第32話 偽りの送迎ルートと、暗躍する愚者たち
雲一つない、抜けるような青空が広がる週末の朝。
都内の超高級タワーマンションの地下駐車場で、私は最高級の8Kビデオカメラのレンズを磨きながら、満面の笑みを浮かべていた。
「パパー! サチ、おきがえできたよ!」
声のした方へ振り返ると、真新しい体操服に身を包み、赤と白のポンポンを両手に持った四歳の愛娘、サチコがトタトタと駆け寄ってきた。
私はカメラを放り出し、しゃがみ込んでその小さな体を力強く抱きしめた。
「おおっ、完璧だ! 今日のサチは世界一可愛いぞ! 体操服の繊維の空気抵抗を極限まで計算した特注品だ、これでかけっこの一等賞は間違いなしだ!」
「えへへー! サチ、いっとうしょうとる!」
「もう、宗一くん。ただの幼稚園の運動会に特注の体操服なんて、周りの親御さんが引いちゃうわよ」
背後から、結衣が三段重の豪華なキャラクター弁当が入った保冷バッグを提げて歩いてきた。彼女の顔もまた、これから始まる娘の晴れ舞台への期待で輝いている。
「引かれても構わんさ。今日はサチの人生で初めての運動会だ。妥協は一切しない」
私は胸を張り、結衣から保冷バッグを受け取った。
「さあ、サチ。パパが今日の運動会のために、世界で一番安全で楽しい『特等席』を用意したぞ。出発だ」
私が指差したのは、普段使用している送迎用のマイバッハではなく、地下駐車場の奥に密かに横付けされた、外観を完全に一般のワゴン車に偽装した装甲車両だった。
「えっ、いつもの車じゃないの?」
結衣が不思議そうに首を傾げる。
「ああ。今日は少し『虫』が多くてね。念のために、VIP専用の地下ルートを使って会場へ向かう。……サチの晴れ舞台に、一匹の羽虫も寄せ付けたくないからな」
私は柔和な父親の笑顔を保ったまま、結衣とサチコを装甲ワゴンへと乗せた。
ドアが閉まり、防音とスモークガラスで外部から完全に遮断された車内。その瞬間、私の瞳の奥に宿る光は、極低温の『冷酷な支配者』のものへと切り替わった。
前日、私はイージス社の莫大な資金力と政治力を使い、サチコが通う幼稚園の運動会の会場を、都内にある完全屋内型の『ドームスタジアム』へと丸ごと移転・貸し切りにさせていた。
表向きは「セキュリティ向上と天候対策のための寄付」としているが、真の目的は、四大勢力の暗殺者たちから家族を物理的に隔離することだ。
そして、本来の運動会会場となるはずだったグラウンドへ向かう『いつもの送迎ルート』には、私の用意した極上の罠が走っている。
「……さあ、餌の時間だ」
私は手元のタブレットを開き、ヴィクトル・イワノフが統括する監視網のネットワークへアクセスした。
画面には、東京の市街地を走る一台の黒塗りマイバッハの現在地と、その周囲に群がる無数の『赤い光点』が表示されていた。
* * *
同時刻。東京の市街地。
秋の涼しい風が吹く幹線道路を、イージス・イノベーションズのCEO、神盾宗一の専用車である漆黒のマイバッハが静かに走っていた。
前後を護衛のSUVが挟んでいるが、いつもに比べて明らかに警備の数が少ない。
「――目標の車両を確認。前後二台の護衛のみだ。ビンゴだな」
マイバッハから数百メートル後方を追尾する、地味な商用バン。
その薄暗い車内には、防弾ベストの上にコートを羽織り、短機関銃や軍用拳銃で重武装した屈強な外国人たちがひしめき合っていた。
彼らは、ロシアの裏社会を牛耳る暗殺組織『ブラトヴァ』のヒットマンたちと、中国国家安全部から放たれた『三合会』の工作員たち。総勢三十名を超える、国家公認の殺し屋部隊だ。
本来なら決して交わることのない二つの巨大な裏組織が、今回ばかりは一時的な共闘を結んでいた。
「フン。イージス本社の警備が軍事要塞レベルだというから警戒していたが……休日の家族サービスとなれば、極東の成金も気が緩むというわけだ」
ロシア人のリーダーが、獰猛に唇を舐めた。
「油断するな。アメリカのCIAが三年前にこの国で『蒸発』したという噂がある。あの神盾宗一という男の周囲には、未知の警備網が敷かれているはずだ」
中国側の工作員が、慎重に釘を刺す。
「アメリカの腑抜け共と一緒にすな。我々の数は三十。火力も覚悟も違う。日本の警察力など、制圧に三分もかからん」
ロシアのリーダーは鼻で笑い、無線のマイクを握った。
