第88話(最終話)2065年の約束と、永遠の日常
西暦2065年、秋。
私が前世で、アメリカの地下研究所の冷たい床で絶望に呑まれ、自らのこめかみに銃口を押し当てた『あの日』から、ちょうど五十五年の歳月が流れていた。
だが今、私の目の前に広がっているのは、業火に焼かれる祖国の姿でも、四大勢力(G4)の軍用機が我が物顔で飛び交う絶望の空でもない。
抜けるような秋晴れの青空と、色鮮やかに紅葉した木々。そして、平和の象徴のように穏やかな波を打つ、東京湾の美しい海だった。
「――おじいちゃん! こっちだよ、早く早く!」
海浜公園の遊歩道を少し先まで駆け出した青年が、私に向かって大きく手を振っている。
今年で二十九歳になった孫の、ユウキだ。
彼の背丈はとうに私を越え、その顔つきは前世のホログラム越しに見たあの日の『彼』と完全に一致していた。だが、その瞳に宿る光は全く違う。理不尽な暴力によって未来を奪われる定めにあった前世の影など微塵もない、自らの手で明日を切り拓こうとする、力強く真っ直ぐな青年の瞳だ。
「これでも私は、今年で八十歳になる老人なんだ。……もう少し、年寄りの歩幅に合わせてくれてもいいんじゃないか?」
私は苦笑しながら、ゆっくりとした足取りで彼に追いついた。
「えー? おじいちゃん、俺が子供の頃から全然見た目変わってないじゃないか。今でも俺より足速いんじゃないの?」
ユウキが、屈託のない笑顔で私の肩を軽く叩く。
確かに、私の細胞は次世代型医療ナノマシンの恩恵により、三十代前半の肉体年齢を完全に保っている。だが、精神年齢は百三十五歳を超え、世界を恐怖で支配した重圧と長きにわたる暗闘の記憶が、私という人間に静かな老成をもたらしていた。
「宗一くん、ユウキ! お弁当の場所、ここの木陰でいいかしら?」
少し後ろから、レジャーシートを抱えた結衣が歩いてきた。彼女もまた、信じられないほど若々しく美しいままだ。
「ああ、そこがいい。……サチと誠くんは?」
「パパー! お待たせ!」
駐車場の方から、五十三歳になり、大人の女性としての落ち着きと気品を身に纏ったサチコが、夫の誠と共に両手に飲み物の袋を提げて歩いてきた。
「本当に、パパってばいつまでも若々しいんだから。これじゃ私が娘じゃなくてお姉ちゃんに見られちゃうじゃない」
サチコが冗談めかして笑う。
「お義父さん、今日はお誘いいただきありがとうございます。……『アース・トラスト(地球資源管理財団)』の仕事も、橘代表のおかげで完全に安定していまして、俺も久しぶりの完全な休日なんですよ」
イージス社の遺産を引き継ぎ、今や世界の宇宙開発とクリーンエネルギーのトップエンジニアとして活躍する誠が、充実した顔つきで私に会釈した。
サチコ、ユウキ、誠、そして結衣。
前世で私が傲慢さと無力さゆえに守り切れず、残酷な運命の閃光の中に消え去ってしまった、私の愛する家族たち。
彼らが今、誰一人欠けることなく、『2065年』という時代を、完璧な平和の中で生きている。
「……よかった。本当に、よかった」
私は、レジャーシートの上で楽しそうにお弁当を広げる彼らの姿を見つめ、誰にも聞こえない声で深く、そして温かい息を吐き出した。
私が表舞台から姿を消して、二十年以上が経過した。
その間、世界は驚くほど平穏だった。
かつて四大勢力(G4)と呼ばれ、世界の覇権を争っていたアメリカ、中国、ロシア、欧州は、軍縮の約束を完全に守り続けていた。彼らは、姿なき極東の悪魔が今も宇宙から自分たちを睨み下ろしているという『不在の恐怖』に縛られ、二度と結託して武力を行使しようとはしなかった。
『シャドウ』は、一般社会に完全に溶け込みながら、今も音もなく我が家の周囲の安全を確保し続けている。
そして、遥か四百キロメートル上空の真空空間では、Dr.クリスが創り上げた『神の雷』が、私と家族の命の鼓動と完全に同期したまま、永遠の眠りについている。
あのシステムが作動する日は、もう二度と訪れないだろう。人類は、自らの愚かさを乗り越え、新しい秩序の中での共存を受け入れたのだから。
「おじいちゃん。……俺、来月から宇宙ステーションの長期滞在クルーに選ばれたんだ」
食後のコーヒーを飲みながら、ユウキがふと、真面目な顔つきで私に告げた。
「俺の設計した次世代プラズマ推進エンジンの実地テストなんだ。……おじいちゃんが昔、イージス社で基礎理論を作ったっていう、あの技術の応用だよ」
「……そうか。ついに、君も宇宙へ行くのか」
