21.キス
違う。俺が言いたいことはそうじゃない。手伝わなかった、ことじゃない。カレーが出来上がった頃にやって来たことじゃない。俺の言いたいことをちゃんと言うために口を動かすんだ。
「その、違うんだ矢野。俺、今日お前がいなくて、その…あの…」
矢野は伺うように首を少し傾ける。顔を挟んだ両手を離そうとしたけれど、その上から手を包まれる。指の間に指をするりと入れられてしまったら力づくで外すこともできなくなった。
「ん?」
「いや、だから、その…」
右下に視線を動かす。
「…その、お前が今日いなくて寂しかった」
言ってしまった。言ってしまえば後は堰を切ったように口から溢れ出てくる。
「つまんなかった。矢野とカレー作りたかった。一緒に作ったらもっと楽しかったのに。だけど矢野来ないし。お前がじゃがいも食べたって言って腹立ったけど、お前何にも言わなくて黙ったままだから俺、あれからなんて話しかければ良いかわかんないし。料理部も来なかったし。俺、矢野の手に触るとなんか心臓痛くなるようになったし」
「それで?」
低いゆったりした声が俺の脳に響く。
「それで、それで…」
「うん?」
俺の顔を矢野は両手で挟んでそっと上に向けた。顔を上げると驚くほど近くに矢野の顔があった。俺は思わず仰け反って距離を取ろうと思ったけど指と指が絡んでいる。
伏し目のまま近づいて来る矢野をやっぱり俺は拒めなかった。
隙間なく生えているまつ毛はやたらと長くてまばたきする度にバサバサと音が鳴りそうだ。
ふっと吐いた息は矢野に吸い込まれた。
三度目のキスは馴染んだように思った。相変わらず心臓はうるさいし、どうやって呼吸すれば良いかわからない。
でも、気持ちよかった。
どうしたって嫌じゃない。それどころか俺の体は大いに喜んでいた。そうだ、これだと俺の唇は反応している。柔らかい下唇に思わず吸い付いて味わっていた。もっと近くで擦り合わせたくて矢野の頬を俺の方に引き寄せた。もっと、もっと。もういいどうでも。俺はこれをずっと望んでいたんだ。矢野が俺で埋め尽くされて少し逃げても唇が追ってくる。食まれる。うれしい、うれしい。今ならわかる。
俺、矢野のキスが好きだ。大きくて獰猛そうな口が優しく傷つけないように俺の首を這う。肌にわざと当てられる犬歯がドギマギしつつも決して食い破られない安心感があった。人に懐かない獣が俺だけに甘えているような。
ああと納得した。俺、矢野に甘えられるのが好きなんだ。考えてみれば、あの不思議な幸福感は矢野に甘えられる度に俺を包んでいた気がする。
満ち足りたように力を抜いて矢野に体を預けた。
矢野は満足そうに口端を上げて指を解いて俺の口に親指を突っ込んだ。前歯の噛み合わせを撫でて、あ、と矢野が口を開けて艶かしい赤い粘膜が見えた時、俺は唐突に大事なことを思い出して左手で矢野の口を覆った。なんでという目が向けられる。
「あのさ」
まだ余韻を残した舌足らずな甘えた声が俺の喉から出た。うわあ気持ち悪いと思ったけれど、矢野は特に気にした様子はない。
それより、大事なことを聞いてない。聞かなきゃ。まだ正常に働いていない頭でそう思った。ちゃんと、聞かなきゃ。
「やのは、なんでおれにキスすんの」
ふと考えこんだ様子で俺の掌の中で、んー、と唸る。
なんだその態度は。




