第九話「記憶喪失の謎」
【あらすじ】
冒険者アレアと、相棒のレイ。記憶を失った令嬢メモリーを家族のもとへ送り届けた二人は、伯爵邸で、改めて伯爵夫妻と向き合う。
娘の帰りを喜ぶ父と母。だが、メモリーには家族の言葉だけが届かない。アレアやレイのことも、初めて会った使用人の名も分かるのに ―― これは、ただの記憶喪失ではない。
アレアは、必ず記憶を取り戻すと約束する。話がまとまった、そのとき。応接室の扉を、誰かが叩いた ――
門をくぐった一行は、使用人に導かれるまま、応接室の戸口まで通された。
その戸口で伯爵がレヴへ目を向けると、控えていた使用人が、声を掛けられるより先にその肩へ手を添える。
レヴは一度だけ姉を振り返り、まだ赤みの引かない目で、何か言いたげにメモリーを見つめたが、唇を結んだまま、その手に促されて戸口を離れていく。
通された応接室は天井が高く、太い梁の下で、壁は上の方まで木の羽目板に覆われていた。頭上のシャンデリアにはろうそくが灯り、奥の白い石の暖炉でも火が燃えていて、部屋の隅々まで明るく暖かい。垂れ布で飾られた大きな盾には、伯爵家の家紋が描かれていた。若草色の地に、実をつけた金のりんごの木が一本立ち、その幹の前に、切っ先を下へ向けた剣が突き立っている。低いテーブルの上では、馬の置物の背が、暖炉の火を映している。
その明るさの中で、喪服の黒だけが、伯爵とハンナの肩に沈んでいた。
二人の姿を、アレアはここで初めてはっきりと見た。伯爵の顎には貴族らしく整えた髭があり、頬には古い戦の傷跡が一筋走っていて、騎士のような体つきなのに、喪服の腰に剣は下げていない。ハンナは亜麻色の髪を結い上げた、母親と呼ぶには若く見える人で、深い茶色の瞳のふちには、泣いた跡がまだ残っている。
顔をひとつずつ見比べていくと、アレアの目は二つの色で留まった。伯爵の瞳の若草色も、ゆるく波打つハンナの亜麻色の髪も、隣に立つメモリーと同じ色だ。
門の前で、メモリーがハンナへ返した「どなたでしょうか?」の一言がふと頭をよぎったが、アレアはそれを口には出さずに、隣へ顔を向ける。
メモリーは背筋を伸ばし、両手を体の前で重ねて立っている ―― 誰に教わったのかも覚えていないはずの立ち方を、その体だけが、きちんと守っていた。
反対の隣では、レイが大剣を負ったまま姿勢を崩さず、伯爵とハンナへまっすぐ目を据えている。一行の一歩うしろではイクネスがいつもの笑いを引っ込めた顔で控えていて、扉の脇の使用人も、物音ひとつ立てずにいた。
伯爵が、低い声で口を開く。
「……先ほどは名乗りもせず失礼した。私はこのミフガンを治める伯爵家当主、アダル・ミフガンだ」
短い名乗りのあいだも、アダルはアレアとレイから顔を逸らさなかった。
「娘を連れ帰ってくれたこと、深く感謝する」
アレアがアダルから隣へ目を移すと、ハンナが胸の前で手を揃える。
「妻のハンナです。先ほどは取り乱してしまい、お見苦しいところをお見せしました」
詫びる声は少しかすれていて、ハンナは言い終えると、いったんうつむき、それから、もう一度アレア達を見た。
「私からも……お礼申し上げます」
「俺はアレア、冒険者だ。よろしくな、アダルさん、ハンナさん!」
気安く片手まで上げたとき、すぐ横でレイの肩が跳ねた。
「おい、アレア! 伯爵閣下とハンナ夫人と、お呼びしろ!」
正面では、ハンナが目を丸くして、アダルを見ている。何がいけなかったのかは分からないのに、正された呼び方だけが、アレアの耳に残っていた。
「えっ? あ……は、伯爵閣下、ハンナ夫人」
レイは一歩進み出て、腰を折って頭を下げる。
「伯爵閣下、連れの無礼、私が代わってお詫び申し上げます。彼はまだ、貴族に対する作法を知らず……」
知らず、の一言に、アレアは首の後ろまで熱くなった。まだ顔を上げないレイへ、アダルが低い声で応じる。
「良い。謝罪は不要だ。娘を助けてくれた恩人だ、我々が礼を尽くす事はあっても咎める事などできようはずがない」
その言葉に、ハンナの赤い目元がわずかにゆるんだ。身を屈めたレイが、横目でアレアを見る。
「寛大なご配慮に感謝申し上げます。アレア、お前も頭を下げろ……」
アレアも慌てて、勢いよく頭を下げた。
「すみませんでした……」
