16.未発達
矢野は、深く息を吐いてくぐもった声でこう言った。
「なんだよ…びっくりしただろ…」
そりゃこっちの台詞だと大声で言いたい。俺の方がびっくりした。今だっていきなり膝に顔を埋めてきてびっくりした。でも、なにやら焦燥しきった様子に結局何も言えず手触りのいい髪に指を通す。
「…嫌われたかと思った」
「ん?」
「和田ごめん、調子乗った」
矢野が膝から顔を上げて耳たぶを引っ張ってくる。真っ黒な瞳は俺だけを見ていて心地良い。気に入ってる矢野の眉毛をなぞると気持ちよさげに唸って伸びをする様子が、やっぱりリラックスしてる肉食獣みたいだった。
「なぁ、何がいけなかった? 前に首に噛み付いてもキスしても、ここまで嫌がらなかっただろ」
そういえばキスもされているし首筋だって噛まれたり食まれたりして、衛生面なんて今更だとは思う。けれど『舌』は違った。なんというか、ただびっくりして。
「舌…が、びっくりした。熱くてぬめっとしてて、俺はあんな感触知らない」
未だに額に感触が残っている。
「気持ち悪かった?」
再び俺は矢野の舌を思い出していた。分厚くて熱くて、ねちっこくて、そして……その感触はわる…くは、なかった。悪くはなかった、と思える自分に驚いて泣いたのもある。恥ずかしいから言う気はないが。
「べつに…」
それだけを言うのが精一杯。矢野が焦らすようにゆっくりと瞬きをしたら、意味ありげに輝く目が俺を誘惑していた。それでも構わない。この蜘蛛の糸にじわじわと掛かっていくのも快感に思えた。
「じゃあ、キスは? 嫌か」
長い手で床を押して、寝そべっていたライオンがのっそり起き上がる瞬間に見えた。美しくも思えるけど、こちらに向かってくる恐ろしさ。混ざり合った感情を俺は、緊張の頂点で投げた。
「いや、じゃない」
別に舐められたのも、嫌じゃなかった。それは口に出さない。
「嫌じゃないならいいよな」
優しい顔で近づいてきたから、抵抗するのも忘れて受け入れるみたいに目を閉じてしまった。合わせた唇の隙間から湿った舌がやって来て、上唇を軽く舐めていく感覚にビクリと過剰に反応する。すると数ミリだけ離して吐息みたいなかすれた声が聞こえた。
「舌は入れねぇから」
酸素を求めて顔を背けても、顎を引っ付かんで無理矢理唇を合わせてくる。矢野は俺の抵抗を軽くいなして宥めるように角度を変えて、深さを変えて、それがすごく巧いのかそうでないのか比べる対象がない俺には分からないが、段々と気持ち良くなっていったのは確かだった。
軽く合わせてじっとしたかと思えば遊ぶように上唇、下唇を交互に音を立てながら吸う。手首を掴む手も今はほとんど力が入っていなかった。俺の全身から力が抜けているのが分かったからだろうか。
おかしなことに、危機感を感じても良いはずなのに、それよりも安心感が勝っていた。感覚的にはあれに似ている。夢と現実の間みたいだ。うつらうつらと首を揺らして、目覚めなきゃいけないのはわかってるけどその感覚も楽しみたい。
チュッチュとよくもまぁそんな音が出せるもんだと関心するくらいかわいい音を立てて、間近で微笑んだ矢野の顔が近すぎてぼやける。左右対称につり上がった形の良い唇は先程まで俺のとくっついていたなんて信じられなかった。
吸われたことのない俺の唇は、少々熱を持ってじんじんとしていた。のろのろと左手を動かして、矢野の唇をなぞる。現実感がわかなかったが生々しく弾力のある矢野の唇もやっぱり熱かった。
「和田?」
考えるよりも体が勝手に動いて、口が勝手に開いた。
「もう…ちょっ」
『もうちょっと、して』
喉まで出かかっていた言葉をギリギリで飲み込んで口を手で押さえた。ほんのちょっとだけ残っていた理性で止めたが俺が何を言おうとしていたのかは勘の良い矢野には伝わってしまったらしい。楽しげに笑って顔を傾けた矢野の胸に両手を突いて押した。これ以上は絶対ダメだ。矢野の目を見て首を振る。
矢野は舌打ちをして眉を寄せた。ゆっくりと起き上がって髪をかき混ぜる。
「俺、帰る」
まだまだゆっくりとしか動かせない体に鞭打って靴を履こうとした。うまく足が靴に入っていかないのに焦れていると、後ろから長い腕が巻き付いてくる。
「…流されちまえよ」
耳元に直で響いた声を振り切って、踵を踏んだままマンションを飛び出た。悪魔の囁きは耳にいつまでも残っていて、家に帰ると顔の真っ赤な俺を心配した母親に体温計を渡された。
せっかく選んで買ったジャガイモを矢野の家に忘れてきたのに気づいたのは寝る前で、ああ玄関に置いてきてしまったと思い出した。人様の家の玄関でなんてことをしてしまったんだろう。思い出すと顔が熱くなって眠れなくなったから、冷えぴたを両頬に貼って寝た。友達から大きくはみ出してしまった矢野との関係をもっと考えなければならないような気もしたが、今は考えたくなかった。




