満足そうに笑った。
「当然。今日の主役に半端なものは出せないよ」
「火加減、完璧じゃねぇか」
「火の扱いで私に勝てると思う?」
「思ってねぇよ」
「ならよし」
イグニスは笑って、次の皿を置いた。
「食べな。こういう日は、ちゃんと食べるんだよ」
ハルトは肉を口へ運ぶ。
香ばしい。
熱い。
噛むと肉汁が広がる。
ただの飯なのに、妙に胸に残った。
ナザルが、小さな瓶を掲げて近づいてくる。
「次は俺だな!」
「嫌な予感しかしねぇ」
「なんでだよ」
「お前だから」
「ひでぇな!」
ナザルは笑いながら、淡い色の液体が入った瓶を差し出した。
「流行りの香水だ」
「香水?」
「あぁ。男は香りも大事だぞ、ハルト」
「急に何の話だ」
ナザルは満面の笑みで言った。
「失恋したと思うけど、次は頑張れよ」
一瞬、食堂が静かになった。
次の瞬間、シャノンが吹き出す。
「にゃはははは!」
「誰が失恋だ!」
ハルトが声を荒げる。
「というか、お前よりモテるわ!」
「はぁ!? 俺の方がモテるに決まってんだろ!」
「お前は勢いで押してるだけだろ!」
「それも才能だろうが!」
「才能って言うな!」
ナザルとハルトが言い合う。
イグニスが楽しそうに笑い、セリカは香水の瓶をちらりと見た。
「香りは悪くありませんね」
「お前も乗るのかよ」
「実用性はあります」
「何のだよ」
ナザルは胸を張る。
「次の恋だろ」
「だから失恋してねぇ!」
笑い声が広がる。
ハルトは瓶を受け取り、ため息をついた。
「……まあ、ありがとな」
「おう!」
次に、イグニスが小箱を差し出した。
さっきまでの笑みとは少し違う。
どこか柔らかく、真面目な顔だった。
「私からは、これ」
ハルトは箱を受け取る。
開ける。
中には、指輪が入っていた。
金と赤を基調にした意匠。
小さな不死鳥が、輪の上で翼を広げている。
羽根の中央には、赤い石が嵌め込まれていた。
「不死鳥……」
「うん」
イグニスは頷いた。
「不死鳥は、燃えても戻ってくる」
ハルトは指輪を見る。
炎のような金。
血のような赤。
けれど、不思議と嫌な色ではない。
「だから、これ」
イグニスの声は、いつもより少しだけ静かだった。
「お守りだよ」
食堂の空気が、ほんの少しだけ落ち着く。
「ハルトには、必要だと思ったから」
ハルトは、すぐには返せなかった。
イグニスは軽く笑う。
肉を焼き、酒を飲み、豪快に笑う。
でも、この人の言葉は軽くない。
「死なないでよ、ハルト」
その一言が、妙に重かった。
「……重いな」
ハルトは小さく言った。
「うん。重いよ」
イグニスは隠さずに頷く。
「でも、あなたには必要だと思った」
ハルトは指輪を取り出し、左手へ通した。
人差し指には、黒牙の双環がある。
団長から託された、レヴィンの指輪。
黒い石と、赤い石。
二つの光が、左手に並ぶ。
「……ありがとな、イグニス」
「うん」
イグニスはそこでようやく笑った。
「ちゃんと帰ってきな」
「あぁ」
ハルトは頷く。
次に前へ出たのは、クロードだった。
「私からは、こちらを」
差し出されたのは、新しい黒の外套だった。
しなやかな布地。
丈夫な縫製。
戦闘で動くことを前提にした作りでありながら、見た目は整っている。
「おお……」
ハルトは素直に声を漏らした。
「かっこいいな」
「それは何よりです」
クロードは穏やかに頷く。
「これ以上、無茶はしないでくださいよ、と申し上げるつもりでしたが」
そこで一度、口を閉じる。
「今日のところは、やめておきます」
「ほぼ言ってんな」
