第3話 背信国
王城の会議室に、聖教会の席はなかった。
長い机を囲むのは、ルヴェリア王国の中枢だけだ。
国王ゼクス・ルヴェリア・クリスタリア。
外務卿バルトラム。
総務大臣ハインツ・オルディン。
王騎卿クラウス。
法務卿エルネスト。
財務卿グレゴール。
政務卿レナード。
そして、数名の記録官と近衛兵。
いつもなら、白い法衣をまとった聖教会東支部の者たちが座る席がある。
けれど今、その椅子は空のままだった。
誰も、そこを見ようとしない。
見れば、そこにある不在の意味を認めなければならなくなる。
ゼクス王は、机の上に置かれた報告書へ視線を落とした。
南諸島連合。
アニマ密約。
軍港カラント襲撃。
聖教会東支部。
消された巡礼記録。
寄付金の流れ。
封蝋。
輸送車の残骸。
魔力回路の痕跡。
証拠は、まだ完全ではない。
だが、完全ではないことを理由に目を逸らせる段階は過ぎていた。
「まず確認する」
ゼクス王の声が、会議室に落ちた。
「聖教会東支部が、南諸島連合の件にどこまで関与しているか。現時点で断定はできぬ」
誰も頷かない。
誰も口を挟まない。
「だが、断定を待って民を失うわけにはいかん」
ゼクス王は顔を上げた。
「聖教会の深部まで関与している。その前提で動く」
会議室の空気が、わずかに変わった。
それは、聖教会を敵と見なすという意味に近い。
同盟。
信仰。
大運河。
神の名。
それらが絡み合うこの大陸で、その判断がどれほど重いか、この場にいる誰もが理解していた。
外務卿バルトラムが静かに口を開く。
「南諸島連合との連絡は、依然として取れておりません。軍港、外務窓口、商館、いずれも沈黙しています」
「連絡そのものを断たれたか」
「その可能性が高いかと」
バルトラムは書類を一枚めくった。
「こちらから送った使者も戻っておりません。海路は動いていますが、連合側の港に入れない。商人たちも不安を訴えています」
ゼクス王が目を細める。
「南に期待するな、ということだな」
「はい。少なくとも今は、南諸島連合を緩衝材として見ることはできません」
王騎卿クラウスが腕を組んだ。
「となると、自国で固めるしかありませんな」
「防衛体制は」
「王都周辺の監視を増やします。港、運河、陸路、外縁区、すべてです」
クラウスの声は低い。
「特に港には大砲を増設します。艦隊が来ても、王都の水路へ入る前に叩ける位置へ置くべきです」
政務卿レナードが眉を寄せた。
「港湾組合が騒ぎますよ。大砲を並べれば、商船は怯える」
「怯える商船より、燃える王都の方が困る」
クラウスの言葉に、レナードは反論しなかった。
外務卿バルトラムが続ける。
「聖都クリソストモスからの動きも見るべきです。大運河を使うなら、聖都から軍を送ることは可能です」
「聖教会が動くなら、軍ではなく聖騎士団か」
ゼクス王が言う。
バルトラムは頷いた。
「はい。特に警戒すべきは、天啓の騎士団」
会議室の空気が、また重くなる。
「天啓の騎士団か」
クラウスが、苦い声で呟いた。
「聖都直轄の騎士団。表向きは巡礼路の保護と異端審問の護衛。しかし実態は、聖教会が国境を越えて武力行使するための刃です」
バルトラムが補足する。
「運河を下るなら、こちらは事前に察知できる可能性があります。ただし、聖教会が大運河の通行権を盾にすれば、途中の中央国家群は止められない」
「陸路は」
「同じく警戒が必要です。聖都から東へ向かう陸路は複数あります。大軍は遅いですが、精鋭部隊なら話が違う」
クラウスが地図へ視線を落とした。
「王都の外で捕まえるしかないな」
「王都内へ入れたら?」
財務卿グレゴールが問う。
クラウスは短く答えた。
「不利です」
その一言は、会議室に重く響いた。
王牙騎士団を束ねる男が。
ルヴェリア最強の表の牙を預かる男が。
そう言った。
「王牙騎士団は百戦錬磨です。負け知らずと言っていい」
クラウスは、淡々と続ける。
「ですが、それは敵地へ踏み込む戦、あるいは王都の外で敵を砕く戦での話です。王都の街路、防衛、避難民、橋、水路、密集した建物。その中で戦う経験はほとんどない」
