17.絶望の朝
カレー。それはとても簡単に思えて、しかし奥深い複雑な食べ物である。
素材の良さはもちろんのこと、ルーを使うのかフレークを使うのか。はたまたカレー粉、小麦粉その他諸々の香辛料を調合して一から作るのか方法は様々である。
そして、トッピングの選択は数限りなく存在する。オーソドックスに福神漬?洋風にチーズ?カツやエビフライ等の揚げ物にも相性は抜群だ。変わり種に納豆なんて選択も人によってはあるようだ。また何を入れるかも重要になってくる。牛肉だろうが豚肉だろうが鶏肉だって寛容に受け止めてくれる懐の深さを持っているのがカレー。夏野菜を合わせた野菜カレー、シーフードもまた有り。
そう。ジャガイモなしのカレーもまた存在する。いや、むしろ溶け出したジャガイモの舌触りがよろしくないとか、そもそも本当に必要なのか。冷凍保存するとジャガイモはスカスカになるとか。ジャガイモなしのカレーをむしろ好む人がいるのもまた事実なのである。だから、俺が全力で選び抜いたジャガイモが入らなくてもカレーは出来上がるわけだ。
これが部長が懇切丁寧に説明してくれた全て。
「だから、ジャガイモなくても大丈夫だから…わ、和田君…そんなに落ち込まなくても…」
「いや、もう。なんていうか、いろいろ申し訳ないです。…しにたい」
「和田君に包丁を持たせないように注意してね。皆」
「はーい」
最高に楽しみにしていたはずの料理部の調理日。確かにちょっとは気が重たくもあった。それもこれも。ついでにあれもそれも全ては矢野せいだ。
そうだ。あの次の日、ジャガイモを持ってきてくれるかと思ったが矢野は言い放った。お前がうちの玄関に置いて行ったジャガイモな、食ったから、と。いきなり帰った俺に小さな仕返しだったのか嫌がらせなのかは分からない。でも、俺と矢野の間には明らかな距離ができた。
でも、できるだけ近寄らないようにしたってどうしても俺の前は矢野で。とてつもない疲労感を覚えていた。
顔が見たくなくて、目を逸らすようになったのは自然な流れとして、不可解なのはプリントを回す矢野の指に触れるだけで心拍数が上がるようになった俺自身。そりゃあもう疲れた。意味が全くわからない上にいちいちビクビクしたくもないのに体は反応するのだ。
抜けない疲労を抱えたまま迎えた土曜日。勿論、調理日だというのは頭にあった。けれど体は平日よりも遅く起きていいと判断したらしい。寝坊した。飛び起きて適当な服にエプロンを持ってキッチンに飛び込むといい匂いに腹が空腹を訴えた。
それでも頭にあったのはジャガイモ。しかたなく、近所のスーパーでまた長時間選びに選び抜いたジャガイモを引っ掴んで家を出るつもりだった。…つもりだった。
大事な日に遅刻しそうというどうしようもない焦り。それにプラスされたのは目の前に叩き付けられた絶望だった。ジャガイモたっぷりの肉じゃが、という名の。一気に顔から血の気が引いていくのが分かった。
「あさごはん…」
それだけ呟いたものの、口の中は乾いている。後ろを向いて鼻歌交じりで小気味よくまな板を鳴らす母上は嬉しそうに言い放つ。
「冷蔵庫にじゃがいもがあってね、買った覚えはなかったんだけどこの前スーパーに行った時に買ったのかしら」
もし腐ったらと用心に用心を重ねて、野菜室に入れたのがアダとなったようだった。
美味しそうな肉じゃがを前に膝が崩れ落ちそうになったのを、椅子の背を掴んでなんとか体勢を整える。俺には母親に怒鳴りつける気力も何も残っていなかった。
「ど、どうしたの! 顔が真っ青!」
振り返って、体調悪いの、風邪?と側で騒ぐ母親の声も遠くに聞こえた。それでも頭にあったのは、遅刻という二文字。休むという選択肢は俺にはなかった。ないなら、ないで目の前で土下座でもなんでもして謝りたい。許してもらえなかったら切腹でもしようかと馬鹿なことを考えているうちにいつの間にか学校に着いていた。エプロン等が入った袋は右手に持っている。どうやらそれだけは引っ掴んで来たらしい。もはや記憶がない。