ハルトは苦笑した。
「ありがとう、クロード」
「はい。おめでとうございます、ハルト様」
その時、食堂の扉が勢いよく開いた。
「ハルト様!」
ダリオが大量の酒瓶を抱えて入ってきた。
肩にも一本。
脇にも二本。
両腕いっぱいに抱えた瓶が、がちゃがちゃと危なっかしい音を立てている。
「今日は死ぬまで飲みましょう!」
「物騒な祝い方すんな!」
ハルトが思わず突っ込む。
「お前、どんだけ持ってきたんだよ!」
「祝うなら酒でしょうが!」
「限度があるだろ!」
「第六席の誕生日ですよ? 足りません!」
「足りるわ!」
ダリオは構成員たちに瓶を配りながら、堂々と言い切った。
「それと、今日は俺も祝わせてもらいますからね」
ハルトは、少しだけ目を細めた。
ダリオはもう、真正面から噛みついてくるだけの男ではない。
けれど、素直に祝いに来たと言えるほど器用でもない。
それでも、酒瓶を抱えてここへ来た。
「……ありがとな、ダリオ」
「酒が余ったら持って帰ります」
「台無しだよ」
「冗談ですって」
ダリオが笑う。
それにつられて、食堂にも笑いが戻った。
「では、次は俺たちです」
ベルノが一歩前へ出た。
ルーカスとシャノンも並ぶ。
ルーカスが細長い箱を両手で差し出した。
「ハルト様。俺たち三人からです」
「三人から?」
「はい」
ハルトは箱を受け取った。
蓋を開ける。
中に入っていたのは、右手だけの黒い手袋だった。
黒い革。
動きを邪魔しない薄さ。
指先まで丁寧に仕立てられ、手首の部分には黒牙の紋章が小さく入っている。
ただの防具ではない。
内側には、銀にも似た細い糸が血管のように走っていた。
「魔導手袋です」
ベルノが言った。
「特殊な魔力繊維で作られています。魔力の流れを整え、増幅する効果があるそうです」
ルーカスが続ける。
「右手専用の、オーダーメイド品です。ハルト様に合わせて作ってもらいました」
「オーダーメイドって、お前ら」
「ハルト様は、すぐ無茶しますから」
ベルノが言った。
その声は、少しだけ硬かった。
「全部を止められるわけじゃありません。でも、せめて右手くらいは守りたかったんです」
ハルトは、何も言えなくなった。
右手。
何度も氷を放った。
短剣を握った。
敵を掴んだ。
傷つき、焼け、血を流した。
それを、三人は見ていた。
シャノンがそっぽを向く。
「高かったんだから、ちゃんと使ってくださいね。ハルト様」
「お前、それ言うか」
「言うにゃ。高かったもん」
「シャノン」
ベルノが小さく咎める。
「はいはい。セリカ様にも怒られるにゃ」
ルーカスが笑った。
「でも、本当に高かったです」
「ルカまで言うのかよ」
「すみません」
三人は、どこか照れくさそうにしていた。
ハルトは右手袋を手に取る。
「……つけろってことか?」
「はい!」
ルーカスが頷く。
「今つけてください!」
「お前らも圧が強ぇな」
ハルトは右手を通した。
革の内側が、指に吸いつくように馴染む。
右手を開く。
閉じる。
細い魔力の流れが、肌に沿って走った。
指先の感覚が、少し澄む。
魔力の流れが、いつもより近く、輪郭を持って感じられる。
防具というより、誰かの心配が右手に形を持ったようだった。
「どうですか?」
ルーカスが身を乗り出す。
「……悪くない」
「それ、嬉しい時の言い方にゃ」
「うるせぇ」
ハルトは右手を見た。
黒い魔導手袋が、ぴったりと馴染んでいる。
その重さはほとんどない。
けれど、確かにそこにある。
最後に、セリカが小さな包みを持って前へ出た。
「ハルト様。私からです」