誰も、口を挟まない。
「団長アレクシスの白雨も同じです。あれは強力ですが、防衛向きではありません。王都の中で降らせれば、敵より先に市民が死ぬ可能性がある」
ゼクス王の指が、肘掛けを静かに叩いた。
「王都周辺での迎撃を基本とする」
「それが最善です。艦隊、聖騎士団、魔法師団、いずれも王都外で察知し、王都に入る前に叩く」
ハインツ・オルディンが、机上の別資料を開いた。
「軍事だけでは足りません」
「総務大臣」
「市民の避難誘導が必要になります。橋、広場、水路沿い、地下排水路の上部通路、商業区の広場。避難経路はありますが、三百万人規模の都市です。混乱が起きれば、それだけで死者が出ます」
政務卿レナードが頷く。
「冒険者ギルドに協力を要請しましょう。戦争への直接関与は拒まれるはずです。ですが、避難誘導、救護、瓦礫撤去、迷子や老人の保護なら協力は取れます」
「ギルドは国の兵ではない」
ゼクス王が確認する。
「はい。そこを間違えれば反発が出ます。あくまで市民保護の協力要請として出します」
「任せる」
「はっ」
財務卿グレゴールが深く息を吐いた。
「軍事、避難。どれも必要です。しかし、戦争になるなら、王都は戦場になる前に傷みます」
「経済か」
ゼクス王が言う。
「はい」
グレゴールは、丸い腹に似合わない鋭い目で、机の上の数字を見ていた。
「輸出入が止まれば、まず死ぬのは豪商ではありません。港湾労働者、荷運び、倉庫番、日雇いの船大工。日銭で生きる者たちです」
紙を一枚置く。
「物価は三日で上がります。十日で暴動の種になる。一か月続けば、民は敵兵より先に空腹を恐れる」
会議室に、乾いた音だけが残った。
「ただし、ルヴェリアには東大陸との海路貿易があります。大運河が止まっても、すぐ致命傷にはなりません」
「すぐには、か」
「はい。調整は必須です。東大陸との取引量を増やす必要があります。商船の護衛、港湾税の一時調整、物資の優先順位、配給制度の準備。今動かなければ間に合いません」
外務卿バルトラムが頷く。
「東大陸とは交渉を強めます。ただし、食料と魔石は別問題です」
ハインツが、その言葉を引き取った。
「魔石です」
王城の空気が、そこでさらに悪くなった。
「王都ルヴェリアは、魔石で動いています。街灯、水門制御、昇降機、排水路、下水処理、冷蔵倉庫、医療器具、港湾の荷役装置。挙げればきりがない」
ハインツは、淡々と続ける。
「その魔石の九割以上を、北の要塞国家群から大運河経由で輸入しています」
誰もが知っている数字だった。
だが、会議室で改めて言葉にされると、その意味は重い。
「ハロルド式魔石システムは、王都の生活を大きく変えました。効率化、衛生、運搬、保存、照明。王都は魔石によって、より豊かに、より美しくなった」
ハインツの声は平坦だった。
「ですが、大運河が止まれば、その便利さが首を締めます」
ゼクス王は、目を閉じた。
「備蓄は」
「あります。ですが、王都三百万の生活を長期維持する量ではありません。軍事用を優先すれば市民生活が死にます。市民生活を優先すれば軍が死にます」
グレゴールが口を挟む。
「東大陸から魔石を輸入するルートは」
「ありません」
ハインツが即答した。
「少なくとも、今すぐ使える規模ではありません」
バルトラムが補足する。
「陸路も視野には入ります。ですが北は険しい。中継点、道の開拓、輸送隊の保護。何年かかるか分かりません。何十年単位になる可能性すらある」
クラウスが苦い顔をする。
「城壁すら、まだ完成していない」
重い言葉だった。
ルヴェリアの巨大城壁計画。
長い年月をかけて進められているが、まだ完成には遠い。
「北の海路はどうだ」
ゼクス王が問う。
「北の要塞国家群から海へ出し、外海を回してルヴェリアへ運ぶ」
バルトラムは首を横に振った。
「現実的ではありません」
「理由は」
