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24.必殺技

 突然ガガッと椅子を引く音がした。


「矢野?」


 音の方を見れば、矢野が立っている。

 眉を寄せていて、怒ったようなそれでいて悲しそうな複雑な顔をしていた。目が合うと睨まれた。俺が何したっていうんだ。


「…どうかした? 矢野君」


 睨み返したくなるけれど、ここは深呼吸を一つして堪えることにする。俺は世渡り上手な人間になるのが目標なのだ。


「だらしねぇ顔しやがって。ムカつく」


 いやいや、矢野ごときに腹を立てているようじゃ目標も遠ざかって…。


「これだから童貞は」


「は?」


 …前言撤回だ。ぶっ飛ばしてやる。

 俺は右手を振り上げた。俺の頭の中では右手は外から中にしなるように鋭く矢野に向かって頬にヒットする、予定だった。

 まあ俺のイメージは妄想とイコールみたいなものだ。拳は軽々と矢野に受け止められた。

 暴力なんて無縁だったんだからいきなり人を殴れるはずもない。そもそも狙いは全く外れていた。いやいや、さすがに分かってた。この身長差に体格差、俺だってまさか簡単に拳が入れられるとは思っていない。しかし。


「くっそ…!」


 悪態をついて最後の足掻きとばかりに、今度は左手を振り上げた。それもまた易々と手首を掴まれる。両手が封じられてしまった。


「なんか、アレだな。こんなに安心して見てられる男子高校生の喧嘩もないもんだな」


 いや喧嘩でもないか、と先生が続けて呟く。それは、完全に余裕綽々で構えている矢野の所為だ。

 それはあれだ。完全にあれ。

 主人公最強説。

 矢野は生まれながらにして主人公だ。どんな苦難があろうとも、それをはねのけて行く運の良さと都合良さを持っていてなにがあっても大丈夫だろう、というなんの根拠もない確信を周りに与える。

 たぶん誰かに背後から刃物を突きたてられようとも超次元的な力が働いて、数秒前に気づき返り討ちにするに違いないし、重い病気になろうが事故で死にかかろうがきっと奇跡の生還を遂げるに違いない。冗談みたいなことを起こしそうな、そんな雰囲気を持っている。

 この場合、ほのぼのとした空気が漂っているのは殴りかかったのが俺で、明らかに当たらない貧弱パンチだったからというのもあるかもしれないが。


「離せ!」


「なんで」


 挑発するように矢野が薄く口角を上げる。足なら無防備だと気が付いた俺は、右足を浮かせてまさに蹴りを繰り出そうとした時。


「コラッ! せっかく仲直りしたんだからまた喧嘩しない!」


 広い家庭科室にわんわんと声が響いた。食べ終わったカレーの皿が机の上で細かに震えていた気がする。

 振り向くと先程と打って変わって険しい顔をした部長が両手を腰に当てていた。


「でた…部長の『人間拡声器』…」


 その言葉に同調するように他の先輩たちもうんうんと頷く。


「部長、子ども劇団に入ってたらしくて本気出したらもっと声出るからね」


 それにまたうんうんと皆頷く。

 まるで衝撃波だった。まだ鼓膜がビリビリしている気がする。

『人間拡声器』?

 高校生男子としては、反応せざるを得なかった。


「「かっこいい…」」


 必殺技みたいで。

 心の声は口から出ていて、矢野の言葉と重なる。つい合わせてしまった視線をお互いに急いで逸らせる。


「先生も! 普通、率先して止めに入るもんでしょう!」


「えっ…あ、すんません…」


 その怒りの切っ先は先生にも向かったらしい。段々と冷静になってきた身としてはちょっと申し訳ない気持ちになってくる。車を出して、俺をフォローしてくれたのだから。ただ単に自分がおいしいカレーを食べたかっただけかもしれないが。


「二人には、僕から罰を言い渡します!」


 俺はなんだか自分が小学一年生くらいになった気分だ。心なしか矢野もその大きくて逞しい肩をすくませて小さくなっている。


「な、なんでしょうか…」


 むちゃくちゃなことを言われたらどうしよう。今から運動場でトラック百周とか。スクワット百回とか、腹筋百回とか。腕立ては苦手だから嫌だなあと思ったところで、ここは料理部だ。そんなわけない。


「君らは、今すぐに帰宅すること!」


「でも片付け…」


 食べ終わった後の食器や鍋、使ったコンロやシンク、床の拭き掃除なんかも本来なら一年生がやる作業だ。


「最後の点検は僕と先生がいなくちゃできないし。仲直りなら二人でしっかり話し合わなきゃだめだしね。どこかでしっかり話し合ってきなさい!」


 吊り上がっていた目と眉が柔らかくなっていく。


「今日は君達の歓迎会だからね」


 ほらと渡された二人分のタッパーにカレーが詰められていた。こんな…俺の顔の微妙な変化も気づいてくれて、優しくて、そして必殺技を持ってるなんて…なんて素敵な部長のいるところに入部したんだろうか。感動のあまり震える手でタッパーを受け取る。


「ほら! 矢野!」


 ぼんやりとしている矢野のそのゴツゴツした手首を掴んで歩き出す。


「お疲れさまでした! すごく楽しかったです!」


 今日すごく、ものすごく楽しかった。その楽しさが矢野と一部共有できなかったのが心残りではあるけれど、それでも、色々あったけれど色々腹の立つこともあったけれど総合してとても楽しかった。

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