第86話 帰還の朝と、すべてを許容する温もり
西暦2042年、冬。
東の空が白み始めた頃、光学迷彩と完全な静音システムを備えたイージス社のステルス輸送機は、誰のレーダーにも捉えられることなく、東京の羽田空港のVIP専用滑走路へと滑り込むように着陸した。
タラップが静かに降りる。
私は、まだ眠い目を擦っている六歳のユウキを抱き上げ、妻の結衣、三十歳になった娘のサチコ、そして義理の息子である誠と共に、冷たい冬の空気が張り詰める日本の地を踏みしめた。
タラップの下では、ヴィクトル・イワノフが率いる『シャドウ』の精鋭たちが、周囲を完全に制圧し、鉄壁の防衛線を敷いて私たちを待っていた。
「パパ、まだ外、暗いね……」
サチコが、大きなあくびをしながらコートの襟を合わせる。
「ああ。だが、もうすぐ夜が明けるさ。……さあ、迎えの車に乗ろう。家まであと少しだ」
私は、家族をマイバッハの装甲車へと誘導し、ドアを閉めた。彼らの安全を確保した後、私はくるりと踵を返し、滑走路の隅で『待機』させられていた一団へと歩み寄った。
そこには、日本の総理大臣をはじめ、防衛大臣、資源エネルギー庁の長官など、この国の中枢を担うはずの最高権力者たちが、寒空の下で身を縮込ませて立っていた。
数週間前、G4(臨時四ヶ国協調体制)の圧力と甘言に屈して私をテロリスト呼ばわりし、自衛隊と警察の特殊部隊を差し向けてきた者たちだ。
彼らの顔には、かつての傲慢さも、大国という後ろ盾を信じていた頃の安堵も微塵もない。無精髭を生やし、目の下には真っ黒なクマが刻まれ、その表情は疲労と絶望で完全に死に絶えていた。
「お、お待ちしておりました……神盾社長……ッ!」
私が近づくのを見るや否や、総理大臣は文字通りアスファルトの地面に両膝をつき、深々と頭を擦りつけた。それに続くように、他の閣僚たちも次々と土下座の姿勢をとる。
一国のトップが、一民間企業のCEOに対して這いつくばるという、およそ法治国家ではあり得ない異常な光景だ。
「……随分と早いお出迎えですね、総理」
私は、彼らの頭を見下ろしながら、極低温の氷のような声で告げた。
「大国という泥舟が沈み、頼るべき主を失った気分はいかがですか?」
「も、申し訳ありませんでした! 我々が愚かでした! 大国の恫喝に目が眩み、日本の救世主である貴方を裏切るような真似を……ッ!」
総理が、涙声で必死に弁明を叫ぶ。
「弁明など求めていません。……私が提示した『三つの条件』は、どうなりましたか?」
「は、はい! お約束通り、昨日深夜の臨時国会において、イージス・イノベーションズおよび神盾家に対する『完全な治外法権』と『無税措置』を認める超法規的特別法を、全会一致で可決させました! 警察も自衛隊も、今後一切、貴社の敷地とご家族には干渉できません!」
「……それで?」
「そ、そして……我々現内閣の全閣僚は、本日の朝九時をもって総辞職し、政界から永久に引退いたします! だから、どうか……どうか、伊豆諸島沖の深海プラントを再稼働させてください!」
防衛大臣や経済産業大臣も、額を地面に擦りつけながら「お願いします!」と泣き叫んでいる。
イージス社が深海プラントを緊急停止させてから、日本列島は数週間にわたるブラックアウトと経済崩壊に喘いでいた。頼みの綱だった四大勢力の中枢が宇宙からの光で蒸発した事実を知り、彼らは自分たちがどれほど愚かな相手に喧嘩を売ったのかを、骨の髄まで理解したのだ。
「……約束は守りましょう」
私は、冷酷に彼らを見下ろした。
「一時間後に、プラントの制御コードを再起動させます。日本は再びエネルギーの供給を取り戻し、黄金時代へと戻るでしょう」
「お、おおお……! ありがとうございます、ありがとうございます!!」
総理たちが、歓喜のあまり涙を流して地面に額を何度も打ち付ける。
「ですが、勘違いしないでいただきたい」
私の静かな、しかし絶対的な殺意を込めた声に、彼らの歓喜がピタリと止まった。
「私がプラントを動かすのは、私の家族が快適な生活を送るためのインフラが必要だからです。あなた方のためではありません。……私はあなた方を絶対に許さない。二度と私の視界に入らないでいただきたい」
私が踵を返すと、彼らは呆然と立ち尽くし、ただその場に這いつくばったまま見送ることしかできなかった。
