第六話「瘴気ノ残滓」
【あらすじ】
冒険者アレアと、相棒のレイ。記憶を失った令嬢メモリーを連れ、二人は彼女が目覚めたという洞窟へたどり着く。
入り口から漏れていたのは、黒紫の靄 ―― 極めて濃い瘴気だった。奥には、彼女が長く横たわっていた跡と、その先に在ってはならないものが在った。
二人は、その名を口にしない。―― 分からないまま、彼女を街へ連れて帰る。
答えを待たずに、アレアは歩き出していた。倒れた幹をまたぎ、切り株のあいだを抜けて、崖の足元へ向かう。前に出ていたメモリーの横を、レイが黙って追い越して、アレアの右に並ぶ。メモリーの足音が、半歩 遅れてついてきた。
一歩ごとに、空気が重くなっていく。倒れた木の切り口はまだ夕の橙を受けているのに、崖の足元だけは下生えが無く、黒い土が十歩ほど、入り口の前に広がっていた。転がった石のあいだを、何かが這っている。
黒紫の靄だった。
洞窟の入り口の縁から足首の高さで溢れ出して、風も無いのに動いている。三人のほうへ寄っては来ない。人の歩みより遅く、縁ばかりを波打たせて、外へ外へと広がっていく。匂いは無い。代わりに、頬へ冷たさが触れた。
右で、レイの足が止まる。
「……止まれ」
声と同時に、横から出た左腕がアレアの胸元に当たった。前へ出かけていた体が、その腕の上でつんのめる。
「うおっ、急に止まんなよ」
レイは腕を下ろさなかった。顔は入り口へ向いたまま、顎だけでそちらを指す。
「見ろ。洞窟から漏れてやがる」
靄の縁は、爪先の一歩 先まで来ている。入り口は二十歩ほど先で、その奥から黒紫が絶え間なく湧いてくる。
アレアは目を細めた。顔と手の甲に、目に見えないものが押しつけてくる。鳥肌の立つ、嫌な圧だ。それが入り口の向こうから、途切れずに来ている。
「……瘴気か。濃いな、これ」
半歩 後ろで、メモリーが繰り返す。
「しょう、き……?」
聞き慣れない語を、口の中で切って確かめている。アレアが肩越しに見ると、メモリーの目は靄からレイの横顔へ移っていく。
レイは振り向かずに答えた。
「魔物や穢れが澱んだもので、耐性の無い人間には身体に影響を及ぼすものです」
立っているだけで、喉の奥が焦げたように乾いていく。
「……っ、けほっ」
背後で、短い咳が鳴った。その音で、アレアの体が動く。振り返ったときには、もう一歩、メモリーへ寄っていた。メモリーは口元を手で押さえて、それでも入り口から目をそらしていない。
「メモリーにはこの濃さはつらいよな、こっちおいで」
「私は、大丈夫です」
押さえた手の下から、声だけを張っている。その場からは、動かない。
「大丈夫な奴は咳き込んだりしねーよ」
アレアは笑って手招きをした。澱んだ空気の中で、その声ひとつが軽い。
「…………」
メモリーは眉を寄せて、一歩、寄ってくる。押さえた手は、口元から下りない。
「動くなよ。すぐ済むから」
一歩の距離で向かい合い、アレアは右手の人差し指を一本、目の高さに立てた。メモリーの目を見たまま、唱える。
「光よ、汚れを知らぬ清かなる者よ。この者を包み、病を閉ざせ ―― 病封」
唱え終わると同時に、メモリーの足元から銀白に近い淡い光が立ち上がった。一息で頭まで包み、地を這う靄を白く浮かせて、アレアの頬にも熱の無い明るさを当てる。音は無い。包み切ったあとは薄れて、肌の上にうっすらと膜だけを残した。
光が薄れるのを待って、メモリーは押さえていた右手を下ろした。目を閉じずに、その手の甲を見る。そこに、薄い光が乗っている。
「……あたたかい……アレアさんこれは?」
立てていた指を、アレアは下ろす。
「異常耐性を一時的に向上させる保護魔法だよ」
「ありがとうございます」
アレアは入り口へ向き直った。
