番外編① 橘玲奈の『氷の女帝と退屈な世界』
西暦2045年、冬。
神盾宗一がイージス・イノベーションズの全権を放棄し、歴史の表舞台から『蒸発』してから、約三年の歳月が流れていた。
スイス、ジュネーブ。
かつて世界を牛耳っていた国連本部のすぐ近くにそびえ立つ、ガラス張りの超高層ビル。そこは、イージス社の全特許と深海プラントの運営権を引き継いだ『地球資源管理・公益財団』のグローバル本部である。
最上階の代表理事室。
私は、特注のクリスタルデスクに座り、窓の外に広がる雪景色の街並みを、冷ややかな瞳で見下ろしていた。
「――代表。フランスのエネルギー相と、アメリカ国務長官からの面会要請が入っております。来年度のレアアース供給枠の拡大について、どうしても直接お話がしたいと」
優秀な秘書が、恭しくタブレットを差し出す。
「断りなさい。彼らが用意した甘言も裏取引の提案も、すべて予測済みよ。……供給枠は現在の規定通り、一ミリたりとも譲歩しないと伝えておきなさい」
「かしこまりました。……それから、ロシアの残存政府から、賠償金の支払い期限の延長要請が」
「遅延損害金として、彼らの国内の通信インフラの管理権をさらに一割譲渡するなら認めると返しなさい。飲めなければ、明日の朝からモスクワの電気を止めるわよ」
「……即座に手配いたします」
秘書は深く一礼し、足早に退室していった。
静寂が戻った部屋で、私は淹れたてのダージリンティーを口に運び、小さく、そして退屈そうなため息を吐いた。
私がアース・トラストの代表理事に就任して三年。
世界は、驚くほど『平穏』だった。
かつて覇権を争っていた大国たちは、宇宙からの『神の裁き』によって軍事中枢を蒸発させられ、完全に牙を抜かれている。彼らは今や、私が管理するクリーンエネルギーと通信網にすがりつき、配給されるリソースの枠を少しでも増やしてもらおうと、泥を這うようにして私の機嫌を窺ってくる。
メディアは私を『氷の女帝』と呼び、畏怖と称賛の入り混じった眼差しを向けている。
世界経済のすべてを、私の指先一つでコントロールできる。投資銀行のトップエリートだった頃の私が夢見た、資本主義における究極のゲームクリア。
……だが。
「退屈ですね。本当に」
私は、誰もいない部屋で独り言ちた。
平和は素晴らしい。ボスが命を懸けて創り上げたこの絶対的な聖域を、私は美しく運用し続ける義務がある。
だが、かつてボスと共に、大国の傲慢なエリートたちを冷酷に論破し、彼らの誇りを粉々に砕き、世界そのものをひっくり返したあの『極上のエンターテインメント』の刺激を知ってしまった私にとって、すでに完全に平伏した相手を管理するだけの毎日は、ひどく色褪せて見えたのだ。
「ボス……。あなたが表舞台からいなくなって、私は少しだけ、刺激に飢えているようです」
私は、デスクの引き出しに大切にしまってある、一枚の写真を見つめた。
三年前にイージス社が解散した日、ボス――神盾宗一と、私、クリス、ヴィクトルの四人で撮った、最初で最後の記念写真だ。
その時。
私の思考を遮るように、デスクのセキュア端末が鋭い電子音を鳴らした。
『――代表。緊急事態です』
モニターに映し出されたのは、かつてイージス社の地下にいたサイバーチームのチーフだ。彼もまた、現在は財団のセキュリティ責任者として私に仕えている。
「どうしたの、チーフ。あなたの顔に焦りが見えるなんて珍しいわね」
『笑い事ではありません。……財団の基幹サーバーに対し、極めて高度なサイバー攻撃が仕掛けられています』
「ハッキング? 我が財団の量子防壁を抜けるはずがないでしょう」
『ええ、外部からの侵入は不可能です。……ですが、今回は『内部』からです。スイス本部にある物理サーバーのメンテナンスポートに、直接、未知のマルウェアが仕込まれたUSBデバイスが接続されました。内部犯行です!』
チーフの報告に、私はピクリと眉を動かした。
「内部犯行……。財団の職員は、過去三代にわたって完璧に身辺調査を行っているはずよ」