「北海は禁忌海域とされています。大型の海棲魔物が多く、航路として安定していません。軍艦を護衛につけても、輸送量に見合わない。船が沈めば魔石も人も失います」
グレゴールが、さらに別の資料を置いた。
「食料も同じです」
ゼクス王の視線が動く。
「ルヴェリアの外には畑がある」
「あります。ですが王都三百万を養うには足りません。自給率は三割程度です」
グレゴールは数字を追う。
「海風に弱い作物は育ちにくい。家畜も飼料が必要です。肉、乳製品、穀物の多くは聖都周辺の中央国家群から、大運河を通じて入っています」
「大運河が止まれば」
「王都は腹を空かせます」
会議室が、静かになる。
ルヴェリアは強い。
豊かだ。
美しい。
世界中から人と金が集まる。
だが、三百万人が暮らす巨大都市は、一日で自分の腹を満たすことができない。
外から流れ込むものがあるから、巨大でいられる。
大運河があるから、豊かでいられる。
その血管を握られた時、この都市は脆い。
ハインツが、さらに重い話を続ける。
「魔石が止まれば、衛生も危険です」
「下水か」
「はい」
ハインツは頷いた。
「王都の排水路と下水処理は、魔力処理で支えられています。水路と海に汚染を流さないためです。魔石が不足すれば、処理能力は落ちる」
「どの程度だ」
「最悪の場合、水路は観光資源ではなく汚染路になります。悪臭、病、魚の死骸、飲料水への不安。水の都という名そのものが傷つきます」
レナードが低く唸った。
「民の不満は、敵兵より面倒になるな」
「はい」
ハインツは否定しない。
「飢え、臭い、暗い街、流れない水。民はすぐに不安になります。不安は怒りに変わる」
ゼクス王は、会議室を見渡した。
誰も、軽い顔をしていない。
戦争は剣と槍だけではない。
食料。
魔石。
水。
糞尿。
税。
港。
流通。
噂。
民の足。
それら全てが、王都を支えている。
「黒牙はどうする」
法務卿エルネストが、重い口を開いた。
全員の視線が、一度そこへ集まる。
「黒牙へ正式に協力を仰ぐべきではありませんか。南諸島連合の件でも、黒牙はすでに深く関わっている。戦力としても無視できません」
クラウスが眉を寄せる。
「指揮系統に入る連中ではない」
「しかし、変数として放置するには大きすぎる」
「放置ではない」
ゼクス王が言った。
静かな声だったが、会議室の全員が口を閉じた。
「奴らは奴らで動く」
ゼクス王は、そう言った。
「黒牙は王城の駒ではない。命じて動かすものでもない。取り込もうとすれば、むしろ戦場が乱れる」
「では」
「変数として取り込む」
ゼクス王は続ける。
「黒牙が動く前提で、防衛線を引け。黒牙が敵を削るなら、その隙を使う。黒牙が別の敵を追うなら、王国軍は国を守る。だが、国の指揮を黒牙に預けることはない」
会議室に、王の声が通る。
「この国は、我々が守る」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
ゼクス王は立ち上がった。
老いの見える体ではある。
だが、その背は王のものだった。
「聖教会がどこまで関与しているか、断定はできぬ。だが、断定を待って民を失うことは許されぬ」
王は、卿たちを見た。
「黒牙は黒牙で動く」
「王牙騎士団は王牙騎士団として動く」
「ギルドにはギルドの役目がある」
「民には逃げる権利がある」
その声は大きくない。
けれど、重かった。
「だが、国を守る責任は王城にある」
ゼクス王は、机に手を置いた。
「この国は、我々が守る」
クラウスが深く頭を下げる。
「御意」
バルトラムが続いた。
「外務は、東大陸との連絡を強めます。中央国家群にも探りを入れる。動けぬ理由を、できる限り早く掴みます」
グレゴールが書類をまとめる。
「財務は、港湾税と備蓄の調整に入ります。価格統制と配給案も準備します」
ハインツが頷く。
「総務は避難経路と魔石配分を再計算します。下水、排水、医療、軍事、どこを優先するか、段階表を作ります」
レナードが息を吐く。
「ギルド、商会、港湾組合、各区長へ通達を出します。言葉は選びますが、動かせるところは今夜中に」
