第8話 鳥籠のエリートとイージスの盾
APEX社とのあの苛烈な交渉から二週間後。
私の開設した海外の法人用口座に、初期契約金である一億ドル――日本円にして約百億円の資金が間違いなく着金した。
「さて、これで『ゲーム』のチュートリアルは終わりだ」
私はノートパソコンの画面に表示された莫大なゼロの羅列を前に、微かに口角を上げた。
ここからは、阿佐ヶ谷の狭いアパートのちゃぶ台を卒業し、表舞台で大手を振って活動するための「器」を作るフェーズに入る。
すなわち、世界のテクノロジーを牽引し、最終的には宇宙開発という名目で『神の雷』のパーツを軌道上へ打ち上げるための巨大な隠れ蓑――多国籍企業『イージス・イノベーションズ』の設立である。
だが、私一人で会社の法務や財務、世界中の企業との特許ライセンス交渉の全てを回すのは不可能だ。私のリソースは、あくまで「未来の兵器開発と技術のダウングレード」に注ぐ必要がある。
私には、手足となって実務を完璧にこなし、何兆円もの資金を冷徹に運用できる「右腕」が不可欠だった。
条件に合う人間は、すでに前世の記憶からピックアップしてある。
私はFXの利益で仕立てたばかりの最高級のオーダースーツに身を包み、タクシーで都内の一等地に建つ高級ホテルのラウンジへと向かった。
* * *
指定した時刻の五分前。
ラウンジの入り口に、一人の女性が姿を現した。
洗練されたタイトなパンツスーツに身を包み、艶やかな黒髪を後ろで一つにまとめている。モデルのような長身と美貌を持ちながら、その瞳の奥には氷のような冷徹な知性が宿っていた。
橘 玲奈、二十七歳。
現在、世界最大手の外資系投資銀行『モルガン・スタンレー・グループ』の東京オフィスで、最年少のシニア・ディレクターを務めている女だ。前世の記憶が確かなら、彼女は十年後に日本政府の経済ブレインにまで上り詰める傑物である。
「お待たせいたしました。神盾宗一様ですね。橘です」
「ああ。座ってくれ」
彼女は私の向かいのソファに腰を下ろし、値踏みするように私の顔を見た。
無理もない。彼女の所属する投資銀行の「個人向けウェルスマネジメント部門」に、百億円以上の資産を持つ新規顧客として突然アポイントを入れたのが、まだ二十代半ばの無名な若造だったのだから。
「単刀直入に伺います、神盾様。当行に百億円規模の資産運用をお任せいただけるということでよろしいでしょうか? 失礼ながら、事前の調査では神盾様のビジネスの実態が掴めず……」
「調査能力の低さを露呈しなくていい。実態がないのは当然だ。私が口座に百億円を入れたのは、ほんの数日前のことだからな」
私の尊大な態度に、玲奈の綺麗な眉がピクリと動いた。
エリート特有のプライドを刺激されたのだろう。彼女は営業用の笑みを微かに崩し、冷ややかな声を出した。
「……なるほど。遺産相続か、あるいは宝くじでも当てられたと。当行はそういった一時的な成金の方の資産保全も得意としておりますが、私たちの手数料は決して安くありませんよ」
「勘違いするな、橘 玲奈」
私はウェイターが運んできたコーヒーには一切手をつけず、彼女の氷の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「私は君に、資産の運用など頼んでいない。私は君自身を買いに来たんだ」
「……はい?」
「今の仕事を辞めろ。そして、私がこれから設立するテクノロジー企業に、CFO(最高財務責任者)兼、私の筆頭秘書として来い。報酬は今の外資系銀行の三倍、いや、五倍出そう」
一瞬の静寂の後、玲奈は鼻で笑った。
「ご冗談を。たまたま手にした百億円で、王様にでもなったおつもりですか? 私は現在、何千億円という世界の資本を動かす立場にあります。たかが新興のベンチャー企業の財務など、退屈すぎて欠伸が出ます。お引き取りを」
彼女が席を立とうとした瞬間、私はアタッシュケースから一冊のファイルを取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「APEX社との、独占特許ライセンス契約書だ」
「……え?」
APEXという単語に、玲奈の動きが止まった。
彼女は訝しげにファイルを開き、そこに記されたサインと、信じられないほどのライセンス料の条件を目にして、息を呑んだ。
「こ、これは……APEX本社のCEOと法務の直筆サイン!? 次世代マルチタッチパネルの特許……? これほどの圧倒的な条件を、一介の個人が……?」
「その百億円は、宝くじでも遺産でもない。私が生み出した特許一つの、ほんの『手付金』に過ぎない。今後、APEX社のデバイスが世界で売れるたびに、莫大なライセンス料が私の口座に永続的に入り続ける」
玲奈の表情から、先程までの余裕と侮蔑が完全に消え去っていた。
投資銀行のトップエリートである彼女には、この契約書の持つ意味が痛いほど理解できたはずだ。
「さらに、だ。これを見ろ」
私は続けて、数枚のレポートをテーブルに並べた。
「私がすでに特許庁に出願を終えている技術のロードマップだ。『全固体電池』の根幹理論。そして『ディープラーニングによるAI最適化』のアルゴリズム。……君の優秀な頭脳なら、これが五年後、十年後の世界経済にどれほどのインパクトを与えるか分かるだろう?」
「…………ッ!!」
玲奈の手が震えていた。
彼女は食い入るようにレポートの数式と予測データを読み込み、やがて、信じられないものを見るような目で私を見上げた。
「……バケモノ、ですね。あなたは。これが全て実用化されれば、既存のエネルギー産業も、ITの勢力図も、根底からひっくり返る……。あなた一人で、世界市場を支配できる」
「だから言ったはずだ。私は王様になったつもりなどない。これから、本当の『神』になるんだと」
私は深くソファに寄りかかり、足を組んだ。
「外資系の投資銀行で、他人が作った数字の羅列を右から左へ動かして、手数料を掠め取るだけの仕事。……そんな『鳥籠』の中で、君は満足なのか? ガラスの天井に頭をぶつけながら、凡人どもを見下ろして一生を終えるつもりか?」
玲奈の図星を突かれたように肩がビクッと跳ねる。
「私の下へ来い、玲奈。私には世界を創り変える最高の頭脳があるが、俗物どもとビジネスのテーブルを囲む暇はない。君のその冷徹さと能力で、世界中から富をかき集めろ。私と一緒に、歴史を創る側に回れ」
長い、長い沈黙が落ちた。
玲奈は目を閉じ、深く息を吐き出すと、やがて――その美しい顔に、初めて獲物を見つけた肉食獣のような、獰猛な笑みを浮かべた。
「……負けました。まさか、日本にこれほどの『怪物』が隠れていたとは。私がこれまで扱ってきた何千億というファンドが、まるで子供のお小遣いのように思えてきました」
「賢明な判断だ。いつから動ける?」
「今すぐ、辞表を叩きつけてきます。引き継ぎなど知ったことではありません。……私をこの退屈な鳥籠から連れ出してくださるのでしょう、ボス?」
最高のエリート特有の、狂気を孕んだ野心がそこにあった。
彼女なら、世界中の大企業を相手に一歩も引かず、冷酷に立ち回ってくれるだろう。
「期待しているぞ。今日、この瞬間から、我々の会社を立ち上げる。社名は『イージス・イノベーションズ』だ」
私が創り出す悪魔の兵器を覆い隠すための、最強の盾。
そして世界中から富を吸い上げる巨大な心臓が、今、静かに鼓動を打ち始めたのだった。
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