憂いなし
まだ薄暗い早朝、ルカはもぞもぞと起き出した。
(明日出発か……あっという間だな)
昨日は色々なことがあった。アイリーニの帰省に同行することが決まり、レヴィアの講義を適当に流し、平民派閥のクロムに絡まれ、ユリウスと共に依頼をこなし、カタリナと夜遅くまで語り合った。
大変な一日ではあったが、その分成果も多かった。もちろん、成果とは人間的な成長などという精神的なものではない。もっと物質的なものだ。
すっかり分厚くなった財布を机上から取り上げ、ニタニタと笑う。
(やはり金は良い……手元にあるだけで精神が安らぐ。やはり人間には時間と経済、二つの余裕が必要不可欠なのだ)
手に伝わる重みが心地よい。
(ここ数ヶ月、受験やら大会やらで常に気が休まらなかったからな……これでようやく安らかな日々を送れそうだ……さて、そろそろ茶でも飲むか)
ルカはお気に入りのティーポットを手に取った。
――――――
「肘から振れ、肘から!膝上げぇ!膝ぁ!」
約一時間後、ルカはせっかくのモーニングティーを吐きそうになりながら走っていた。
朝練である。さすがに夕方の訓練と比べると強度は下がるが、ベルタが教官役を務める日はそれなりに過酷だ。怪我をしないように適度に柔軟体操や休憩は入れてくれるが、決して楽をさせてはくれない。
今日の訓練メニューは至ってシンプル。ランニングである。
まず6人全員で二列を組んでゆっくりジョギングを始める。グラウンドを一周した頃、後列の2人が前の4人を追い抜いて走り出す。残り4人は遅いペースでジョギングを続ける。
出発した2人は競うようにグラウンドを周り、前方の4人に追いつくまで全力疾走する。2人は集団に追いついたら最前列に並び、ペースを落としてジョギングを始める。そして、再び最後列の2人が出発する。これを繰り返すのである。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
クロードとペアを組まされたルカは、今まさに先を行く5人に追いつこうと全力疾走していた。
クロードの足は速い。既に前を走っていた集団に追いつき、先頭をゆったりと走っている。
(あと少し……)
ようやく集団に追いついたルカは、集団の先頭、クロードの横に並んでペースを落とした。
同時に、最後尾のアイリーニとカタリナがスタートを切る。脇を通り過ぎるアイリーニを横目に、足を引き摺るようにしてジョギングを続ける。
(クロード、この、体力馬鹿が。頭に栄養が行ってない分、足腰に、エネルギーが、満ちているようだな……)
乱れた呼吸と同様、思考も切れ切れになっている。ふと見やると、カタリナは美しいフォームで疾走するアイリーニの遥か後方を酷いフォームで追っていた。顎は上がり、手の振りも小さい。
先ほどまでの自分を思わせるその姿には同情を禁じ得ない。
(地力を上げるためとはいえ、直球の体力勝負は相当堪えるだろう。後で労ってやるか……)
この訓練のえげつなさは、ゴールがゆっくりと、しかし確実に移動する点にある。前を行く4人に追いつけばジョギングに戻れるが、グラウンド一周はそれなりの距離なので全力疾走でも追いつくのは容易ではない。
かといって、少しでも手を抜くといつまで経っても前を行く集団には追いつけない。辿り着いても座って休むことは許されない。遅いペースとはいえ、常に走り続けなければならないのである。
しばらくして集団に追いついたアイリーニがルカの前をジョギングし始める。
「頑張れ!あと少しだ!」
カタリナはルカの応援に応えるようにペースを上げ、何とか集団に追いついた。
最後の一巡が完了したのを確認し、ベルタはパンパンと手を叩いた。
「そこまで!お疲れ様!」
全員が走るのをやめ、その場をゆっくりと歩き始める。終了の合図と同時に崩れ落ちたカタリナをベルタは引っ張って立たせた。
「すぐ座らない!立って歩く!」
「……ゼヒュー、コヒュー」
ベルタに引っ張られ、カタリナはヨロヨロと歩き出した。
それを見たルカは笑みを浮かべて頷いた。
(さすが、トレーニングの肝が分かっている。急激に負荷を減らすとかえって心臓に悪い。しばらくは歩き、身体が落ち着いてきたところで座らせる……基礎的だが重要なことだ)
すぐ座らせないのも、負荷の高いメニューに参加させるのも嫌がらせではない。厳しいようだが、身体強化や能力といった技に頼らない基礎体力の向上はこの先生き残るには不可欠なのだ。
ルカはしばらく歩いた後、近くの木陰で涼むことにした。カタリナも少し離れた木陰でダウンしている。
