14.考えないとは考えもの
あまり調理日を楽しみにしている様子はなかったが、うちの近所のスーパーが一番安いと言い出したのは実は矢野だった。俺は値段の相場なんて知らないし、なにやら自信たっぷりに言うものだからそうなのかな、としかし若干の疑問を抱えてやって来たのだ。
「食うか」
ポコッという音と共に容器を開けてカラフルなマーブルチョコを差し出す矢野は首を傾げて言った。
節張った指と可愛らしいカラーの容器の違和感がすごい。最後に食べたのはいつかさえ思い出せない水色とピンクと黄色のそれを口に入れてすぐ噛み砕く。するとガリガリ顎を動かす俺を責めるように見てきた。
「和田…外側の、あのよく分からない色の付いたコーティングがザラザラになるまで舐めてから噛み砕くのが常識だろ」
どこの国の常識だ。
スーパーを出て横断歩道の手前で俺は立ち止った。渡って向こう側にバス停がある。
「じゃあ、矢野君」
空になった口で別れを告げる。買い出しは無事に終わったし、これ以上は特に何もないだろう。
甘ったるくなった口の中の感覚も悪くなかった。俺は今日、実に楽しかったらしくこの甘さを噛みしめながらゆっくり一人、帰りたい気分だ。いい気分だった。今にも鼻唄を歌い出しそうなほど。ふわふわした心地で一歩踏み出したところでしっかりと肩を掴まれた。
「…に…すか」
ちょうど前を通った車のエンジン音に掻き消されたほど小さな声だった。だから自信はない。聞こえなかった部分を脳が勝手に補修したのかもしれない。
でも。にがすか?お前、今、逃がすかって言ったか?
「暇なら、うち来いよ」
返事もしていないのに、じゃがいもの入ったレジ袋を取り上げられれば歩幅の合わない矢野に小走りで付いて行くしかなかった。
「おい、矢野!」
大事なじゃがいもを取り返そうとしたけれど反対に手を握られた。気づけば歩幅が調整されていて、いくらか呼吸の楽になっていた。
「用事でもあったか」
振り返るとあの黒い瞳が絡みついてくる。
「……別に…なにもない」
喉になにかつっかえたように、するりと言葉は出なかった。やっとそれだけ言って、地面に目を向ける。
「そりゃよかった」
よくない。全然よくないぞ。
矢野の家はスーパーからすぐの場所にあるらしい。あれ、俺、なんかはめられた気がする。いやいや、それでも矢野がスーパーを教えてくれたお陰でじゃがいもは安く買えたわけだし。本当にあれが安いのか、俺の中に比較対象はないが。
「和田。お前、手もちっさいな」
「うっさい」
握った手に時折力を入れたり抜いたりニギニギしながら、怒る俺をも楽しそうに眺めて優しく笑うから、まぁいいかと思ってしまう。
ほんの少し指を曲げて手の甲に触れると、それほど白くもないが、俺の指が浅黒い矢野の肌に映えて見えた。それを見ていると、なんだか自分が特別な存在になったようで俺だって捨てたもんじゃないなと変な自信が沸いてくる。
勿論、ネガティブな感情を常に持っている訳じゃないが矢野が特別過ぎて。特別過ぎるから、なんて俺は平凡なんだろう、なんで俺はこんなになにも持ってないんだろう。最終的には、なんで俺はこんなに表情筋が硬いんだろう、とどんどん後ろ向きになっていく感情を持て余していたのは事実だ。持て余したのは原因は矢野なのに、隣は不思議と心地いい。
「矢野君ってマイナスイオン出てるよな」
「…初めて言われた」
輝き始めた瞳には期待の二文字がうっすらと見えて、それに応えなければならない謎の義務感に駆られて思い付くまま口に出した。
「隣にいると気分良いし、こう、安心感的なものが…ああ! ホウヨウリョクってやつなのか? それに香水かなにかの良い匂いが」
する、まで言おうとして広い手のひらで塞がれる。
「もう分かったから。黙っとけ」
コックリ首を動かすと矢野は少し歩幅を変えて俺の前に出た。
俺はひょっとして失敗したのだろうか。期待に応えられなかった?怒った?
せっかくさっきまで、いい感じだったのに。…なにがどう、いい感じだったのかイマイチ掴みきれていないけれどいい感じだったのに。
拗ねたくなって、歩幅を広げて広い背中に追い付くとブレザーを両手でひっつかんで額をぶつけた。
「いぃったっ!」
思ったよりも勢いを殺せなかった。めちゃくちゃ痛い。
「何やってんだお前…」
足を止めた矢野の呆れた声が上から聞こえた。特に痛そうな様子はなく、軽い衝撃程度でしかなかったらしい。自業自得なのは分かっているが理不尽さを感じる。
額をグリグリと押し付ける。両手でしがみついているブレザーはきっとシワになるだろう。でもそんなの知ったことじゃない。俺は今、機嫌が悪いんだ。
でも、顔を見る勇気はなかった。がっかりした、失望した顔を見る勇気はない。
「なんだよ」
それに答えずに額を擦り付け続けた。俺はいつもお前に振り回されてばかりなんだ。少しは困ればいい。それにこうしている間に、俺にがっかりした顔なんて消えてしまえばいい。
「擦れるだろ、額見せてみろ」
ぎゅっと力を入れていたはずの手に矢野が触るだけで力が抜ける。見上げた顔は、眉が垂れた困った顔で。耳たぶがほんのり赤くなっているところ以外は普段と変わりなくて安心した。少しは効果があったのだろうか。耳を眺めている内に、矢野はくしゃくしゃに絡まった俺の前髪をすいて直しながら額を覗く。




