第三話「依頼人」
【あらすじ】
冒険者アレアと、相棒のレイ。森を焼いた罰として二人が押し付けられたのは、記憶を失った女性からの依頼だった。依頼票には、たった一行 ――「私を探して」。
その夜、二人はエレナから詳しい話を聞く。名前も、家も、来た場所も、彼女は何ひとつ答えられない。そして二人が昨日 向かった森は、彼女が助けられた森だった。
会えるのは、明日。―― 依頼人の顔を、二人はまだ知らない。
煤で黒い右手は、厚紙をカウンターへ戻さなかった。
読み終えた一行の上で指が止まったまま、アレアは顔を上げた。灯りはカウンターの端のランプ一つで、帳面の紙だけが白い。その白の上をエレナのペンが動いていて、書きながら、こちらを見ている。
「なあ、エレナさん。記憶が無いって、どこまで無いんだ? 名前だけか?」
ペン先が、紙の上で止まった。
「……いいえ。名前も、どこから来られたのかも、ご家族のことも。何ひとつ、お答えになれませんでした」
叱られたあとの受付は、まだ音が戻っていない。掲示板の前の笑いも、酒の声も、一度 静まったきりで、エレナの声だけが落ちてくる。
「全部かよ……」
厚紙の端を指が握り直し、焦げた匂いが袖から立つ。
「街のお医者様にも診ていただきました。薬師ギルドでも、原因は分からずじまいで」
いたわる顔のまま、エレナはペンを置いた手を帳面の上で組み、それきり動かない。
アレアは答えないまま、依頼票をまだ手の中に持っている。
「エレナさん。その人は、いまどこに? どういう経緯で保護されたんですか」
隣から割って入ったレイの声で、話が実務の側へ戻る。
「ミフガンの森です。数日前、通りかかった冒険者の方が助けて、そのままこの街まで運んでくださいました」
「……ミフガンの森?」
レイの口がそこで止まり、先に声を出したのはアレアのほうだった。
「えっ、それって」
依頼票を持った右手が下がり、紙の端がカウンターに触れる手前で止まる。
「はい。―― 昨日 お二人にお願いしたワーグ討伐の依頼も、その方の報告から出したものなんです」
もう片方の手が、縁をつかんだ。
「じゃあ、俺たちが行った森って、その人が……」
「そういうことになりますね」
レイの目がエレナから外れ、カウンターの木目へ落ちていた。黙っているあいだ、その目は上がらない。
「……」
木目に落ちていた目が、上がった。
「エレナさん。その人には、明日 会えますか」
声が、さっきより低い。
「はい。お会いできるよう手配しておきます」
「……助かります」
レイが頭を下げるのを横に見て、アレアは両腕を上へ伸ばした。
「あー、つかれた。もう無理。腕も上がんねーし、腹も減った」
「今日はゆっくり休んでください。―― また明日、お待ちしていますね」
エレナは目元をやわらげて笑い、帳面から離した手を小さく振った。一日ぶんの労いが、その手に乗っている。
「おう。んじゃレイ、宿に戻ろうぜ」
伸ばした腕を下ろして手を振っても、レイからは返事が無い。
振り返ったその一拍に、レイの目がこちらを見て、すぐに逸れた。
「……レイ? おい、どうした?」
「……いや。何でもない」
担いだ大剣の柄頭が先に扉へ向き、背中が続く。レイがこちらを見たのは確かで、なぜ見たのかは、アレアには分からなかった。
「なんだよ、それ」
「行くぞ」
*
朝のギルド本部は、昨夜とは顔が違っていた。
東の窓から光が斜めに床へ落ち、掲示板の前に立つ人の影が長い。並んでいるのは朝の依頼を取りに来た冒険者たちで、酒の匂いはもう無く、二人の焦げた匂いも消えている。宿で煤は落としてきたが、アレアの袖口にだけ、灰色が洗っても落ちずに残っていた。
エレナは帳面を閉じ、受付に立って待っていた。
「アレアさん、レイさん。おはようございます」
いつものようにえくぼを浮かべ、きれいな所作で二人を迎える。
「あの、昨日の依頼のことなんですが」
「ん? もう会えんのか?」
