第9話 白き宣戦
王都ルヴェリアは、静かに動き出していた。
鐘が鳴り、人が走り、書類が運ばれる。
だが、そこに怒号は少ない。
外務卿バルトラム・クレインは、各国公館へ送る通達文を確認していた。
王騎卿クラウス・ロムウェルは、王牙騎士団の配置表を受け取っている。
法務卿は非常時の拘束権限を整理し、財務卿は倉庫の封印解除に必要な王印を求めていた。
聖教会が動く。
それは、もはや疑いではなかった。
ただし、王城が想定していたのは軍だった。
聖騎士を編成し、神の使徒を旗印に掲げ、街道か港か、大運河か空路か、いずれにせよ外から王都へ迫る軍勢。
だから王都は、外で迎え撃つ準備をしていた。
王都外縁。
街道。
港。
水門。
貴族街へ続く坂道。
王城へ至る中央街道。
その全てに目を置き、剣を置き、命令を置こうとしていた。
国王ゼクス・ルヴェリア・クリスタリアは、執務室で報告を受けていた。
白髪交じりの金髪。
鋭い灰色の目。
机の上には、王都周辺の地図と、封蝋された報告書がいくつも置かれている。
「北街道の監視は」
「異常なし」
「港は」
「外洋に不審艦なし。小型船の出入りは制限中です」
「聖教会東支部は」
「表向き、沈黙しています」
表向き。
その言葉に、ゼクスの眉がわずかに動いた。
「表向きでない報告は」
「聖職者の移動が減っています。礼拝堂の閉鎖が三件。施療院の搬入記録に不自然な空白が」
ゼクスは、地図を見下ろした。
「……動くなら、早いな」
その時だった。
王城が、低く揺れた。
棚の金具が鳴る。
窓硝子が小さく震えた。
室内の文官たちが、一斉に顔を上げる。
「地震か?」
ゼクスは呟いた。
誰もすぐには答えられない。
揺れは短かった。
地震にしては、妙に硬い。
爆発にしては、遠い。
扉の向こうで足音が乱れた。
「陛下!」
若い家臣が、息を切らして飛び込んでくる。
「黒牙本部方面にて、大規模な魔力反応!」
ゼクスの目が細くなった。
「黒牙で?」
「はい! 光の柱が確認されました! 詳細は不明ですが、何らかの動きがあったものと!」
「近郊の軍は」
「確認されておりません!」
「聖騎士の進軍は」
「ありません!」
「街道、港、運河、空路の監視は何を見ている」
「全監視所、外縁防衛線に異常なし!」
異常なし。
その言葉が、執務室の中で奇妙に重く落ちた。
外から敵は来ていない。
だが、王都の中で光が立った。
ゼクスは机に手をついた。
「……嫌な位置だ」
そこへ、別の家臣が駆け込んできた。
顔色がない。
「陛下!」
「今度は何だ」
「空です!」
「空?」
「王都上空に、四つの光が確認されました!」
ゼクスは、椅子を蹴るように立ち上がった。
「屋上へ」
王は走った。
廊下を抜ける。
階段を上がる。
背後で家臣たちが慌てて続く。
王城の屋上へ出た瞬間、熱くも冷たくもない風が頬を撫でた。
クラウス・ロムウェルとバルトラム・クレインが、すでにそこにいた。
クラウスは灰色の長髪を風に揺らし、空を見上げている。
首元の聖環が、鈍く光っていた。
バルトラムは綺麗に整えた口髭を指で押さえ、目を細めて空を睨んでいる。
その顔に、外交官らしい余裕はなかった。
「陛下」
クラウスが振り返る。
ゼクスはその横に立った。
「あの光は」
王都の空。
そこに、四つの光があった。
遠い。
小さい。
だが、人型だと分かる。
背に白い翼。
白い服。
金の首輪。
神聖と呼ぶには、あまりにも冷たい輝き。
「……神の使徒か」
バルトラムが、低く言った。
次の瞬間。
空で、無数の星が瞬いた。
一瞬だけ、綺麗だった。
真昼の空に星が浮かんだように見えた。
白く、細かく、雨粒のように。
それが、王都へ降り注いだ。
光が落ちる。
王城ではない。
街へ。
中央区へ。
外縁区へ。
倉庫街へ。
騎士団の詰所へ。
橋へ。
広場へ。
民家へ。
市場へ。
ひとつ落ちるたびに、街が白く弾けた。
遠くの鐘楼が折れる。
石橋が崩れ、水路へ瓦礫が落ちる。
屋根が吹き飛び、街路が裂け、塔が崩れる。
さらに光は、波のように外へ広がっていく。
王都が、外側から攻められているのではない。
内側から壊れていた。
「……馬鹿な」
ゼクスの口から、かすれた声が漏れた。
早すぎる。
まだ準備は終わっていない。
騎士団の配置も、避難誘導も、外縁防衛も、何もかも始めたばかりだ。
命令を出す前に、街が壊れている。
守る場所を決める前に、人が死んでいる。
ゼクスの膝が、わずかに折れた。
クラウスが腕を伸ばそうとする。
だが、ゼクスは自分の足で踏みとどまった。
「……甘く見ていた」
王の声は、風に消えそうだった。
「イノセントを、甘く見ていた」
白い光が、また街を裂く。
「戦争を、甘く見ていた」
遠くで黒煙が上がる。
泣き声も悲鳴も、ここまでは届かない。
届かないことが、なお恐ろしかった。
「聖都の計画を、甘く見ていた……」
これは侵攻ではない。
王都を外から落とす戦ではない。
最初から、王都という都市の機能を殺すための一撃。
四つの光のうち、三つが動いた。
東へ。
西へ。
南へ。
それぞれ別方向へ、白い尾を引いて飛んでいく。
