第五話「森の異変」
【あらすじ】
冒険者アレアと、相棒のレイ。記憶を失った令嬢メモリーを連れ、二人は捜索隊とともに、彼女が見つかった森へ入る。
森は、静かすぎた。鳥も、虫も鳴かない。落ち葉を踏む自分たちの足音だけが、やけに大きい。
奥に居るものの気配を読んだアレアは、捜索隊をここで帰すと決める。三人だけで、森の奥へ。
落ち葉を踏む自分たちの足音だけが、やけに大きい。
裂けた岩を越えてから、道は細くなっていた。傾いた日が木の影を長く引いて、道の半分はもう影に沈んでいる。アレアはその境目を踏んで先を歩き、すぐ後ろでは、レイの引く手綱にメモリーの馬がゆっくりついてくる。少し離れてイクネスと捜索隊の二人が続き、振り返れば、さっき通った岩がまだ木の間に見えていた。
秋の森だというのに、色づいた葉がどこにも無い。枝に残っているのは枯れて縮んだ葉ばかりで、下生えは茶色く伏せたまま、道の両側に広がっている。
背後で、蹄の音が途切れた。手綱を引いていたレイが立ち止まり、行き場を失ったメモリーの馬が、首を引かれている。アレアは足を止めて振り返った。
レイは道の先ではなく、木の奥を見ている。鞍の上のメモリーが、その横顔を見下ろしていた。
「森の様子がおかしい……」
「どうかしたのか?」
アレアには、道が細くなったこと以外に、変わったものが見えていない。レイの目は、そこから動かなかった。
「森の奥だぞ? あまりにも生き物の気配が無さ過ぎる」
後ろからイクネスが追いついてきて、日に焼けた顔が、レイと同じほうへ向く。
「確かに変だな……」
言われて、アレアも耳を澄ませた。鳥が鳴かない。虫の音も無い。枝に残った枯れ葉は一枚も揺れず、木立の奥からは、何ひとつ返ってこない。この森で音を立てているのは、自分たちだけである。
「そうか? 気にし過ぎなんじゃ……なっ!?」
軽く返した声が、途中で切れる。歩き出しかけた足がそこで止まり、目を見開いたまま、顔だけが木の奥へ向いていた。
その目に映る暗がりの上へ、小さな赤い灯がいくつも重なって見えた。木の幹も、その向こうの下生えも透けて、灯ばかりが前方の奥に散らばっている。
灯は、見ているそばから増えていく。ひとつが灯れば隣にもうひとつ、そのまた奥にひとつ。アレアは途中で、数を追うのを諦めた。背中に、冷たいものが走った。
「アレア、どうした!?」
レイが大剣の柄に手をかけ、アレアの視線の先を追う。その目は枯れた下生えの茶色の上を一度なぞって、アレアへ戻ってきた。灯は、アレアの目にしか映っていない。
(まずいな……この気配の数は……)
アレアは奥歯を噛んで、顎を引いた。鼻から息を一つ吐く。
「アレアさん?」
鞍の上から、メモリーの声が落ちてくる。眉を寄せて、アレアの顔から目を離さない。影に沈んだ道の上で、動いているものが他に無かった。
「もしかして何か感じたのか?」
アレアは答えるより先に、真剣な表情で後ろの捜索隊へ体ごと向き直った。捜索隊の二人が、その顔を見て背筋を伸ばす。
「あぁ……おっちゃん達は今すぐさっきの裂けた岩まで引き返せ」
いつもの軽い調子が、声からすっかり抜けている。言い終える前に、アレアは木の奥へもう一度 顔を向けた。
「何故だ!? 儂らが戻ったら、メモリー様を誰が守るんだ!!」
イクネスが一歩 前へ出て、その勢いのまま馬の横まで来る。焼けた顔に血が上り、開いた手が、メモリーの鞍のほうへ伸びかけている。
「この先はおっちゃん達には荷が重いと思うぞ……魔物の数はさっきのゴブリンとは比較にならないんだ」
灯の数は、まだ増えている。この数を相手にして、捜索隊まで守り切れる自信は、アレアには無かった。
「儂らは足手まといになるということかね」
イクネスの声から勢いが落ちて、伸びかけていた手が下りる。
