第四話「私を探して」
【あらすじ】
冒険者アレアと、相棒のレイ。二人が引き受けた依頼人は、記憶を失ったまま森で保護された、ミフガン伯爵家の令嬢だった。
四か月 探し続けた捜索隊が、朝の応接室で、ようやく彼女の前に立つ。
昼には、ミフガンへ向けて発つことになる。―― 彼女が助けられた、あの森を通って。
椅子の背から手の離れる音が、横で鳴った。
外套の裾が視界の端で揺れて、目を合わせたまま動けずにいたアレアの前を、イクネスが二歩で横切ってメモリーの横に立つ。日に焼けた顔が、正面から彼女を見下ろしている。扉を向いて待つあいだ一歩も動かなかったイクネスが、体ごと動いていた。
「おお ―― 間違いねぇな。メモリー・ミフガン様だ」
低い声が、飾りの無い石の壁に一度 当たって返ってくる。四か月ぶんが、その一言に乗っている。
アレアは、座ったまま見上げていた。
(あの子が……メモリーさん……)
耳で聞いた名前と、目の前に立っている人が、まだ結びつかない。
名を向けられたメモリーの口が先に開いて、音が遅れる。下がっていた手がワンピースの布を握り、視線はイクネスからアレアへ泳いで、また戻ってくる。目は、伏せていない。
「あの……えっと……私……」
イクネスの顔から、勢いが抜ける。
「……すまんな。記憶が、無いんだったか」
誰も、口を開かなかった。
布を握った手が下がり、顔だけがイクネスへ向いている。眉は寄っているのに、目は逸れていない。
「ごめんなさい……私……自分の事も思い出せなくて……その名前が自分の名前なのかどうかも、わかりません」
「それもそうだ、まず、儂はイクネス」
イクネスが一度 言葉を切って、メモリーの目の高さまで腰を落とす。
「四か月前に失踪したメモリー様を捜索するよう依頼された捜索隊の頭だ……お父上も、奥方も、待っておられる。儂らとミフガンに帰りましょう」
言い終えてから、イクネスは深く頭を下げる。刈った髪の下の首筋まで、日に焼けている。
「…………」
メモリーは、返事をしない。困った顔でもなく、ただ言葉が出てこないだけの顔で、頭を下げたままのイクネスを見ている。
頭を上げたイクネスの目が、握ったままの手に落ちる。労わるような声で、名を呼んだ。
「メモリー様…」
結ばれていたメモリーの唇が、開く。
「……ごめんなさい。何も覚えていません…」
壁際の外套が二つ、身じろぎもしない。エレナは帳面を抱えたまま、息を殺している。
「……いや、謝ることじゃねぇだろ」
口を挟んだのは、アレアだった。
「……心配してくださっているのに…私は何も…」
声は小さい。だが語尾は下がらず、目はアレアから逸れない。
言いかけた口が閉じて、目だけが彼女に残る。アレアは顔だけを上げて見ていた。返す言葉が、無い。
隣のレイが、話を段取りへ戻す。
「それで、いつ頃に出発できるんだ?」
イクネスが、即答した。
「昼頃には準備が整うはずだ」
「なら、俺達も準備するぞアレア……ここで座っていても、何も変わらん」
立てかけていた大剣へ手を伸ばして、レイの腰が椅子から上がりかける。その腕を、アレアは座ったまま掴んだ。
「レイ、ちょっと待って…」
レイの目が、掴んでいる手へ落ちる。こんな止め方をされたのは、初めてだった。
「アレア?」
腰を上げかけたまま、レイの体が途中で止まる。
腹の底が、落ち着かなかった。この人の行き先を、この人以外の全員が決めている。
アレアは椅子から腰を浮かせて卓の角を回り、メモリーの前で少しだけ屈んだ。
「ねぇ、君もそれでいいかな?」
布を握っていた手が離れて、メモリーの顔が上がる。
「はい…」
アレアは笑顔を見せる。難しい話をしているつもりは無い顔で、声の調子も、さっきまでより軽い。困らせないための軽さだった。
「記憶が無いのは怖いよな…気持ちはわかるよ。でも、このまま名前なしってのも何かと不便だろ?」
メモリーの目が、少しだけ丸くなる。アレアは屈めた背をそのままに、続ける。
「どうやら、君の名前で間違いないようだし、君の事はメモリーさんって呼んでもいいか?」
「おい、アレア、メモリー様だ」
言い終わらないうちに、レイが横から遮った。屈めていた背が跳ね上がり、アレアの手が行き場を失って宙で止まる。
「あっ、そっか、ごめん!メモリー様!」
