第27話 暴落する世界と、数兆円の果実
西暦2016年、初夏。
日本の総理大臣が伊勢志摩のG8サミットで放った『近海資源の商業採掘成功』という歴史的声明は、文字通り世界経済の心臓に特大の杭を打ち込んだ。
アメリカ、ニューヨーク。世界金融の中心地であるウォール街。
ニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)の立会場と、巨大投資銀行のディーリングルームは、かつてない狂乱と絶叫の渦に飲み込まれていた。
「クソッ、WTI原油先物が止まらない! ストップ安の制限値幅を完全にぶち抜いてやがる!」
「買い手がつかない! 中東の政府系ファンドがパニック売りを始めているぞ!」
「天然ガスのチャートも底抜けだ! 紙屑になる前に全部投げ売れ!!」
何十台ものモニターに表示されるエネルギー関連のチャートは、どれも真っ赤な下落サインを点滅させ、ナイアガラの滝のように垂直に落下し続けていた。
日本の深海プラントが『中東の十分の一のコスト』で無尽蔵にメタンハイドレートとレアアースを引き上げる。その事実が突きつけたのは、従来の化石燃料と既存の採掘権が、近いうちに完全に陳腐化し、無価値になるという絶対的な未来だった。
特に、国家予算の大部分をエネルギー輸出に依存しているロシアや中東諸国へのダメージは、致命的を通り越して壊滅的だった。
* * *
同時刻。ロシア、モスクワ郊外。
広大な敷地を持つ豪邸の書斎で、ロシアのエネルギー産業を牛耳る新興財閥のトップであるイワン・ボリスは、震える手でクリスタルグラスを壁に叩きつけた。
「ガッデム!! どういうことだ! 我が社の株価が、たった二日で半値以下になっているだと!?」
ガシャァァンッ! という鋭い音と共に、超高級なウォッカが絨毯に染みを作ったが、イワンの怒りは収まらない。
彼はロシアの天然ガスパイプライン事業を独占し、大統領の側近として莫大な富と権力をほしいままにしてきた男だ。欧州諸国がロシアの天然ガスに依存している限り、自分の権力は永遠に揺るがないと確信していた。
だが、その盤石な玉座が、極東の島国から発信されたたった一つのニュースで崩れ去ろうとしている。
「社長! 欧州の主要な取引先から、来年度の長期契約の更新を『一時凍結』したいとの連絡が相次いでいます! 日本の抽出プラントが本格稼働し、安価なエネルギーが世界市場に出回るのを待つつもりです!」
秘書が血の気の引いた顔で報告する。
「ふざけるな! あの忌々しい黄色い猿どもめ! 深海の泥をすするしか能のない島国が、我々のエネルギー覇権を脅かすだと!?」
イワンは頭を抱え、血走った目でモニターのニュース映像を睨みつけた。
画面には、日本の救世主として連日メディアで持て囃されている二十代の若き起業家――『イージス・イノベーションズ』CEO、神盾宗一の姿が映っていた。
涼しげな顔でカメラのフラッシュを浴びるその若造が、自分の築き上げた何千億ルーブルという資産を、たった数日で灰にしているのだ。
「このままでは我が社は破産だ……! 大統領に直訴し、極東軍を動かしてでもあの忌々しいプラントを破壊しろ!! ブラトヴァ(マフィア)のヒットマンを日本に送り込め!! あの神盾というガキの首を私の前に持ってくるんだ!!」
イワンの絶叫が虚しく豪邸に響き渡る。
だが、彼らのようなエネルギー利権に胡座をかいていた者たちが、どれほど喚き散らそうとも、暴落する数字の羅列を止めることは誰にもできなかった。
* * *
そして。
世界中が恐怖とパニックで阿鼻叫喚に陥る中、東京・六本木ヒルズのイージス・イノベーションズ本社では、静寂の中で莫大な『果実』の収穫が行われていた。
「――ボス。ニューヨーク市場の引けを持ちまして、我々が複数のダミーファンドを通じて仕込んでいた原油および天然ガス先物のショート(空売り)ポジション、すべて利益確定しました」
広大な社長室。
防音ガラスの向こうで東京の夜景が煌めく中、橘玲奈がタブレットを撫でるように操作し、極めて冷静な、だが確かな熱を帯びた声で報告した。
「総利益は?」
「ざっと見積もって、三兆五千億円。採掘権を独占しているイージス社本体と、部品を供給する大日本自動車をはじめとする関連株の高騰分(含み益)を合わせれば、我が社の総資産は八兆円を優に突破しました」
玲奈の口から飛び出したのは、一介の民間企業が口にしていい数字ではなかった。
彼女は投資銀行のトップエリートだった頃でさえ、これほど巨大な資本を自分一人の裁量で動かしたことはない。世界経済の破壊と創造を、この社長室のデスク一つでコントロールしているという絶対的な全能感に、彼女は微かに頬を紅潮させていた。
「ご苦労、玲奈。君の相場眼とトレードの腕は、間違いなく世界一だ」
私は最高級のレザーチェアに深く腰掛け、手元のグラスに入った炭酸水を口に運んだ。
「お褒めに与り光栄ですが、私がやったのはボスの描いたシナリオ通りに、タイミングよくボタンを押しただけです」
玲奈は一礼し、モニターに映る暴落のチャートを指差した。