目の前が紺と赤の絨毯でいっぱいになったところへ、アダルの声が降ってくる。
「顔を上げてくれ。……楽にしていい」
言われて身を起こすと、向かいの二人はもう座るところで、ハンナが選んだのは、ソファの端のメモリーにいちばん近い肘掛け椅子だった。アレアも腰を下ろし、ビロードの座面に思ったより深く沈み込んだ。ソファの脇には、回ってきたイクネスが真顔で立っている。
レイはまだ座らずに、改めて二人へ向き直る。
「私はレイ・シュタインです。アレアと組んで、冒険者をしています」
言い終えてようやく、レイもアレアの隣へ腰掛けた。その反対側では、メモリーが膝の上に手を重ねて、ここまでの名乗りを黙って聞いていた。
ソファの脇で、イクネスが姿勢を正す。
「では領主様、奥方様。これまでのことを、儂からご報告いたします」
アダルがうなずく。
「聞こう」
身元不明の報せでクレオスへ向かい、記憶の無いメモリーを見つけてから、アレア達の護送でここへ戻るまでを、イクネスは要点をまとめて報告していく。そのあいだ、アダルもハンナも、身じろぎひとつしない。
アレアは、隣のメモリーへ目をやった。話されているのはメモリー自身のことなのに、イクネスへ向いたその顔は少しも動かず、膝の上に重ねた手も、さっきから同じ形のままだ。
報告の声が止んでも、暖炉の火だけは、変わらずに揺れていた。
ハンナは膝の上で両手を握りしめ、目を伏せている。その隣で、アダルは低いテーブルに肘を立て、固めた両の拳を顎に当てていた。
「……そうか」
ハンナの唇が、かすかに動いた。
「四か月も……あの子は、そんなところに……」
語尾が震えて、その先は続かない。拳を顎から下ろしたアダルが、ソファの脇のイクネスへ向き直り、頭を深々と下げる。
「イクネスよ、ご苦労であった。其方の働きにより、こうして娘と再会する事が出来た、礼を言う」
かえってイクネスのほうが、慌てて身を縮めた。
「滅相も無い。領主様、頭をお上げくだせぇ」
ハンナは肘掛け椅子から身を乗り出して、メモリーの肩にそっと手を添える。
「いったい、何故、メモリーの記憶が失われたのでしょう……」
メモリーは拒みもせずに、ハンナの顔を見ている。問いを受けて、イクネスが視線を落とした。
「奥方様……儂らも原因はわかりません……」
その答えを聞いて、アダルが長く息を吐く。
「なんにせよ、こうして生きて帰って来たのだ、それだけでも十分だ」
ハンナの口元から、ようやく力が抜けた。
「そうですね……」
アダルは椅子から立ち上がるとメモリーのそばまで来て、いとおしむように見下ろす。
それでも、メモリーの顔には何も浮かんでこない。よかったとは思い切れずに、アレアは目を外した。隣のレイも、寄り添う家族のほうを黙って見ている。
アレアは膝の上の拳を一度握り直して、背を起こした。
「あの、ちょっといいか……いいですか」
家族とイクネスの目が、いっせいにこちらを向く。言い出した以上、アレアにはもう引っ込める気は無かった。
「メモリーの記憶喪失……普通じゃないと思う」
見下ろしていたアダルが眉を寄せた。
「……どういうことだ」
ハンナが、不安げにアレアの顔をうかがう。
「普通じゃない、とは……?」
まっすぐ問い返されて、アレアは一瞬、言葉に詰まった。
「いや、俺も確信があるわけではないのですが……」
アダルが、短く顎を引く。
「かまわん、申してみよ」
アレアはうなずいた。
「わかりました。口で言うより、見てもらったほうが早い。……メモリー、ちょっと手伝ってくれるか?」
呼ばれて、メモリーが隣からアレアを見る。
「はい。私にできることでしたら」
それからアレアは、ハンナのほうを見た。
「ハンナさ……ハンナ夫人。メモリーに、メモリーの好きなものの話をしてやってくれない……ですか」
ハンナは身を寄せて、メモリーを見つめた。
「……メモリー。あなたは、りんごパイが大好きでしたね。私がよく焼いていた……」
話しているあいだ、メモリーの目はハンナの顔に据わったまま、瞬きが止まっている。唇だけが、遅れて動いた。
「……え? あの……いま、なんと、おっしゃいましたか?」
目の端で、イクネスの手が顎髭へ行く。隣のレイの顔は、動かない。それを見届けもせずに、アレアはアダルを振り返った。