その勢いで出た言い直しに、メモリーの息が抜けた。若草色の目がゆるみ、口元が遅れて追う。
「ふふ、そうですね。えっと…メモリー…です!敬称は不要です。メモリーと呼んでください」
宙で止まっていた手が、下りる。見回すと、壁際の外套の肩が二つとも下がり、エレナの帳面を抱えた手が緩んで、イクネスの息が一つ抜けている。全員が、彼女の側を向いている。
レイも大剣を担いで立つ。卓を挟まずに、三人がメモリーの前で向き合った。
「俺はアレア!」
隣で、レイが短く続く。
「レイだ、君の依頼を引き受けた冒険者だ」
アレアが、笑顔で手を差し出す。
「よろしく!メモリー!」
その手を、メモリーが微笑んで取った。
「よろしくお願いします」
イクネスが、はっと短く笑う。壁際の外套も、ようやく身じろぎしている。エレナが扉を開けると、廊下の音が部屋へ入ってきた。
昼までに、そう間は無い。一行は部屋を出て、それぞれの支度へ散っていった。
*
昼の日は頭の真上にあって、東門をくぐる荷車の影が、門の下で短く縮んでいる。
厚い城壁に開いたその向こうへ、街道の土が白く伸びている。出ていく車と入ってくる車が門をはさんで行き違い、車輪の音が石壁に跳ね返って重なる。ここまで抜けてきた神殿通りの香の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。
門の手前に、捜索隊の荷馬車が一台と、鞍を置いた馬が一頭 止まっている。積み直しの途中で、隊の一人が御者台から荷を受け取り、イクネスが馬の腹帯を引き締めると、その馬が一度、鼻を鳴らした。レイは荷台の脇に立って、縄を掛けている。
アレアは先に荷台へ上がって、縁に腰かけている。その下に、朝の服のままのメモリーが立っていた。
「なあ、メモリー。ひとつ聞いていいか」
上から声を落とすと、若草色の目が見上げてきた。
「はい、何でしょう?」
「あの依頼票さ。『私を探して』って書いてあっただろ。あれって…」
言い切る前に、メモリーの顔が曇る。一度 伏せた目を、メモリーはすぐに上げた。その目ごと、声がアレアの語尾に被さる。
「……私の、記憶を取り戻してほしいんです」
朝は出てこなかった言葉が、今度は先に出ている。
「あーやっぱり、そう言う事だったのか。でも、君の身元は判明したわけだから、この依頼は必要ないんじゃない?」
「いえ、依頼を継続させてください。せめて ―― どうして私の記憶が無くなったのか、その理由だけでも知りたくて…ダメ…でしょうか?」
語尾だけが細くなる。それでも視線は逸れず、丁寧なまま、断らせない訊き方である。
「……確かに、それもそうだな。なぁ、レイ、この依頼続けてもいいよな?」
首だけを、縄を掛けているレイのほうへ回す。レイは顔を上げないまま、縄の端を引いて答えた。
「あぁ。問題ない。もしかするとミフガン伯爵家に恨みをもつ者の犯行かもしれない。このまま放置するわけにもいかねーだろ」
結び目が、手の中で締まる。
「じゃ。決まりだな!メモリー、引き受けるよ、その依頼。一緒に君の記憶を取り戻そうぜ」
アレアは言い終わらないうちに、腰かけた板を掌で叩いていた。乾いた音が、往来の音に混じる。
「アレアさん…レイさん…ありがとうございます」
頭を下げるより先に、メモリーの口元がゆるんでいた。
礼を受けて、アレアは次の問いに入る。
「じゃあ、早速、聞いてもいいかな?……気がついたとき、君はどこにいたんだ?」
「洞窟です」
間を置かずに、答えが返ってきた。そこでメモリーの目がアレアから外れて、門の外のほうへ向く。
「森の、奥のほうでした。暗くて、湿っていて……どうしてそこにいたのかは、分かりません」
街道の白い土の先を見たまま、そう言った。
アレアはその森を辿りかけて、途中で縄の側のレイを見た。
「レイ、確か…メモリーが保護されたのって…」
「ミフガンの森だ。ミフガンに行くにはそこ通る事になる」
最後まで言わせずに、レイが答える。縄はもう掛け終わっていて、荷台の縁に手を置いている。
「だったら、寄ろうぜ。手がかりがあるとしたら、そこだ。おっちゃん達もそれでいいか?」
アレアは、鞍馬のほうへ首を伸ばした。イクネスは腹帯を締める手を止めずに答える。
「儂らは構わんよ。どのみち、あの森は通る」