「それにしても……見事なまでの『血の海』ですね。中東の王族たちや、ロシアのオリガルヒどもは、今頃、自分たちの莫大な資産が紙屑に変わっていくのを、涙と鼻水を流しながら見ていることでしょう」
「彼らは驕りすぎた。資源という地球の恵みを自分たちが独占していると錯覚し、他国を支配する道具として使ってきたのだから、その特権が失われた時にどうなるかくらい、想定しておくべきだったな」
私は冷たく言い放った。
前世の2065年。日本の富を貪り尽くすためにハイエナのように群がってきた四大勢力の連中。彼らのうち、資源で国を潤していたロシアや中東の連中には、まずはこの『経済的な死』を与えてやるのが相応しい。
彼らがどれだけ泣き叫ぼうが、私の心には微塵の呵責も生まれない。
「さて、資金面での憂いは完全に消滅した。手に入れた三兆円のキャッシュは、ただちに南太平洋の『ニヴルヘイム』へ送金しろ。マネーロンダリングのルートはすでに構築済みだな?」
「はい。ケイマン諸島やスイスのダミーバンクを経由させ、完全に足がつかない形で『宇宙開発の資材調達費』としてプールさせます」
私はタブレットを操作し、暗号化通信のスイッチを入れた。
モニターに、南太平洋の無人島要塞の地下で指揮を執るDr.クリス・ウォーカーの顔が映し出された。
『ヒャッハー!! ボス、ニュースは見てるぜ! あんた、本当に世界経済をぶっ壊しやがったな!』
クリスは相変わらず血走った目で、狂喜の笑い声を上げている。
「ただの準備運動だ。クリス、資金は無限に用意した。ロケットの新型エンジンの開発と、ペイロード(積載量)の拡張プロセスの進捗はどうだ?」
『順調だ! ボスからもらったプラズマ推進理論のおかげで、エンジンの燃焼効率は既存の化学ロケットの五倍に達している! これなら、一回の打ち上げで、通信衛星に見せかけた『本命のパーツ(神の雷)』を何十基もまとめて軌道に運べるぜ!』
「よし。ボディと電子基板に必要なレアアースも、来月には日本から極秘ルートで運び込まれる。開発ペースを三倍に引き上げろ。昼夜を問わず、プラントをフル稼働させろ」
『了解だ! 俺の造る悪魔の杖が宇宙に並ぶ日が、今から待ち遠しくてたまらねえぜ!』
通信が切れ、社長室に再び静寂が戻る。
私は窓ガラスに歩み寄り、眼下に広がる東京の光を見下ろした。
手に入れた数兆円という果実は、高級車や豪邸を買うためでも、贅沢な暮らしをするためでもない。
そのすべては、愛する家族を焼き尽くした理不尽な世界を、この手で完全に支配し、四大勢力に神の裁きを下すための『兵器開発』へと惜しみなく注ぎ込まれる。
私は自分の胸元に手を当てた。
休日にサチコを抱きしめた時の、あの小さく、温かい命の重み。
そして、前世のホログラム越しに見た、彼女とユウキが一瞬にして消滅したあの青白い閃光の記憶。
『――ピィーッ……』
再び脳裏をかすめるフラッシュバックのノイズ。
私は小さく首を振り、冷酷な復讐者の目つきをさらに研ぎ澄ませた。
「ボス」
玲奈が、タブレットに届いた新たな通知を見て、微かに眉をひそめた。
「どうした?」
「外務省のルートからの極秘情報です。……どうやら、経済的に追い詰められた四大勢力――アメリカ、中国、ロシア、そして欧州連合の外交特命全権大使たちが、日本政府に対して『緊急の合同協議』を申し入れてきたようです」
「合同協議、だと?」
「はい。表向きは『新エネルギーの国際的な共同管理』と『安定供給に向けた枠組み作り』を謳っていますが……実態は、イージス社の持つ採掘技術と特許を、彼ら四大勢力にも無償で開示しろという、国家ぐるみの強烈な圧力です」
玲奈の報告を聞き、私は喉の奥で低く笑った。
やはり、歴史の分岐点が変わろうとも、連中の根本的な傲慢さは変わらない。
経済で負ければ、今度は大国としての軍事力と政治力を背景にして、他国の富を強引に奪い取ろうとする。前世で、彼らが結託して日本を分割統治した時と、まるで同じ思考回路だ。
「……面白い。焦ったハイエナどもが、ついに表舞台でも尻尾を出し始めたか」
「日本政府は、このかつてない外圧に恐れをなしています。おそらく、明日にはボスのもとに『国益のために彼らと直接交渉してくれ』と泣きついてくるでしょう。……どう対処しますか?」
玲奈が、冷ややかな瞳で私に問う。
「交渉など必要ない。我が社の利益を、一セントたりともくれてやる義理はない」
私は振り返り、彼女に告げた。
「玲奈。君は明日、外務省に出向き、その四大勢力の外交官たちを相手にしろ」
「私が、ですか? 相手は世界の超大国の代表ですよ?」
「そうだ。彼らのちっぽけなプライドと恫喝を、君のその完璧な論理で完膚なきまでに叩き潰してこい」
私の命令に、玲奈は一瞬だけ驚いたような顔を見せた後、最高に美しい、悪女の笑みを浮かべて深く一礼した。
「……了解いたしました。大国を相手にケンカを売るなど、投資銀行時代には絶対にできなかった極上のエンターテインメントですね。徹底的に、彼らの顔面に泥を塗って差し上げましょう」
世界の経済を破壊し尽くした極東の『怪物』は、今度はその強大な盾を使い、迫り来る超大国の国家権力すらも真っ向から撥ね退けようとしていた。