「次は伯爵閣下、父であると告げて自己紹介してもらっていいですか?」
メモリーのすぐそばで、アダルが低く口を開く。
「メモリー。……私が、分かるか。其方の父、アダルだ」
アダルの顔に、メモリーの目がやはり据わって動かない。
「……ごめんなさい。いま……なんと……」
詫びのあとに、続く声は無かった。暖炉の薪が、小さく爆ぜる。ハンナが口元を押さえ、アダルは名乗りの先を続けない。
アレアが頼まなければ、二人がそれを口にすることも無かった。確かめるためとはいえ、届かないところを、家族の前で二度も見せたことになる。
それでも、アレアは実験をやめなかった。小さく息を吸い直して、隣のメモリーを見る。
「じゃあ、メモリー。俺は誰だ?」
メモリーの目がこちらへ動き、一度だけ瞬く。
「アレアさんです。私を、ここまで送り届けてくださった冒険者の方です」
淀みの無い答えだった。アレアは、そのまま次を訊く。
「レイは?」
メモリーの目が、アレアの向こうのレイへ移って、また瞬く。
「レイさんです。アレアさんと一緒に、私を守ってくださいました」
扉の脇では、年若い使用人が、黒い服の前で手を重ねて控えている。アレアは、そちらへ声を投げた。
「最後に、そこの使用人さん、メモリーと面識はある?」
不意に呼ばれて、使用人が組んだ手をきゅっと握る。
「いえ、ございません。私は二カ月前に勤め始めたばかりなので」
思ったとおりの答えに、アレアの声が少しだけ弾んだ。
「それなら、ちょうどいい。メモリーに自己紹介して貰えるか?」
使用人はおずおずと扉の脇を離れて、メモリーの前まで来る。
「か、かしこまりました。初めましてメモリー様、私はサマンサと申します」
メモリーはためらわずに会釈を返した。
「メモリーです。サマンサさん、よろしくお願いします」
門の前から引っかかっていたものが、そこでようやく、アレアの中で一つの形になった。
「やっぱりなぁ……」
隣で、レイが怪訝そうに眉をひそめる。
「アレア、いったい何がわかったっていうんだ?」
サマンサは扉の脇へ下がり、アダルもメモリーのそばを離れて、自分の椅子へ腰を下ろす。戸惑った顔が、どれもアレアに向いて、応接室が静まった。
集まった目の中で、アレアは言葉を選んだ。
「今、見てもらった通りメモリーは、俺やレイのことは分かる。今、初めて会ったサマンサさんのことも認識できているんです」
そこまで言って、アレアはアダルとハンナのほうへ顔を向ける。
「なのに、家族のことだけが、彼女に届いてない。……家族に繋がる情報だけが、弾かれてる。……いや、認識できていない、って言ったほうが正しいか」
顎髭に当てていた手を、イクネスが下ろした。
「認識できていない……確かに道中も似たような事があった」
その言葉に背を押されて、アレアはメモリーのほうへ体ごと向く。
「メモリー、実際、家族に関する話を聞いた時、どのように聞こえているんだ?」
メモリーは、自分の耳の奥を探るように、小さく首を傾げた。
「えっと……話している事は分かるのですが……ところどころ、頭の中でノイズのようなものが混ざって、そこだけ意味が分からなくなるんです……」
それで、アレアの中に残っていた迷いが消えた。家族のほうを見据えて、はっきりと告げる。
「これで確定したよ。これは、ただの記憶喪失じゃない。……呪いの一種だ」
隣で、レイの顔色が変わった。
「なっ!?」
イクネスが短く息を呑み、扉の脇でサマンサが小さく声を漏らす。アダルが椅子を軋ませた。
「呪いだと!? それは真か!?」
メモリーは、膝の上で重ねた自分の手に目を落としている。そこへ、ハンナの手が重なって、包むように握った。
「そんな……」
その二つの手を見てから、アレアはアダルへ答える。
「間違いないと思います」
ざわめきがまだ引かないなか、アレアは隣を見た。レイは目を伏せて、黙り込んでいる。
「……アレアの言うとおりなら、これは病でも、事故でもありません。何者かが、関与しています」
アダルの声が、低く落ちた。
「……何者か、だと」
膝の上で、アダルの拳が固く握られていく。
「誰だ。誰が、娘にこのような真似を……!」
その拳が、低いテーブルを打つ。ハンナの手に力がこもり、顔を伏せたままのメモリーの肩が、一度だけ跳ねた。アダルは、息も継がずに続ける。