締め終えた腹帯を一度 叩いて、イクネスがメモリーへ手を差し出す。その手を借りて、メモリーが鞍へ上がった。
「……日のあるうちに出るぞ。暗くなる前に済ませる」
レイは頭の上の日を一度 見て、門の外へ目を戻す。
門の内側から、エレナが歩いてきて荷台の前で足を止めた。
「皆さん、出発の準備が整いました」
アレアは縁から腰を浮かせた。
「じゃ、行こうか!メモリー」
鞍の上から、メモリーがうなずく。
「はい、よろしくお願いします」
エレナが二人と一行を順に見て、口を開いた。
「お二方、メモリー様をお願いします。皆さんも、何卒、よろしくお願いします。道中お気を付けて。皆さんに神のご加護があらん事を」
言い終えたエレナが、受付の卓で見るより深く頭を下げた。
レイが縄から手を離し、エレナに向き直って言う。
「わかりました」
頭は、下げなかった。
先頭でイクネスが歩き出して鞍馬が続き、御者台の捜索隊が手綱を打つと、荷台が揺れながら動き出して、その後ろにレイがついた。
アレアはその上で立ち上がり、振り返って手を振る。
「エレナさん!!行ってきます!!」
「はい。無事にお帰りになるのをお待ちしてますね」
遠ざかる荷台へ、その声が届く。
城壁の影を抜けたところで目の前が白くなり、荷台ごと、アレアは日を返す街道の光の中へ出た。
*
街道は、ミフガンの森の縁を縫って通っている。一行はその道を外れて、木の間へ入った。
縁のあたりは、まだ明るい。奥へ行くほど木の色が沈んで、どこからが森の中なのか、境目ははっきりしない。
入ってすぐの一角に、皮の焦げた黒い幹が並んでいる。下生えは無く、黒い地面だけが幹の向こうまで続いて、歩く者の靴に灰が付く。
先頭のイクネスが、振り返らずにその幹のほうを顎で示す。
「そういや、首都に向かう時にも此処を通ったんだが、どうやら、山火事があったようでな、森の一部が焼き焦げてやがった」
旅の話でもするような声だった。荷台の上で、アレアは座り直す。
「うっ…そ、そうなんだ…」
「どうしたんだ、あんちゃん?」
声だけが後ろへ飛んでくる。イクネスの足は止まっていない。
「いや!何でもねーよ!!」
言いながら、アレアは一度レイを見た。荷馬車の後ろを歩くレイが、見返してくる。アレアは、また目を逸らす。
「はぁ……」
レイはもうアレアを見ずに、息を吐いた。足は止めない。
鞍の上から、メモリーが黒い幹を見ている。
「火事、ですか?今はもう大丈夫なんですか?」
「幸い、すぐに消火されたみたいで、被害は最小限だったみたいだ」
「そうなんですね」
黒い幹から目を戻して、メモリーがうなずく。アレアは、それでようやく肩の力を抜いた。
進むにつれて、音が減っていく。車輪と蹄の音だけが残って、それが大きく聞こえた。
「止まれ」
レイの声で、御者台の手綱が引かれる。車輪が止まり、蹄が止まると、その音も消えて、代わりに木の間で下生えが幾つも同時に鳴った。
「……どうした、急に!?」
先頭のイクネスが振り返る。
「囲まれている…アレア!!」
「分かってる!!」
アレアは荷台の縁を蹴って着地し、同時に腰の細剣を抜いて、荷馬車の前に立った。黒いケープが遅れて背に落ちる。
木の間に、低い背が十匹ほど見えている。人の子ほどの背丈で、肌は灰緑。手には欠けた刃物や棍棒があって、耳障りな高い声で鳴き交わしていた。
「あれは!?ゴブリンか!?お前ら、メモリー様を守るんだ!」
イクネスの声に、外套が二つ動く。
「アレア、前は任せる。俺はこの人につく」
「わかった。メモリーを頼んだぞ!レイ!」
「儂らも出る。おい、右へ回れ」
一度だけ、アレアは振り返った。御者台を降りた一人が手綱を木に掛けて右へ回り、メモリーの馬の右側へ付く。左にはもう一人。その馬の脇にレイが立って、大剣は担いだままである。イクネスは腰の短剣を抜いて、一人で右へ出ていく。それきり、アレアは前を向いた。
背中越しに、メモリーの声と、鞍の革が鳴る音がする。
「あの、私……」
レイの声が、それを止めた。
「馬から降りないでください。ここにいれば安全です」
鞍の音が止まる。メモリーの声だけが、続いた。
「でも、アレアさん達が!」
「心配いりません。アイツは……」
「えっ……?」
