25.名前
靴を履いて、定期入れからバスのダイヤ表を見るとやはり休日ダイヤで本数は少ない。しかし次のバスは約五分後だった。
「矢野君、バス後五分くらいだって」
離すタイミングを失って掴んだままになっている矢野の手首を揺らす。
これ、俺が引っ張ってるっていうよりも矢野手首にぶら下がってるだけに見える気がする。さっきから矢野は何も喋らなかった。首を動かしたりちらっと見たりしてくるから無視をしているわけではないらしい。
「そういえば、なんで野球部の主将と一緒に来たんだ?」
「…途中で会った。俺のこと知ってて、で俺が料理部ってのも知ってたらしい」
「へぇー、なんで」
「チェックしてたらしい。なんか野球部に勧誘された。なんで体力測定の結果が知られてたんだ?」
「…さあ」
そういえば、矢野はどの測定結果も平均を軽く越えていた。どれかに特化しているというわけではないけれどバランス良くどれも良かった。
「もしかして、他の部活も先輩達から誘われてた?」
「あー…柔道部とバスケ部、テニス部…あとバレー部からもこの前言われたな」
おい、バレー部。おい男子バレー部。結局誘われてないの俺だけじゃないか。
たぶん野球部だけでなく運動部全体に結果が回っているのではないだろうか。個人情報が流出してるぞ。
俺の結果といえば反対にどれも平均以下で、しかし矢野とは逆に特化しているものがあるのだ。反復横飛びだ。それだけは異常に飛び抜けていて、グラフを歪な形にしていた。反復横飛びが日常生活に一体何の役に立つのか模索している最中だ。
「考えてみると矢野君、料理部やっぱり似合わないな」
どうして入部したんだろうと考えると、なんか、それって。
「和田がいたから入部した」
それってすごく嬉しい気がした。
「まあ、お前、童貞だけどな」
…やっぱり嬉しくない。全然嬉しくない。
「何か言ったかな? 矢野…君」
手首に爪を立てる。
身長差から見上げる形になるが、斜め下から見ても実に隙のない顔だ。というよりも、俺としては右斜め下からのアングルが特に気に入っている。本人には死んでも言わない。
クククと矢野が笑うとくっきりと出た喉仏がきれいに上下に動くのが見えた。あの喉を食めたらどんなにと思ったところで思考が止まる。食めたところでどうなんだ。まったくもって最近の自分の思考についていけない。最近自分でも不可解なのだが、気づいたら矢野を目で追っている。
矢野の手首を掴んでいた手はいつの間にか逆に握られていて引っ張られていた。バス停には誰もいない。
「和田、お前。いつも俺のこと『矢野』って呼んでるだろ」
「そんなことない。俺は、いつも矢野『君』って言ってる」
そりゃ、心の中では呼び捨てにしてしまっているが、それが表に出たことはないはずだ。たぶん。
「いや、お前気づいてないけど、興奮したりすると『矢野』って言ってるぞ。心の中では呼び捨てで呼んでるだろ」
そうだったろうか。思い返してみるとそんなこともあったような、なかったような。つまりは覚えていない。
「…うそ」
「嘘じゃねえよ」
そう言いながら、俺の手首の内側をなにやらなぞっている。くすぐったいから早急にやめてほしい。
「そんな…いつ…?」
あまりの驚きに硬直する。いやいやそんなばかな。いつだって俺は表情と同じく冷静沈着を…努めて…。
「俺に怒ってるときはいつも」
「和田は自分が思っている以上に、感情激しいし案外分かりやすいぞ」
…。
和田の手首すげえ血管透けて見えるな、とか言いつつ俺の手首を噛み始める。
「矢野! 手首返…」
「ほら、今」
ハッとして口を押える。そうしたところで今の発した言葉が消えるわけじゃない。確かに今、俺は『矢野』と言った…いや、言っただろうか。
「…言った?」
すっとぼけてみたけれど。
「言った」
コクリと頷く矢野。もう片方も口に追加して両手で押さえる。
「なあ、いつもそう呼んでるなら呼べよ。前から言おうと思ってた」
俺の顔から手を引っぺがして再び手首を甘噛みしながら言う。
俺が? 矢野を呼び捨てで?
「なんなら、下の名前でもいい。まあお前は覚えてないかもしれないけど?」
挑発するように言う。お前の名前くらい俺はちゃんと憶えている。
「は、は、はじ、始…」
呼んでやる、と心の中では意気込んだものの実際口からは出てきたのはつっかえつっかえだった。情けなくて涙が出そうだ。
「真琴」
最高に意地悪そうに口元を歪めて眉を器用に動かす矢野は、こんな時表情を作るのを面倒くさがらないらしい。
やかんの気持ちはこんなものだろうかと思う。勝手に火にかけられて己の感情とは別に無理やり外から熱せられているような。もちろん、やかんに自我はないし俺もやかんにはなれない。何を言っているか自分でも分からない。つまり、俺はものすごく動揺している。
「…やっぱいい! 呼び方は『矢野』でいい! 矢野も『和田』でいいから!」
勝手に熱せられて湯が沸いてぼわっと湯気がなんかこう、ぼわっと白くぼわっと。俺の頭は今そんな感じだ。
「そうかよ」
笑いを含んだ矢野の声があぐあぐ噛んでいる俺の手首の骨に響く。なんだか耳が熱い。
矢野! なんでもいいから、お前は俺の手首を噛むな! 離せ!