「これで平気だ。俺の後ろから離れるなよ」
横で、レイの肩が前へ出る。
「入るぞ。警戒を緩めるなよ」
並んでいた背中が入り口へ向かい、アレア、メモリーの順で、一列になった。
*
入り口をくぐると、夕の光は背中の側にだけ残った。
天井は手を伸ばせば届く高さで、壁は湿った岩である。足首の高さで這う靄は外と同じだが、ここでは壁にも薄く貼りついていて、奥へ行くほど濃い。三人が横に並べた入り口の幅は、進むにつれて二人分に狭まっていく。空気は外より重く、湿った土を踏む靴の音が、壁に鈍く返る。
二十歩、アレアはレイの背を追う。入り口から届いていた光が、そこで尽きた。その先は靄が薄く光を返して、壁と床の輪郭しか見えない。
後ろで、足音が一つ止まった。
「……私は、ここで目が覚めました」
平らで、小さい声だった。アレアが振り返ると、メモリーは光の尽きる境目に立っていて、顔の半分を影に沈めている。震えは、無い。
アレアの目が、自分の足元へ落ちる。通り過ぎかけていた右の壁際に、草を敷いた跡が残っていた。
枯れて茶色になった草が人ひとりぶんの長さに敷かれ、その上に、元の色が消えた布の切れ端が二つ三つ、散っている。人が長く横たわっていた形のまま、崩れていない。
跡を、アレアは立って見下ろす。
「……誰が、こんなとこに」
ここへ運んできた誰かが、頭に浮かぶ。顔は、浮かばなかった。
止まらないのはレイで、跡を見もせずに先の暗がりへ目を据えて、顎で奥を指す。
「……奥だ」
顎の先の暗がりへ、アレアは目を上げた。
跡から十歩ほど先、洞窟の突き当たりの床に、黒い塊が蟠っている。人がうずくまったほどの大きさで、丸い。薄く光を返す靄の中で、そこだけが光を返さず、縁の靄がわずかに明るいぶん、中心へ行くほど黒が深い。
脈は打たない。動かない。音も、匂いも無い。ただ縁から、靄が休みなく這い出している。外まで広がっていた瘴気は、この一つの塊から出ていた。
五歩 手前で、アレアの足が止まる。
「レイ。これ……」
塊を見たまま言った声が、途中で落ちる。胸の奥で鼓動が一つ大きく鳴った。あってはいけないものが、そこに在る。
「…………」
横目に見たレイは答えない。塊に据えた目が細く、柄にかけていない右手だけが、握られている。
「なぁ、これって」
「言うな」
声を殺して、塊から目を動かさずに、レイの返事はそれで終わった。
「…………」
言いかけた語が、アレアの喉で止まった。レイも同じものを見ている。だから、続きは要らなかった。
二人の間へ、後ろのメモリーが半歩 出てくる。
「何でしょうか……これ。私が目覚めた時こんなものはなかったのですが……」
「それは確かなのか!?」
気づいたときには、片手でメモリーの肩を掴んでいた。
「は、はい! 目覚めた時、あたりを見渡したので……」
肩の下で、体が一度 縮む。目はアレアを離れない。
「まずいなぁ……」
レイの眉が寄り、塊を見つめる顔が曇る。アレアは掴んだ肩を放した。
「お二人とも、何か ご存じなのですか?」
言葉は丁寧なまま、目がレイへ移る。
「俺達もまだ確証があるわけではないんです。だから、事実を確かめてから話します」
レイはメモリーへ顔を向けずに言う。
「そうですか……わかりました」
目は伏せず、口だけが閉じた。
アレアは、塊へ向き直った。
「……ったく、これ……置いていく訳にもいかねーよなぁ」
「やる気か」
「こんなもん残してったら、この森が死んだままだろ」
右手を塊へ向けて、胸の高さに開く。五歩の距離は詰めない。掌の向こうの塊は、黒いままである。細剣は腰に下げておき、空いた左手を後ろへ払って、二人を下がらせた。声は無い。三歩ぶん、足音が退く。
掌を向けた瞬間、洞窟の靄が手のほうへわずかに寄った。あたりが、さらに静まる。