「アレアが言うなら、それは事実だ。あんたらは引き返した方が良い」
レイは大剣の柄から手を離さずに言った。
「だが、メモリー様はどうするんだ!?」
「安心しろ。俺達が守る」
「そうだぜ、おっちゃん! メモリーは俺達に任せろ!」
言いながら、アレアはにっと笑って、腰の細剣の柄を掌で叩いた。イクネスを安心させる手が、それしか無い。
「そうか……わかった。メモリー様を頼んだぞ」
イクネスは口を固く結び、悔しさを顔に残したまま、顎を引くほどの短い一礼をアレアとレイへ向けた。それから目は馬上のメモリーへ上がって、下がらなかった。
メモリーが、鞍から自分で降りる。地面に足がつくのを待って、レイは手綱をイクネスへ渡す。イクネスは受け取った手綱を握り直し、もう何も言わなかった。
三つの外套と一頭の馬が、来た道を裂けた岩のほうへ戻っていく。傾いた日が、その影を道の上に長く引いている。木の間に入る手前で、イクネスが一度だけ振り返り、また前を向いて行く。
アレアはその背中を見送った。見えなくなるのを待たずに、目はもう木の奥の灯へ戻っている。
「それじゃ、先に進もうか」
「メモリー様、俺達の傍から離れないように」
「は、はい!」
声が上ずって、メモリーは返事のあとで小さく息を吸った。二人の間へ、小走りに寄ってくる。
三人は、細くなった道を奥へ進んだ。進むほどに木の間が詰まり、道に残っていた日の色が、影に埋められていく。アレアは細剣の柄に手を添えたまま先を行き、レイは肩の大剣に手を回したまま後ろにつき、メモリーをその間に挟んだ。アレアは、灯の増える先から目を離さなかった。
*
木が詰まって、五歩先が見えない。枝と枝が頭の上で重なり、道と呼べるものは足元の細い土だけになっていた。
その土の先で、下生えが割れた。
濡れた黒い毛が目の高さまで跳び上がり、開いた口の牙がアレアの喉を狙ってくる。横から入った細剣が、跳んだ勢いごと胴を裂いた。落ちた体をまたいだときには、次の一頭がもう草を割って出ている。
二頭目を斬り伏せたところで、その後ろの茂みが低く揺れた。灰緑の肌の低い背が、いくつも同時に起き上がる。背丈は人の子ほどしかない。欠けた刃物と棍棒を振り、甲高い声を上げながら、幹の陰から溢れてきた。
アレアはレイの三歩ほど前に立ち、来るものを片端から細剣で切る。切った先に道は開くのに、その一歩を踏み出す間が無い。倒しても倒しても、下生えの向こうから次が出てくる。二十を越えてからは、もう勘定に入れていなかった。
後ろでは、レイがメモリーを背にして一歩も動かず、正面へ来るものだけを大剣で払っている。払うたびに、悪態が一つ増えた。
足元は、もう踏み場が無い。倒れたワーグとゴブリンの体が重なり、暗い赤の血が土を黒く染めている。
「クソ……次から次へと湧いて出て来やがる!」
「レイ! メモリーをちゃんと守れよ!!」
牙を向けてきた一頭を斬り落としながら、アレアは背中へ叫んだ。背後では、大剣が肉を断つ音が休みなく鳴っている。
「アレア! いったい、どれくらい居るんだ!」
灯の数なら、とうに分かっている。答える前に、細剣がもう一匹を突き倒した。
「えーっと……聞かない方がいいぞ?」
困った顔で笑って言うと、背中の声が一段 荒くなった。
「クソが! イライラする!! アレア!!」
苛立ちが底を抜けた声で、名を呼ばれる。アレアには、その次に何が来るかが分かっていた。
「これはまずいなぁ……あーはいはい。わかってるって! メモリー、ちとこっちにおいで」
ぼやくような声で言いながら、アレアは肩をすくめた。視線だけを背中へ流すと、レイの大剣の振りが、さっきより大きくなっている。