国家の威信も、政治家としてのプライドも、すべてを私に売り渡した彼らには、もはや社会の裏隅で惨めに余生を送る道しか残されていないのだ。
これで、日本の事後処理は完全に終わった。
大国は宇宙からの業火で沈黙し、日本政府は私に絶対的な治外法権を差し出した。
もはや、この地球上に私と家族を脅かす法も、権力も、暴力も存在しない。
「ボス。お車へどうぞ」
ヴィクトルが、恭しくマイバッハのドアを開ける。
「ああ。……家に帰ろう」
私は極東の悪魔の仮面を完全に封印し、優しい父親の顔に戻って車内へと乗り込んだ。
* * *
「――わぁ……! やっぱり、自分のおうちが一番ね!」
都内の超高級タワーマンションの最上階。
朝日が差し込む広大なリビングに足を踏み入れた瞬間、結衣が大きく背伸びをして笑った。
数週間に及ぶ南太平洋での『バカンス』を終え、ようやく戻ってきた私たちの本当の家だ。
「パパ! ユウキのロボット、ちゃんとあるかな!?」
サチコに手を引かれたユウキが、靴を脱ぎ捨てるなりプレイルームへと駆け出していく。
「おいおい、ユウキ! 走ったら転ぶぞ!」
誠が慌ててその後を追いかける。
その微笑ましい光景を見つめながら、私は深く、温かい安堵の息を吐き出した。
部屋の中は、私たちが退出したあの日から、カーペットの毛並み一本に至るまで何一つ変わっていない。
私たちが島へ退避している間、当然ながら日本政府や大国の工作員たちは、このタワーマンションの最上階に踏み込もうとした。
だが、彼らは玄関の扉に指一本触れることすらできなかったのだ。
私が退出時に仕掛けた未知の超電導ロックと、『セキュリティ・プロトコル』。
扉に触れた瞬間、彼らの端末には「無理な物理的破壊を試みれば、内部のプラズマ爆縮装置が起動し、貴重なデータごと半径三キロが蒸発する」という警告が発せられていた。
未知の技術データが手に入るかもしれないという『欲』と、手を出せば首都が吹き飛ぶかもしれないという『恐怖』。その板挟みになった大国と日本政府は、結局扉をこじ開ける決断を下せず、ただ遠巻きにこの部屋を包囲し、震えながら見張っていることしかできなかったのである。
結果として、私の家族の不可侵の聖域は、敵に土足で踏み躙られることすら許されなかったのだ。
ピッ、という電子音と共に、マンションのすべての照明と空調が稼働を始めた。
私が約束した通り、深海プラントが再稼働し、日本列島に再び無尽蔵のエネルギーが供給され始めたのだ。
窓の外を見下ろせば、ブラックアウトで沈黙していた東京の街が、まるで朝焼けと共に息を吹き返すように、次々と眩い光を取り戻していくのが見えた。
「お義父さん、コーヒー入りましたよ」
誠が、湯気を立てるマグカップを二つ持ってリビングへ戻り、一つを私の前に置いた。
「ありがとう、誠くん。……君も、長期間の休みで退屈しただろう。明日からはまた、イージス社の仕事で存分に腕を振るってくれ」
私が微笑みかけると、誠は少しだけ真面目な顔つきになり、私の隣のソファに腰を下ろした。
「……お義父さん」
誠は、カップを両手で包み込みながら、静かに口を開いた。
「南の島にいた間、俺たちに外部の情報を一切遮断していたこと……俺は、ただのセキュリティ上の問題だけではないと、気づいていました」
私は、コーヒーカップに伸ばしかけた手をピタリと止めた。
「俺はエンジニアですから。あの地下要塞の構造、そして島の周囲を飛んでいたドローンの数と挙動を見れば、あれが『戦争』を想定した絶対防衛線であることくらい、すぐにわかりました」
誠の真っ直ぐな瞳が、私を見つめる。
「表の世界で……いえ、世界中の空と海で、途方もないことが起きていたんですよね。……お義父さんが、俺たち家族を守るために、どれほど重いものを一人で背負ってくれていたのか。俺は、すべて理解しています」
「誠くん……」
私は、言葉を失った。
彼は、純粋なエンジニアだ。だが、決して愚かではない。私が彼らを隔離している間に、私がどれほどの手を血に染め、国家という巨大な暴力と殺し合い、世界を恐怖で支配した悪魔になっていたか。
彼はその全容を完璧に推測し、そして『察して』いたのだ。
「お義父さんが背負ってくれた世界の重みと、流した血の代償は……これからは、俺たちが技術で、本当の平和に変えていきます」
