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20.追いかけてるのは向いてない

 少し遠くに見える矢野の背中をしっかりと見つめる。…死んでも逃がさない。


「や、の! 矢野ってば!」


 止まらない背中を追う。一向に縮まらない距離にイライラした。

 しかも、矢野は全力で逃げていなかった。俺が追える程度の速度で、加減して走っている。その証拠に、足がもつれて膝をついた俺の様子を離れたところから伺っている矢野は息切れしていない。俺はこんな苦しいのに。こんなにお前を呼んでるのに、返事一つ寄越さない。

 聞きたいことだってたくさんあった。なんで今日来たんだとか、なんで野球部の主将と一緒に来たんだとか。言いたいことだってたくさんあった。お前のせいでジャガイモと人参なくて、でも顧問の先生が車で連れていってくれたんだとか。お前がいないせいで鍋をひたすらかき回すはめになったとか。

 矢野いなくて、つまんなかったとか。

 息を吐きながら膝をついて、俺は自分の情けなさを呪う。なんだ、このザマは。矢野一人も捕まえられなくて、横っ腹痛くって膝痛くって。

 何が矢野の特別になった気がする、だ。俺はやっぱり無表情の道化だ。呼吸が苦しくて廊下にごろりと横たわった。休日だと言うのに外からは部活に励む青春の声がする。


「和田?」


 動かない俺に矢野は俺の名前を読んだ。近づこうとする気配すらあった。


「来んな!」


 俺は声を張り上げた。もういい。当たり散らしてやる。


「お前が逃げたんだからな! 来んな! …なんで矢野逃げんの、俺追いかけてるのに。なんだよ。お前が言ったんだぞ! 俺が一緒にいたいって言ったから、一緒にいるってお前が言ったんだぞ! なんでいないんだよ! バーカ!」


 カレー上手くできたんだぞ! お前抜きで作ったんだからな! 死ぬほど美味いんだからな! お前に絶対やらない! 指くわえて見てろ! ざまあみろ!

 思いつくままに、口が動くままに叫んだ。倒れた状態で矢野を見ると、俺の言いつけを律儀守ってその場で固まっている。


「ぼさっとすんな! 心配して様子見に来いよ! バカ!」


 むちゃくちゃな事言っているのは自分でもわかっている。なんだか俺はイライラしていた。俺のためにここまで走って来いよ! ひどく自己中心的な考えが頭をよぎる。


「和田、大丈夫か」


 おそるおそる矢野はやってきた。

 何に対しての大丈夫か、なのか。俺の打った膝? それとも支離滅裂な事を言う俺の頭?


「起こせ」


 言われるままに動く矢野に俺は少々調子に乗って偉そうに命令してみると、矢野は文句も言わず俺の両手を引き上げる。

 矢野は明らかに動揺していた。いつもならとっくに俺の表情を読み取っているはずなのに、読めないのだろう。それはそうだ。俺は今感情が無に近い。次に何をするのか俺自身にもわかっていない。


「抱きしめろ」


 だから、口に出した俺さえも俺の言葉に驚いた。

 偉そうに言ってしまった手前、なかった事にはできない。それに突然出てきた言葉は嫌に俺の本心を突いているように思えた。だから俺は俺の意思を尊重させるように、矢野の手を下に引っ張ってしゃがむように仕向ける。中途半端な体勢だった矢野は思いの外あっさりと膝を曲げた。

 そしてまだ頭上には大きなハテナマークが見えた。


「ほら!」


 何がほら! なのか言った俺も疑問ではあるが、胸あたりに頭突きするように当てた。当然なんの防御もしていなかった矢野はその場で尻をつく。そしてそのまま微動だにしなかった。少しは察してくれたっていいじゃないだろうか。いつもは勝手に俺の表情を読み取るくせに。

 焦れに焦れて、俺は矢野の腕を掴んで無理やり俺の背中にまわす。ずるりと落ちるかと思われた腕は矢野自身の意思で俺の背中に留まった。


「和田」


「…なんだよ」


「…その、悪かった」


 矢野はようやくぎゅっと抱き締めてくれた。

 …ちょっと待て。『ようやく』? 『抱き締めて、くれた』?

 どうした俺。なにがあった俺。

 精神的違和感は半端ではないのに俺の体は、心とは反対にリラックスを得ていた。心地良い、気持ちいい。頭の中はその感情で埋め尽くされていく。

 白いシャツに顔を埋めると矢野の匂いがした。きっとフェロモンが凝縮されてる喉仏あたりに鼻を持っていくと俺の頭の中の混乱なんてどうでもいい事のように思えた。


「お前が…」


「ん?」


「お前が、逃げて八つ当たりした。ジャガイモはちゃんと返そうとしたけど、和田怒ってたから、その…悪かった。ごめん」


 痛いくらい抱き締める手に力が入っていたのは緊張しているのだろうか。矢野でも。


「矢野、俺が何に怒ってるかわかってる?」


「だから、ジャガイモを」


「そうじゃない……いや、それもあるけど」


 本当にわかってないらしい。自分から催促しておいてなんだが、べりっと矢野を剥がして顔を両手で挟む。むにゅりと形を変えた造形はやはり近くで見ても触っても憎たらしいほど欠点が見えない。


「カレー作らなかったろ。みんな頑張って作ったんだぞ。なのに、作り終わってからくるなんて卑怯だ」


「だから、ジャガイモと人参持参で…」


「違う」


 この『違う』は矢野に向けてじゃない。俺自身に向けた『違う』だ。


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