15.額の呪い
「赤くなってる」
呟かれた言葉と共にぬるりとした感触が額を襲った。かちんっと固まった俺に再び熱いぬるっとした感触。
「あ、の、や、やの…?」
「ん?」
かぱっと口を開けた俺が見たのは、分厚い舌が形のいい唇にちょうどしまわれる所だった。
ベロリ、した。いや、ベロリされた。あまりの衝撃に口が開けたまま閉じられない。キスの時だって驚きはしたけれど。
「お、俺、汗かいてるのに…」
とりあえず口をついたのはそれ。
「そこかよ」
だって、体育の後に一応顔は洗ったもののそれから汗だってかいた。放課後なんだから、顔に脂だって浮いてるだろうし。そんなお前みたいにツルツルで触り心地よさそうな肌じゃないんだ。それなりに、小さいニキビも最近気にしてて…。
それをお前。ベロリって。しかもやたら丁寧にねっとり舐めやがって。唾液で濡れたところがスースーする。俺、お前がちょっと困ればいいなって。いつも俺ばっかり理不尽に思えたからお前も振り回されてみればいいって。そう思っただけなのに。
「おれ、き、きた、汚いのに!」
そう口に出すと本当に自分が汚いような気がしてくる。
「あ? 別に汚くは」
「え、えいせいめん…」
衛生面。そう言いながら人通りは少ないとはいえ、往来で泣き出した俺はたいそう間抜けだったと反省している。
「わる、わるかったって」
矢野の顔も涙で歪んでよく見えない。再び握られた矢野の左手はしっとりと湿っていた。
引っ張られながら歩くと、スーパーは本当に矢野のマンションの目と鼻の先だったようで気づけばエレベーターに乗っていた。マンション前ですれ違ったカップルの、ねぇあの子泣いてなかった?なんて話し声は聞こえなかった。絶対聞こえなかった。
エレベーターに乗った頃にはすっかり涙も止まっていたが。
「悪い、わるかった、ごめん。ごめんって」
何度も呟きながらも、決して俺の顔を見ようとしない。困ったその様子がどうにも面白くて吹き出しそうになるのを耐えるのが大変だった。エレベーターのボタンを意味もなく上からじっくり眺めて下まで行ったら、今度は下から上へ頭が動く。それで何度も謝るのだから、段々と笑いが込み上げてくる。
お前は一体何に謝ってるんだ。
時折できる沈黙の間にわざと鼻をすんすん鳴らせば、矢野の肩がピクリと動く。呪文のように謝罪を繰り返しながら繋いだ手を左右に揺らすのが、精一杯の宥め方らしかった。それさえも矢野には悪いが面白い。いや、面白いというよりも気分が良かった。俺が優位に立って、それで望み通り矢野を振り回しているのが。そうだ、お前も俺で頭がいっぱいになればいい。俺みたいに。
耐えられたのは玄関までだった。
「わるかった、じゃなかった…ただいま」
靴を脱いで家に上がる瞬間あまりにも繰り返しすぎたせいで、ただいまを言い間違えたと思われる一言でついに吹き出した。
「や、やの…おまっ、おまえ…! い、いままちがっ…! …ッ!」
あまりのおかしさに声が出ない。腹筋を使うこの笑い方は筋肉のない俺に後で多大な筋肉痛をもたらすだろう。腹を押さえて止めようとしてもそれでも自分止められそうにない。面白すぎる。
「笑うな!」
振り返った顔が少し赤い。怒られても笑いは止まらなかった。表情筋もさすがに動いたようで顔が痛い。ぶっさいくな面をしているに違いないが、俺の顔を気持ち悪いと言い切った男の前だ。遠慮することなんてなにもない。
矢野は俺をギッと睨んで、それから力が抜けたように膝をついて座り込んだ。下を向いたまま無言の矢野に俺も段々と発作が治まってくる。
「矢野君?」
ぐいと下に引っ張られて段の高くなっている玄関先に座らせられる。
「…もう、いい。好きなだけ笑っとけ」
言うが否や、ぐったりと横になって俺の太ももの間に顔を埋める。柔らかい脂肪があるわけでもない俺の太ももの骨と額がごりごりと当たって、心地いいとは言えないだろう。俺だって痛い。