「アレアさんはいったい何を……」
背後から、問う声が来る。答えたのはレイで、アレアの背を見ていて、メモリーへは顔を向けない。
「この一帯の瘴気を浄化します」
「浄化できるのですか?」
「はい。メモリー様、今から見るものはどうかご内密にお願いします」
口止めの声が、壁に低く返る。
「はい。わかりました」
その声を最後に、背中の側から音が消えた。
右の掌を塊へ差し出して、アレアは一節目を唱えた。
「巡れ、世界を巡るものよ」
一語ずつ、丁寧に紡ぐ声である。声は壁に返って幾重にも重なり、洞窟の奥から入り口まで満ちていった。足元に、光の輪が開く。見たことのない文字が輪の中に幾重にも並んで、アレアをその中に立たせていた。
洞窟中の靄が、いっせいに動き出した。壁に貼りついていた靄も、床を這っていた靄も剥がれて宙に浮き、塊を中心にした大きな渦になって、ゆっくりと右回りに回る。
アレアは、目を閉じた。
「澱みを解き、常なる姿へ返せ……万象は、この手の内にあらず」
まぶたの裏でも、足元の光は消えない。掌には、渦が塊へ吸われていく重さが伝わってくる。声だけが、一語ずつ、洞窟に落ちていった。
「調べを合わせ、常へと還れ」
ゆっくりと、目を開く。靄は一筋残らず塊の中へ吸われていて、靄の無くなった壁と床に入り口の夕日が差し込み、暗かった奥まで見えている。塊は膨らまず、黒さだけが濃くなっていた。
「―― 万象調律」
最後の一語は、静かに、はっきりと呟いた。
真っ黒な塊の真ん中に、緑の光が一点 点る。光は塊の表面へ広がって黒を塗り替え、塊と同じ大きさの、新緑の色に光る玉になった。
玉が、床を離れる。浮いたと見えた次の瞬間には燕ほどの速さで頭上を掠め、顔を一瞬 緑に照らして、入り口の外へ飛び出していった。
振り向いたときには、メモリーがもう駆け出していた。脇を抜けて入り口へ向かう背中を、レイと二人で追う。
入り口に、三人で立った。アレアだけが二歩 前へ出て、空を見上げる。レイとメモリーは、入り口に並んで残った。倒れた木々の上に開けた空は、夕日の橙に染まっている。玉はその空の、立ち木よりずっと高いところまで昇って、そこで弾けた。鈴を割ったような高い音が、一つ。短く澄んだ音で、消えたあとも耳の奥に残る。
弾けた光は、無数の緑の粒になった。粒は赤い空の中を、粉雪ほどの遅さで森へ降ってくる。枯れた枝や倒れた幹、茶色く伏せた下生えの上に落ちて、そこで消える。あとには、小さな芽が出ている。芽は見る間に蕾をつけ、葉を開き、枯れ木の先から順に、森が薄い緑に染まっていった。長い冬が明けたように、森が息を吹き返していく。
アレアは掌を上に向けて、降ってくる粒を一つ受けた。粒は掌の上で溶けて無くなり、それを見て、アレアは笑う。森を見る目は、いつくしむようにやわらかい。夕日と緑の粒に包まれて立つその姿は、古い絵物語の一枚 ―― 森の精に祝福を受ける旅人の絵から、抜け出てきたようだった。
メモリーが、息を呑む。
「……きれい」
その声に、アレアは二人のほうへ振り向いた。メモリーは空を見上げていて、その隣のレイは、森ではなくアレアへ顔を向けている。眉を寄せ、何かを飲み込むように口を結んだ顔だった。その口が、小さく動く。
「アレア……お前はいったい……」
その声は、アレアには届いていない。押し殺した低さで、隣のメモリーの耳に、切れ端だけが触れた。
「レイさん……?」
見上げたメモリーの顔には、聞き取れなかった戸惑いが残っている。レイは目を森へ戻して、口を閉じた。何を言ったのかとは、訊かなかった。
両腕を上げて、大きく伸びを一つ。緑に染まった森を見渡して、アレアはいつもの調子で言った。
「よし。これで、じきに戻るだろ」