「騎士たちを集めよ。ミフガンの隅々まで洗い出す」
イクネスの声も、つられて大きくなる。
「領主様、儂らも手を貸しますぞ」
そこで、隣のレイが目を上げた。
「伯爵閣下、お待ちください」
その一言で、熱くなりかけた部屋が止まる。レイの声は、アレアが聞いたこともないほど硬い。
「この件は、私どもが依頼としてお受けしております。……どうか、私どもにお任せいただけませんか」
洞窟の奥で見た、あってはならない黒い塊が、アレアの頭をよぎる。あのとき足りなかった確証は、もう揃っていた。騎士をいくら集めたところで、どうにかできる相手ではない。アダルへ向けて、アレアは深くうなずいた。
静まり返った応接室で、アダルはレイを見据えた。
「何故だ、当家の騎士を総動員して探せば、犯人を早く見つけ出す事が出来るであろう」
レイは、その視線を正面から受け止める。
「いえ、逆です。これが私どもの知っている者の犯行であれば、二次被害に繋がる可能性があります」
アダルが、わずかに目を細めた。
「其方らは犯人に心当たりがあるのか」
レイは短く口を引き結んでから、答える。
「はい。ですが、詳しくは、まだ申し上げられません」
イクネスも、もう口を挟まない。それ以上を、アダルは問わなかった。
「何か深い事情があるようだな」
包まれたメモリーの手から、アレアはまっすぐアダルへ目を上げる。
「俺からも、お願いします。……メモリーからの依頼も、まだ終わってないんで」
アダルはしばらく二人を代わる代わる見つめてから、テーブルの上で握っていた拳を、ゆっくりとほどいた。
「……分かった。其方らに任せよう」
握った手はそのままに、ハンナがアレアへ向き直る。
「これが呪いなら……解く方法は、あるのですか?」
あの言葉を家族に言わせ、届かないのを見せたのは、アレア自身だ。それなら、取り戻すのもアレアでなければならなかった。方法は、まだ何も分からない。アレアの目が、膝へ落ちる。
「……今は、分かりません。でも、俺達が必ずメモリーの記憶を取り戻します」
でも、と言ったところで上げた目は、もうハンナから逸れない。自分でも驚くほど、声は低く、揺れなかった。
ハンナの手の中で、メモリーの指がかすかに動き、その手を握り返す。そこで、部屋の空気がわずかに和らいだ。
椅子の上で、アダルが居住まいを正した。
「ならば、改めて依頼しよう。アレア殿、レイ殿。娘に掛けられた呪いを、調べてはもらえぬか。……報酬は、当家が出来る事であれば望むものを用意すると約束しよう」
思わず、アレアの腰がソファから浮く。
「もちろん! 任せろ! じゃなかった……任せてください!」
言い直しながら、慌てて座り直した。隣でレイが小さく息をつき、イクネスの口元にも、ずっと引っ込めていた笑いが少しだけ戻っている。
ハンナの手が、そっと離れていく。
「どうか……娘を、よろしくお願いします」
ハンナの頼みに場が落ち着くのを待ってから、レイが改めてアダルのほうを見た。
「伯爵閣下に一つだけお願いしたい事がございます」
アダルの目が、レイへ向く。
「申してみよ」
「ミフガン領内もしくは他領近辺に、メモリー様と同様に記憶を無くした者が居ないか、お調べいただけませんでしょうか。見つかった際は、私どもにもお知らせいただきたく存じます」
同様に記憶を無くした者、の一言で、レイが何を探そうとしているのか、アレアにはすぐに察しがついた。それをアダルの前で口にするつもりは、アレアにも無い。
アダルは、何を探すのかまでは訊かない。
「承知した。当家の者に調べさせよう」
レイが、静かに頭を下げる。
「感謝いたします」
張っていた肩から、誰からともなく力が抜けた所へ、扉を叩く音が響いた。一同の顔がそちらへ向き、そばに控えていたサマンサが、慌てて取っ手へ手を伸ばす。その手が掛かるより先に、扉は外から開いた。
指にはめた金の指輪と、腰に佩いた騎士剣の、傷ひとつ無い鞘だけが、ありふれた喪服の上で浮いていた。目尻を下げた笑みが、こちらを向いている。
扉の前に、喪服の青年が立っていた。
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