「作戦通り、人気のない交差点でマイバッハを前後から挟み込む。護衛の車両はRPG(対戦車ロケット)で吹き飛ばし、マイバッハの後部座席から神盾の妻と娘を引きずり出す。女子供の首にナイフを当てて技術データを吐き出させれば、我々の勝利だ」
彼らは、自分たちが世界最高の暴力であり、極東のビジネスマンなど恐怖で震え上がっているに違いないと、微塵の疑いも持っていなかった。
『――リーダー! 目標の車両が、予定のルートを外れました!』
先行して偵察していた別働隊から、焦ったような通信が入る。
「なんだと? 幼稚園へ向かっているのではないのか?」
『違います! 交差点を右折し、湾岸エリアの方角へ向かっています。……まるで、我々の追跡を撒くような動きです!』
その報告を聞いた瞬間、ロシアと中国の工作員たちは色めき立った。
「気づかれたか! イージスの連中、我々の殺気に気づいて、運動会をキャンセルして別の隠れ家へ逃げ込むつもりだ!」
「クソッ、ここで逃がせば、再びあの鉄壁の本社ビルに引きこもられて手が出せなくなるぞ!」
彼らの脳裏に、本国からの『技術を奪えなければお前たちの命はない』という絶対の命令がよぎる。
エネルギー覇権を失った祖国の焦燥が、彼らのプロとしての冷静な判断力を完全に奪い去った。
「追え!! 絶対に逃がすな! 湾岸の廃倉庫街に追い込んで、無理やりにでも車を止めろ!!」
リーダーの怒号と共に、数台のバンがエンジンの咆哮を上げ、黒塗りのマイバッハを追って湾岸エリアへと急加速した。
彼らは「獲物を追い詰めた」と狂喜していた。
自分たちが、あらかじめ神盾宗一によって『極上の狩り場』へ意図的に誘導されているとも知らずに。
* * *
「――ネズミどもが、見事に餌に食いつきました」
イージス・ドーム。
完全に貸し切られた巨大な屋内スタジアムの最上部、防弾ガラスで守られたVIPルーム。
私はそこから、眼下のグラウンドで元気いっぱいに体操をするサチコの姿をビデオカメラで撮影しながら、イヤホン越しにヴィクトルの報告を聞いていた。
「ご苦労。……で、デコイ(囮)の車内はどうなっている?」
私はカメラの録画を止めずに、傍らに置いたタブレットの画面を一瞥した。
タブレットには、湾岸エリアを逃げるように走るマイバッハの車内映像が映し出されている。
後部座席には、私と結衣、そしてサチコの姿がある。
……否。それは精巧に作られたシリコンマスクを被った『シャドウ』の隊員と、イージス社の技術で投影された3Dホログラムの映像だ。
『敵の車両五台、完全にこちらの誘導ルートに乗りました。湾岸エリアの第七廃倉庫街、指定されたキルゾーン(処刑場)への進入を確認』
ヴィクトルの声は、獲物を前にした狼のように低く、冷酷な響きを帯びていた。
第七廃倉庫街。週末には人っ子一人いなくなり、監視カメラのネットワークもヴィクトルによって完全に掌握されている、完璧な死角だ。
『彼らは今頃、自分たちが我々を追い詰めたと思い込んでいるでしょうね。……ボス。狩りの許可を』
「ああ。サチの徒競走が始まるまで、あと十五分ある。それまでに片付けろ」
私は、グラウンドでスタートラインに並ぼうとしている愛娘の姿から目を離さずに、絶対零度の命令を下した。
「連中は、私の娘の晴れ舞台を、自分たちの薄汚い欲望のために利用しようとした。その罪は万死に値する」
『御意』
「クリスの開発したプラズマ兵器を全機投入しろ。誰一人として生かして祖国へは帰さない。骨の髄まで焼き尽くし、跡形もなくこの世から蒸発させてやれ」
『……了解いたしました。最高の処刑劇をご用意いたします』
イヤホン越しの通信が切れ、私は深く息を吐き出した。
手元のタブレットの画面の中で、マイバッハが廃倉庫街の袋小路へと追い詰められ、停車する様子が映し出されている。
そして、その前後を塞ぐように、工作員たちのバンが急ブレーキをかけて停止した。
「パパー! サチ、がんばるからねー!」
グラウンドから、サチコがこちらを見上げて大きく手を振っている。
「ああ! パパも一番良いところで見てるぞ! 頑張れサチ!」
私はカメラを構え直し、最高の笑顔で手を振り返した。
平和で微笑ましい、愛する家族との幸せな休日。
その裏側で、人類の常識を覆す未来の兵器による、凄惨な『大虐殺』の幕が、今まさに静かに切って落とされたのだった。