ベルタとクロード、アイリーニはといえば、そのまま戦闘訓練に移っている。
(あれだけ走った上でまだ殴り合いをする元気があるとは、とんだ体力お化けだな……)
しばらくカタリナの横についていたエルマが、ルカの方に向かって歩いてきた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
ルカは小さく頭を下げた。
「どうかな?どこか痛むところはない?」
ルカは脛の内側に手をやった。足首の辺りを指で押さえ、腱の調子を確かめる。痛みはない。
「特には」
「それは良かった。隣、良いかな?」
「もちろん」
エルマはルカの隣に座り、しばしベルタ達が剣や拳で戯れる様を黙って眺めていた。
「昨日はどうだったかな?有意義な外出になったかい?」
「なかなか刺激的でしたよ。わざわざ出かけた甲斐がありました」
(金が手に入った上に、ユリウスやリーナと親睦を深めることもできたしな)
「何か新しい出会いはあったかな?」
ルカの頭を魔獣と機械人形が過った。魔獣は倒してしまったし、人形に逃げられたのは出会いとはいえまい。
「いえ、まったく。物言わぬ人形と出会ったくらいですよ」
「ふぅん……そうかい。それは良かった」
良かった?ルカが聞き返そうとしたその時、エルマは遮るように口を開いた。
「昨日の夜は、リーナと色々話したみたいだね」
「え、ええ……」
枢機卿暗殺を目論んでたので諌めましたと言うべきだろうか。いや、言わなくても良いだろう。
「昨日の話で分かったと思うけど、あの子はまだ未熟だ。教育を受ける機会が与えられなかったせいでね。そこで、君に頼みたいことがあるんだ」
エルマはあの場にいなかったはずだ。ルカは一瞬訝しんだ。だが、すぐに自ら疑問を解消した。
(エルマの予知は三つのルートを見通す。俺たちの話し合いに参加したルートもあったということか。あの場でどんな会話がなされるか知った上で、会話に参加しないことを選んだと……)
「……頼みたいこと?」
「リーナとクロード……2人に教育を施して欲しいんだ。宗教や思想、歴史みたいな、こう、社会科的な教育をね」
「リーナはともかく、クロードに教える意味があるでしょうか?これまでの訓練で見てきましたが、アレは脊髄反射で戦うタイプの人間です。変に情報量や選択肢を増やし、いちいち考える癖を付けてしまっては咄嗟の判断に差し支えます。勘が鈍ってしまうのでは?」
「うーん、私はそうは思わないかな。彼なら増やした知識を極めて雑……失敬、単純化して瞬時に処理することができると思うんだよね。むしろ即断即決という長所はそのままに、引き出しを増やせるんじゃないかと思っているんだ」
エルマは声を潜めた。
「それに彼の成績は壊滅的でね。このままじゃ卒業はおろか、進級すらできないかもしれないんだ。仮に進級できても、補習で忙殺されると放課後の訓練にも参加できなくなっちゃうし」
(これは驚いたな。お勉強が得意な柄ではないと知ってはいたが、そこまで頭が悪いとは……)
「良いでしょう。教養程度で良ければ、ですが」
「じゃあ私から2人にも話を通しておくから、よろしくね。きっと君にとっても有意義な取り組みになると思うよ」
ルカは内心ため息をついた。クロードに指導とは骨が折れそうだ。何が分からないかも分からないレベルだろう。しかし他ならぬエルマの頼みだ。やるしかあるまい。
(アイラの里帰りから帰ったら、教本を噛み砕いて説明する練習をしなくてはな)
何やら騒ぎが起きている。エルマから視線を外して3人の方に目をやるとベルタが地面に倒れ込んでいた。あの化け物に限って、まさか怪我や体力切れではないだろう。何か持病でもあるのかもしれない。
ルカは急いで立ち上がった。
「急がなくて良いよ。病気とかじゃないし」
既に慣れた様子でクロードが介抱に入っている。エルマにも慌てる様子はない。
急を要する事態ではなさそうだ。ルカはエルマに続いてゆっくりと歩き出した。
(心の病でも抱えているのか?いや、この場で踏み込むのは不躾かもしれない……折を見て探ってみるか)
数分後、先ほどまでの病人のように蒼白だったのが嘘であったかのようにベルタはけろりとした顔で立ち上がった。授業時間が近づき、訓練を切り上げたルカ達は旧寮に引き上げていった。
その後も些細な問題はあれど、比較的穏やかに一日が過ぎていった。すべての講義をそつなくこなし、放課後の訓練でも良い汗をかいたルカは入浴を済ませると早めに眠りについた。
出かける準備は整えた。明日に何の憂いもない。