目の前の一匹を斬り捨て、その隙に、アレアは前から下がった。レイの背後まで戻ると、そこに居るメモリーの手首を取る。細い手首だった。そのまま来た道のほうへ、数歩ぶん引いていく。
「えっ、でもレイさんが……」
顔はレイのほうへ向いたまま、足だけがアレアに引かれてついてくる。
「いいのいいの、今のレイは危ないから俺と一緒に避難しよう」
言いながら、アレアは苦笑いした。レイは正面の魔物を払い続けていて、こちらへは目もくれない。払うたびに、赤い髪が木立の中で揺れる。
「えっ?」
不思議そうに見上げてくる顔に、アレアは返事をしなかった。木の陰から見えるのは、赤い髪と大剣の先ばかりである。苦笑いが引くのと、目がレイへ戻るのが同時だった。
「ふぅ……纏めて駆逐してやる!!」
声は聞こえたが、そのあとの息は聞こえなかった。立ち木の向こうで、レイの肩が下がり、切っ先が地面へ向く。それだけのことで、レイの周りにあった魔物の声が、一瞬 遠くなった。
首だけが、群れの端へ振れる。横顔の目が細く、殺気がそのまま顔に出ていた。
大剣を肩へ担ぎ直し、腰を落とす。両手で柄を握り込み、右の足を半歩 引いて、体ごと右へ捻った。
刃が、深い紅の闘気に覆われていく。髪と同じ色の闘気が刀身の先へ伸び、枝の高さを越える長さになっても、まだ伸びる。伸びたぶん、空気が唸った。
「退魔裂斬陣!!」
右から左へ、横薙ぎに一閃。紅の闘気が帯になって前方へ広がり、扇の形に木立を薙いでいく。レイの足は、その場を一歩も離れていない。
斬撃が通った先で、まず手前の木が扇の外側へ倒れた。次の木、その次の木と、倒れる音が奥へ向かって続いていく。腰の高さで切り揃えられた幹は、数えても二十本を下らない。魔物は斬撃に触れたものから順に扇の外へ吹き飛ばされて、視界から無くなっていく。最後の一本が倒れ切ったところで、幹の間から空が見えた。
橙だった。五十歩ほど先まで、立っているものが何も無い。倒れた幹の切り口が、夕の色を受けて赤く光っている。
何も聞こえない。
アレアが見ていたのは、伸びた刀身ではなく、レイの背中だった。次に、倒れた木。そして、空。
「……えっ」
メモリーの口から出たのは、それきりだった。
「おい! レイ!! これはやり過ぎだろ!!」
静けさを破ったのは、アレアの声だった。メモリーを置いた木の陰から、レイの背中へ歩み寄る。眉が吊り上がって、声は、まだ落ちていない。
「なんだよ」
呼ばれて振り返ったレイの返事は、短く、平らだった。眉一つ動かさずに大剣を担ぎ直し、アレアの顔を見ている。刀身を覆っていた紅の闘気は、もう消えていた。
「なんだよ。じゃねーよ!! 前見てみろ!! 森がめちゃくちゃじゃねーかよ!!」
一歩 詰めて、レイの向こうに広がる倒れた木を、腕ごと振って指す。口を尖らせた顔は、声ばかりが大きくて、熱くはなっていない。怒りは、レイではなく森のほうを向いていた。
「魔物も一掃できて、視界も良くなったな」
レイは肩越しに、指された木を見た。間を置かずに返ってきた声に合わせて、口元は緩まない。詰めたぶんだけ、レイが引く気配も無い。木の陰のメモリーは、そこから一歩も出ずに二人を見ている。口は開いたままで、声はまだ出てこない。
「ざけんなよ! 俺にはよく状況見て判断しろって言うくせにお前はいいのかよ!」
語尾が跳ねて、指していた手が、今度はレイの胸のあたりを指した。レイの目が木からアレアへ戻り、その顔に、呆れとも退屈ともつかない薄い色が残っている。
「こっちの方が効率的だろ」
声は、最初の「なんだよ」と同じ高さのままだった。言い返す息を、アレアは吸う。
「こいつ……って、なんだこの甘い匂い……」
言葉が、途中で鼻に負けた。吸った息の中に、熟れた果実の甘さがある。開けた場所の明るさに乗って、それは倒れた木の向こうから流れてきていた。頭の芯がゆるんで、足が重い。まぶたが、下がりかける。