食堂の空気が、少しだけ静かになる。
ハルトは受け取った。
丁寧に包まれた布を解く。
中にあったのは、黒鋼のネックレスだった。
光を吸い込むような黒。
派手ではない。
けれど、角度を変えると鈍く艶めく。
小さな飾りは、黒牙の紋章を思わせる形をしていた。
「……これ」
「黒鋼です」
セリカが言った。
ハルトは指先で触れる。
見た目より軽い。
けれど、その軽さは頼りなさではない。
刃を当てても断てず、力を込めても曲がらず、折れもしない。
黒牙で黒鋼と呼ばれるものが、ただ硬いだけの金属でないことくらい、ハルトにも分かるようになっていた。
「万年筆のお礼が、できていませんでしたので」
「気にすんなよ、そんなの」
「形にしておきたいのです」
セリカは、静かにハルトを見る。
「黒鋼の意味は、分かりますよね?」
ハルトは、ネックレスを見つめた。
「……分かってる」
「このネックレスを、第六陣営だと思って大切にしてください」
セリカの声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「ハルト様が帰る場所として」
ハルトは、息を止めた。
帰る場所。
その言葉が、胸の奥へ落ちる。
「身につけてください」
「……今かよ」
「今です」
ハルトは少し笑った。
「分かったよ」
首にかける。
黒鋼が胸元に落ちた。
軽い。
けれど、確かにそこにある。
「似合っています」
セリカが言った。
「……そうかよ」
「はい」
その一言が、変に胸へ残った。
ハルトは、ふと食堂を見渡した。
構成員たちの笑い声。
皿の音。
酒瓶の触れ合う音。
シャノンを注意するベルノの声。
ルーカスの困ったような笑い声。
ナザルの馬鹿みたいな笑い声。
イグニスの焼いた肉の匂い。
ダリオが配っている酒。
クロードの穏やかな横顔。
「人が増えたな、ここも」
ハルトがぽつりと言うと、隣にいたセリカも食堂へ目を向けた。
「ええ。前より、少し賑やかになりました」
「そうだな」
賑やか。
その言葉は、間違っていない。
けれど、ハルトは少しだけ胸の奥が締まるのを感じた。
セリカにとって、この場所はどう見えているのだろう。
短い間に、彼女を育てた二人がいなくなった。
レヴィンも、エイベルも。
構成員は増えた。
笑い声も増えた。
それでも、空いた穴がそのまま残っている場所だってあるはずだ。
「セリカ」
「はい?」
「俺は、ここが家だと思ってるよ」
セリカが、少しだけ目を動かした。
「それは、セリカも同じだよな」
すぐに答えは返ってこなかった。
食堂の騒がしさが、少しだけ遠くなる。
セリカは、ハルトから視線を外さず、静かに頷いた。
「……そうですね」
「俺は死なねーから」
「なんですか? 急に」
「いや、心配かと思って」
セリカは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、いつもの調子で言う。
「ハルト様は、殺したって死にません」
「どういうことだよ」
「ずっとそうでしたから。この半年」
「まあ、死にかけはしたな」
「はい。でも……」
「ん?」
セリカは、そこでほんの少しだけ表情を緩めた。
ハルトが初めて見るような、柔らかい笑みだった。
「その約束……忘れないでくださいね」
ハルトは、少しだけ言葉に詰まった。
「あぁ。忘れねぇ」
「では、食事を取り分けてきます」
「あ、あぁ」
セリカは静かに踵を返した。
いつも通りの歩き方だった。
けれど、少しだけ耳が赤いように見えた。