「いえ、その前に。……ミフガン伯爵家の捜索隊の方から、連絡が入りまして」
アレアの足が、カウンターの手前で止まった。会えるつもりで来たのに、話は別のところへ進んでいる。
「ミフガン伯爵家?」
隣のレイは、もう聞く側の顔になっている。
「はい。四か月前から、行方の分からないご令嬢を探しておられるそうです」
「四か月……」
エレナが続ける。
「あの方を保護したとき、身元の分からない女性をお預かりしていると、報せを出したんです。―― 四か月ぶりに出た、初めての情報だったそうで」
「それが、ミフガンまで届いたわけですか」
「はい。年格好も、髪と瞳の色も、伺った話と合っています」
両手がカウンターにつき、アレアの上体が前へ出た。
「……えっ。じゃあ、もう終わりじゃんか。名前も家も分かったんだろ?」
言いながら、もう眉が下がっている。
「まだ会ってもいねぇだろ」
レイの手がアレアの頭に軽く置かれ、それだけで乗り出した勢いが止まる。
「あ、そっか」
手がカウンターから離れ、戻った背はどこにももたれずに、指が縁を軽く叩いている。
「捜索隊の方は、もうこの街に入っておられます。じきに、こちらへ来られるかと」
来たのは、それから間もなくだった。
扉から入ってきた旅装の男が三人、掲示板の前を通らずに、まっすぐ受付へ来る。同じ色の外套に、背には袋と杖。先頭の一人だけが、口を開いた。
エレナがカウンター脇の扉を開け、三人に続いて受付の裏の短い廊下を通り、掲示板の前の視線を背に受けて広間を出る。昨夜は、カウンター越しの立ち話だった。
扉が一枚 閉まると、広間の声が半分になった。卓が一つに椅子が六つ、壁は石のままで、飾りは無い。東向きの窓が一つあり、朝の光が卓の半分まで届いている。
卓を挟んで向かいに座ったのは一人で、あとの二人は壁際に立ったまま荷も下ろさない。エレナは受付の端から取ってきた帳面を、卓の短い辺に置く。レイは椅子に着くとき、背の大剣を外して音を立てずに椅子の脇に立てかけた。
「ミフガン伯爵家に雇われとる、イクネスってもんだ。人探しが商売でな」
低く短い声のほうを見ると、日に焼けた顔に短く刈った顎髭がある。レイよりひと回り上に見える中背で、擦れた革の胴着に旅の外套、腰には短剣が一本だけだった。
「アレアだ。よろしくな、おっちゃん」
「レイ・シュタインだ」
「はっ、元気なあんちゃんだな。……いいねぇ、そのくらいが丁度いい」
日に焼けた顔が、笑った。
「だろ?」
「……調子に乗るな」
レイが、短く釘を刺す。
「まぁ、堅っ苦しいのは儂も苦手でな。―― さて」
笑いが、そこで引いた。
「四か月前だ。伯爵家の御令嬢が、屋敷を出たきり戻らん。三月ほど、領主様が総出で探しなすった。ひと月前に人を減らして、いまは儂ら三人でな」
笑っていたときより、声が短い。
「……四か月も、探してんのか」
口を開きかけて閉じ、アレアの背中が椅子から離れた。
「そこへ、この街から報せが来た。身元の知れん娘を預かっとる、と。……四か月で、初めての当たりよ」
指を折って、イクネスが続ける。
「歳は十六。亜麻色の髪に、若草の瞳。細っこい娘だ。―― 当てはまるかね」
エレナが、帳面を開かずに答えた。
「はい、保護している彼女に特徴が一致していますね」
「……そうかい」
卓の上で両手が組まれ、イクネスの目がそこへ落ちた。壁際の二人は、動かない。
「間違いねぇな。メモリー様だ」
組んだ手がほどける。その名を、アレアが口にした。
「メモリー……」
「メモリー・ミフガン様。ミフガン伯爵家の、御令嬢だ」
様、と付けるときだけ、声が一段 低くなる。それきり、誰も継がなかった。
「……っ、ミフガン伯爵家の!?」
真っ先に声を上げたのは、エレナだった。
「……おい。伯爵って」
隣でレイの顎が引かれ、横顔の眉が寄っていた。
「……偶然とはいえ、こちらで保護することができてよかったです」
口元に手を当てたまま、目が落ち着かない。
「でも、待ってください。おかしくありませんか、これ」