『おそらく、長期間にわたって完璧な経歴を偽装した『潜伏工作員』の仕業です。……代表! マルウェアが爆発的に増殖し、エネルギー配給システムの制御コードを書き換えようとしています! このままでは、世界のインフラがダウンします!』
コントロールルームのパニックをよそに。
私は、ゆっくりと、そしてひどく妖艶な笑みを浮かべていた。
「……あら。少しは骨のあるネズミが残っていたようね」
大国が降伏した後も、ボスの『不在』をチャンスと捉え、財団の乗っ取りを企む狂信的な残党。
久しぶりに嗅ぐ、陰謀と鉄火の匂い。
私の体内で、冷え切っていた血が熱く沸騰し始めるのを感じた。
「チーフ。慌てる必要はありません。防壁を一段階下げて、そのマルウェアをシステムの深部まで『泳がせなさい』」
『はっ!? しかし、それではインフラが……!』
「私が構築したシステムが、その程度のウイルスで落ちるわけがないでしょう。……彼らが『システムを乗っ取った』と歓喜し、外部へ向けて勝利の通信を発信するまで、待つのです」
私が冷徹に命じると、チーフはハッとして、すぐに凶悪な笑みを浮かべた。
『……なるほど。彼らの背後にいる『黒幕』の居場所を、逆探知で完全に洗い出すのですね。ボスのやり方そっくりです』
「私は彼の最高の手足でしたからね。……行かせなさい」
十分後。
チーフからの報告が響いた。
『ビンゴです、代表! マルウェアの送信元、および内部工作員が暗号通信を送った先を完全に特定しました! ……発信源は、アメリカと旧EUの一部強硬派が資金を出して運営している、南米のダミーファンドの拠点です!』
「やはりね。表では尻尾を振っておきながら、裏ではまだコソコソと私の財布に手を出そうとする。……大国という病気は、本当に死ななきゃ治らないようね」
私は、キーボードに両手を乗せ、氷のような瞳でモニターを睨み据えた。
「チーフ。ウイルスのコードを完全に解析し、それをさらに凶悪な『破壊プログラム』へと書き換えなさい。そして、彼らが繋いできた通信経路を逆流させ、南米のダミーファンドのメインサーバー、および彼らに資金を提供しているすべての関連銀行の口座システムへ向けて、一斉に放つのです」
『ヒャッハー!! 了解です! ……あ、すいません、クリスさんの口癖がうつりました!』
チーフが楽しげにキーボードを叩く。
数秒後。
世界中の金融ネットワークの裏側で、目に見えない大虐殺が実行された。
私に牙を剥いた強硬派たちの隠し資産、裏金、そして彼らの個人口座に至るまで、すべてのデータが『ゼロ』に書き換えられ、完全に消去されたのだ。
『――制圧完了しました、代表。彼らの資金源は文字通り完全に蒸発しました。もうテロリストを雇うことも、明日のパンを買うこともできないでしょう』
「ご苦労。……そして、内部でUSBを挿した愚かなスパイですが」
私は、監視カメラの映像に映る、サーバールームからこっそりと逃げ出そうとしている清掃員姿の男を見据えた。
「ヴィクトルに連絡を取りなさい。……『シャドウ』の日本本部にいる彼に頼むのは少し気が引けますが、欧州支部に残っている彼の部下たちに、あのネズミの『物理的な掃除』を命じなさい。誰の庭を荒らしたのか、骨の髄まで教えてあげるようにとね」
『御意。……哀れなネズミですね。彼らは、氷の女帝を怒らせるということが、どれほど恐ろしいかを知らなかった』
通信を切り、私は深く、満足げな息を吐き出した。
久しぶりに味わった、敵を完全にすり潰すカタルシス。
窓の外の雪景色は、先ほどよりも少しだけ鮮やかに見えた。
「……ふふっ。ボス。あなたが残してくれたこの世界、退屈だなんて言ってごめんなさい」
私は、デスクの引き出しから写真を取り出し、そこに写る冷酷で、けれど誰よりも家族思いだった男の顔を優しく撫でた。
「あなたが守りたかった平和な日常の裏側で……私はこれからも、この『退屈な玉座』から、あなたに仇なす愚か者たちを、一匹残らず冷酷に狩り続けてみせます」
氷の女帝は、誰の目にも見えない艶やかな笑みを浮かべ、再び世界を支配する完璧なシステムの構築へと、優雅に指先を躍らせ始めたのだった。
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