ハルトは視線を逸らし、誤魔化すように杯へ手を伸ばす。
胸の奥が、妙に落ち着かなかった。
首には黒鋼。
右手には魔導手袋。
左手には黒牙の双環と、不死鳥の指輪。
近くにはナザルからもらった香水の瓶。
肩にはクロードからの新しい外套。
テーブルの上には食いかけの料理。
酒瓶。
消えた蝋燭。
曲がった飾り。
笑い声。
皿の音。
ハルトは、もう一度食堂を見渡した。
セリカがいる。
ルーカスがいる。
ベルノがいる。
シャノンがいる。
ナザルがいる。
イグニスがいる。
クロードがいる。
ダリオがいる。
黒牙の構成員たちがいる。
みんながいた。
盗賊だ。
悪人だ。
まともな連中ではない。
それでも。
俺にはこんなに、失いたくないモノが増えた。
胸の奥で、その言葉が落ちた。
ハルトは杯を置いた。
「……なあ」
食堂の声が、少しだけ静かになる。
「話しておきたいことがある」
ナザルが「お、主役の挨拶か?」と茶化しかける。
だが、ハルトの目を見て、口を閉じた。
セリカが顔を上げる。
ルーカスが不思議そうに瞬きをする。
ベルノが背筋を伸ばす。
シャノンが皿を置く。
イグニスも、ダリオも、クロードも、こちらを見る。
ハルトは、黒い右手を握った。
「まず、今日という日に感謝したい」
言葉は、思ったより自然に出た。
「ありがとう」
誰も、すぐには茶化さなかった。
「正式に黒牙に入ったのも、王牙幹部になったのも、まだ日が浅い」
ハルトは続ける。
「それでも、これだけの人間が俺についてきてくれてる。祝ってくれてる」
一度、息を吐く。
「本当に、感謝してる」
食堂の奥で、誰かが小さく頷いた。
「それと、もう一つある」
ハルトは、自分の胸に触れた。
黒鋼のネックレスが、そこにある。
「俺は、この世界の人間じゃない」
食堂が、静まり返った。
「俺の名前は、島崎春渡だった」
島崎春渡。
口にした瞬間、自分のものなのに、少し遠い名前に感じた。
「異世界から転生した」
誰も、声を出さない。
冗談だと笑う者はいない。
ハルトの表情が、それを許さなかった。
「元いた世界は、もっと栄えてた。もっと平和だった。俺は、ただの学生だった」
記憶を、言葉にする。
「向こうが嫌いだったわけじゃない。帰る場所がなかったわけでもない。大事じゃなかったわけでもない」
ハルトは息を吸った。
「でも、今、元の世界に帰りたいかって聞かれたら」
食堂の灯りが、静かに揺れる。
「胸を張って、違うって言える」
黒鋼が、胸元に触れている。
「夢は見る。元の世界の夢を」
誰かが息を呑んだ。
「学校へ行く夢。見慣れた道を歩く夢。当たり前だったものが、当たり前にそこにある夢」
ハルトは少しだけ笑った。
「でも、その夢の中で、俺はここに帰りたいって思う」
言葉にすると、不思議なくらい胸が軽くなった。
「ルヴェリアの水路を探す。第六陣営館の門を探す。セリカの声を、ルカたちの騒がしさを、ナザルの笑い声を、イグニスの焼いた肉の匂いを探す」
ナザルがわずかに口角を上げる。
イグニスは、何も言わずにハルトを見ていた。
「まだ半年だ」
ハルトは言った。
「短くて、とても長かった半年だ」
そして、ゆっくり顔を上げる。
「今の俺の家は、ここだ」
静寂。
その言葉は、食堂の中へ静かに落ちた。
拍手も、歓声も、すぐには起きなかった。
全員が、その言葉を受け止めているようだった。
セリカが、静かに問いかける。
「ハルト様は……本当に、元の世界に帰りたくないのですか?」
「あぁ」
ハルトは頷いた。
「帰りたくないって言うと、少し違うかもしれない。向こうを捨てたいわけじゃない」