エルネストが、暗い目で口を開いた。
「法務は、東支部関係者の拘束と証拠保全を続けます。大司教ラザロは黙秘を続けていますが……」
「喋らぬか」
「はい」
エルネストの声は低い。
「ただ、黙秘そのものが、否定できない証拠になりつつあります」
ゼクス王は頷いた。
「よい。各自、動け」
椅子が引かれる音が重なった。
王国は動き出す。
王城として。
国として。
民を抱えた、巨大な都市国家として。
◇
王城の屋上は、ルヴェリアで最も高い場所だった。
城下が、眼下に広がっている。
水路。
橋。
港。
倉庫街。
商業区。
貴族街。
遠くに伸びる城壁。
陽光を受けて白く輝く帆。
美しい都市だった。
そこに立つ王女は、しばらく言葉を失っていた。
セシリア・ルヴェリア・クリスタリア。
城内では親しみを込めて、セシルと呼ばれることもある。
年は十八を過ぎた頃。
黒に近い濃い茶色の長い髪は、柔らかくカールし、背へ流れている。
白い肌。
少し垂れた目元。
片目の下にある涙ぼくろ。
美しい顔立ちには、まだ少女らしさが残っている。
けれど、立ち姿には王女としての気品があった。
セシリアは、風に揺れる髪を押さえながら、隣の父を見た。
「お父様……」
「なんだ、セシル」
「ルヴェリアは、どうなるのですか?」
ゼクス王は、すぐには答えなかった。
王城の屋上から見るルヴェリアは、まるで何も知らないように輝いている。
水路には船が行き交い、城下では人が歩き、港では荷が動く。
この美しい街が、不安の上に立っているなど、地上からは見えない。
「私にも分からん」
ゼクス王は、静かに答えた。
「分かるのは、私がこの国を守りたいということだけだ」
「お父様……」
「この街は美しい」
ゼクス王は、城下を見下ろした。
「だが、美しいものほど、壊れる時はあっけない」
セシリアは唇を結ぶ。
「お兄様は……」
ゼクス王の表情が、わずかに動いた。
「ゼギルは、きっと力になってくれる」
「なら、お兄様が」
「セシル」
王の声が、少しだけ強くなった。
セシリアは口を閉じる。
「ゼギルは強い。あれは私の息子だ。誰よりも頼もしい」
「ならば」
「だが、国を背負うのはゼギルではない」
セシリアの瞳が揺れた。
風が吹く。
王女の長い髪が、白い頬の横を流れた。
「お前だ」
「私が……?」
「ああ」
ゼクス王は、娘を見た。
「王妃を病で失い、私に残った家族は、お前とゼギルだけだ」
セシリアは、言葉を失う。
「父としてなら、お前には何も背負わせたくない。美しいものだけを見て、好きな花を育て、笑って生きてほしい」
ゼクス王の声は、少しだけ優しかった。
「だが、私は王だ」
その優しさが、すぐに重みに変わる。
「王である以上、お前に言わねばならん」
セシリアの手が、胸の前で握られる。
「私に何かあった時は、セシル。お前が国を守るのだ」
「でも、お兄様が!」
「誰かではない」
ゼクス王は、娘の言葉を遮った。
「お前が背負え」
セシリアの瞳が、大きく揺れた。
「私は……まだ」
「分かっている」
「政治も、軍も、お兄様のような力も、私には」
「力だけが王家ではない」
ゼクス王は、ルヴェリアを見下ろす。
「王家の誇りとは、強い者が前に出ることだけではない。最後に逃げないことだ」
セシリアは、父の横顔を見つめた。
「必ず、選ぶ時が来る」
ゼクス王は言う。
「それが今回かどうかは分からん。だが、必ず来る。誰かに任せるのではなく、自分で選ばなければならない時が」
「……怖いです」
セシリアは、小さく呟いた。
それは王女としてではなく、一人の娘としての声だった。
ゼクス王は、少しだけ目を細める。
「怖くてよい」
「よいのですか?」
「怖さを知らぬ者に、国は預けられん」
セシリアの目に、わずかに涙が浮かぶ。
「セシル」
ゼクス王は、娘の肩に手を置いた。
「王家の誇りを守れ」
セシリアは震える息を飲み込む。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
