骨を感じよ
出発の日の朝は、昨日同様爽やかな風が吹いていた。まだ薄暗い早朝、いつも通り目を覚ましたルカはお湯を取りに食堂に向かった。机上に置かれた懐中時計の針は、5時45分を指していた。
「おはよう」
「おはよう」
廊下でベルタと挨拶を交わす。今し方帰ってきたところだろうか、外出着だ。ほのかに上気した顔に、滲んだ汗。今帰ってきたということは、朝5時頃から自主練に励んでいたのだろう。
(大したものだな。人一倍努力しているからこそのあの強さか。俺もやるべきか?)
ルカは数秒立ち止まって思案したが、すぐに諦めた。
(無理だな。朝の訓練だけでもキツいというのに、早朝から高負荷の訓練など現実的ではない。ちょっと素振りをする程度でなければ、毎日継続はできないだろう)
歩き去ろうとしたその時、背後で布が擦れるような音がした。振り返ると、ベルタが廊下でへたり込んでいた。
「大丈夫か?」
意識はあるようだが、昨日に続きこれでベルタの不調を見るのは二度目だ。
ベルタはこくこくと頷いた。
しかし留守中の頼みがこの有様では、外出計画を見直さなくてはならないかもしれない。
(そういえば俺は、こいつのことをほとんど知らないな。……近づき難い無敵の存在だと無意識に思い込んでいたせいか?)
ルカはベルタの隣に座った。
「昨日も不調だったようだが、何かあったのか?」
ベルタは首を横に振った。
「別に。ただちょっと……時々、嫌なことを思い出しちゃうだけよ」
「そうか」
(思い出す?何かトラウマになるような経験でもあるのか?……トラウマになるほどではないが、辛い思いなら俺もしてきた。武芸や学業では遥か先を行くお前の役に立てないが、こういうことなら得意分野だ)
「それは……過去が良くなかったからこの先も上手くいかないだろうという不安か?或いは自分には価値がないという自責か?良ければ聞かせてくれ。俺が力になる」
「あなたに話したって……」
ルカは表情を変えなかった。気分がささくれだっている時に、不躾に踏み込んだ自覚はある。ベルタは目を伏せた。
「ごめんなさい、あなたに当たってもしょうがないのに」
「いや、俺が勝手に聞いてるだけだ。無視したって怒りはしない」
ベルタの口からはなかなか言葉が出てこなかったが、ルカは黙って待った。
自分がなぜ苦しいのか、何が不満なのか、明確に言葉にするのは不可能に近い。仮にどんなに上手く言語化したとしても、本人の苦しみを完全に言い表すことはできない。そもそも話すこと自体がストレスになる以上、何も言えない方がむしろ自然だ。
悩みを聞き出すのは厳しいと判断し、アプローチを切り替えようとしたその時、遂にベルタは口を開いた。
「……強いて言えば、不安なのよ。嫌な記憶が頭を過ぎる度に苦しくなる。あの時、本当は何をどうすれば良かったのか……いつまでも答えが出ないの」
曖昧な悩みだ。肝心の『嫌なこと』の中身が分からない以上、言えることは限定される。
(これは、どっちだ?何があったのか自分からは言い出す勇気が出ず、俺から踏み込んで聞いて欲しいのか、それとも本当に話したくないのか?)
ルカは、その疑問を瞬時に振り切った。
(いや、一度時間を置いてようやく出てきた言葉がこれだ。自分の口からは語りたくない、のだろう。そう……考えることにしよう)
「そうか。俺は……考えても不幸な結論しか出ないようなことは考えないようにしている。自分は何のために生まれてきたのか、愛されているのか、生きる意味とか……そんな問いに正解はない。あの時どうすれば良かったのか、とお前は言ったが、その答えも同じだ。分からない。それだけだ」
「ええ……」
「困惑するのも無理はない。だが、本当にそうなんだ。変に生真面目に、疑問には答えを出さなくてはならないとか、これが分からないと先には進めないとか、そんなルールは存在しない。お前が答えを見つけられなくても、誰も責めないし、起きてしまったことも変わらない」
「……」
「あの時、どうすれば良かったか?そういうのは一旦傍に置いて先に進み続けるべきだ。いつか答えが見つかったら、次似た場面に出会した時に決断を下す材料にすれば良い」
「でも、すべてが崩れ去ってしまいそうな気がするの。この不安は消えないわ」
「ああ、俺もそんな気がする。これまでの人生で、俺が本当に、心の底から求めてきたものが手に入ったことは一度もないし、何においても一番になったことがない」
ルカの脳裏を家族の後ろ姿が過った。
「だが何も得られなくても、何も信じられなくても絶対的なことが一つだけある。自分がここにいて、生きているという事実だ」
ルカはベルタの手を掴んだ。そのまま交差するようにベルタの肩に手を持っていく。
「掴んでみろ」
「?」
頭に見えそうなほど大きな疑問符を浮かべながらも、おずおずとベルタは自身の両肩を掴んだ。
「骨を感じるだろう。自分を支える絶対的な存在を。曖昧な感覚や頭ではなく、指先から感じ取れるはずだ。特に肩の骨は大きいからな。安心感がある」
ベルタはポカンとした。
「すべてが崩れ去りそうな時、結局信じられるのは自分だけだ。俺はこうして自分の存在感を自覚するのが良いと……」
「あははっ」
ベルタは思わず吹き出した。それを見てルカは閉口した。
「な、悩んだら、骨を感じろって、聞いたことないって。そんなの」
そんなに笑うことないだろう。ルカは憮然とした。
「別に、骨を触るのが正解とは言わないぞ。歌うのもアリだし、お前のように身体を動かすのも……」
しかし、ベルタの笑いは止まらない。
「まぁ、良いか」
少しでも気が晴れたなら、それはそれで良いだろう。ルカはベルタに手を差し出した。
「ほら、立て。そろそろ他の奴らが起きてくるぞ」
ベルタは差し出された手を取った。
「ええ」
「また苦しくなったら、その時はお前の悩みを聞かせろ。気が向く範囲でな」
「それは……それはクロに聞いてよ。アイツの方がよく分かってるから」
「クロードが?……分かった。そうしよう」
ルカとベルタは連れ立って食堂に向かった。部屋でのモーニングティーは諦め、朝食時に一杯だけ嗜むことにする。
――――――
朝食を済ませた二人は、食堂を出た。朝練の準備をすべくそれぞれの自室に向かう。
「じゃあまた後で」
「ではな」
「あっ、ちょっと待って」
踵を返して立ち去ろうとしたまさにその時、ベルタはルカを呼び止めた。
「何だ?また骨の話か?」
「真面目な話よ」
ベルタは、食堂内でサンドイッチを食べているアイリーニに目を向けた。
「つい最近気づいたんだけど、あなたの背後にいる存在から伸びる糸……それが彼女にも繋がっているの。どんどん太くなってる」
「何?」
ルカがつられて目を向けると、ちょうど両手で持ったサンドイッチに、アイリーニが齧り付くところであった。
(可愛らしい。いや、そうじゃない。糸?俺には何も見えないが……)
「正体は分からないけど、一応頭に置いといて。それじゃ」
「ああ……」
ルカは気のない返事をした。しばし廊下で立ち尽くしたまま考えるが、答えは出ない。
気になるが、糸というのはベルタの感覚的な見方であって、行動を起こすには情報が足りない。ルカは、再び自室に向かって歩き出した。
今日の講義が終わったら、旧寮で荷物を持ち換えて即出立だ。部屋に戻ったら、荷物の入れ忘れがないか確認しなくてはならない。