少しだけ目を伏せる。
「でも、こっちにもできたんだ」
右手を開く。
黒い手袋が、小さく軋む。
「同じくらい。いや、それ以上かもしれないくらい、失いたくないものが」
セリカは黙っていた。
ハルトは、少し照れくさくなって視線を逸らす。
「……こんな日が続けばいいなって、思った」
セリカが、ほんの少し笑った。
「らしくないですね」
「悪かったな」
「来たばかりの頃は、近づくものすべてに噛みつきそうな野良犬のようでしたので」
「ひでぇな」
「事実です」
「今はどうなんだよ」
「今ですか?」
セリカは少しだけ考えるように、目を伏せた。
「今は……」
「ハルト様!」
ダリオの声が割り込んだ。
酒瓶を片手に掲げ、妙に得意げな顔をしている。
「しんみりするのは終わりです! 今日は祝いの日でしょう!」
「お前なぁ」
「それに、今の話を聞いたら、なおさら飲むしかありません!」
「どういう理屈だよ」
「ハルト様がこの世界を選んだ記念です!」
ナザルが笑って杯を持ち上げる。
「いいじゃねぇか。仕切り直すぞ」
イグニスも杯を上げる。
「そうだね」
ルーカスが慌ててグラスを取る。
ベルノが背筋を伸ばす。
シャノンが肉皿を片手に、もう片方で杯を持つ。
セリカも静かに杯を持った。
ダリオが声を張る。
「異世界転生者にして、新たな黒牙の牙!」
食堂の全員が、杯を掲げる。
「白煙のハルト様の誕生日を祝って!」
遠くから鐘の音が響いた。
ごぉん。
大鐘楼の鐘だ。
正午を告げる、重く澄んだ音。
ごぉん。
二つ目の鐘が、王都の空へ広がる。
水路へ。
港へ。
城壁へ。
春の街へ。
ルヴェリアが、いつもの正午を迎える音だった。
ハルトは杯を持ち上げた。
セリカが微笑む。
ルーカスが笑う。
ベルノが胸を張る。
シャノンが肉を狙う。
ナザルが馬鹿みたいに笑う。
イグニスが、優しい目をしている。
ダリオが酒瓶を掲げている。
構成員たちが、同じように杯を持っている。
ここは俺の陣営じゃない。
俺の席でも、俺のシマでもない。
家だ。
そう思った。
ごぉん。
鐘が鳴る。
ハルトは息を吸った。
「乾杯!」
その瞬間。
世界が、真っ白になった。
体が浮いたのだけは分かった。
音はしなかった。
いや。
あまりに大きすぎて、音として分からなかった。
さっきまであった笑い声が消えた。
杯の音も、皿の音も、誰かが名前を呼ぶ声も、全部が白に飲まれた。
体が動かない。
息が吸えない。
世界が揺れている。
空が見えた。
それがおかしかった。
食堂にいたはずだ。
天井があったはずだ。
仲間がいたはずだ。
なのに、空が見えている。
「……なんで」
目だけを動かす。
瓦礫の隙間から、誰かの腕が見えた。
「セリカ……」
返事はない。
「ルカ……」
喉が焼けるように痛い。
「ベルノ……」
声にならない。
「シャノン……」
体が動かない。
「ナザル……」
地響きが起こる。
「イグニス……」
また、揺れた。
何度も。
何度も。
振動が、壊れた体に伝わってくる。
大鐘楼の鐘は、まだ鳴っていた。
ごぉん。
歪んだ音が、遠くで揺れる。
正午を告げるはずの鐘が、まるで弔鐘のように聞こえた。
ハルトは、かろうじて空を見た。
昼の空に、四つの白い光が浮かんでいた。
まるで、昼に輝く星のようだった。
右手を伸ばす。
黒い魔導手袋の指先が、瓦礫を掻いた。
届かない。
胸元で、黒鋼が冷たく触れている。
もう一度、名前を呼ぼうとした。
けれど、口の中に血の味だけが広がった。
そこで、世界が落ちた。