「この匂いは……お前ら、口を塞げ! これを嗅ぐんじゃねーぞ!」
レイの声で、アレアは息を止めた。袖で口を覆うと、下がりかけていたまぶたが元へ戻る。
「きゃぁぁああああ!!」
悲鳴は、背後から来た。振り返ると、木の陰で、メモリーの足首に蔓が巻きついている。引き倒された体が、そのまま逆さに引き上げられていった。蔓は立ち木の間を通って、扇の縁のほうから伸びている。
「しまった! メモリ!!」
縁に、それは初めから生えていた。人の背丈を越える、虫食いの葉。枯れた森と同じ茶で、立ち木の間に紛れている。茎の上、人の背丈ほどの高さに口が開いていた。口の中は暗い赤で、歯は無く、縁が波打っている。同じものが、三歩ほど離れて、もう一体。
「あれはマンイーター!? この甘い香りはあいつらが出しているものだ! それには催眠効果があるから……」
レイは大剣を蔓へ向けて構えたまま、踏み込めずにいる。二体の口は離れていて、大剣の一振りでは片方にしか届かない。説明は、その足踏みの間に出ていた。
「言ってる場合かよ!!」
言い切るより早く、アレアは走り出していた。袖から口を離し、土を蹴って、逆さのメモリーへ一直線に向かう。
「アレア、どうする気だ!」
背中を追ってきたレイの声は、上ずっていた。飛び出すとは読んでいなかった声である。逆さのメモリーが、開いた口のほうへ引き寄せられていく。
「アレアさん! レイさん!!」
口の手前まで運ばれたメモリーが、逆さに吊られて、二人のほうへ両手を差し出していた。走りながら、アレアは剣先を蔓の根元へ向ける。
「コレを吹き飛ばせばいいんだろ! 突風!!」
刃は、見えない。切っ先の向こうで蔓が切れ、縁の葉が一斉に裏返る。追いついた突風が葉を鳴らし、甘い香りごと森の奥へ吹き飛ばしていく。
蔓を失った体が落ち始めるまでの間に、アレアは二体の間へ踏み込み、一振りで両方の茎を口の下から横に薙いで、その足で落下点へ滑り込んだ。葉ごと二つに割れた口が、切り口から青い汁を垂らして、閉じないまま外側へ倒れていく。
短い悲鳴を上げながら頭から落ちてきた体を、両腕で抱き止める。細剣は、腕の内側に抱えてある。自分の背丈より高い所から落ちてきたのに、軽い。
「メモリー!! 大丈夫か?」
腕の中の顔を見る。
「はい……ありがとうございます」
血の気の引いた顔で、それでも目は逸らさずにアレアを見上げている。震えの残る口元を、笑いの形に結び直した。
レイは大剣を構えたきり、割り込む間が無かった。構えを解いて、こちらへ駆け寄ってくる。
「メモリー様、お怪我は?」
「大丈夫です」
言って、メモリーは自分から腕を降りた。その足が地面につくのを見て、アレアの息が抜ける。香りが消えて頭の芯が戻り、枯れた森の澱んだ空気が、また鼻に戻ってきていた。
レイが怪我を確かめている間に、アレアの目は開けた場所を見回し始めていた。息が抜けたそのときに、視線が倒れた木々の先まで届く。
なぎ倒された木々の向こうで、地面がせり上がっている。残った立ち木より高い灰色の崖が、百歩ほど向こうに立っていた。三人の背丈を三つ重ねたほどの岩肌に、黒い口が一つ開いている。人が立ったまま入れる高さで、その口の周りだけ、下生えが無い。
森の奥のほう。暗くて、湿っていて。今日 聞いたばかりの言葉が、その黒い口に重なった。
アレアの目が止まったのを追って、レイとメモリーも同じ方向を見る。メモリーだけが、一歩 前へ出た。
「おい、二人とも。あれ、メモリーが言っていた洞窟じゃないか?」
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