番外編③ ヴィクトルの『老狼と見えない防波堤』
西暦2055年、秋。
極東の悪魔が世界を完全に屈服させ、表舞台から姿を消して十数年の歳月が流れていた。
日本の地方都市から少し離れた、静かな海辺の田舎町。
そのひなびた防波堤の先端で、一人の初老の外国人が、パイプ椅子に腰掛けてのんびりと釣り糸を垂らしていた。
白髪交じりの短髪に、深いシワの刻まれた大柄な男。そして、顔の左半分には痛々しい火傷の痕が残っている。だが、近所の子供たちや漁師たちは、この「ヴィクさん」と呼ばれる無口なロシア人をすっかり町の一員として受け入れていた。
「ヴィクさーん! 今日も釣れてる?」
学校帰りの小学生たちが、ランドセルを揺らしながら駆け寄ってくる。
「ああ。今日はアジがよく釣れる。後で持っていけ」
ヴィクトル・イワノフは、火傷の痕を歪めて不器用な笑顔を作りながら、クーラーボックスの中身を子供たちに見せてやった。
「わぁい、ありがとう! ヴィクさんの釣るお魚、お母さんが喜ぶんだ!」
子供たちが元気に手を振って去っていくのを見送り、ヴィクトルは再び静かな海へと視線を戻した。
平和だ。
かつてロシア連邦保安庁(FSB)の最高のエージェントとして手を血に染め、国家に使い捨てにされ、シベリアの雪原で死にかけていた男の余生としては、あまりにも静かで、温かすぎる日常だった。
ボス――神盾宗一が『ヴァルハラ』の武装解除を宣言し、暗殺部隊を解散させたあの日。ヴィクトルは、部下たちを故郷へ帰し、自らはこの日本の片田舎に住み着くことを選んだ。
表向きは完全に引退したただの外国人。
だが、彼の真の役目は、ボスの家族の周囲に張り巡らされた『不可視の防護壁』の最後の砦として、陰から彼らを見守り続けることだった。
ピピッ。
不意に、ヴィクトルの耳の奥に埋め込まれた極小のインプラント端末が、低い警告音を鳴らした。
「……どうした、玲奈」
ヴィクトルが釣り竿を持ったまま、周囲に誰にも聞こえない低い声で呟く。
『――ヴィクトル。平穏な釣りの時間を邪魔して申し訳ありません』
通信の向こうから、アース・トラストの代表理事として世界経済を牛耳る『氷の女帝』、橘玲奈の冷徹な声が響いた。
『ユウキ様の周辺で、少し不穏な動き(ノイズ)を検知しました』
「ユウキ様、か」
ヴィクトルの目が、静かな老人のものから、獲物を狙う狼の鋭い眼光へと瞬時に切り替わった。
宗一の孫であるユウキは、今年で十九歳。
祖父の才能を完璧に受け継いだ彼は、現在、日本のトップ大学で航空宇宙工学を専攻する優秀な大学生となっていた。彼は自分が世界の爆破スイッチ(デッドマンズ・スイッチ)と繋がっていることなど知らず、純粋な情熱で次世代ロケットの基礎理論を研究している。
『ここ数週間、ユウキ様が通う大学のキャンパス周辺、および彼のアパートの近くに、身元の怪しい『留学生』や『フリージャーナリスト』を名乗る者たちが頻繁に接触を図ろうとしています』
玲奈が、冷ややかに報告を続ける。
「どこのネズミだ? 大国の残党か?」
『アメリカと中国の、軍需産業に連なる非合法な情報ブローカーたちです。大国としての軍事力は完全に無力化されましたが、彼らは次世代の宇宙開発利権において、ユウキ様の持つ『神盾宗一の血と才能』に目をつけているようです。あわよくば彼を洗脳し、あるいは脅迫して、自分たちの陣営(ダミー企業)へ引き込もうとする腹積もりでしょう』
「……愚かな。大国の連中は、ボスの逆鱗に触れることがどういうことか、十四年前の絶望をもう忘れたのか」
ヴィクトルは、低く唸った。
『ボスにはまだ報告していません。ボスは現在、サチコ様や奥様とご一緒に、平和な温泉旅行を満喫されていますから』
「当然だ。ボスの平和な日常を、あんな下水ネズミの報告で煩わせる必要はない」
ヴィクトルは釣り竿を静かに置き、パイプ椅子から立ち上がった。
「私が掃除する。……連中のアジトの座標を送れ」
『了解しました。……ヴィクトル、シャドウのバックアップ部隊を送りましょうか? あなたはもう、強化外骨格もプラズマ兵器も持っていません。生身の体で複数のプロを相手にするのは……』
「心配無用だ」
ヴィクトルは、着古した分厚いトレンチコートを羽織り、首の骨をゴキリと鳴らした。
「兵器や外骨格など、ただの『便利な道具』に過ぎない。……狼の牙は、錆び付いてなどいないということを、極東の裏社会に改めて教育してやる必要があるな」
* * *
その夜。
東京都内、某所の古びた雑居ビルの一室。
そこは、ユウキに接触を図ろうとしていた情報ブローカーと、彼らに雇われた多国籍の武装工作員たちの隠れ家だった。
「――ターゲット(ユウキ)の大学のスケジュールは完全に把握した。明日の夜、彼が研究室から帰宅するルートで、路地裏に誘導して車に押し込む」
リーダー格の男が、テーブルに広げた地図を指差しながら、五人の屈強な男たちに指示を出していた。
「傷をつけるなよ。彼は我々にとって、イージス社の遺産を引き継ぐための最高の『金の卵』だ。うまく薬で眠らせて、海外のダミー施設へ連れ出す」
「しかし、神盾宗一の孫だぞ。あの『極東の悪魔』の報復は恐ろしくないのか?」
部下の一人が、不安げに口を挟んだ。
「神盾宗一は、十数年前に表舞台から完全に姿を消した。死んだという噂すらある。それに、イージス社の私兵部隊も完全に解体されたのは確認済みだ。……今の奴らには、我々のような裏のプロフェッショナルを防ぐ物理的な暴力は残っていない」
リーダーが傲慢に笑い飛ばした、その瞬間だった。
――トントン。
不意に、防音扉がノックされた。
部屋の空気が一瞬で凍りつく。この隠れ家の場所を知っている者は、彼らの組織以外には絶対にいないはずだった。
「誰だ……?」
リーダーが拳銃を抜き、部下たちも一斉にアサルトライフルをドアに向けた。
返事はない。
部下の一人が慎重にドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。
そこに立っていたのは、着古したトレンチコートを着た、顔の左半分に火傷の痕を持つ大柄な初老の男だった。丸腰で、武器らしきものは何も持っていない。
「なんだ、貴様は……! ここは立ち入り禁止だぞ!」
工作員が銃口を男の顔に突きつけ、威嚇する。
「……少し、道に迷ってな」
初老の男――ヴィクトルは、銃口を突きつけられても表情一つ変えず、静かに呟いた。
「我が主が引いた『不可侵の線』を越えようとする、頭の悪いネズミの臭いを辿ってきたら……こんなドブの底に行き着いた」
「な、なんだと!?」
工作員が引き金を引こうとした、そのコンマ一秒の隙。
ヴィクトルの巨体が、まるで蜃気楼のようにブレた。
ボキィッ!!