私は、誇らしく成長した孫の顔を真っ直ぐに見つめた。
「うん」
ユウキはコーヒーカップを両手で包み込み、少しだけ視線を伏せてから、静かに言葉を紡いだ。
「ねえ、おじいちゃん。……俺、もう大人だからさ。ネットの噂や、昔の記録……それに、母さんたちから時々こぼれる話を聞いて、全部わかってるよ」
その言葉に、私は一瞬だけ目を開いた。
ユウキは、私の瞳を真っ直ぐに見つめ返してきた。その目には、畏怖や恐怖ではなく、深い理解と感謝が宿っていた。
「二十年以上前、世界が急に平和になった理由。大国が急に軍備を縮小して、争いがなくなった本当の理由。……おじいちゃんが、俺たち家族のこの日常を守るために、どれだけ恐ろしい決断を下し、どれだけ重い罪を一人で背負ってくれたのかを」
「……ユウキ」
「世界中の人は、おじいちゃんのことを『独裁者』とか『悪魔』って呼ぶかもしれない。でも、俺にとっては違う」
ユウキは、力強く私の手を握りしめた。
「おじいちゃんが手を汚して、恐怖で縛り付けてまで創り上げてくれたこの平和な世界を……今度は俺たちが、俺たちの技術で、本物の、優しい平和へと変えていくよ。宇宙から、この綺麗な地球をずっと守り続けるんだ」
私は、彼の大きく、温かい手を握り返した。
前世の私は、科学の発展という名目に目を奪われ、結果的に大国に利用されて祖国と家族を焼き払う最悪の兵器を創り上げてしまった。
そして今世の私は、その悲劇を防ぐためとはいえ、自らが悪魔となり、圧倒的な暴力と恐怖で世界を蹂躙した。
その血塗られたカルマを、彼はすべて知った上で、なお私を肯定し、未来へと引き継ごうとしてくれている。
「……ああ。頼んだぞ、ユウキ。君なら必ずできる」
私の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
これ以上の救済が、この世のどこにあるだろうか。
「宗一くん、ユウキ! そろそろ海沿いを散歩しましょうよ! 夕焼けがすごく綺麗よ!」
少し離れた場所から、結衣が手を振って私たちを呼んでいる。サチコと誠も、笑顔でこちらを見守っている。
「行こうか、ユウキ」
「うん!」
私たちは立ち上がり、秋の柔らかな海風に吹かれながら、家族の元へと歩き出した。
かつて私を蝕んでいた深い絶望と、世界を焼き尽くすほどの黒い復讐の炎は、もう完全に消え去った。
歴史の修正力は、私が自らの手で完全に粉砕した。
私がその生涯を懸けて構築した『絶対的な防壁』は、世界中の国家を震え上がらせ、私の家族の未来を永遠に照らし続ける、冷酷にして強固な『絶対の番人』となったのだ。
空を見上げれば、夕闇が迫る空の向こう側に、一番星が静かに瞬き始めている。
あの星々と同様に、世界を終わらせる悪魔の兵器が、この平和な日常を縛り付ける絶対的な鎖として、今日も音もなく地球を睨み下ろしていることだろう。
私は、結衣の差し出した手をそっと握りしめた。
その確かな温もりを感じながら、私は、私の愛する世界に向けて、心からの感謝と祈りを込めて静かに微笑んだ。
世界を終わらせるトリガーを握りしめていた男の、長く、苛烈な反逆の物語は、ここに完全に幕を下ろす。
残されたのは、ただ果てしなく続く、優しくて、退屈で、そして何よりも尊い『永遠の日常』だけだった。
(了)
本編完結と、番外編のお知らせ
本作『神の雷』本編は、これにて完結となります。
第1話から最終話まで、極東の悪魔・神盾宗一の血塗られた、しかし家族愛に満ちた反逆と支配の物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
宗一の物語は、孫であるユウキに希望を託す形で、一つの美しいハッピーエンドを迎えました。
ですが――。
彼を支えた一癖も二癖もある腹心たちや、残された家族たちは、その後どのような人生を歩んだのか?
世界を支配した『その後の日常』を描く**【番外編(後日談)】**を、次回より数話ほど更新予定です!
氷の女帝として君臨する橘玲奈、南の島でマッドサイエンティストをこじらせるクリス、そして陰から家族を守り続ける老狼ヴィクトルたちの活躍を、もう少しだけお楽しみいただければ幸いです。
改めまして、本編を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
引き続き、番外編もよろしくお願いいたします!
天音天成