語尾の伸びた、軽い声である。メモリーの肩から、力が抜けるのが見えた。
レイが、背を向けた。
「……早く森を抜けるぞ」
言うなり、歩き出す。日は傾き切って、崖の足元に残った光は赤い。入り口の前の靄は、もう無かった。メモリーが続き、アレアが最後に入り口を離れる。振り返りは、しなかった。
*
裂けた岩の前は木が薄く、頭の上に赤い空が開けている。岩に背を預けて座っていた三つの外套が、足音を聞きつけて立ち上がった。荷馬車は木の脇に寄せてあり、その馬とメモリーの鞍馬が、並んで木に繋がれている。火は、焚かれていない。森の奥からは、折れた木の匂いがまだ届いている。
メモリーを見つけるなり、イクネスは二歩 駆け寄りかけて、そこで足を止める。
「メモリー様! ご無事ですか」
メモリーは、岩の手前で立ち止まった。
「はい。ご心配をおかけしてすみません」
イクネスは、心配の抜け切らない顔で、メモリーを頭から足まで見た。それから長い息を一つ吐く。
「よかった……本当に、よかった」
安堵の声だが、顔はまだゆるまない。三人は岩へ向いて並んだ。真ん中にメモリー、その左にアレア、右にレイが半歩 後ろで、大剣は、まだ背にある。外套の二人は、イクネスの後ろで馬の脇に立っていた。
「おっちゃん、ちゃんと待ってたな。偉い偉い」
肩の高さで、右手をひらひらと払う。撫でも叩きもしない、軽い手だった。
「あんちゃん、儂を子ども扱いするんじゃない」
言い返す声に、ようやく笑いが混じる。
外套の一人が、声を出さずにメモリーの裾を指で示した。足首から膝まで、蔓の青い汁が筋になって乾いている。背中と髪には、土。
イクネスの表情が、仕事の顔に変わった。
「その汚れは……それにここまで凄い音が届いておったが、何があったんだ」
答えたのは、その半歩 後ろのレイである。
「マンイーターに捕まった時のものだ。アレアがすぐ助け出したから、怪我はない」
そこからレイは、森の奥で起きたことを短く話した。魔物の群れに囲まれたこと、それを一度に薙ぎ払ったこと、その先でマンイーターに捕まったメモリーを、アレアが助け出したこと。洞窟の話は、まだ出さない。
「マンイーター……あの数の魔物の中で、二人でかね」
アレアが、肩をすくめる。
「まぁな。魔物の殆どはレイが片付けて、その音はその時だな。とんでもない、数だったし、おっちゃん達を帰して正解だった」
「……そうか。すまんな」
イクネスは、頭を下げた。
「やめろって。頭 下げられるの、慣れてねーんだよ」
アレアは目をそらして、赤い空のほうを見た。
「―― さて。それで、メモリー様が目覚めたという洞窟は、見つかったのかね」
イクネスの背筋が伸びて、顔つきが改まる。後ろに立つ外套の二人も、馬の脇で口を閉じる。仕事の話に入ったのだと、誰の目にも分かる切り替えだった。
「あぁ、それなら見つけた」
「何があったんだ」
「……瘴気だよ。すげぇ濃いのが、中から発生していた」
答えの頭に、短い間が付いた。浄化のことだけを抜いて話すために、アレアが言葉を選んだ間である。
「瘴気だと!? メモリー様は、ご無事なのか!」
顔から血の気が引き、目がメモリーへ飛ぶ。イクネスは頭から足までもう一度なぞるように見て、それから、目をアレアに戻した。
レイが答える。メモリーの斜め後ろからである。
「アレアが守りの魔法をかけた。影響はない」
「……そうか。恩に着る」
息を一つ吐いて、イクネスの肩が下りる。
アレアは、森の奥へ顎を向けた。
「ここ一帯の魔物の出現率が異常だったのは、あの瘴気のせいだろうな」
「それなら、神殿に報告せねばならんな」
その声には、当然の段取りを口にする軽さがあった。それを、レイが遮る。
「報告は不要だ」