残った一つだけが、王都上空に留まった。
その姿が、わずかに見える。
金髪の長髪。
整った顔立ち。
三十ほどに見える男。
かなり体格がいい。
白い服。
金の首輪。
背には白い翼。
美しい。
だが、その美しさは人を救うためのものではなかった。
次の瞬間、声が聞こえた。
耳ではない。
頭の中に、直接響いた。
『我が名は、ガブリエル』
王城の屋上にいる者だけではない。
王都中の人間が、同じ声を聞いていた。
倒れた者。
逃げる者。
瓦礫の下で息をする者。
地下へ逃げる者。
剣を取る者。
子を抱く者。
その脳に、声が触れていた。
『聖都クリソストモスより遣わされし、神の使徒第二柱』
丁寧な声だった。
けれど、祈りではない。
それは判決だった。
『神の言葉を伝える者である』
王都の空に、ガブリエルが立つ。
『東の都ルヴェリアよ。汝らは神の血脈を私欲に用いた』
ゼクスは歯を食いしばった。
『大運河は、神が大陸へ刻みし聖なる流れ。万人へ開かれるべき神の血である』
ガブリエルの声は、穏やかなまま強い。
『だがルヴェリア王族は、その血脈に門を築き、税を課し、富を蓄え、周辺国を経済の鎖で縛った』
バルトラムの指が、口髭から離れる。
『悪魔を使役し、背信の牙を飼い、神の秩序を嘲笑った』
クラウスの首元の聖環が、かすかに揺れる。
『このままでは、南は干上がり、北は凍てつき、中央の信仰は揺らぐ』
ガブリエルは、両腕を広げた。
『よって、神の名のもとに宣戦を布告する』
空が、白く震えた。
『これは聖都クリソストモスによる聖戦である』
王都の各所で、別の光が生まれた。
紫の光。
それは、聖教会東支部だけではなかった。
地区礼拝堂。
施療院。
孤児院に併設された小聖堂。
巡礼宿。
鐘楼。
外縁の小さな祈祷所。
王都の人々が祈りを捧げてきた場所から、紫の門が開いていく。
「報告!」
屋上へ兵が駆け込んできた。
「聖教会東支部に紫門発生!」
別の兵が続く。
「第三礼拝堂より武装集団!」
「南区施療院、中庭に魔法陣! 聖騎士と思われる部隊が出現!」
「西外縁、第七祈祷所より白鎧の兵!」
「巡礼宿地下からも敵影!」
バルトラムが、呆然と呟いた。
「聖教会施設ばかりではないか……」
クラウスの目が細くなる。
「最初から、門を埋めていたか」
紫の門から、人が出てくる。
白鎧の聖騎士。
武装した聖教会兵。
支援部隊。
占領部隊。
その中心に、聖都直轄の騎士団がいた。
「天啓の騎士団……」
誰かが呟いた。
ガブリエルの声は続いている。
『ルヴェリアの罪は、血によって洗われる』
王都の空が、冷たく鳴った。
『贖罪として、百万人の命を差し出せ』
ゼクスの顔から、血の気が引いた。
『増えすぎた国力を削ぎ、背信の富を砕き、神の秩序へ帰順せよ』
ガブリエルは、静かに告げる。
『完全降伏せよ。さもなくば、王都ルヴェリアは罪ごと焼き清められる』
屋上に、沈黙が落ちた。
すぐ下では兵が走っている。
街は燃えている。
紫の門から敵が溢れている。
だが、ゼクスの耳には、一瞬何も聞こえなかった。
百万。
数字だった。
民が、数字にされていた。
「陛下」
クラウスが、王の前に出た。
「場内へ」
ゼクスは、街を見ていた。
「クラウス……民が」
「承知しております」
クラウスは、空を見上げなかった。
膝をつくことも、祈ることもしなかった。
ただ、王の前に立った。
「だからこそ、陛下には場内へお戻りいただきます」
「民を置いて逃げろと言うのか」
「違います」
クラウスの声は、静かだった。
「民を守るために、王を失うわけにはまいりません」
ゼクスの唇が、強く結ばれる。
「王牙騎士団で迎撃します」
クラウスは告げた。
「王城門前、中央街道、貴族街入口を固めます。聖教会施設から湧く敵は、地区部隊で押さえます」
「数が足りると思うか」
「足りません」
即答だった。
「ですが、噛みつかねば民が死にます」
クラウスは腰の剣に手を置いた。
「我らは王国の表の牙。ここで噛みつかず、いつ噛みつくというのですか」
ゼクスは、深く息を吸った。
「……頼む」
「御意」
バルトラムが、一歩前へ出た。
「クラウス卿が敵を止めるなら、私は生存者を逃がします」
ゼクスが振り向く。
「バルトラム」
「使える伝令と文官をすべて動かします。港湾局、商館、各国公館、地下水路管理局へ通達を」
バルトラムの声は早い。
だが、乱れてはいなかった。
「聖教会施設は危険区域。紫門確認区域への接近は禁止。水門は完全封鎖しない。逃げ道まで塞ぐわけにはいきません」
「できるか」
「命じられずとも」
バルトラムは、乱れた上着を片手で整えた。
「王都は石でできています。崩れても積み直せる」
その目が、燃える街を見た。
「人は戻りません」
ゼクスは頷いた。
「行け」
クラウスとバルトラムが動く。
白い光はまだ降っている。
紫の門はまだ開いている。
王都ルヴェリアは、壊されていた。
だが、港と水門は残されている。
大運河の施設も、主要な倉庫も、すべてを壊してはいない。
敵は王都を更地にする気ではない。
使う気だ。
王都ルヴェリアを殺し、その死体を占領する気だ。