木の間から、一匹目が跳んでくる。
「ほらよっと!」
跳んできた勢いごと、細剣が縦に割る。細い刃が木の間の光を一度 返して、あとは肉と骨を抜ける短い音だけが残った。二つになった体が、アレアの足元の左右へ落ちる。
(さすがに…火魔法を使っちゃ不味いよな…またレイに怒られそうだし)
「まぁ、ゴブリン程度ならこれで十分か!」
二匹目は横薙ぎに、三匹目は突きで倒れた。そこから先は数えない。抜けた背が次の一匹へ向くたび、アレアは一歩ずつ群れの中へ入っていく。欠けた刃物が振られても、当たる前に細剣のほうが先に届いていた。踏み荒らされた下生えに、灰緑の体が増えていく。
右手では、イクネスが短剣で一匹を受けている。
「はっ。大したもんだ、あんちゃん」
「そっちこそ。人探しが商売じゃなかったのか?」
「己の身くらいは守れる、と言ったろう……」
言い終わる前に、イクネスの背後で木の陰が動いた。低い背が一つ、その背中へ跳びかかるのが、アレアの目に入る。
イクネスが、肩越しに叫ぶ。
「なっ、背後から!?」
振り向いた勢いで、イクネスは足を下生えに取られて体勢を崩した。短剣を構え直す間は無い。アレアの体は、イクネスの声より先に回っていた。振り向きざま、片手のまま、細剣の切っ先を向ける。
「泡弾」
切っ先に拳ほどの水の泡が一つ膨らみ、水の弾丸のように飛んだ。跳びかかった一匹の脳天を貫いて弾け、その体は仰向けに転がる。飛沫が、幹に散る。
短剣を握ったまま、イクネスの口が開いて閉じない。転がった一匹と、アレアの切っ先を交互に見ている。
振り返ると、馬の上のメモリーも、その左右の外套の二人も、同じ口の開き方をしていた。レイだけが、担いだ大剣を下ろしていない。
「あんちゃん、剣士じゃないのか?まさか、魔法まで使えるとは……」
「おっちゃん、大丈夫か?」
「なんにせよ、助かった。ありがとうよ、あんちゃん」
「おう!」
最後の一匹が下生えに沈んで、木の間の高い声が止んだ。黒っぽい体が、踏み荒らされた地面のあちこちに沈んでいる。
「これでおわりっと、おーい、レイ!終わったぞー!」
アレアは細剣を下げて、馬の脇へ声を投げた。
「遅かったな」
返ってきたのは、それだけである。
「は!?お前は何もしてねーだろ!」
「メモリー様を守っていただろ」
大剣を担いだまま、レイは動いていない。
「一度もそっちに行かせなかったんだから、お前は何も……」
その先へ、横からイクネスの声が被さる。
「あんちゃん、すごいな、あっという間にゴブリン数体を撃退するなんてな」
「だろ!?あんなの朝飯前だぜ!」
褒められて、アレアの顔はもう笑っている。笑ったまま細剣を腰の鞘へ戻し、その手が止まらないうちに、レイの後ろへ目をやった。
レイの後ろに、馬がいない。数歩 先で、メモリーの馬が首を道のほうへ向けていて、鞍の上の背中は、こちらの誰にも顔を向けていなかった。
「所でメモリーはどこに行ったんだ?」
背中は道の先を見たまま動かず、手綱を持たないほうの手が上がって、道の脇を指している。
アレアは黒っぽい体をまたいで、メモリーの馬の脇まで歩いた。鞍の上を見上げる。
「メモリー、どうかしたか?」
「……あの、あそこ。あの裂けた岩……見た気が、します」
声が途切れても、指は下がらない。アレアはその指の先へ目をやった。道の脇に、人の背丈の倍ほどの岩が立っている。縦に一筋 割れていて、人が通れるほどの割れ目ではないが、その向こうへ道は続き、午後の光は岩の手前で止まって、向こうは木の色ごと沈んでいた。
「見た?」
「はい。……狼の魔物から逃げていたときに、たしか、横に見ました」
レイが、岩と、その向こうの沈んだ色を見比べる。
「……それが確かなら、そっちが森の奥に続く道のようだな」
「……はい。だから、あちらへ行けば、たぶん」
言葉はそこで途切れて、背中はこちらを向かないままだった。
「じゃ、そっちに行ってみようぜ」
レイがメモリーの馬の手綱を取って、岩のほうへ向ける。木の影が長く伸びて、道の半分がもう影に入っている。アレアは、先に歩き出した。その後ろから、レイの声が追ってくる。
「……ここからは、用心して進むぞ」
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