たった一言で、イクネスに向けて言い切り、それきり目を来た道の奥へ外した。洞窟の在るほうである。続きを言う気が無いことは、その目の向きだけで分かった。
メモリーが、イクネスへ口を開きかける。左隣のアレアの横顔を見て、開きかけた口を閉じた。目は、まだアレアに残っている。
三人とも、それきり黙った。岩の前が、洞窟の中と同じ静けさになる。木の脇で馬が鼻を鳴らし、外套の二人が顔を見合わせた。
「……どういう事だ? 瘴気の発生なら一大事だぞ」
イクネスの眉が寄り、声が硬くなる。
口止めの続きである。アレアはそう受け取って驚かず、レイのほうも見ずに、自分で引き受けた。
「心配すんな、瘴気の発生源は壊しておいた、じきに瘴気は収まるはずだ」
声は軽いままで、ただ笑ってはいない。
「そうかい。あんちゃんがそう言うなら……」
イクネスは顎を引いた。引きはしたが、寄った眉は戻らない。
言い終わらないイクネスの声を、アレアが引き取った。
「おっちゃん。一つ、わかった事がある」
メモリーのほうは見ない。イクネスだけを見て言う。
「なんだ」
「メモリーの記憶が戻らねぇのは、ただの怪我や病気じゃねぇのかもしれない」
頭の中に在るのは、二つきりである。あの黒い塊と、その傍で目を覚ましたメモリー。並べただけで、その先へは繋げない。
「……根が、深いということかね」
イクネスの視線が、メモリーへ移る。岩の前の空気が、冒険者の報告から依頼人の話へ、重さを変えた。
レイが、奥を向いたまま言う。
「まだ確証はない。だが、そう思って動いたほうがいい」
自分に言い聞かせる一言にも聞こえた。重さが、それで一段 抜ける。イクネスはその横顔を見て聞き、それからまたメモリーへ目を戻した。
「…………」
左右の二人の間を抜けて、メモリーが一歩 前へ出る。イクネスを、真っ直ぐに見た。
「イクネスさん。心配しないでください」
声に、迷いが無い。
「……はい。メモリー様が、そう仰るなら」
イクネスの頭が、深く下がった。顔を上げると鞍馬へ歩み寄って手綱を解き、鐙に足をかけるメモリーに手を添える。鞍の上に、亜麻色の髪が戻った。
一行は、森を歩き出した。先頭はイクネスで、鞍馬の手綱を握っている。捜索隊の一人が荷馬車の御者台に、もう一人がその脇に付き、荷馬車のあとには、アレアとレイが付いた。
進むにつれて木が薄くなり、茶色い下生えのあいだに、緑の粒が残っているのが見える。もう光ってはいない。枝の先の小さな緑は、まだ在る。誰も、それを口にしない。木々の切れ目から、光が差し込んでくる。
「お、抜けるぞ」
最後の木を過ぎると、足元が緩い下りになった。街道が一本、その下りをなだらかに降りて、遠くまで延びている。歩けば半刻はかかる先に、街があった。低い石の壁に囲まれ、門の上に灯が一つ点いている。屋根の連なりの向こうで、空は赤から藍へ変わりかけていた。日は、街の向こうへ沈んでいく。街は影になって、門の灯だけが浮いて見えた。壁の端から端まで、両手を広げたほどの小ささである。
「あれが……」
鞍の上の声で、イクネスの手綱が止まる。一行が、止まった。
イクネスは馬上の顔を見上げてから、街を指す。
「ミフガンです。メモリー様の、お帰りになる場所ですよ」
アレアは荷馬車の右脇を抜けて、馬の右斜め後ろへ二歩 出た。そこから、鞍の上の横顔が見える。荷馬車の後ろに残ったレイは、街ではなくメモリーを見ていた。
帰る場所、という語が、耳に残っている。
口は「あれが」の形のまま、半分 開いている。亜麻色の髪の縁が、藍と橙の逆光に光っていた。メモリーは、瞬きもせずに、その街を見ていた。
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