第87話 偽りの武装解除と、極東の悪魔の幕引き
西暦2043年、春。
極東の悪魔が宇宙から神の裁きを下し、四大勢力(G4)を完全に屈服させたあの『審判の日』から、およそ半年の歳月が経過していた。
東京、六本木ヒルズ。
イージス本社の最上階に位置する広大な社長室で、私は一枚の分厚い書類の束に、万年筆を走らせていた。
流れるような筆跡で最後のサインを終え、その重厚な紙の束を、デスクの前に静かに控えている橘玲奈へと差し出す。
「――これで、すべての手続きは完了だな」
「はい、ボス。……イージス・イノベーションズの保有する深海プラントの運営権、およびすべての次世代技術の特許群は、本日をもって新たに設立された『地球資源管理・公益財団』へと完全に移譲されました」
玲奈は、その書類を恭しく受け取りながら、少しだけ寂しそうな、しかし誇らしげな微笑を浮かべた。
「そして、神盾宗一CEOの全役職からの退任、およびイージス・イノベーションズという法人格の事実上の解散・再編プロセスも、滞りなく受理いたしました。……本当に、表舞台のすべてを手放されるのですね」
「ああ」
私は、長年愛用してきた特注のレザーチェアの背もたれに身を預け、窓の外に広がる春の青空を見上げた。
「私の目的は、世界を私物化して永遠の王として君臨することではない。愛する家族が、国家の理不尽な暴力に脅かされることなく、平和な日常を送れる『絶対的な聖域』を創り上げることだ」
私は、手元の冷めたエスプレッソを口に運んだ。
「大国どもは二度と私に牙を剥けない恐怖を骨の髄まで刻み込まれ、家族は私の過去の罪をすべて受け入れてくれた。……ならば、私がこれ以上『特異点』として表舞台に居座り続けることは、世界の自然な営みを不必要に歪め、新たな狂信者を生み出すノイズになりかねない」
圧倒的な力を持つ独裁者は、必ずいつか、その絶対的な力ゆえに孤独と反発を生む。
だからこそ私は、世界が完全に平伏し、新しい秩序が回り始めたこの最高のタイミングで、自らその座を降り、『無害な隠遁者』を演じるのだ。
「これからの表の世界の経済とエネルギー管理は、アース・トラストの代表理事に就任する君にすべて任せる。……大国どもが再び軍備を拡張しようとしないか、資源の供給バルブを調整しながら、適度に生かさず殺さず飼いならしてやってくれ」
「承知いたしました。ボスの築き上げた完璧なシステム、この橘玲奈が、命に代えても美しく運用し続けてみせます」
彼女は、初めて出会ったあのホテルのラウンジの時と変わらない、自信に満ちた完璧な一礼をした。
ただの退屈なエリートだった彼女は、私と共に世界をひっくり返すという極上のエンターテインメントを存分に味わい、今や真の意味で世界経済を統べる『氷の女帝』へと成長を遂げたのだ。
「では、裏の清算も済ませておこう」
私は、デスクの端末を操作し、地下のサイバー・コントロールルームで待機している二人の腹心へ向けて、暗号化通信の回線を開いた。
『――ボス。地上部隊の再編プロセス、および『偽装軍縮』のフェーズが完了しました』
モニターの分割画面に映し出されたヴィクトル・イワノフが、いつもの戦闘服ではなく、落ち着いた平服姿で穏やかな表情を浮かべて報告した。
『日本国内、および世界各地に展開していた暗殺部隊の末端構成員たちは、十分な退職金と共に解散させました。表の世界のメディアには「イージス社はすべての私兵部隊を解体した」と大々的に発表させています』
「ご苦労。……だが、真の防衛網はここからだな」
『御意。解散させたのはあくまで表向きの歩兵に過ぎません。……真の精鋭であるシャドウの中核メンバーたちは、一般の民間人や財団の警備員として生活圏に完全に溶け込み、ご家族の周囲に『不可視の防護壁』を形成しています』
ヴィクトルの火傷の痕が残る顔に、冷徹な狼の光が宿る。
『さらに、彼らの物理的な戦闘力を補完するため、クリスの開発した自律型マイクロ・ドローン群と、強化外骨格の無人兵器化プログラムが地球上の主要な隠れ家に配備完了しました。……もし数十年後、大国が再び狂気を募らせて蜂起しようとも、我々は即座に鎮圧できます』
「ああ。恐怖による支配が人々のDNAに定着するまで、我々は決して剣を捨てることはない」
私は深く頷いた。
表向きはすべての武装を解除し、世界に「平和な財団」として顔を売る。だがその実態は、AIと無人兵器によって極限まで洗練された、永遠の監視と弾圧のシステムだ。
「ヴィクトル。お前も、これからは趣味の釣りにでも精を出しながら、のんびりと極東の平和を楽しんでくれ。……だが、万が一の時は、再びその牙を振るってもらうぞ」
『光栄です、ボス。この命ある限り、ボスの平穏をあらゆる害虫からお守りいたします』
歴戦の狼は、深い敬意と感謝を込めて胸に手を当てた。
「クリス。そっちはどうだ」
私がもう一つの画面に呼びかけると、南太平洋の要塞ニヴルヘイムにいるDr.クリス・ウォーカーが、珍しく小綺麗なアロハシャツを着て現れた。
『ヒャッハー……とは、もう言わねえ方がいいか。ボス、こっちの店じまいも終わったぜ』
クリスは、いつもの狂気じみた笑いを引っ込め、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
『軌道上の『神の雷』、および要塞のアイギス・シールドの全機能は、完全に自律型AIの監視モードへ移行した。ボスのバイタル(デッドマンズ・スイッチ)との同期は維持したままだが、それ以外の攻撃的なアクティブ機能はすべて深いスリープ状態だ』