鈍い音と共に、銃を構えていた工作員の腕が不自然な方向へへし折られ、彼自身の銃口が自らの顎下へ向けられていた。
「がぁっ!?」
悲鳴を上げる間もなく、ヴィクトルの掌底が工作員の喉笛を正確に粉砕する。男は白目を剥き、音もなく床に崩れ落ちた。
「なっ……!? 撃て! 撃ち殺せェェッ!!」
リーダーが絶叫し、残る四人の工作員が一斉に引き金を引く。
だが、ヴィクトルの動きは、五十代という年齢を完全に超越していた。無駄のない、殺戮のためだけに研ぎ澄まされた純粋な体術。
彼は倒れた工作員の体を肉盾にして銃弾を防ぎながら、床を滑るようにして二人目の懐へ潜り込み、その膝の関節を蹴り砕く。男が体勢を崩した隙に、奪い取ったコンバットナイフを首の頸動脈へと正確に突き立てた。
「ひぃっ! 化け物か、こいつは!」
強化外骨格も、未来のプラズマ兵器もない。
だが、ヴィクトル・イワノフは、元ロシア連邦保安庁(FSB)の暗殺部門で最強と呼ばれた男だ。生身の体であろうと、室内の閉鎖空間における彼との近接戦闘は、羊が狼の檻に入れられたに等しい。
わずか三十秒。
部屋の中にいた五人の工作員たちは、一人残らず床に転がり、二度と動かない肉の塊へと変わっていた。
「あ、あぁ……っ」
最後に残されたリーダーの男だけが、壁際で腰を抜かし、ガタガタと震えながらヴィクトルを見上げていた。
彼の目には、コートを血で汚したヴィクトルの姿が、本物の死神に見えていた。
「お前たちが狙った獲物は、お前たちのような底辺のクズが触れていい存在ではない」
ヴィクトルは、血に濡れたナイフをハンカチでゆっくりと拭いながら、冷酷に告げた。
「ボスの家族は、世界で最も尊い絶対の聖域だ。……そこに泥靴で踏み込もうとした罪は、お前たちのその安っぽい命で贖ってもらう」
「ま、待ってくれ! 俺たちはただ、依頼されただけで……!」
「言い訳は、地獄の閻魔にでもするんだな」
ヴィクトルは一切の慈悲なく、ナイフを男の心臓へと深く突き立てた。
短い痙攣の後、男の息は完全に絶えた。
静寂が戻った血まみれの部屋の中で、ヴィクトルはインカムのスイッチを入れた。
「玲奈。……ネズミの駆除が完了した」
『お疲れ様でした、ヴィクトル。さすがは『老狼』ですね。死体と現場の証拠隠滅は、財団の処理班を向かわせます』
通信越しの玲奈の声には、深い信頼と敬意がこもっていた。
『ボスのご家族の平和は、今日も完璧に守られました』
「ああ。……ボスには、内緒だぞ」
ヴィクトルは、トレンチコートの襟を立て、血の匂いを夜風に紛らわせながら、足早に雑居ビルを後にした。
翌朝。
田舎町の防波堤には、いつものようにパイプ椅子に腰掛けてのんびりと釣り糸を垂らす、無口なロシア人の姿があった。
何事もなかったかのように、朝日に照らされた海面を見つめながら、彼は穏やかな息を吐き出す。
「おや、ヴィクさん。今日は随分と早起きですね」
通りかかった近所の老人が、笑顔で声をかけてくる。
「ああ。……昨夜は少し、よく眠れたものでね」
ヴィクトルは、火傷の痕を歪めて不器用な笑顔を作り、再び静かな海へと視線を戻した。
極東の悪魔が創り上げた、かりそめで、しかし絶対的な平和な世界。
その平和の裏側で、ボスの家族を脅かすあらゆる影を音もなく噛み砕く、見えない『最後の防波堤』。
忠義の老狼は、今日ものんびりと釣竿を握りながら、遠く離れた東京の空の下で笑う青年の未来を、誰にも知られることなく守り続けているのだった。
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