誠は、深く頭を下げた。
「俺たち家族を……サチとユウキを守り抜いてくれて、本当にありがとうございました」
私の瞳の奥が、熱く滲んだ。
私が彼らに見せていた「優しい父親」という仮面は、とうの昔に透けて見えていたのだ。それでも彼は、私をモンスターとして拒絶するのではなく、家族を守り抜いた不器用な男として、すべてを受け入れてくれたのだ。
「パパ」
いつの間にか、サチコがリビングの入り口に立っていた。
彼女は、少しだけ照れくさそうに微笑みながら、私の元へ歩み寄ってきた。
「サチ……君も、知っていたのか」
「当たり前じゃない。だてに三十年間、パパの娘をやってるわけじゃないわよ」
サチコは、私の隣に座り、私の右手をそっと両手で包み込んだ。
「昔から、パパは何か隠し事をする時、いつも少しだけ目が泳ぐの。……それに、ヴィクトルさんたちが私たちを見る目が、ただのSPじゃなくて『命に代えても守る』っていう覚悟に満ちてたから。……パパが、世界中を敵に回してまで私たちを守ろうとしてくれてるんだって、気づいてたよ」
「……恐ろしくは、なかったのか? 君たちの父親が、何万人もの命を平然と奪うような、世界の独裁者だったというのに」
私が震える声で尋ねると、サチコは首を横に振った。
「パパは、パパだもん。……私が子供の頃から、ずっと一番のヒーローだったパパだもん」
サチコは、私の肩に頭をこてんと乗せた。
「パパ、一人でいっぱい無理したんでしょ。……私たちを守ってくれて、本当にありがとう」
「サチ……」
「あらあら、私だけ仲間外れはひどいわよ」
結衣が、キッチンからエプロンを外しながら歩み寄り、私のもう片方の手を握った。
彼女の目には、温かな涙が浮かんでいる。
「宗一くん。あなたが二十五歳のあの朝、泣きながら私を抱きしめて『何があっても守り抜く』って誓ってくれたこと……私はずっと忘れてないわ」
結衣は、私の顔を覗き込み、すべてを許容するような慈愛に満ちた笑顔を見せた。
互いに天涯孤独だった私たちが、この世界で唯一手に入れた、絶対に失いたくなかった居場所。
「色々と、無茶をしたんでしょう。……一人で抱え込んで、怖い思いも、辛い思いもいっぱいしたんでしょう。でも、もう大丈夫よ。私たちはここにいる。誰も欠けずに、みんなで一緒に笑ってるわ」
「……結衣……っ」
私は、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
私が前世から抱え続けてきた、誰にも言えない重圧。
家族を守るためとはいえ、人類の総力と殺し合い、核兵器に匹敵する裁きの光を撃ち下ろしてきた、果てしない孤独と罪悪感。
私は自分が、彼らの平穏な日常を守るために、永遠に正体を隠し通さなければならない孤独な悪魔なのだと信じ込んでいた。
だが、彼らは違った。
私が世界を恐怖で支配した悪魔であることを悟った上で、それでも「愛する家族」として、私の犯したすべての罪ごと抱きしめ、許してくれたのだ。
独り善がりだと思っていた復讐と保護が、家族の深く、無償の愛によって肯定された瞬間だった。
「おじいちゃん? なんでないてるの?」
ユウキが、プレイルームからトタトタと駆け寄り、私の膝によじ登ってきた。
「パパもママも、なんでおじいちゃんの手をにぎってるの?」
「いや……なんでもないよ、ユウキ」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すこともせず、最高の笑顔で孫を抱きしめた。
結衣も、サチコも、誠も、みんなで一つになって笑い合った。
極東の悪魔の仮面が、真の意味で剥がれ落ちた瞬間だった。
五十五年の時を遡り、世界を焼き尽くしてまで手に入れたかったものは、国家の覇権でも巨万の富でもない。ただ、彼らと共にこうして朝の光を浴びながら笑い合う、この温もりだけだったのだ。
私は、家族の愛に包まれながら、魂の完全なる救済を感じていた。
血に塗れた長い戦いは、今度こそ本当に終わった。
これからは、世界で一番幸せな男として、この愛する者たちと共に、永遠に続く平和な日常を歩んでいくのだ。
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