「え、何? どうしたんだよ、二人とも」
アレアの目は、エレナとレイのあいだを往復した。
「……お前な」
エレナが身を乗り出し、声を張る。
「伯爵家のご令嬢ですよ!? そんな方が、四か月も行方知れずで、記憶を全部 失ったまま、森にいたんです!」
卓の向こうで、イクネスが顎髭に手をやった。
「……伯爵家の御令嬢が、供も連れずに森におるわけがなかろう」
「なるほどな、じゃあ、誰かが関与してる可能性が高いんじゃね?」
「……ほう。そっちは分かるのかい、あんちゃん。儂らも、そう見とる。だが、四か月で証は一つも出とらん」
エレナが、卓に両手をついた。
「―― この件は、ギルドとして重要案件として扱わせていただきます!」
張ったまま落ちない声で、エレナは帳面を引き寄せ、ペンを取る。
「アレアさん、レイさん。護送を、依頼として追加させてください」
「待ってくれ。あんたら三人で来てるんだろ。自分らで連れて帰れないのか」
レイが、片手を上げて止めた。
「儂らは人探しだ。己の身くらいは守れるがね、それだけよ。娘さん一人 抱えてミフガンの森を行くとなりゃ、話が別でな。……そこは、あんちゃんらの領分だろう」
「……それもそうだな」
上げた手が下り、レイはエレナのほうへ向き直った。
「エレナさん。依頼は二件、ということですか」
「はい。ご本人からの依頼と、護送はギルドからの依頼になります」
エレナが帳面に書き留める。
いつのまにか卓の縁を叩いていたアレアの指が止まり、顔が上がって、目に期待が乗っている。
「……じゃあ、まだ会えるんだよな。その人に」
「気が早いな、あんちゃん。―― 会わせてもらえるか。顔を見んことには、始まらんでな」
イクネスが椅子を引く音も無く立つと、外套の裾が椅子の背から落ちる。その背に手を置いたまま、扉のほうを向いた。
「それでは、お連れしますので、こちらでお待ちください」
エレナが帳面を抱えて立ち、扉が閉まった。
受付の声は、ここまで届かない。窓の光が卓の上を少しずつ這っていて、その先に木目の節が一つある。イクネスは椅子の背に手を置いたまま、扉を向いて動かなかった。
名前も、どこから来たのかも分からないまま、知らない街で朝を迎える。その人が怖がっているとしたら、何を怖がるのだろう。アレアは、顔のことよりそちらを考えていた。
「なあ、レイ。……なんて呼べばいいんだ?」
「あ?」
声だけが、卓の木目のほうから返った。
「伯爵家の令嬢なんだろ。お嬢様、とか呼ぶのか?」
「……失礼な真似はするなよ」
木目を見たまま言う。
「だから聞いてんじゃんか」
答えが返ってこないので、アレアは扉の前の背中へ声を向ける。
「……なあ、おっちゃんは会ったことあんのか?」
「……いや。儂も、今日が初めてだ」
振り向かずに、それだけを答えた。
「そっか」
それきり、誰も喋らない。
足音が二つ廊下を戻ってきて、扉の前で止まり、把手が鳴った。
開いた扉から、光ではなく暗さが入ってくる。部屋のほうが、明るい。
「お待たせしました。―― この方が、メモリー様です」
エレナの後ろから、メモリーが三歩で卓の手前まで来て、アレアの向かいに止まった。イクネスは、何も言わない。隣でレイが背を伸ばし、立てかけていた大剣から手を離した。
座ったまま、アレアは見上げた。
生成りの粗い麻のワンピースは丈が足首まであって、体に合っていない。靴も、いま歩いてきた歩幅に合っていなかった。明るい亜麻色の髪は無造作に一つへ結わえただけで、飾りは何も無い。下がっている手だけが荒れておらず、爪も整っている。
怖がっているだろうと思っていた。だが彼女は、背筋を伸ばして立っている。思っていたのと、違った。
視線が、上がる。見上げた先で、先にこちらを見ていたのは彼女のほうだった。
若草色は、その目にだけ残っていた。
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