第30話 崩壊するパワーバランスと、超大国たちの死の決断
西暦2016年、秋。
日本の『近海資源の商業採掘成功』という歴史的発表から数ヶ月。世界のパワーバランスは、音を立てて崩壊し始めていた。
ロシア連邦、モスクワ。
凍てつくような寒風が吹きすさぶ中、大統領府の厳重な防音設備が施された地下の特別会議室は、それ以上に冷え切った、死所のような空気に包まれていた。
「……先月の天然ガスの欧州向け輸出量は、前年同月比で七十パーセントの減少だ。原油価格の暴落も止まらん。欧州の各国は、日本の極東パイプラインから供給される圧倒的に安価なメタンガスの本格輸入を前に、我が国との長期契約の更新を完全に凍結した」
ロシアのエネルギー産業を牛耳る新興財閥のトップ、イワン・ボリスが、血走った目でテーブルを叩いた。
彼の顔には、かつて大統領の側近として絶対的な権力を振るっていた頃の余裕は微塵もない。目の下には色濃いクマが刻まれ、その表情は疲労と焦燥で歪みきっていた。
「このままでは、我が国の国家予算は年内に完全にショートする。ルーブルは紙屑になり、国債はデフォルト(債務不履行)に陥るぞ! エネルギーの覇権を失うということは、ロシアという国家そのものが死ぬということだ!!」
「落ち着け、イワン。大統領も事態の深刻さは重々承知している」
対面に座る連邦保安庁(FSB)の長官が、低い声で制した。
だが、長官自身の顔色も決して良くはない。先日の日本・外務省での極秘協議において、彼らが送り込んだ特命全権大使は、イージス・イノベーションズのCFOである橘玲奈というたった一人の女性に、手も足も出ずに論破され、這々の体で逃げ帰ってきたのだ。
「表の外交ルートも、経済的な圧力も、もはやあの極東の企業には一切通用しない。彼らは技術だけでなく、兆単位の流動資産を盾にして世界市場を完全にコントロールしている。……もはや、残された手段は一つしかない」
FSB長官は、重々しい手つきで一枚のファイルをテーブルの中心に滑らせた。
そこには、イージス・イノベーションズのCEO、神盾宗一の顔写真がクリップされていた。
「大統領からの、非公式な決断だ。……国家の関与を一切残さない形で、イージス社の深海プラントの中核技術を物理的に奪取しろ。それが不可能であれば、プラントの制御を掌握している神盾宗一を拉致、あるいは暗殺し、計画そのものを頓挫させよ、と」
「……ついに、実力行使に出るか。だが、正規の特殊部隊を送り込めば、万が一露見した時に日本および同盟国であるアメリカとの全面戦争になりかねんぞ」
「だからこそ、表の部隊は使わんのだ」
FSB長官の目が、蛇のように冷酷に細められた。
「ブラトヴァ(ロシアンマフィア)の最凶のヒットマンたちを大量に動員する。さらに、FSBの非公認工作員を彼らに混じらせ、ダミー会社や観光客のルートで日本に潜入させるのだ。金ならいくらでも積んでやる」
「なるほど。マフィアの暴走という形に偽装すれば、トカゲの尻尾切りも容易いというわけか」
イワンは獰猛な笑みを浮かべ、神盾宗一の写真をナイフのように指先でなぞった。
「あの忌々しい黄色い猿に、超大国を怒らせた代償を骨の髄まで教えてやる。……直ちに手配しろ。日本の黄金の海を、血の海に変えてやるのだ」
* * *
同じ頃。中国、北京。
紫禁城の奥深くに位置する中南海。国家の中枢を担う国家安全部(MSS)の最高幹部会議でも、同様の凄惨な決断が下されようとしていた。
「レアアースの完全な禁輸措置をチラつかせたにもかかわらず、あのイージスの女狐め……逆に我が国のハイテク産業を人質に取りおった!」
中国の諜報トップが、怒りのあまりに青磁の茶碗を壁に投げつけ、粉々に粉砕した。
世界のレアアース市場を長年独占し、それを外交カードとして他国を従わせてきた彼らにとって、日本の海底レアアース採掘の成功は、国家戦略の根本的な崩壊を意味していた。
「日本がレアアースの自給自足を達成したばかりか、世界へ輸出し始めれば、我々の外交カードは完全に無力化される。さらに、イージス社が保有する次世代バッテリーやIT特許のライセンスを停止されれば、我が国の産業は即死だ。……こんな屈辱、断じて許されるものではない!」
