22.生命線と感情線
さあ言えすぐ言え、とばかりにじっと矢野を見れば、なにやら目が意地悪そうに弧を描いた。そして、前にも体験した生暖かく湿ったものが矢野の口を押さえていた掌を襲った。
「うっわ! 矢野!」
瞬間的に素早く手を引いたが、瞬時に掴まれた。全力で自分の左手を取り返そうとしたけれどびくともしない。無駄に力が強い。確かに俺の腕と見比べれば歴然とした差が存在していた。骨格からして勝てそうもない。
「お前は、俺が好きだから」
矢野はそう言って、俺の人指し指に下あたりから中央をたどり、手首までをゆったりと固く尖らせた舌の先でなぞった。
「ちょちょっ! ちょっと! 矢野! やめっ」
何を言っているんだろうか。舌の感触が生々しく俺の掌に残る。その感触のせいで背中にぞわぞわしたものが走っていった。
「和田、生命線長いな」
どうやら生命線をたどっていたらしい。俺は手首まで伸びた、人よりも長い生命線が小さな自慢だったりするのだ。……いやいやいやいや! そうじゃない! そうじゃないぞ俺! 今回は絶対に俺の質問に答えてもらうんだ。ん? 矢野はさっきなんて答えた? ちょっと理解不能な答えが聞こえた気がした。
「矢野、さっきなんて言った?」
「お前生命線長いなって」
「その前!」
「前? ああ。だから、和田は、俺が、好きだろ」
丁寧に言葉を区切りながらゆっくりと繰り返す。
「いやいや! なんで!」
なんでそういう結論に至るかわからない。俺の答えと違う。そうじゃない、もっとしっくりくる答えがあるはずだ。
「違うのか」
伏し目になった矢野は再び俺の手に顔を埋めて、今度は親指の付け根にがぶりと噛み付いた。
「いたい! も! ちょっと、矢野!」
ぐにぐに噛み締められて痛いしジンジンしてくる。骨! 骨に当たってる! もうやめてほんとに! なにこれ俺、野性動物にでも襲われてるのか。
「和田は俺が好きじゃないのか」
それなりだと自負していた自分の脳のキャパを完全に超えていた。許容量を越えた脳が矢野の言葉を処理すると、そうだったっけ? なんてバカな考えがよぎる。そんな。いや、ここはお前、俺に告白する流れじゃないのか!
掌を左から右、右から左へと繰り返し舌全体を使って舐めていく矢野を不思議な心地で見る。諦めも入っているだろうが不覚にも舌の感触にも慣れてきた気がする。
「感情線も長いな」
感情線をたどったらしい。何がうれしいのか顔をくしゃくしゃにして笑う、俺のお気に入りの顔だった。手相なんてこれっぽっちも気にしたことがない俺には感情線がどれなのかもわからない。というか、手相なんてものを矢野が知っているのも驚きだ。やがて、掌をうろうろしていた舌は上に移動していって指の股へとたどり着いた。人差し指と中指の間に舌が差し入れられた時。
「んっ」
なんて声だ。なんだ今の声は、信じられない信じられない。というか信じたくない。聞こえなかったことにしたい。
放心状態に陥ってピキリと動作が停止した俺に、しっかりと聞いていたらしい矢野は意地悪そうな顔で笑う。その顔は嫌いだ。
「なぁ、俺が好きだろ」
そう言ってべろべろと舐め出した。再びぞわぞわし始めた背中が脳に警告を与える。エマージェンシーエマージェンシー!
あらぬところに熱が集まり始めているのがわかった。ぞわぞわは、くすぐったさとは違う。もう止めてくれるならなんだっていい。もうプライドなんてかなぐり捨てて敬語に切り替えて頼み込む。
「やの! やの! も、むり! やめてください! ほんとに!お願いします!」
「俺が好きだって言え。言ったらやめてやる」
横暴だ!
しかし、そろそろ俺の下半身の熱も形を変えそうだった。さすがに校内の廊下では遠慮したい。矢野の動きは容赦がなくて指の股を舐める度にピチャピチャと聞きたくない音がする。やめろ!
「はい! すきです! だいすきです!」
「誰が? 誰を?」
「俺が! 矢野君を!」
「ん」
ようやく帰ってきた俺の左手を我が子のように抱き抱える。良かった、左手も唾液にまみれてる以外は大丈夫そうだし下半身もまぁギリギリセーフだ。
「和田、耳が真っ赤」
耳に伸びてきた手を瞬時にはたき落とす。
「触んな」
俺はもちろん怒っていた。好き勝手言って、言わせておいて俺に謝りもしない。
「怒んなよ。…なあ」
背を向けた俺の機嫌を取るように後ろ髪をちょいちょい引っ張る。俺とは反対に矢野はひたすらご機嫌な様子も今の俺には気に障るだけだ。
「言え! 俺にだけ言わせるのは卑怯だ! 矢野だって俺のこと好きだろ!」
俺は矢野に詰め寄った。もうここまで来れば俺だってわかる。こいつは俺が好きなんだ絶対。嫌いなやつとかどうでもいいやつにキスなんてするわけないんだから。素直に言えば俺だって考えてやってもいい、そう思っていた、のに。
これで否定なんかしてみろ、だいっきらいって言って脛蹴って逃げてやる。息巻いて矢野の返答を待った。
「さあ」
返ってきたのは簡単な言葉だけだった。
さあ?
…さあ? だと。
ぐんぐん怒りが増してくる。無理やり言わせられたのにこれじゃあ俺が一人で片思いしてるみたいじゃないか。それも告白して、返事は誤魔化されるという形で。
眉を寄せて俺なりのしかめっ面をなんとか作り上げて怒りを表現すると、それはそれは素晴らしい笑顔で言った。
「かわいい」
「ふざけんな!」
思いっきり脛を蹴って、崩れ落ちた矢野を尻目に家庭科室へと全力で走った。