その返事は小さい。
けれど、風に消えるほど弱くはなかった。
背後で、扉の開く音がした。
近衛兵の声が響く。
「王騎卿クラウス様がお見えです」
「通せ」
クラウスが屋上へ出てくる。
鎧は着ていない。
だが、その歩き方だけで騎士だと分かる男だった。
クラウスは国王と王女の前で膝をつく。
「陛下。お呼びと伺い、参上いたしました」
「呼びつけてすまない」
「とんでもございません」
ゼクス王はセシリアを見る。
「セシル。少し、城下を見ていなさい」
「はい」
セシリアは、わずかに不安そうな目で父を見る。
だが、何も聞かず、少し離れた場所へ歩いた。
風が、王女の髪を揺らす。
ゼクス王は、クラウスへ向き直った。
「クラウス」
「はっ」
「お前にしか話せぬことがある」
クラウスの表情が変わった。
王騎卿としての顔。
王家の牙としての顔。
「命じてください」
「国にもしものことがあれば」
ゼクス王は、静かに言った。
「身命を賭して、セシリアの命を守れ」
クラウスは、わずかに目を伏せた。
それが何を意味するか、理解している。
「陛下」
「これは国王としての命であり、父としての願いでもある」
ゼクス王の声は、揺れなかった。
「王を守れとは言わん」
「王城を守れとも言わん」
「国の未来を守れ」
クラウスは、深く頭を垂れた。
「この命に代えましても」
「頼む」
「はっ」
セシリアは、離れた場所で城下を見下ろしていた。
その背を、ゼクス王は静かに見つめる。
城下では、春の光が水路を照らしている。
美しい国だった。
守らねばならない国だった。
◇
王城の地下に、光は少ない。
分厚い石壁。
鉄の扉。
湿った空気。
遠くで水が滴る音。
その部屋の中央に、大司教ラザロは座らされていた。
白い法衣は汚れ、袖には血が滲んでいる。
だが、その背筋だけは不自然なほど伸びていた。
尋問は続いている。
法務卿エルネストの部下たちが、何度も問いを投げた。
聖教会東支部は、南諸島連合と通じていたのか。
中央聖教会強硬派の命令か。
聖都クリソストモスは知っていたのか。
アニマ密約に、誰が関わったのか。
輸送車の封蝋はなぜ東支部のものだったのか。
消された巡礼記録は、誰の指示か。
ラザロは、黙っていた。
何も答えない。
否定もしない。
弁明もしない。
祈りもしない。
ただ、黙秘を続けていた。
尋問官の一人が、苛立ちを隠せず机を叩く。
「答えろ、ラザロ!」
ラザロの瞼が、ゆっくりと上がった。
疲弊した目だった。
眠っていない。
食べていない。
追い詰められている。
それなのに、その目の奥には、奇妙な熱があった。
ラザロは、笑った。
「何がおかしい」
尋問官が低く問う。
ラザロは、喉の奥で笑い続ける。
「お前たちは……」
かすれた声だった。
「もう、終わりだ」
尋問室の空気が止まる。
「何だと」
「今さら、港に大砲を並べるか」
「今さら、監視を増やすか」
「今さら、食料を数え、魔石を数え、下水の心配をするか」
ラザロは肩を震わせた。
「人間は、最後まで人間の尺度で神を見る」
「黙れ」
「イノセントを甘く見ない方がいい」
その名が出た瞬間、尋問官たちの顔色が変わった。
ラザロは笑う。
「あの方々は、神の使いだ」
「神の使いだと……」
「神の血脈たる大運河を私欲に使い」
「金で人々を縛り」
「水の都などと称して、神の恵みを己の富に変え」
「王家は悪魔を使役している」
ラザロの声が、少しずつ強くなる。
「背信者どもを、聖都クリソストモスは許さない」
尋問官の一人が、ラザロの胸倉を掴んだ。
「貴様……!」
「必ず神罰が下る」
拳が、ラザロの頬を打った。
椅子ごと倒れ、ラザロの体が床へ転がる。
血の混じった唾が、石床に散った。
それでも。
ラザロは笑っていた。
「終わりだ」
床に頬をつけたまま、ラザロは笑う。
「お前たちは、神を怒らせた」
誰かが、その笑いを止めろと叫んだ。
けれど、止まらない。
王城の厚い壁の中で。
神罰という言葉だけが、ひどく冷たく残った。