「しかし長官。イージス本社のセキュリティは異常です。我々の誇るサイバー部隊の攻撃はすべて未知のファイアウォールに弾かれました。物理的な潜入も、軍事要塞レベルの警備に阻まれています」
部下の報告に、諜報トップは忌々しそうに舌打ちをした。
「三年前に、アメリカのCIAが極秘裏に工作員を送り込み、白昼の東京で『完全に蒸発した』という黒い噂がある。あの神盾宗一という男の周囲には、得体の知れない防諜網が敷かれているのは間違いない」
彼は大きなため息をつき、そして、極めて残忍な冷笑を浮かべた。
「だが、どんなに強固な城にも、必ず綻びはある。情に流される日本人ならば、なおさらだ」
モニターに、数枚の隠し撮り写真が映し出された。
そこには、休日の公園で無邪気に笑う四歳の少女と、彼女を抱きしめる母親(結衣)、そして柔和な父親の顔をして彼女たちを見守る神盾宗一の姿があった。
「神盾宗一の妻と娘だ。……狙うのは、ここだ」
「家族、ですか」
「そうだ。イージス本社の警備がどれほど固かろうと、一般の社会生活を送っている女子供を二十四時間、完璧に守り切ることなど不可能だ。幼稚園の送迎、あるいは休日の買い物。必ず隙が生じる」
諜報トップの男は、冷酷な命令を下した。
「三合会(黒社会)の暗殺者たちを動かせ。表向きは犯罪組織の身代金目的の誘拐と見せかけ、神盾の妻子を拉致しろ。女子供の首にナイフを突きつけ、指を一本ずつ切り落としてやれば、あの天才起業家も泣き叫んで深海プラントの制御コードを差し出すだろう」
「了解いたしました。……ところで長官。情報によれば、ロシアのFSBやマフィア共も、大量に日本へ工作員を送り込んでいるようです。現地で彼らと衝突する危険がありますが」
「構わん。むしろ好都合だ」
諜報トップは、腹の底から響くような邪悪な笑い声を上げた。
「利害が一致している以上、現地レベルでの暗黙の共闘(結託)も許可する。ロシアの野蛮なヒグマどもを囮として使い、イージスの警備網を分散させろ。我々はその隙を突き、確実にターゲットを確保するのだ」
超大国としての誇りも、国際法も、すべてをかなぐり捨てた決断。
彼らは自分たちの覇権を取り戻すためならば、何の罪もない四歳の少女を拷問することすら、正当な国家戦略だと本気で信じているのだ。
* * *
「――大国とは、かくも傲慢で、救いようのない生き物だ」
東京、六本木。イージス・イノベーションズの社長室。
私は、ヴィクトル・イワノフが統括する暗殺部隊『シャドウ』が傍受した、ロシアと中国の暗号通信の解析レポートに目を通しながら、冷たく呟いた。
表の世界では、日本は黄金時代を迎え、私は国家の英雄として称賛されている。
だが、裏の世界では、超大国どもが理性を完全に失い、私の家族を標的に定めて、大量の工作員とマフィアを極東の島国へとなだれ込ませている。
前世の2065年。
彼らは結託し、私の創った『神の雷』を使って祖国を焼き払い、娘のサチコと孫のユウキの命を一瞬にして奪い去った。
そして今世の2016年。
彼らは再び結託し、あろうことか四歳になったばかりのサチコと、妻の結衣の命を脅かそうとしている。
「歴史の分岐点がどう変わろうと、連中の腐った本質は変わらないということか」
私は、デスクの上の家族の写真を見つめた。
胸の奥底で、絶対に許してはならないというドス黒い殺意が、臨界点を超えて脈動している。
「いいだろう。お前たちがその気なら、私も出し惜しみはしない」
私はタブレットを操作し、南太平洋の要塞『ニヴルヘイム』で稼働を続けている兵器プラントと、ヴィクトルが日本国内に敷いた防衛線のステータスを確認した。
準備は、すでに完全に整っている。
「ヴィクトル」
『はっ、ここに』
通信越しのヴィクトルの声も、迫り来る獲物を前にした狼のように研ぎ澄まされていた。
「ネズミどもが、我が国の領土に足を踏み入れた。……だが、まだ殺すな。一匹残らず泳がせ、一つの場所に集まるまで待て」
『御意のままに。……最高の狩り場を、ご用意いたします』
エネルギー覇権を失った超大国の絶望と、狂気に駆られた決断。
彼らは自らが狩人だと信じて疑わないまま、極東に仕掛けられた『悪魔の罠』の奥深くへと、その足を確実に踏み入れていた。
来月。サチコの幼稚園の運動会。
その平和な舞台の裏側で、人類の常識を覆す凄惨な『処刑劇』の幕が、静かに上がろうとしていた。




