第2話 始まりの朝
洗面所の鏡の前で、私は己の若返った顔をただじっと見つめていた。
狂気を孕んだ笑みは次第に収まり、代わりに極低温の冷徹な意志が、瞳の奥に確かな光として定着していく。
何度確認しても、ここは2010年の阿佐ヶ谷だ。
私はゆっくりと洗面所を出て、六畳一間の部屋を改めて見渡した。
壁のホワイトボードに書き殴られた数式は、当時の私が取り組んでいた「次世代エネルギーの基礎研究」の残骸だ。2065年の私から見れば、まるで小学生の算数ドリルかと思うほど稚拙で、穴だらけの理論だった。
「……ひどい有様だな」
当時の私は、日本大学のしがない非正規研究員だった。
才能はあったと自負しているが、日本の硬直化した学会の権威主義に馴染めず、教授陣と衝突ばかりしていた。手取り月給は二十万にも満たず、研究費は常にカツカツ。明日の生活費すら切り詰めるような、底辺の学者生活。
だが、今の私の頭脳には、この先五十五年分の「正解」が詰まっている。物理学、工学、情報技術、エネルギー産業……人類がこれから血の滲むような努力で解き明かしていく真理を、私はすでに知っているのだ。
手元のガラケーを開き、ネットニュースにアクセスする。
通信速度は絶望的に遅く、画質も粗い。トップニュースに踊っているのは、当時の政治の混乱や、とある海外メーカーが新型のスマートフォンを発表したという記事程度だ。
「まだ、世界は『この程度』の技術で満足しているのか」
前世の記憶が確かなら、あと数年もすればスマートフォンが世界を席巻し、AI(人工知能)が劇的な進化を遂げ、次世代バッテリーの開発競争が激化する。そしてその先には、日本近海での圧倒的な資源発見が待っている。
すべてを先回りし、独占すればいい。
アメリカ、中国、ロシア、旧EU……四大勢力が手を取り合って日本を分割統治する未来を叩き潰すためには、一国の国家予算すら凌駕する圧倒的な『個人の力』が必要だ。
――ガチャリ。
不意に、玄関の鍵が開く音がした。
私の思考は一瞬にして現実に引き戻される。当時の私のアパートの合鍵を持っている人間は、世界にただ一人しかいない。
「宗一くん、朝ごはん買ってきたよー。起きてる?」
ビニール袋を提げて部屋に入ってきたのは、少し小柄で、柔らかな栗色の髪をした女性だった。
私と半同棲状態にある恋人――のちの妻となる、神盾 結衣だ。
彼女の姿を見た瞬間、私の全身の血液が沸騰し、そして急激に凍りついた。
持っていたガラケーが、ポロリと手からこぼれ落ちて畳に転がる。
「え、ちょ、宗一くん? どうしたの、そんな顔して。徹夜で論文書いてたの?」
結衣は呆れたように笑いながら、買ってきたサンドイッチと温かいコーヒーをちゃぶ台に置いた。
その声。その笑顔。その温もり。
「結衣……」
私の声は、ひどく掠れていた。
無理もない。前世の記憶において、彼女は2025年に重い病を患い、若くしてこの世を去ってしまったのだから。
当時の私は研究に没頭するあまり、彼女の体調の変化に気づくのが遅れた。その深い後悔と喪失感が、私がのちに生まれた娘のサチコと孫のユウキを異常なほど溺愛する理由にもなっていた。
だが、そのサチコたちも、2065年の『神の雷』によって理不尽に命を奪われた。
私の中には、家族を守れなかったという絶望と後悔だけが、真っ黒なヘドロのようにこびりついていたのだ。
「結衣……ああ、結衣ッ……!」
私はたまらず駆け寄り、彼女の華奢な体を力強く抱きしめた。
「きゃっ!? な、なに急に! 宗一くん、ちょっと痛い、痛いよ!」
「生きて……生きてるんだな……触れられる……温かい……」
「なに変なこと言ってるの? 熱でもあるの?」
彼女のシャンプーの甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
幻じゃない。現実だ。私の腕の中に、最愛の妻が生きている。
八十歳の老人の精神が、ついに限界を突破した。
私の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出し、結衣の肩口を濡らした。
「えっ……嘘、泣いてるの? 宗一くん……?」
私の異常な様子に気づいたのか、結衣は抵抗するのをやめ、戸惑いながらも私の背中にそっと手を回してくれた。
「怖い夢でも、見たの……?」
「ああ……とても、とても恐ろしくて、取り返しのつかない夢だ。私が……私のせいで、みんなが死んでしまう夢を……」
「よしよし。大丈夫、夢だよ。私はここにいるから」
子供をあやすように、結衣の手が優しく私の背中をさする。
その温もりが、私の冷え切っていた心を、ひび割れていた魂を、少しずつ繋ぎ止めてくれた。
そうだ。
今世では、まだ誰も失っていない。
結衣はここにいる。あと数年もすれば、彼女のお腹にサチコが宿る。そしてその先には、ユウキが生まれてくる。
私の世界で最も尊い、愛する家族たち。
前世の私は、無力な学者に過ぎなかった。
だが、今の私には『未来』という最強の武器がある。
結衣を奪う病魔は、最新の医療技術と莫大な金で初期段階で完璧に叩き潰す。
サチコとユウキの未来を奪う四大国のハイエナどもは、私が創る悪魔の兵器で灰燼に帰してやる。
私はゆっくりと結衣から体を離し、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。
涙はすでに止まっていた。
「……結衣。心配かけてすまなかった」
「もう、びっくりしたんだからね。普段は研究のことしか頭にない冷血漢のくせに」
「これからは違う。私は君を、これから生まれてくる私たちの家族を……一生、何があっても守り抜く。誰にも奪わせはしない」
私のあまりにも真剣な眼差しに、結衣はぽかんと口を開け、やがて顔を真っ赤にして俯いた。
「な、なにそれ。プロポーズのつもり? ……馬鹿。朝から重いよ」
「本気だ。そのためにも、私は今日から変わる。学会に媚びを売るような研究はもうやめる」
「えっ? じゃあ、どうするの?」
私は、部屋の隅で埃を被っている分厚いノートパソコンへと視線を向けた。
「世界を獲る」
「……はい?」
「いや、こっちの話だ。結衣、サンドイッチありがとう。コーヒーも冷めないうちにいただこう」
私はいつものトーンを装い、結衣に微笑みかけた。
彼女は不思議そうな顔をしていたが、やがて「まあいいか」と笑って、二人で狭いちゃぶ台を囲んだ。
* * *
数時間後。
結衣が仕事に出かけるのを見送った後、私は再び一人きりになった部屋で、ノートパソコンの電源を入れた。
けたたましい冷却ファンの音が鳴り響く中、私の頭脳はすでにフル回転を始めていた。
『神の雷』をアメリカより先に造り上げ、奴らの頭上に落とす。そのためには、軍事力を持たない一介の日本人が大国と渡り合うための圧倒的な資金力が必要だ。
その第一歩となる「錬金術」の準備に、私は迷うことなく手を伸ばした。
歴史の裏側で暗躍する復讐の幕開けは、すぐそこまで迫っている。
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