「ああ。あのシステムが二度と目覚めないことこそが、世界の真の平和の証明だ」
『だなぁ。……俺の最高傑作が宇宙で永遠に眠り続けるのは少し寂しいが、まあ、ボスの家族が笑ってられるなら、それが一番のハッピーエンドだ。俺もこの島で、のんびり南国リゾートを満喫させてもらうぜ。新しい趣味でも見つけるさ』
「頼んだぞ。……お前たちのおかげで、私は悪魔としての役目を完璧に果たすことができた」
私は、三人の優秀な腹心たち――いや、人生のすべてを懸けた復讐劇を共に駆け抜けてくれた『戦友』たちに向けて、心からの感謝を込めて微笑んだ。
「これより、秘密結社『ヴァルハラ』の、表立ったあらゆる軍事的・破壊的工作活動の終了を宣言する。……お前たちも、自らの自由な人生を生きろ」
『『『了解いたしました、ボス(総帥)』』』
三人の声が重なり、通信が静かに途切れる。
これをもって、私の表の権力は完全に手放され、裏の武力は『不可視のシステム』として歴史の影へと潜った。
私はゆっくりと立ち上がり、社長室の壁面に埋め込まれた、厳重なロックの施された隠し金庫を開けた。
中から取り出したのは、一つの『漆黒の仮面』。
南太平洋の要塞ニヴルヘイムへ退避した際、全世界へ向けて電波ジャックを行い、大国どもに絶望の業火を撃ち下ろす死刑宣告を行った、あの忌まわしい仮面だ。日本へ帰還する際、私は過去への戒めとして、これを本社へと持ち帰っていたのだ。
ボイスチェンジャーが内蔵され、私を「極東の悪魔」へと変貌させていたその仮面を見つめ、私は小さく息を吐いた。
「……長い間、ご苦労だったな」
私は、社長室の奥に設置されている機密文書用の超高温シュレッダー(ダストシュート)の蓋を開け、その仮面を静かに放り込んだ。
ゴォォォォン……という重い音と共に、仮面が数千度の炎に包まれ、文字通り跡形もなく灰となって消滅していく。
これで、もう誰も『ヴァルハラ総帥』を見つけることはできない。
神盾宗一という男は、歴史の表舞台から完全に『蒸発』したのだ。
* * *
数日後。
世界中のメディアを、一つの巨大なニュースが駆け巡った。
『――緊急速報です! 世界のエネルギーと通信インフラを独占していたイージス・イノベーションズが、突如としてすべての事業を非営利の公益財団『アース・トラスト』へ移譲し、企業としての解散を発表しました!』
『さらに、同社を率いていた神盾宗一CEOは、すべての私兵部隊の解体を宣言し、役職から退き、完全に表舞台から姿を消したとのことです。現在の彼の行方は、一切不明となっています……!』
突然の絶対的支配者の消失に、世界中が騒然となった。
街角のビジョンを見上げる市民たちは、驚きと共に、どこか深い安堵の息を漏らしていた。彼らにとって、神盾宗一は豊かな生活をもたらしてくれた救世主であると同時に、逆らう国を一瞬で地図から消し去る恐怖の対象でもあったからだ。
だが、そのニュースを聞いて最も深い安堵と、それ以上の『拭い去れない恐怖』を味わったのは、他でもない大国の残存政府の首脳陣たちだった。
「……消えた、だと? 私兵部隊を解散させ、あの男が、自ら権力を手放したというのか?」
アメリカ、コロラド州。
ロッキー山脈の地下深くに位置する代替指揮センター(通称:サイトR)。
かつてのホワイトハウスとペンタゴンが宇宙からの光で文字通り『蒸発』し、巨大なクレーターと化したあの日から、副大統領より実権を引き継いだ新大統領は、首都機能ごとこの山脈の地下へ逃げ込み、未だに外の太陽の光すら浴びていなかった。
彼は、震える手で報告書を握りしめ、顔面を蒼白にさせていた。
「大統領……これは、我々にとって好機ではありませんか? 奴が表舞台から消え、財団がインフラを管理する今なら、再び我々の軍事力を再建し、財団を裏から操って覇権を取り戻すことも……」
状況を分かっていない若き側近が、浅はかな希望を口にする。
「馬鹿者ッ!! 絶対に手を出すな!!」
大統領は、狂乱したように怒鳴りつけた。
「奴が軍隊を解散させたからといって、宇宙空間から我々を睨み下ろしているあの『悪魔の兵器』が消えたわけではないのだぞ! 奴は、我々が少しでも妙な動きを見せれば、いつでも何処からでも、不可視の裁きを撃ち下ろせるという『絶対的な自信』があるからこそ、姿を消したのだ!」
大統領は、ガタガタと震えながら、分厚い岩盤の天井――その向こうにある宇宙の方向を見上げた。
「ワシントンの跡地を見てみろ……! 我々は、目に見える独裁者よりも遥かに恐ろしい、『姿なき神』を相手にしなければならなくなったのだ。……いいか、日本には絶対に、何があっても干渉するな。一人のスパイすら送り込むな。……我々が生き延びる道は、あの男が敷いた不可侵のルールの中で、ただ大人しく息を潜めていることだけなのだ」
大国の権力者たちは、姿を消した極東の悪魔の『不在の恐怖』に、永遠に縛り付けられることとなった。
神盾宗一がどこで生きているのか、あるいはすでに死んでいるのかすら分からない。だが、彼らがかつて味わった宇宙からの業火の記憶は、何世代にもわたって彼らのDNAに刻み込まれ、人類が二度と愚かな戦争を起こさないための『絶対の枷』となったのだった。
【読者の皆様へのお願い】
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
もし「面白い!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】と、ページ下部からの【星評価】をお願いいたします!




